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朝永振一郎「パグウォッシュ京都シンポジウムに寄せて(上)」

* 出典:『朝日新聞』1975年8月27日夕刊掲載
* 朝永振一郎(1906~1979):哲学者の朝永三十郎の長男として明治39年(1906)3月31日京都に生まれる。三高、京都大学物理学科を卒業後、理研仁科研究室に入る。昭和16年(1941)、東京文理大(現筑波大学)教授。同24年(1949)、湯川秀樹博士らと「素粒子論グループ」を結成。同31年(1956)には東京教育大学長。1965年度ノーベル物理学賞受賞(共同受賞者は、ハーバード大学のジュリアン・シュウィンガー教授と、カリフォルニア工科大学のリチャード・ファインマン教授) 日本人のノーベル賞受賞者は、1949年同じくノーベル物理学賞を受けた京都大学の湯川秀樹博士についで二人目。
* 筑波大学朝永振一郎名誉教授記念室について 朝永振一郎博士の略歴,受賞歴,業績について 墓地
映像評伝(1995) 「パグウオッシュ京都会議開く、完全核軍縮求めて科学者ら36人が参加」
* ラッセル=アインシュタイン宣言の着想



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 この(1975年)八月二十八日から九月一日にかけて、京都で第二十五回パグウォッシュ・シンポジウムが開かれる。この会合には約十五ケ国の科学者が参加して「完全核軍縮に向かう新しいデザイン」という主題で、核兵器廃絶を目ざして討論することになっている。
 パグウォッシュという名称は、多くの読者にとって耳なれないかもしれない。しかしこの名称を持つ会議やシンポジウムの歴史は今から二十年前にはじまる。すなわち一九五五年にあらわれた、いわゆるラッセル=アインシュタイン宣言にその源を発する。

 人類としての反省

 ヒロシマ・ナガサキに原爆が投下されて十年後のこの時期には、すでに水爆と、それを目的地に投下するためのICBMが開発され、核兵器の破壊力は十年前の原爆と比較にならぬほど強大になっていた。その上、世界は米ソ間の激しい冷戦にゆれ動いており、一たんそれが熱い戦争に発展すれば、水爆による大破壊によって人類が絶滅するおそれさえあらわれてきた。このような危機的状況を背景にしてあらわれたのがラッセル=アインシュタイン宣言である。
 この宣言は、「私たちは人類が直面する悲劇的な情勢のなかで、科学者たちが会議に集まって、大量破壊兵器の発達の結果として生じてきた危険を評価し、ここにそえられた草案の精神において決議を討論すべきであると感じている」という冒頭の節からはじまる。それに続いて、自分たちが発言しているのは、ある国や大陸や信条の一員としてではなく、その存続が疑問視されている人類、ヒトという種の一員としてであることを強調し、世界に起こっているいろいろな紛争、特にその上にかぶさっている共産主義と反共産主義との巨大な争いに対して皆さんは強い感情を持っているであろうが、そのような感情をしばらくわきにおいて、だれ一人としてその消滅を望むはずのない人類という生物学上のすばらしい種の成員として反省してもらいたい、とうったえる。


 対話の精神基盤に

 続いて、人類絶滅を防ぐには、もはや戦争それ自身を人類が放棄するほかに道がないことがのべられる。すなわち、たとい水爆不使用の協定ができたとしても、一たん戦争が起こるなら、そんな協定は無視され、双方ともに水爆の製造にとりかかるだろう。なぜならそのとき(戦時)は、作らない方が必ず負けてしまうから、とのべている。
 そして最後に、秘たちの争いを忘れることができぬからといって、私たちは死をえらぶのであろうかとのべ、「私は人類として人類にうったえる--あなたがたの人間性を心にとどめ、そして他のことを忘れよ、と。もしそれができるならば、道は新しい楽園へむかってひらけている。もしできないならあなたがたのまえには全面的な死の危険が横たわっている。」ということばで四千字に近い長文の宣言は終わっている。
 この宣言には冒頭の節で言われた会議の招請と、その会議で討議すべき決議の草案がそえられており、湯川秀樹教授を含む十一名の科学者がそれに署名している。
 この宣言に基づく会議は、二年後の一九五七年に、カナダ・ノバスコシア州の小さな漁村パグウォッシュで開かれた。それは参加者二十二名という小さな会議であったが、共産国とい非共産国の科学者がテーブルを同じくして、人類存続のために討論するはじめての機会だったのである。会議を開く前には、イデオロギーが異なり、事あるごとに対立し争っている国々から来た人たちの間で、はたして話がかみ合うかという心配を持つむきもあったであろうが、このとき対話の共通の基盤として、ラッセル=アインシュタインの精神があった。

 冷戦下に初の会議

 会議で論じられたのは、'ビキニ事件'で世界の注目を集めていた核実験による放射線危害の問題とか、核兵器管理の問題とか、また科学者の社会的責任とかいった序論的なことがらであったが、その会議は成功裡(り)に終わった。当時の厳しい冷戦下にもかかわらず、科学者たちがイデオロギーのちがいを超えて、人類の一員として話し合えることがここに実証されたのである。ちなみにこの会議に日本からは、湯川、小川岩雄、朝永が参加した
 この会議では声明をまとめたが、その最後のところを引用しておこう。「私たちはこの会議に集まったすべての人々の間に基本的な目的に関して再度の一致点が見出されたということを表明しておきたい」。続いて参加者一同が、強国群の間のジレンマと軍拡競争は破棄されねばならぬことを確信していること、そして、そこから開かれる新し時代の建設にこの会議がささやかなりとも貢献することを希(ねが)うということばで声明は結ばれている。さらにこの会議ではこの種の会議をさらに何回も続けるべきであるという意向が全会一致で表明され、その後現在まで二十四回の会議と、そのほかに、テーマをしぼって行われる小規模なシンポジウムが同じく二十四回開かれている。会合の場所は各回ごとに変わるが、その発祥の地パグウォッシュの名称がどの会議にもつけられる習慣になっている。

 当面の解決に傾斜

 このようにしてラッセル=アインシュタイン(宣言の)精神は、数重なる会議を通じて次第に多くの科学者の心に定着していった。また、実際の国際関係の中でも、米ソ冷戦の緩和があらわれ、全面完全軍縮を求める国際世論が次第に成長し、その結果一九六一年にいわゆるマックロイ=ゾーリンゲン協定が生まれたことはよく知られることである。これらの事実を筆者は、パグウォッシュ会議での討論が参加者を通じて政治家に反映したものであり、パグウォッシュ会議の大きな成果の一つであると見ている。
 さらにこの外部の情勢はまた会議内部に反映し、会議内でも全面完全軍縮への具体的なデザインや、軍備のない世界での安全保障の方策などが討論されはじめ、パグウォッシュ会議はいわば総論から各論の時代に入り、しかも全体の音調はかなり楽観的な色彩をおびているように見えた。その極端な例として、一九六四年の第十二回会議では、全面完全軍縮が実現するまで核の抑止力によって戦争をおさえることができるだろうし、小国はそれまで米ソ何れかの傘(かさ)のもとで安全保障されるだろうといった議論が出てきている。
 しかし会議が各論の時期に入ると次のような問題点が露呈してきたように筆者には思われる。すなわち総論はともかく、各論では意見の一致が次第に困難になるのは何ごとでもそうである。そこでいきおい本質的なものより、解決容易なことが取り上げられ、当座の問題のテクニカルな解決法が現実的だとして歓迎される傾向である。このような傾向につきものである長期的観点の欠落から、本来応急処置でしかないものが長期に耐えるものであるかのように考えられることになる。すぐ前にのべた核の傘論はまさにその例である。