バートランド・ラッセルのポータルサイト

佐伯彰一「理性の王者の落とし穴(バートランド・ラッセル)」(その4)

* 出典:『自伝の世紀』(講談社、1985年11月刊行)pp.270-300


 
 ラッセルの回想に、率直さが欠けていると言い切るべきではないだろう。1920年、ラッセルは革命直後のソ連に出かけた。これには、やがて2度目の妻となったドーラ(Dora Black)との「婚前旅行」という動機も一役買っていたのだが、「ソ連滞在中に私のおぼえざるを得なかった圧倒的な恐怖の感覚」について、自伝の中でしごく率直に打ちあけている。
「残酷さ、貧困、嫌疑、そして迫害が、我々の呼吸する空気そのものだった。われわれの会話は、たえず見張られていた。深夜に銃声がひびくと、理想主義者がまた獄中で殺されているのだと判った。平等は偽善的な見せかけで、誰もが『同志』と呼び合ってはいたが、そう呼びかける相手が、たとえばレーニンと怠け者の下働きとでは、語調の違いに驚くべきものがあった。ある時、ペトログラード(当時まだそう呼ばれていた)で、4人のうす汚い男たちが私を訪ねてきて、みると、ひげは生え放題、汚れた爪、ぼろ服姿だったが、これがロシヤの代表的詩人たちだったのだ。……」
さらには、レーニンとも
「一時間会談する機会を得たが、私はかなり失望した。彼を偉大な人物だと当てにしていた訳ではないのだが、会談中まず気づかずにいられなかったのは、彼の知的な限界、マルクス主義の正統固執の狭量さであり、また小悪魔じみた残酷さの明らかな気配であった」。
もっともこれらが、当時における彼の印象そのままの率直な記述とは言い切れまい。帰国してからラッセルは早速『ボルシェヴィズムの理論と実践』(The Practice and Theory of Bolshevism, 1920)という報告を書き上げたが、その際、こうした「感じを十分表現することは出来なかった」と、率直に認めてもいるのだ。この本は入手出来ず、確かめてみるに至らなかったけれど、おそらく1920年当時の西側のブルジョワ的な偏見に抗して、ボルシェヴィズムの美点、特質を発見、称揚する方に重点をおいたろうことは、まず間違いない。この点は、当時彼の熱っぽい思想的な共感者で、やがて後年別れた妻のドーラが書き上げた自伝『タマリスクの木』(山内碧訳・リブロポート刊.1975)を読み合せれば、ほぼ明瞭で、ラッセルはまた時代と状況に応じて、意外なほどあっさりと意見と立場を変更して、平然としている。(松下注:読んでいないのなら、判断を控えておけばよいのだが、何でもコメントしたがるのは評論家の習性か? 憶測でものを書くと恥をかく典型である。ラッセルはこの本のなかで、ある程度同情を示しながらも、ボルシェヴィズムに厳しい批判を加えており、この点では、ドラ・ブラックとはげしく意見が対立する。しかし、このことは『ラッセル自叙伝』を精読すれば十分想像できると思われるが・・・。前半部分は、ラッセルの優れた人物描写をしているだけに残念である。)
 その最もいちじるしい実例は、原爆にかかわるもので、第二次大戦後、アメリカがまだ唯一の原爆保有国だった当時、ソ連の東欧における露骨な権力主義、勢力圏の拡張政策に憤慨し、業をにやしたラッセルは、「ソ連に対して原爆使用も辞すべきでない」とのべたことがあった。後年の原爆反対運動の熱烈なチャンピオンとしては、信じ難いような発言であるが、その都度、善玉、悪玉を、はっきりと塗りわけずにおかない彼一流の潔癖さもしくは性急さの現われといえようし、さらには「群」の偏見と世論にはたえず反対せずにいられない貴族的な自侍、もしくは独善の露頭に違いなかった。一貫した哲学者というより、むしろ思想の道化師、コメディアンと、先にいくらか誇張気味に彼にはりつけておいたレッテルは、彼自身の手でしかと追認されたといわずにいられない。(松下注:ラッセルの平和運動や反核闘争を批判する論者の多くは、「ソ連を原爆で威圧する」ことをラッセルが主張したことをとりあげ、ラッセルの思想の一貫性のなさを指摘する。しかし、ラッセルがそのようにとられても仕方がないような発言をしたことは事実だとしても、注意深くラッセルの著作や発言を追っていけば、かなり一貫していることがわかる。)
 しかし、それにしても「理性の王者」としてのラッセルの面目は、そう易々と剥落、失墜するものではなかろう。たとえば、子供の教育という問題がある。2番目の妻ドーラは、(最初の妻の先駆的フェミニストのアリス、またほかの女友達と趣を異にして、)すすんで子供を作りたいと言い出して、これを実行に移し、ケイトとジョン(の)、2人の子供が生れた。彼らをどう教育するか? 何はおいても、宗教的なドグマという偏見、世間的な俗論という汚染から、子供たちを守り、防禦せねばならない。とすれば、やはり教育はわが手で引き受ける他はない。幸いドーラも大いに乗り気で協力するというので、2人は早速「理想的」な学校開設へと乗り出した。兄の持ち家だった通称テレグラフ・ハウスを借り受け、多少の改造をほどこして、早速理想の教育の実践に取りかかる。ラッセルにはすでに教育論の著書もあったのだし、こうした言行一致自身の理論を実践によって試さずにおかない一貫性は、見事といわねば、うそになる。子供の誕生→教育の必要→学校創設と、あたかも整然たる三段論法さながらに進行、展開する彼一流の手順、直進ぶりは、いかにも合理的そのもの、「理性の王者」にふさわしい実践と認めなくてはならぬ。ところで、その実際の成果は,妻のドーラ自身このユートピア的教育実験については詳しくリポートして、たとえば子供のマスタベーションは「ひとり遊び」として、これを叱責、禁止することはせず、また性教育の時間は設けなかったが、性に関する子供たちの質間には「一切率直に答える」ことにしたという。しかし、ここにより直接的で切実な、つまり当時の被教育者による証言がある。つまり、ラッセルとドーラの娘ケイト(キャサリン・テイト)の手になる自伝的回想『わが父バートランド・ラッセル』(1975)であり、ついでながら、冒頭の挿話でふれた1950年冬のラッセル卿の小旅行の訪問先が、他ならぬこの娘さんの家だった。「……政府がやっていることはすべて、故意に邪悪でないにせよ、完全に的外れである」とくり返し聞かされたので、子供としても「政府なんてまるで間違いだらけだから、早く取除かるべきで、たとえばうちの両親みたいに賢い人たちに席をゆずれば、国の統治も立派にゆくはずと信じこんでいた」とケイトは回想している。いかにも理性的な人間解放の訓え、進歩的な政治教育の実践には違いなかった。そして、「反動的な権力と独善的な残酷さの象徴」として槍玉にあげられたのが、近くの牧師館で、子供の頃は、まるで化物屋敷でも見るみたいに、こわごわのぞきこまずにいられなかった、という。これ又、徹底的な宗教批判、非合理払拭を目ざす初等教育の見事な実例には違いなかった。
 さすがにラッセル自伝のこの教育実験を扱ったくだりは、もっぱらその際ぶつからざるを得なかった現実的な困難をいろいろ列挙して見せている。子供たちの「自治」を大いに強調してみると、たちまち「強者の支配」が出現して、いじめっ子問題にぶつかったとか、この新型学校開設をきいて、いそいそと送りこまれてきた子供たちの多くが、じつは「間題児」と判明したとか、最初から思うにまかせなかった苦労話を正直に打ちあけているのだが、やはり受け手、いや被害者自身による証言の力強さには太刀打ちすべくもない。ケイトはもちろん、父親弾劾の目的で自伝を物したわけではなかった。むしろ懐しさもこめて、父親との過去を素直にふり返っているのだが、それだけにかえってその効果は、辛辣なものとなる。こうした徹底した宗教批判教育をたたきこまれたケイトが、なんと後年キリスト教徒となり、さらには人妻(松下注:Tait氏と結婚)としてあの恐怖の的であった牧師館に戻ってくるめぐり合せとなって、かつての想像とのギャップの大きさに驚かされた! これ以上に、象徴的かつ実証的なラッセル批判は、又と見出し難いだろう。(松下注:ケイトは、1975年頃、Tait氏と離婚。またそのころ、ケートは、米国ラッセル協会の教育専門部会の委員長をつとめる。)
 ケイトの少女時代の思い出で、もう一つ忘れ難いのは、母親がしばしば父親に対して示したおびえの表情と語調であった。いや、夫としてのラッセルが、圧制的、威圧的だったという話ではないのだ。母親の示したおびえは、いつの日か夫が自分を見捨てて去ってゆくという根深い懸念で、ケイトの思い出の中の父親は「アームチェアに腰かけ、眼鏡を鼻の上にずらせて、ずっと本を読み続けている」のだが、「時に、自然の要求で、立ち上ってバスルームに行こうとする。と、母親がおびえたように顔を上げて、『あなた、どちらへ?』とたずねる」。こうした一見何でもない光景が何故かケイトの思い出に色濃く焼きつけられているのだ、という。そして又、この悪夢じみた懸念は、やがてとある日現実となりもしたのだ。どの離婚の際も、ラッセルは、きまってより若い愛人と手をたずさえて、あっさりと古い妻を置き去りにする。その結果、次々と新しい義母たちの手にゆだねられることとなったケイトの体験が、こうした何げない幼時の家庭生活情景を、淡い記憶の中から蘇らせ、改めて色濃く焼きつけ直すことになったに違いない。一体ラッセルは、数々の女たちとの別離、また離婚を度重ねながら、その事情やいきさつについては、自伝の中でほとんど触れていないのだ。(松下注:「ドラ・ラッセルの自伝より」)いや、これもラッセル一流というべきか、しごくあっさりと描いてのける。たとえば、母親代りの祖母のつよい反対を押し切って結婚した最初の妻、アメリカ人のアリスとの別れは、次のように、ほんの数行で片づけられている。「ある午後、私は自転車で出かけ、田舎道を走っているとき、もうアリスを愛していないとふと不意に悟った。この瞬間まで彼女に対する私の愛が、減少しつつあることにさえ気づかなかったのだが」。自分の思いがけぬ心変りに、我から不思議がっているような調子で、これを子供みたいな天才的無邪気と受けとるべきか、ぬけぬけとした自己欺瞞と見なすべきか。これはこれで、りっばに自己完結したライフスタイルで、なまじな批判の圏外にあるものというべきかも知れない。(松下注:この数行だけの引用では、ラッセルのアリスに対する心変わりの原因があまり理解できないだろう。この記述も参考になる。)2度目の妻だったドーラの自伝では、一たん離婚と思いきめた後のラッセルは、まるで人間が変ったみたいに、こちらの訴えや苦情にも一切耳をかさなかった。以前は、感情の激しく強い人とばかり思っていたが、この時のラッセルは、「信じ難いほど完全に冷淡な空虚な壁」のようだったと回想している。しかし、この「理性の王者」は、平然として割り切り、斬りまくることを止めなかった。たえて反省や自己批判などに赴くことなく、ひたすら他者と外なる大制度の不合理をあばき、攻撃しつづけた。ここで、ブレナンの「プロメテウス・コンプレックス」という評語を思い合せずにいられない。いや、プロメテウス症候群ともいい直すべきか。永遠の反抗者、不屈の批判者、「人類解放」の追求者というイメージいやレッテルは、たしかにラッセルによく似合う。ほとんど欠ける所のない諸条件に恵まれた彼の生涯は、花々しいオペラにも似ている。このプロメテウスは、いかなる局面にも臆することなく朗々と語り、確信にあふれて唱い上げ、圧制と反動の敵を指弾してやまぬ。しかし、この楽天的なプロメテウスには、不思議なほど陰影も厚みも欠けている。というのは、彼に罰を加え、縛めるべきゼウス大神が、このオペラでは予め除かれていた。つまり、ラッセルの場合プロメテウスこそ至上者であり、そのままゼウスと重なり合っていた。反抗者が、「理性の王者」を一身にかね合わせていたのではあるまいか。なるほど、いく度か権威と衝突をくり返し、獄中に入ったけれど、これは軽い事故にすぎず、オペラとしての効果が一層もり上ったという話にすぎない。
 プロメテウスといえば、すぐ『鎖を離れたプロメテ』(1899)のジイドが思い合わされるのだが、ジイドの主人公は、一応は「鎖を離れ」ているにせよ、たえず彼につきまとい、彼の肝臓をついばむことを止めない自意識の鷲をもっていた。つまり、ジイド自伝について辿ってみたように、彼の身内に濃厚にしみこんだプロテスタンティズムが形を変えながらも歯どめとして働きつづけた。永遠の「解放」の追求者としては、両者は重なり合う所も多いのだが、ラッセルは、一切の歯どめを払いのけたプロメテウスではなかったろうか。そこから、彼の常人離れのした自信と、一種底ぬけの楽天性が生じた。ラッセルの演じてみせた生涯のドラマは、ジイドと比べても、さらに多彩で、ホワイトヘッド、ヴィットゲンシュタイン、T.S.エリオット、またD.H.ロレンスなどさまざまな人物をまきこんで、思いがけぬ変転をもふくんでいた。しかし、全体としてみると、案外底のわれたメロドラマ、平板なオペレッタという印象を否み難いのだ。
 それにしても、ラッセルは、恵まれすぎた特権者、例外的な存在であって、現在のわれらには、縁遠すぎるといわれるだろうか。しかし、ぼくはそうは思わない。というのは、20世紀は、じつは無数の小ラッセルを氾濫させた時代ではなかったろうか。歯どめを失った、擬似解放の信者、宣伝家は世界にあふれている。ラッセルより、知力も筆力もはるかに劣った解放の使徒たちなら、戦後日本にも、それこそ掃いて捨てるほどに現われた。いや、現われつづけている。ラッセルは、その意味では、時代に先がけ、衆に先んじて、解放のドラマを自作自演してくれた人物と見なすべきかも知れない。ジイド風にいえば、若者たちの誘惑者メナルクの役柄(『地の糧』や『背徳者』に登場、ワイルドがモデルだったらしい)であり、ラッセルが、老境にいたるまで、不思議なほど女性にもてつづけたのも、こうした役柄のせいだったろうか。いや、先に思想の道化、哲学的コメディアンという呼び名も進呈したけれど、笑いをふくんだ誘惑者役、謎めいた危険の雰囲気をただよわせるメフィストフェレスの役柄こそが、じつはラッセルには一番ふさわしかった。正面切った、慨世の警告者、予言者役などには目もくれず、ひたすらメフィストフェレスとして振舞っていたならば、ラッセルが凄みに満ちた本格的プロメテウスと化して、その自伝も、驚くべき屈曲と厚みをそなえた、恐るべき大傑作なり得たことは疑いなかったと思われる。

 ここまで書いてしまってからでは、もう手おくれに近いけれど、ラッセル自伝を読んでいるうちおのずと対極の位置に浮んできたわが国の自伝があったことは、書きそえずにいられない。古典学者の田中美知太郎による『時代と私』(1971)で、その育ち、環境から経歴、つき合った人物にいたるまで、両者は遠く隔っている。わが田中自伝は、色調も語り口もずっと地味にくすんで、グレー調というに近い。ラッセルの多彩なオペラ仕立てに対しては、能のように渋く、物静かである。しかし、このシテ役は、ほとんど終始動かず、じっと周囲を見すえているのだが、彼の眼に映じた「時代」の光景は、およそ静謐(せいひつ)から程遠い。田中氏は、1902年の生れだから、ラッセルとはちょうど丸一世代の年齢差があるが、そのくぐり抜けてきた時代の激動と衝撃は、大いに似通っていて、太平洋戦争中の空襲による重傷という災厄を考えるなら、「時代」の衝撃は、むしろわが田中氏の上に、一層重く、きびしかったと認むべきであろう。しかも、ここにはしなやかな剛毅さともいうべき内的姿勢の一貫があって、わが国の現代史の激動が、鋭敏な地震計のように感受され、記録されている。といって、この観察者を、もっばら冷静で超脱した高みに身をおいた人間などとはいえない。とくに1920年代始め、ロシヤ革命の余波がわが国にも強く大きく及んできた時期には、この若者は、多くの革命運動家たちの間にじかに立ちまわって、その接触の輪は意外なほど幅広く、多岐にわたっている。東大の「新人会」や「売文杜」などから、大杉栄、和田久太郎、近藤憲二などのアナーキスト・グループに至るまで、当時20歳前後の若者としてその行動半径の広がりには、驚きを抑えかねる。三輪寿壮、渡辺政太郎、和田久太郎などについては、その風貌も描きこまれている。ラッセルが、革命直後のソ連を訪れた頃、わが田中青年も、その大きな波動の外延につながっていたといっていい。ラッセルは、その後中国へ出かけた帰途、わが国にも立ちよって、10日間ほど滞在して、横浜からカナダ船に乗りこんだ際には、大杉栄(アナーキストのオゾキと誤記されている)と「若くて、美しい、私たちの気に入った唯一の日本人」と彼のいう、ミス・イトオ(伊藤野枝)の見送りを受けている。さらに、こうした田中青年の思想的な目ざめをうながした最大の誘因が、丘浅次郎の『進化論講話』であったという因縁も興味深い。「少年のわたしを19世紀以来の一種革命的な世界思想に接触させたのは、この『進化論講話』にほかならない」と田中氏は書きとめているが、ラッセルの思想的出発点をなした「不可知論」、キリスト教批判の立場が、進化論による衝撃のほぼ直接の産物であったことは、改めて申し上げるまでもあるまい。一世代をへだてた両者は、案外に近い思想上の気圏を呼吸していたのである。しかし、こうしたいち早い思想的洗礼、それもかなりの現実体験をともなった遍歴のせいで、1920年代末から1930年代にかけてのわが国に蔓延したマルクス主義フィーヴァーには、田中氏は、ほぼ終始冷静な距離を保っていた。三木清といった身近な先輩、時に好意ある庇護者の役割さえ果してくれた人物がこの熱狂の大渦巻に我から近づいてゆき、この人物一流の派手な身振りで旗ふり役を演じ始めた時も、田中氏は全く動揺せず、終始引きこまれることがなかった。この点も、わが眼で革命直後のソ連を見てきたラッセルの、コミュニズムに対するほぼ一貫した冷眼ぶりと相通じている。しかし、ラッセルと田中美知太郎、両者の自伝の感触もそのライトモチーフも、ほとんど対蹠的(たいせきてき)にまで異なり、遠く隔っている。ともに「群」から離れた理性の人という点では見事に一致しているのだが、現実への反応、判断、つまりは基本の生き方が、まるで違う。田中氏も、時に激しくラジカルな批判を辞さないが、みずからを理性の不可謬の台座にすえることは絶えてなかった。ラッセルにおける、「理性の王者」という気負い、プロメテウス・コンプレックスとは終始無縁であった。というのは、わが田中氏には、すぐれた先人の古典的叡智に対する畏敬、信頼という歯止めがあった。プラトンは、田中氏にとって揺がぬ支点のごときものをなし、プラトンを中心とするギリシャ古典との不断の対話が、一種の錘り(おもり)役を果して、抽象的な高みへの一方的な飛翔から守ってくれたのではあるまいか。もちろん、プラトンを至高の規範として、一切を裁こうというのではなかった。むしろ、古典との間に、連続的な同一性を確かめることによって、理性の倨傲(きょごう)を抑制し、理性によって丸ごととらえられたものとしての歴史の絶対化という現代の迷妄を見抜くことが出来た、といえるだろう。こうした指向と態度を、氏は、戦中から戦後にかけて一貫して保ちつづけてきた。田中自伝の巻頭には、へーゲルからマルクスに至る歴史主義幻想についての手きびしい批判がすえられている。わが手で聖化した理性と歴史の高みに身をおいて一切を裁き去ろうという倨傲と迷妄に、真向から一太刀浴せるという所に、このユニークな思想自伝の基本モチーフが存した。「汝自身を知れ」というギリシャの神託は、現代の歯止めなき、小型プロメテウスたちに、さらにはラッセルという大型プロメテウスにさし向けるべき最上の教訓に違いないのだ。(終)
 (松下注:佐伯氏は、結局、哲学者の田中美知太郎氏は「みずからを理性の不可謬の台座にすえることは絶えてなかった」が、「理性に歯止めをもうけなかった」ラッセル(=「理性の王者」、大型プロメテウス)は暴走して「落とし穴」に落ちてしまった、といいたいのだろうが、的はずれといわなければならない。確かにそのような「側面」もあることは否定できないだろうが、それは(重要ではあるが)あくまでも一側面であり、正反対の側面もあることは、ラッセルの思想と行動を丹念におっていけば容易に理解できると思われる。ラッセルのような多面性を持った人間・思想家を評価しようとするならば、やはりいろいろな方向からラッセルをとらえ、その上で、全体的な評価をくだすべきであろう。「理性の王者」という言葉が気に入ったためか、この呼称のイメージを過度にラッセルに押し付けているように思われる。好き嫌いは別問題であるから、ラッセルの人間性が気に入らないのなら、理屈ではなく、好きでないといえばよいだろう。)

 テキスト
 Bertrand Rusell: 'The Autobiography of B. Russell' は、3巻本として、1967~1969年に刊行。
・第1巻 'The Early Years: 1872- World War I'
・第2巻 'The Middle Years: 1914-1944'
・第3巻 'The Final Years:1944-1969'
 でバンタム文庫版のペイパー・バック3冊本が復刊。
・『タマリスクの木・ドラ・ラッセル自叙伝』が山内碧訳で、リブロポート(1984)から出ている。
・Katharine Taite(正しくは Tait): "My Father Bertrand Russell" (Harcourt Brace, Javanovich, 1975)。
・田中美知太郎『時代と私』は、文藝春秋社刊。(終)