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佐藤共子「ドラ・ラッセルの自伝から」

* 出典:『大塚会会報』(一橋大学社会思想共同研究室内)n.5(1983.12)pp.7-8
* 佐藤共子氏は、昭和27年、津田塾大卒
* Dora Russell(1896-1986)について
 英国婦人解放・平和愛好家。哲学者バートランド・ラッセルの元夫人。英国コーンウオールの自宅でこのほど(=1986年)死去。死因は公表されていない。1958年に東西欧州各国を訪れ、核兵器廃絶支持を呼びかけるなど、女性平和運動の指導者。「男性が核廃絶に立ち上がろうとしないならば、女性がやるしかない」などの名言を残した。ケンブリッジ大学の学生時代にバートランド・ラッセル氏と知り合い、1921年に結婚したが、11年後に離婚。著作に『子どもたちの弁護』や自伝がある。(UPI共同/『朝日新聞』1986年6月3日夕刊より)


 ドラ・ラッセル(結婚前は、Dora Black)はバートランド・ラッセルの2度目の妻であった(写真は、18歳の時の Dora Black)。彼女は(1983年)現在89才、コーンウオールで『ニュー・ステイツマン』と『ザ・リスナー』にフェミニズム、社会主義、マルクシズムなどについて活発に手紙を送る。ケンブリッヂ大学のガートン・カレッヂで学問的キャリアが期待されていた時、未婚のまま、ラッセルと共に中国に行き、大学に戻る機会と訣別した。イギリスに帰ってからは、夫と共に自由な心身を育成する目的で学校を創立・経営。相互を拘束しない約束で入った結婚生活の中でドラは他の男性の子供を出産、夫はそれに耐えられず離婚
 ドラは教育活動だけではなく、労働階級の婦人たちに産児制限の知識が与えられていなかった1930年代はじめに彼女たちのために産児制限活動を行い、第二次世界戦争後は核武装反対運動を行ってきた。バートランド・ラッセルがCND(Campaign for Nuclear Disarmament)の委員長であったために、彼の生存中ドラは表面に出るわけにはいかなかった。彼女の戦争反対の信念は、彼女の下の息子(松下注:別の男性との間の子ども)が1952年、良心的兵役拒否者として、保安措置の悪い鉱山で労働中事故にあい、23才の若さで一生を車椅子で送らねばならなくなったという個人的な悲劇により、ますます強固となっている。今年(1983年)10月28日付『ザ・タイムズ』の彼女についての記事には「永遠の革命家」という見出しがついていた。彼女の生涯と業績は日本では知られていない。

 以下、彼女の自伝 The Tamarisk Tree(1975)から、彼女がバートランド・ラッセルことバーティと恋におちた部分を訳すことにより彼女の人柄の一端を紹介する。
 [松下注: 残念ながら、佐藤訳はかなり誤訳が多いため、佐藤訳ではなく、山内碧訳『ドラ・ラッセル自伝』(リプロポート、1984年)から転載する。]
 ある土曜日の午後、私の部屋(=フラット)の玄関ドアのベルがなった。バーティーが私の部屋を訪れた。-もしそのベルがならなかったら、私の人生は、ちがったものになったかもしれない。私は壁ぎわの椅子に座り、バーティはその側のスツールに腰掛け、膝を組み、一方の手をその間に押しこみ、もう一方の手にはパイプを持ち、前よりいっそういたずらっぽい小鬼のような様子で言った。

「街でする仕事があります。まだ何も片づいていません。月曜日の12時半の汽車に乗れますか?」
「それはもしかしたら・・・?」 彼はうなずいた。
「でもあなたは他の方と恋愛中と思っていましたけれど・・・」

 彼はきっぱりと、それは決定的な終局を迎えたと、言った。私は何といってよいのかわからなかったが、たぶんその汽車に乗るでしょう、とあいまいな約束をした。(松下注:1916年にオットラインとの恋愛関係終わる。同じ年の7月31日、女優のコレット・オニールと出会い、恋愛関係になる。ドラがいっているのは、コレットのことと思われる。)
 私は悩んだ。けれど私がどんなに自分自身と論争してみても、私はその誘いを受けるにちがいないことを私は知っていた。バーティの側からしてみれば、これはある夏のちょっとしたロマンス(注:1919年の夏のことと思われる)にすぎないのだろうか。私にとっても、そうにすぎないのか。どの程度これは将来の私の仕事や計画に支障をきたすのだろうか。ラルワースでは、みんなで読書会のようなことをしていたから、私も何冊か本を持って行ける。10月に私はパリに行くはずだった。パリの国立図書館で研究することが、私の仕事に役立つと、ガートン(ケンブリッジ大学ガートン・コレッジ)の権威筋を説得してあった。心の底では、私は秘密の目的を持っていた。私はもうほとんど経済的に独立したのだから、私の時間を多少さいて、舞台に立てるよう、歌や演技の訓練を受けることだった。これは別として、今ではロンドンに自分の家があり、ガートンには大学の部屋があり、これらのすべては、(結婚は考えていなかったが)興味があり、十分に報われ得るキャリアヘの出発に必要なものであった。
 あの時、バーティが心の中で結婚を考えていたとは、私は思わない。ブルームズベリーの住人たちは結婚はしても、性道徳をあまり重要視しない慣習があり、そして私自身の行動に関する規律も、これがベースになっていた。人は愛することで性の関係を結び、(愛情を)自由に与え、受けられる、と私は考えていた。これは永続する場合もあり、瞬間的なこともありうる。自分自身が自覚し、相手の人格が受け入れられるような恋愛以外の動機は許されない。私の規律では、その他に、他人の領分を侵害しないことを条件としていた。そのことで相手の結婚あるいはパートナーシップを破壊しないこと(が条件)であった。私の知る限りでは、バーティは結婚はしていたが、もう何年も別居していた。(松下注:1911年以来、アリスとは長期に渡って別居中。)
 ある時期、私はバーティと「恋をした」と思っている。マーセルと彼について話した時、「私にとって、彼は危険な存在です」と私はいった。マーセルはあらゆる意味でとても寛大な男性だった。私たちは決して不自然な方法で私たちの友情を長びかせようとはしなかった。彼がすぐにベルギーに帰ることは察しがついた。そして彼にとっては疑いもなく、最初の気持とか、ゆかしさとか、美しさが保持できなくなった関係は、もはや終りでしかなかった。私が月曜日に、12時半の汽車に乗ってから、私たちは2度と会うことはなかった。
 すべての人々が(→人は誰でも)、恋愛や戦争をするとき、フェアである場合もあるいはそうでない場合もあるだろうが、たしかなことは、恋をする者が、一般が戦争をするのと同じように、心の事件にとり組みはじめることである。「人は約束し、それから調べる。」こんなムードで、というのは実際にはどうしようもなかったので、私はラルワースへバーティと共に旅立った。彼の政治に対する見解や生き方に同調することに、私は何の抵抗も感じなかった。私は社会主義を、平和と同胞愛の必要と同様に確信していたし、資本主義の横暴とソ連に対する戦後の扱い方に大きな憤りを感じていた。バーティに対する私の感情の中には、戦争で逆上した群衆の敵愾心に傷つけられたにちがいない彼の痛手を、慰め癒してあげたい、という願いがいつもあった。
一橋大学_大塚会会報の画像  私は小学生の頃、規則を破ったり、権力に反抗して難儀をこうむっている生徒たちに味方をして、いつも叱られた。それは私が庭師の鍬の下から長虫を助けてからずっと、私の身についた負け犬に対する押さえられない同情心だった。この衝動は、詳細に検討する価値があり、心理学者ならばたぶんマゾヒズムというであろうし、それが女性の場合であれば、母性本能以上のものではないと、簡単に片づけられてしまうかも知れない。けれども、私はこの衝動がそのように簡単なものではなく、何か純粋に原始的なもの、生命本体の中核にあって -ひとつの生きた有機体が、生き残るための必要性から、他に対して感応し合う感情移入のようなもの、と考えている。私たちは誰しもがそれを内蔵している。しかし、悲しむべきことは、人が存在するために、抽象概念を作りあげ、敵対心、侵略、憎悪などを挑発することで、この本質的な衝動を私たちは窒息させ、破壊している。この衝動による行為は、人間がそれを内蔵していることが容認されない以上は、すべての人間に共通で、きわめて当然だと思われることはない。それゆえに、現代において、若い世代の一部が「愛し合おう、戦争は厭だ」と叫びながら、メカニズムという鉄の鋤の下から人間の長虫たちを助け出そうとしている。彼らにとって、この社会制度は耐え難いものであろう。
 人生の意義についての考え方で、バーティと私は息が合った。彼の激しいインスピレーションや人間の境遇に対し、ひどく神経質なところが、基本的に私とちがうのに気付いたのは、後になってからだった。けれど会った当初から、私は彼のこの素質を受けいれ、それに魅かれた。これを半ば意識しながらも、気軽に情事を続けることは私にとって難しく、さらに難しさを加えたのは、私の常識と母性本能が、彼が脱俗的な行動をするのを保護するよう、促したからだった。彼は自分自身のことをどう面倒みればよいのかわからず、何よりもまず、誰かしっかりした女性が、彼の世話をする必要がある、と私は信じた。軽率な恋をする相手にとって、デリカシーとか無力な様子は、それが男であれ、女であれ、何と大きな罠であろう。(松下注:「男でも女でも、繊細で頼りなげに見えることが、慎重さに欠け、愛情いっぱいの相手にとって、何という大きな罠であることだろう」とでも訳すべきであろうか? What a trap for an unwary loving partner is the appearance of delicacy or helplessness, whether in a man or woman!)(了)