倉持三郎「D. H. ロレンスと Ottoline Morrell-Women in Love の背景」
* 出典:『東京学芸大学紀要』第2部門人文科学第26集(1975年1月刊)pp.96-109.*(松下注)ラッセルは一時期、オットリン・モレル夫人と恋愛関係にあり、人間的に大きな影響を彼女から受けている。ラッセルの全体像を掴むためには、オットリンの人となりやラッセルとの関係を理解することは、重要であると思われる。
* 倉持三郎(くらもちさぶろう),1932~。ロンドン大学バークベックコレッジ大学院留学。文学博士、東京学芸大学名誉教授。
D. H. Lawrence の作家生活に影響を与えた人物は多い。父親,母親はもちろんのこと,彼が世に出るきっかけをつくった Jessie Chambers や恩師の妻で後に彼と結婚することになった Frieda の存在の重要さは誰も否定できない。その他 Bertrand Russell, John Middleton Murry, Aldous Huxley のような、かならずしも Lawrence が全面的に受け入れていない人物でも,彼の思想の形成,作品の成立に影響のあることはいうまでもない。
Ottoline Morrell は、上述の人物ほど重要であるとはいえない。しかし逆に重要性がすくないという理由であまりにも軽視されている面もある。彼女の分に応じた注意を払う必要がある。彼女が Lawrence と結びつけられるときは Women in Love(『恋する女たち』)中の Hermione のモデルとして言及されることが多い。たしかに小説の中で彼女は生彩をもって描かれ注目に値する入物となっている。しかし作品だけを読んで彼女を想像するのは危険である。Hermione Roddice = Ottoline Morrell という等式があまりにも安易に信じられている。(注:ノン・フィクションではないので、'虚構'の部分もかなりあるはずである。ジョシュア卿として登場するバートランド・ラッセルの場合も同様である。たとえば、福田和也氏のように、ラッセルは同性愛者だと断定している人もいる。/参考:福田和也著「大丈夫な日本」(文春新書))Lawrence の見方を一応はなれて彼女を見ることが重要であり,実生活において彼女が Lawrence にどのような結びつき方をしていたのかもあきらかにしなければならない。幸い,彼女の Memoirs が近年出版され,(後半部は本年中に出版の予定になっている),また,彼女と近かった B. Russell の Autobiography, A. Huxley の Letters など,同時代人の記録が最近手に入るようになったので,本論では, Lawrence が作品の中で描かなかった部分をできるだけあきらかにしたい。また,Ottoline と Hermione の人物像のずれにも注目したい。こうすることによって Lawrence の小説における人物造型のひとつの方法が理解できるからである。
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まず彼女の生涯を見てみよう。Lady Ottoline Violet Anne MorrelI は,1873年6月16日、ロンドンで生まれた。Lieutenant-General Arthur Cavendish-Bentinck〈(Duke of Portland)の後妻の一人娘である。母 Augusta Mary Elizabeth はスコットランドの Lismore の Dean Henry Montague Browne の娘である。1879年に義兄が Duke of Portland になる。少女時代は Nottinghamshire の Welbeck Abbey に住み,学校に行かず,母から教育を受けた。この頃すでに将来何かしっかりしたことをしようという願望を持った。女子教員養成学校を経営するとか,政治的または社会福祉的な仕事を夢見た。
1897年に St. Andrews University に入った。女性としては型破りであったため,この件について、親族会議が開かれたほどであった。哲学に興味を持っていたので、大学ではそれを勉強しようとしたが tutor からすすめられて Richie 教授の論理学を専攻している。当時大学での最高の教授であったというのがすすめられた理由である。しかし1年ほどでやめた。健康がすぐれなかったからである。ただ短かい期間であったが、大学に出席したことは彼女にプラスになった。"I imagine the time at St. Andrews has given me a certain foothold." 1)といっている。
1899年に Oxford 大学に入る。一種の聴講生のような形であった。入学について、前回と同様に、親族会議がひらかれた。ふたたび大学に入った動機について,次第に教養ある人々と多く交際するようになり、自分の 'ignorance' に気がつき,自信をもって生きることができるようなるためであると、説明している。大学では、Pelham 教授のローマ史に出席、また、政治学を勉強した。社会主義思想も教えられた。しかし、今回もまた健康上の理由で1年ほどでやめねばならなかった。学問とは直接関係はないのだが,Oxfordでひとつの幸運にめぐまれた。結婚相手と知り合ったからである。
1902年,Philip Edward Morrell(1870~1943)と結婚した。彼は弁護士であったが,後,下院議員になった。1906~1910年は、South Oxfordshire 選出であり,1910~1918年は Burnley 選出である。自由党の党員であり,当時としては進歩的革新的思想の持主であった。平和論者であり,第一次大戦に反対し,議会において開戦反対の演説を行なっている。反対したのは彼1人であったという。平和論者を自宅にあつめ,良心的兵役拒否者の裁判では弁護人になり、職を失った者には自宅の農場で働かせた。ちなみに Ottoline の 兄 Henry Bentinck は保守に属していたが革新的であり, Huxley は今まで会った誰よりも急進的な社会主義思想の持主であったといっている。2)
1905年,ロンドンの Bedford Square 44番地に居を構えた。ここがしばらくの間、文学者,芸術家,また,平和論者のたまり場となる。木曜日の晩,定期的に会合がひらかれていた(松下注:ここに集まった人々はブルームズペリー・グループと呼ばれた。) 1915年,Oxfordshire の Garsington Manor(注:下の写真参照) に移った。1927年にふたたびロンドンの Gower Street に居を移すまで12年間、ここに住んだ。彼女の生涯において重要な住居となったこの邸宅をはじめて見たのは数年前にさかのぼる。政治集会が終ったあと、Philip といっしょに Oxford からロンドンに帰る途中,この邸をはじめて見た。"old grey stone house"は,Ottoline に "That is the only country house that I could live in!" と叫ばせるようなすばらしいものであった。偶然にもその村に Philip の父親がかなり広い土地を所有していた。彼らが住むのにはかならずしも無縁の土地ではなかった。1人娘の Julian が病弱であったため,医師から田舎に住むようにと言われていた。もし田舎に住むならば Garsington 以外には住みたくないと思った。しかし,その邸宅には90才だがなお元気な老人が住んでいて、買うに買えなかった。1913年,老人がなくなり、邸宅は競売に付されることになり、1913年3月15日、Philip は競売に出かけて行った。報せを待つ間,Ottoline は不安で胸が一杯であったが、やがて待ちに待った電報がついた。邸宅を所有できたのは種々の事情があって、1915年であった。5月に引越しをしているが,それまでに絵画の飾りつけ,植込みの監督などでしばしば訪れている。
Garsington Manor は Oxfordの中心部から東南約10キロの地点にある。ロンドンに至る道筋の途中にある。邸宅の南面には平坦な芝生があり,そこから下り斜面となって,その下に長方形の池がある。池の周囲には古い彫像が立っている。邸宅の左手の斜面にはひいらぎの大木があり,その向うはテムズ河がつくる渓谷となっており,その果には Berkshire の丘陵を望み見ることができた。
Morrell 夫妻はここにひとつの社交場をつくり,芸術家,文学者,政治家をあつめていた。単に会合に出席するだけではなくて,ある程度の長期滞在までさせていた。邸宅には農場が付属しているので職を失った兵役拒否者たちはそこで働いた。Ottoline が思うままに活躍できたのはこの Garsington 時代であろう。D. H. Lawrence との関係もここに移った1915年のはじめからであった。彼にとって Ottoline はこの邸宅と結びつけられる女性であったといえる。
1938年4月に Ottoline はなくなった。Virginia Woolf はその burial service の模様をやや克明に日記の中で描いている3)。親しい友人たちが多く出席していた。生前,無名画家時代に恩顧をうけた Mark Gertler は眼に一杯涙をためていた。
(その2)
Ottoline は多くの文学者,学者,政治家を自分のまわりにあつめ,知的社会の一種のパトロン的な役割を演じていたことはすでに述べたが,次に具体的にそれらのうち数人をえらび、その交友関係を見てみよう。なかでも、一番近い関係にあったのは数学者,哲学者であり、同時に平和運動の指導者であった Bertrand Russell であろう。彼女の Memoirs を読むと Russell(Bertie とよばれている)に対して親しげな熊度を見せ,またかなり頼りにしていることがわかる。夫 Philip を除けば一番親しいといってよいであろう。この理由については Memoirs の方ではおそらく故意にぼかされている。しかし Russell の Autobiography を読むと、その間の事情がかなりあきらかになる。
Russell は子供の頃から彼女を知っていた。また,夫 Philip は Russell の妻の弟 Logan Pearsall Smith (松下注:ローガンは兄!。brother の訳には注意!)の Oxford での同級生であった。Russell は自由党の主義主張に賛成して政界に入る意図を持っていた。しかし党から選挙区をもらうことができなかったため,あきらめざるを得なかった(松下注:ラッセルは国教徒ではないため。)。その頃,名著 Principia Mathematica が完成して, Cambridge 大学から招かれ教師となった。しかしまだ政治への願望を捨て切れずに,1910年1月の選挙では応援演説をかって出た。自分の住んでいる選挙区の候補者は好きではなかったが,偶然隣りの選挙区(South Oxfordshire)に Philip Morrell が立候補していた。Russell は Philip の応援演説をはじめた。ここから Morrell 夫妻との交際がはじまる。このときの選挙は自由党にきびしく、Philip は落選してしまう。このあと Philip はLancashire の Burnley の選挙区をもらって、そこで当選したが,選挙区が遠くなったため, Morrell夫妻と会う機会はなかった。1911年5月, Russell はパリでの講演を依頼されて出かける途中,ロンドンの Bedford Square にある Morrell 家に一晩泊めてくれるように頼んだ。そこで彼が夫妻と談笑しているとき, Philip は突然選挙区 Burnley によび出された。夫の留守中 RusselI は Ottoline と話し続けていたが,いつのまにか二人の気持はぴったりと合ってしまい、恋人の関係になった。4)この関係は数年続いた。これについて彼が妻の Alys にしゃべったため,彼女は激怒して離婚することになった。 Alys は Ottoline の名前を出すといって脅かした。Ottoline にはすでに子供がいたため Philip と離婚する気持はなかった。(松下注:このあたりはあまりにも単純な書き方であり、誤解を招くおそれがある。詳しくは、ラッセルの『自叙伝』を参照。)
Russell は Ottoline と恋人の関係にあったばかりでなく、精神的な影響も受けている。彼の Puritan 的なところを取り除けてくれたのもそのひとつである。彼は、non-conformist(=非国教徒)であり、禁欲主義的なところを持っていたが、彼女と交際するうちにそれがなくなり人間に幅ができてきた。また,1910年から数年間は Russell にとって多難な時期であった。彼は平和論者として、戦争反対の運動を進めていたが,ともすれば孤立しがちであった。(1916年、Cambridge から追放された。)このような状態の彼を支えてくれたのも Ottoline であった。'Through the earlier phases of the War, Ottoline was a very great help and strength to me. But for her, I shouId have been at first completely solitary' 5) この点では,彼女は単なるパトロン以上の存在であった。彼女自身、平和運動を押し進めていたからである。1918年、Russell は戦争反対のかどで投獄された。このときには二人の関係はすでにプラトニックな友情にもどっていたが,彼女は Collette (Collette O'Niel = Lady Constance Malleson: 右下写真参照)という、当時の Russell の愛人と交互に刑務所を訪れている。
1938年,彼女が亡くなったとき,Russe11 はアメリカにいたが,その死を悼んで次のように述べている。'Ottoline's death was a great loss to me. Charlie and Crompton and Otto1ine were my only really close friends among contemporaries, and now all three are dead' 6) Russell のこの言葉には嘘はないであろう。彼は、勇気ある女性しか真剣に愛することができなかったといっているが,彼女はその勇気を持った女性であった。
他方,Ottoline は彼を頼りにし、尊敬していた。I don't think I have ever met anyone more attractive, but very alarming, so quick and clear-sighted, and supremely intellectual- cutting false and real asunder. Somebody called him "The Day of Judgement" 7) 明晰な頭脳を持っている上,名著 Principia Mathematica の著者であり,名門の生まれである彼に,彼女が近づいたとしても不思議はないのであるが,その上重要なことは,当時の革新的な思想を共有し,第一次大戦中は平和運動を推進することにおいて,多くの共通なものを持っていたことであろう。
Russell を D. H. Lawrence に紹介したのも Ottoline である。1915年のはじめ頃, Lawrence 夫妻は,Sussex の Greatham に滞在していたが,彼女は Russell を連れてそこを訪問している。彼は Lawrence からひどく感銘を受けて,彼は旧約聖書中の予言者であるとまで言っている。Lawrence の意見は絶対に間違っていないといい,完全に意見の「一致」した二人は,戦争反対のため,ロンドンで講演会を開くことをきめ,準備をはじめたが,Lawrence が Russell の講演の草稿にけちをつけたために腹を立てた Russe11 は絶交してしまう。 (松下注:ここもまた単純化しすぎ。→ 参照:柴田多賀治「D. H. ロレンスと B. ラッセル」) しかし互いに影響し合っていることは疑えない8)。
Aldous Huxley(1894~1963)は Ottoline に比べれば,かなり年下であり,Russe11 のように頼りにされ,尊敬されるという立場にはなかったが,愛顧を受け,文学者として世に出るための便宜を与えらた。Huxley が彼女に会ったのは,彼が Oxford の学生であった1915年である。12月8日の手紙によると,その前の日曜日に,Morrell 夫妻を Garsington に訪問している。昼食会に招待されたのである。邸宅は,美しいエリザベス朝風の manor であると述べたあとで, Ottoline について次のように書いている。'a quite incredible creature-arty beyond the dreams of avarice and a patroness of literature and the modernities- She is intelligent, but her affectation is overwhelming.' 9) 才気ある青年らしく,なかなかきびしい批評の眼を持っているが,興味をそそられていることがうかがわれる。彼の書簡集を見ると,1916年2月5日,2月13日,3月31日の手紙には Garsington を訪問するということが書かれてある。HuxIey が特に気に入っていたのは,その邸宅には興味ある人物が集っているということであった。1916年9月7日の兄 Julian Huxley あての手紙によると,秋中,邸宅に付属している農場で働くために長期にわたって滞在する予定だといっている。その他,同じ年の10月13日,11月12日,1920年7月30日の書簡に Garsington の言及がある。特に学生時代は邸宅に近かったから, 容易に来られたのであろう。また,しばしば長期にわたって滞在している。ちなみに後に夫人となる Maria Nys はこのときベルギーから戦火を逃れて,Morrell 家に身を寄せていた。Huxley の出世作Crome Yellow(1921)の舞台になる邸宅のモデルは,この Garsington Manor である。1920年7月30日の手紙では,邸宅でパーティがもよおされることを報じているが,この8月1日のパーティには Huxley 夫妻の他に T. S. Eliot, Mark Gertler が出席している。
cynic な Huxley はRussell のように Ottoline に惚れこむという態度はとりえなかったであろうが,Garsingtpn がかもし出す知的な,刺激的な雰囲気によって多く教えられるものがあったことは確かである。Huxley をD. H. Lawrence に紹介したのも Ottoline であった。1915年の12月,彼女のすすめに従って Lawrence は Huxley を Hampstead の自宅に招待した。このあと彼は,Ottoline に手紙を書いて "I like Huxley very much."といっている 10)。互いに性格,傾向はちがっていたが,それだからかえってよりよく相手を理解できたといえる。この友情は終生続き,Huxley が Lawrence のよき理解者となったことは彼の編んだ Lawrence 書簡集の序文でもよくわかるのである。次に T.S.E1iot と Ottoline の関係についてみると,現在刊行されている、Memoirs は,前半生をあつかっているだけなので多くは触れられていない。しかし前述の Huxley の書簡にもあらわれているように 1920年8月1日のパーティには,T. S. Eliot が出席しているし, Russe11 の Autobiography からも 1923年頃にはかなり親しくなっているということがうかがえる。Ottoline が T.S. Eliot を知ったのは Russell を通してであった。彼が教えたクラスに優秀な学生がおり,それが Eliot であり,この秀才のことは二人のあいだの話題に早くからのぼっていた。彼女は Eliot の初期の詩集を誰も注目しないうちから買っている。Henry James は Ottoline よりかなり年上であり,文壇の大御所であったから, Huxley とはちがって敬意をもって接している。James 自身,しばしば Ottoline を訪問していることは Memoirs に見える。彼女は James については "a merciless observer and critic" であり,会った人をすべて自分の "camera obscura" に入れてしまうといっている。Philip の母親は Oxford で有力な人物であり周囲に人々をあつめていたが,この母からヒントを得て James は The Spoils of Poynton を書いたという 11)。一方 James は Ottoline を日記の中で次のように評している。"touching and charming; yesterday(8 May, 1912) interesting. But I wish she didn't run to the stale, but a little more to the fresh, incostume." 12) 彼は Ottoline からよい感じを受けていたが,風変りな衣裳だけは我慢できなくて,このような批判になっている。見る人の度胆を抜くような衣裳をつけていることで彼女は有名であった。James は D. H. Lawrence の作品について批評を書いているが,Ottoline が二入を紹介したという事実はないようである。時期の点からいえば 可能性はあるが。
Ottoline が Joseph Conrad と知り合いになったのは James を通してであった。彼女は Conrad の作品を愛読しており,James が彼の友人であることを知って,紹介を頼んだのである。1913年4月のことである。James は一度紹介をためらった。彼にいわせると,Conrad は船員であって今まで "civilized woman" に会ったことがない。そのような男に紹介したくないというのである。Ottoline の熱心な頼みで,James は紹介した。まもなく Conrad から来訪を歓迎するという手紙を受け取った。当時,Conrad は Kent の Ashford に住んでいた。会った印象は,James がいっていたような粗野な人間とはまったくちがって "Polish nobleman" の感じであった。そのとき彼は The Heart of Darkness で描いたコンゴでのショックについて語った。その後,一,二度彼女は,Conrad を Kent に訪問している。彼は愛国的であったので,平和論者の彼女は,第一次大戦中は訪問するのを控えた。この他,文学者や芸術家で Bedford Square での木曜日の晩の会合に出席していた人々は次の通りである。Clive Bell 夫妻, Augustine Birrell, Lytton Strachey, Virginia Stephen(Woolf), Arthur Ponsonby, Duncan Grant, Roger Fry, Henry Lamb, Mark Gertler, Gilbert Cannan, Dorothy Brett, David Garnett, Augustus John, Lascelles Abercrombie, J. M. Keynes, A. A. Milne, Arnold Bennett などである。いわゆる "Bloomsbury group" とは直接関係はないが,そのグループに属する何人かも出席している。そのひとり Woolf は,Ottoline に対してかなりきびしい眼を持っている。日記には次のようにある。"I want to bring in the despicableness of people like Ott." >B>13) Ottoline は親切ではあるが,親切を売り物にするところがある,というのが彼女の批判の最大の理由である。しかし,そうかといって絶交しているかといえばちがう。Woolf の結婚後も交際は続いた。Ottoline に Memoirs 執筆をすすめたのも彼女である。前述したように Ottoline の葬式についてもくわしく日記に記録している。反発はしながらも無視することはできなかった。Strachey は年下の青年作家として Ottoline の一種の庇護を受けていた。ある場合は彼女は,母親のような感じさえ与えている。Henry Lamb とアイルランドに旅行したとき,理由は説明されていないが,彼は精神的な打撃をうけた。"In need of your corraggio as well as my own"という電報を彼女あてに打って,出迎えていた彼女を見るや否やその胸の中にとびこんできたという。
以上,主に文学者との交際についてみてきたのであるが,彼女はまた,絵画に対しても,かなり関心を持っていた。特にかなりのコレクションを持っていた。後期印象派展には絵画を貸出しているくらいである14)。彼女は無名の新進画家の作品を購入する財団を創立することを考えていた。具体的な行動がはじまったのが,1909年4月のことである。OttoIine は Roger Fry やTate Gallery の MacColl と話し合い,賛成を得ている。才能はありながらも人に知られず作品を買ってもらうこともできず,従って生活に苦しんでいる若い画家たちの作品を買おうというのである。従来,National Art Collections Fund というものがあったが,それとは別のものをつくり,Contemporary Art Society と名付けた。この墓金のお蔭をこうむったものに,例えば Mark Gertler がいる。1914年の春,Ottoline は友人 Gilbert Cannan のたってのすすめで, Gertler に会った。彼はユダヤ人で,当時ロンドンの貧民街に住んでいた。家族は餓死寸前であった。Gertler をモデルにして Cannan は Mendel という小説を書いていたのである。Ottoline は East End にある彼の家を訪れた。長身の彼女には頭がつかえるほど低い天井の部屋であった。ここで見せてもらった "Fruit Stall" というオレンジ,りんごが,ピラミッド形に重ねられている絵に興味を持ったので,彼女の木曜の会合で,Walter Sickert や Jasper Ridley という大家に見てもらった。このようにして,埋もれている画家を世に出そうとした。幸いに,この年の夏,Ottoline は Contemporary Art Society の半年間の購入係に任命されたので,前述の "Fruit Stall" を買いあげた。また,無名であった Gilbert Spencer の絵を同じ頃買った。
(その3)
次に Lawrence と Ottoline の関係を、主に彼の彼女宛の手紙を通して見てみよう。H. T. Moore 編 The Collected Letters of D. H. Lawrence にあらわれる最初の手紙は,1915年1月3日である。これをはじめとして Lawrence は Ottoline に40通の手紙を書いている。最後の手紙は彼の亡くなる約1ケ月半前の1930年1月21日である。このうち36通は、1915年と16年の2年間に書かれており,いかにこの時期に彼が Ottoline に夢中になっていたかがわかる。
この当時 Lawrence 夫妻はイタリアから英国に帰ってきていて Buckinghamshire の Chesham にいた。彼の文名は The White Peacock(1910), Sons and Lovers(1913)によって高まって来ており,新進作家として認められるようになった。Ottoline の友人の Raymond Asquith が The White Peacock を読んで感心していたという記録が Memoirs にもある。特に Sons and Lovers は好評で,次作を大いに期待されていた。Maugham は The Moon and Sixpence の中で新進作家をパーティに招待して,あとでゴシッブの種にするような lion-hunter 的な上流階級夫人のことをやゆしているが, Ottoline の場合このような要素がまったくなかったとはいえまいが,彼女なりに Lawrence に関心を持つ明確な理由があったといっている。彼の描いた Nottinghamshire に彼女も少女時代を送ったからである。'About this time I had been reading some very remarkabIe books, Sons and Lovers and The White Peacock, by D. H. Lawrence,the scene of which were laid in Nottinghamshire,and they had stirred up my earIy memories'15), Ottoline が少女時代を暮した Welbeck Abbey は Lawrence の故郷 Eastwood からはやや離れているが, Sherwood Forest とか Robin Hood's Larder や,また,炭坑などは,彼女自身もよく知っているものであった。作品を読むことによって野原や森を思い出しなつかしくなり,作者もまたその土地の人間であることを知って,会ってみたくなったのである。
偶然にも彼女の友人の Gilbert Cannan が Lawrence の知り合いであることがわかり,また夫妻は Cannan の近くに住んでいることもわかった。Memoirs には 'Lawrence was pleased to hear that I admired his work.' とある。おそらく OttolIne が彼に手紙を書き,その中で作品をほめたのであろう。1月3日付の Lawrence の最初の手紙にはこうある。'I was glad you wrote and told me you like my stories,' しかし,これ以前に二人は会っていると考えられる。同じ手紙にはこうある。'We should like very much to come and see you again.' したがって, Lawrence は Ottoline に1914年の末に会った可能性も考えられる。1月27日の手紙によれば,これより前にひらかれたパーティに招待されて,そこで Duncan Grant に紹介されているから,おそくても1月中にはまちがいなく二人は会っている。Memoirs によれば,はじめて会ったのは「2月」であったとあるが,これは彼女の記憶ちがいであろう。会った場所は,ロンドンの彼女の居宅であったようだ。そのときの印象を彼女はこう述べている。Lawrence は顔色が悪くて,身体が未発達のような感じであった。しかし,実に生き生きとしていて,いかなることにも興味を持っていた。母親のことを語ったが,立派ではあったが子供に対して支配的な女性であったという。
炭坑夫の息子である Lawrence の貴族に対する手紙には,何か反発のようなものがあるかといえば,この最初の手紙に関するかぎり,少しもない。むしろ貴族に対する礼賛がある。自分は政治上は民主主義者であるが,文学上は貴族主義を信奉し,文学作品は少数者によってのみ理解されるものだと主張している。'Life itself is an affair of aristocrats.' Delavenay はこのような Lawrence の調子を批判的に 'chameleon like as always'16)といっているが,相手に調子を合わせただけのものではないであろう。「貴族主義」は彼の基本的な姿勢である。彼の妻 Frieda がドイツの貴族の娘であったように彼にとって「貴族」はある想像力を刺激する要素を持っていたと考えられる。いずれにしろ,彼女は Lawrence の心を強く惹きつけた。
2月1日付の手紙には,数日前に Ottoline が Lawrence 夫妻を訪問したことに関して書かれているが,この会合によって互いに意気投合したようである。(もっとも Lawrence だけが意気投合したという錯覚を持ったという方が,より正しいかもしれないが。) Ottoline の存在によって、'hope for the future' は増したと彼は述べている。その期待の仕方は次のような形である。 'I want you to form the nucleus of a new community which shall start a new life among us - a life in which the only riches is integrity of character.' 'new community' というのは,当時, Lawrence が考えていた 'for money or for power' ではなくて 'for individual freedom and common effort towards good' を目指す新しい社会である。友人 Koteliansky のうたったヘブライ語の歌の一部をとって,'Rananim' ともよばれていた。また, 'an Isle of the Blest, here on earth'17) ともよばれている。小説 Women in Love には,'Rupert's Blessed Isles'18), と言及されている。当時,第一次大戦が泥沼化し,現実の世界を離れて理想郷を求めようという気持が,Lawrence に強くなっていた。友人の J. M. Murry, Katherine Mansfield とも話し合った。1915年1月3日の Mansfield の日記には 'Dined at the Lawrences and talked the island' とあり,この頃,彼がこの計画に熱中していたことがわかる。彼は, Ottoline をこのいわば「新しい村」のまとめ役として考えていたのである。
2月22日付の手紙では,彼は彼女の Oxfordshire の新しい cottage(Garsington のこと)について関心を示している。前述したように,丁度この頃,Ottoline は Garsington Manor を買い取り,移転を準備していた。Lawrence はこの邸宅を自分たちの 'Rananim' と考えていた。本来はそれは英国以外のどこかの島であるべきなのだが Russell などは,英国内につくるべきであることを主張したため Lawrence 自身もその気になっていた。そうなれば Garsington Manor はひとつの候補地であった。前述したように Ottoline の邸宅は,大戦中,平和論者,兵役拒否者のたまり場になっており, Lawrence とはちがった意味ではあるが,'new community' を形成していた。彼がそこに関心を持ったのは当然である。
2月23日には, Morrell 夫妻は, Lawrence 夫妻を訪問し,一泊している。次第に親しくなっているさまがうかがえる。3月1日付の手紙では Mr. Lawrence などと改まったよび方をしてくれるなといっている。Garsington については 'I call it mine.' という聞きようによっては無礼ともとれる言い方をしている。 "new community" の場と考えていたのであろう。そしてロンドンを離れて田舎(Garsington)に住むことの利点を述べている。'There you must put away this temporary life, and give yourself to the dreams of the new life, the dream of the greater truth,the profoundest wisdom,' という。当時 Lawrence は Rnssell とともに戦争反対の講演会をロンドンでひらこうとしており,ロンドンの Lecture Hall が前線基地であるならば,Garsington はいわば一種の本拠地になるというのである。
11月の上旬には,Lawrence 夫妻は招待されて Garsington に4日間滞在している。その印象を11月10日付の手紙では次のように述べている。'Here we feel the real England- this old house,this countryside- so poignantly'。また,12月1日付の手紙にも邸宅の様子をきわめて詩的な文章で描写している。これは Women in Love 中の Breadalby の描写と似ているが,微妙にくいちがっている。手紙の方には小説にあらわれているような否定的なニュアンスはない。古い歴史を持った美しい建物として描いている。
また,この頃,現実的な事件が起って Ottoline と Lawrence の関係を密接にした。1915年9月30日に出版された The Rainbow が5週間後に起訴されて,発売禁止になったのである。1859年に施行された Obscene Publications Act に触れたのである。このとき Arnold Bennett ら,文学者が弾圧であるとして抗議しているが,自由党の国会議員であった Ottoline の夫 Philip Morrell も議会において,この件につき11月18日と12月1日の二回にわたって質問した。しかし議会は,この質問を無視した。Philip の質問の内容は,著者に一片の通知もなしに,弁護する機会も与えられずに押収されたのはどうゆうわけか,また,25パーセントの印税を得ている本に対してそれを差し押えることは著者の生活をおびやかすことにならないかということであり,この作品を押収する理由がない証拠として Catherine Carswell の書評が提出された19)。 一説によると発売禁止は 'obscene' という理由ではなくて,政治的なものであった。Lawrence がその小説の献辞をドイツ人である,Frieda の妹の Else にしたためであった。いずれにしろこの作品の発売禁止はいままさに文壇に出ようとしていた Lawrence にとってショックであったことは当然である。第一,生活費を断ち切られることであった。同時に彼に対する敵意のこもった周囲の眼を感じざるを得なかった。この四面楚歌の中にあって上流階級に属し,国会議員を夫に持つ Ottoline が自分の味方であるということは,彼の支えになったことはいうまでもない。
彼女の助けは単に精神的なものばかりではなかったようだ。わずかではあるが財政的な面でも Ottoline は彼を援助している。1915年11月18日付 J. B. Pinker あての手紙には 'Lady Ottoline Morrell sent me £30' とある。Lawrence もただでもらうことをせず 'pack of M. S.'(どの作品の原稿であるか未詳)を贈ったとある。当時,他の文学者も少額ではあるが援助の手を差しのべているが,これには彼女が蔭で働いていることは考えられる。以上述べたような精神的物質的援助に対する Lawrence の感謝の気持は,1916年9月に出版された詩集 Amores の献辞に集約されている。献辞については手紙の中にも言及されているが,彼女の称号をつけようかつけまいか相談している。結局は 'To Ottoline Morrell' になり,称号ははぶかれた。1915年1月からはじまった Lawrence の彼女に対する熱狂的といってよいような傾倒ぶりは, Amores の発刊後,急速にさめて行く。この時期の最後の手紙は, 1916年10月3日であって,このあとは16年後の1928年となる。この時期に彼女が Lawrence と決定的に離れてしまった理由は,Women in Love の中で,自分が一種の戯画化されているのを知ったからである。
以上,取りあげてきた手紙の中では, Ottoline は Lawrence にとって非の打ちどころのない女性と考えられている。彼女は「新しい村」のまとめ役まで頼まれているのである。しかし,彼女に対して彼が全然不満を持っていなかったわけではない。書簡の中から二つだけ拾うことができる。第一は,Ottoline に自己に対する自信が見られないことである。'Why don't you have the pride of your own intrinsic self? Why must you tamper with the idea of being an ordinary physical woman- wife,mother,mistress'(1915年3月1日) Ottoline は並の女性とはちがった人間であって,並の女性に合わせる必要はないと,はげまし忠告している手紙である。これはかならずしも批判というほどのものではないが,物質的に何不自由ない階級に属している女性の中に,このような信念と 'pride' の欠除を指摘していることは,注目に値する。これは Women in Love の Herminone にある 'a lack, a deficiency of being'20) につながるものである。第二点は,Ottoline にある 'will' の指摘である。'why must you always use your will so much, why can't you let things be, without always grasping and trying to know and to dominate'(1915年4月23日) 他人を支配し,他人を自分の思うままにしようとする我意の強さに触れているのである。しかしこれは Ottoline だけのことではない。'dominant woman' という女性観は Lawrence が終生持っていたものであった。原型は,遠く母親にまでさかのぼることができる。Ottoline もその種の女性のひとりであったということになる。Lawrence の Ottoline 観をまとめてみよう。現実には Women in Love という作品が存在して,その中の Hermione という女性は,彼女をモデルにしているということを知っているから,現実の Ottoline 像が少しゆがんでくるのであるが,仮に小説が書かれなかったとして,もしわれわれが Ottoline という女性を Lawrence の手紙を通してのみ知り得るとしたら,彼女は彼の作家生活を短い時期ではあったが支え,また,豊かにしていたと結論せざるを得ないであろう。もし Ottoline が導き入れた知的な社会を知ることがなかったならばその作品の主題において限定され,地方色にすぐれたとしても,英国社会全体を見通す広い視野は持ち得なかったであろう。
(その4)
最後に,虚構と現実の世界を比較してみよう。Women in Love の Hermione は Ottoline を, Breadalby は Garsington Manor をモデルにしているといわれる。それらの異同を検討してみよう。まず Hermione と Ottoline の類似点についていえばそれらを指摘するのはそれほど困難ではあるまい。Hermione は古い貴族で,社会的に最上流の階級に属し,思想的には革新であって,種々の改革に関心を持っており,また,きわめて知的な女性であると第一章で説明されているが,これはすでに述べたように Ottoline についてもいえることである。'She was Kulturtrager, a medium for the culture of ideas.'21) とあるが,同じような表現は,Ottoline についてもなされている。'like Cassandra in Greece,and some of the great woman saints. They were the great media of truth, of the deepest truth.'22) "medium" としての女性という考えでは共通している。
身体的特徴も Ottoline からとられたものがある。Hermione の眼付について 'look downvn long her cheeks' という表現が使われている。(looked slowly along her cheeks for him 第1章); looked at him along her narrow,pallid cheeks(第8章)) これは,あごを少し突き出して相手を見る仕草で Memoirs の写真や肖像画などを見るとすぐわかる Ottoline のひとつの癖である。本人にその意識があったかどうかはわからないが,他人が見れば気取った,横柄な態度と見える。Lawrence はこの癖を作品の中に生かしたのであろう。また,彼女の顔は細長い顔であった。Russell はそれについて遠慮なく,次のように述べている。'Ottoline was very tall, with a long thin face something like a horse,'23) Hermione を1作品の中でそのように描かれている。'Ursula resented Hermione's long, grave, downward-looking face. She's got a horse-face,'....'24) Russell の描写とよく似ている。Lawrence は Hermione の顔を描くとき Ottoline を考えていたことは疑いない。性格については,前節で触れたように,a deficiency of being' という点では共通している。しかし Hermione ではそれを拡大して考え彼女の性格の中核においている。'will' を持った女性であることは前節であげておいたが,作品の中では,次のように描写されている。 'It's your bullying will. You want to clutch things and have them in your power'25) これと Ottoline について述べた 'grasping and trying to know and dominate' を比べてみると,言葉こそちがえ,その idea は同じである。風変りな衣裳をつけることを好んだことはすでに述べた通りである。Ottoline が変った衣裳で町中をあるくと労働者たちは大声で笑い,後から口笛を吹いたという。彼女の服装について は多くの言及があるが,ここではそのひとつを引用してみる。 'she attracted so much attention with her eccentric clothes, her enormous hat and her red hair that people stopped to look,....'26) これに対して Wemen in Love で Hermione が登場する最初の文章をあげてみる。'Now she came along, with her head held up, balancing an enormous flat hat of pale yellow velvet,....'27) となり,'enormous hat' という点ではまったく一致する。このあと Hermione は結婚式にあつまった群集の前をゆうゆうとあるき,その尊大な態度とあざやかな色の衣裳(右下写真:オットリンの衣装の1つ)で彼らを圧倒してしまうのである。こういう Hermione の姿も Ottoline の実際の姿からとられたことも疑いはない。この他,例えば, Hermione の兄が国会議員であったことも同じである。(しかし兄は自由党ではなくて保守党に属し,自由党であったのは夫である。) また,第21章の 'Duchess of Portland' という名前も内容とは関係ないが, Ottoline との関係を思わせる。
以上のように, Hermione に関するかぎりでは Ottoline Morrell の影がかなり色濃く作品の上に射しているのは疑えない。では Hermione=Ottoline と考えてよいのかというと,徴妙な食い違いがある。たしかに Hermione にあるものは大部分 Ottolineから来ているといってよいのであるが,しかし人物のふくらませ方がちがっている。一例をあげれば 'She was passionately interested in reform, her soul given up to the public cause.'28) というのは Ottoline のことを正しく写しているわけだが,次に 'But she was a man's woman, it was the manly world that held her.' と続けている。男の仕事に没頭しすぎて女性らしさを失ってしまった 'old maid' 的な女性に Hermione をつくりあげようとする。実際の Ottoline はちがう。Russellも述べているように,彼のPuritan 的な型苦しさ,独善性を取りのけてくれた女性なのである。しかしここでは Birkin との関係上, Hermione を女性としての魅力を持った人物に書くことはできない。反面, Hermione を Ottoline がしたように平和運動の推進者であったり,また,無名の画家の発掘者であるという方向にふくらましていくこともできない。そうすれば,Ursula と対照する人物としてあまりにも大きく広くなりすぎてしまうであろう。Hermione は Ursula の敵役としての宿命と限界を背負わされているのである。'a deficiency of being' は Hermione の本質的な性格である。このような欠点が果して Ottoline にあったかといえば,Lawrenceは手紙の中で'Why don't you have the pride of your own intrinsic self?' と彼女に向っていっているのであるから,内面的空虚があるという見方をとっている。この点に注意しながら Memoirs を読んで行くと,それらしいものは,彼女は自分が 'ignorant' であるからという理由で大学に入るところである。知識,教養によって自らを支えねばならないということは 'the pride of one's own intrinsic self' の欠除であるとするならば Lawrence の指摘は正しいことになる。しかし Russell などの回想には,彼女が特にその欠点を持っていたということもない。結局は個人的な見解の相違となってしまう。おそらく Lawrence は,彼独自の人間観を Ottoline に,また,更に増幅して Hermione の中に読み込んでいるのであろう。
Lawrence の Hermione 像造型の特徴を要約するならば,一方では平和運動とか芸術家庇護という社会的文化的な活動面を切り捨ててしまい,他方では内面の空虚さを増幅して前面に出してきているということである。Lawrence にとっては Ottolineはそういう風にしか見えなかったのだといってしまえばそれまでだが,Memoirs や他の友人たちの記録を参考にして判断すると Lawrence は,小説の主題に合うように,また,Ursula のライヴァルとして都合いいように,実在の人物を歪めていると結論せざるを得ない。文学作品というものは元来そういうものであるはずだから Lawrence の方法が間違っているわけではないが,ここで Ottoline と Hermione は,したがって,ちがう人物なのだということも確認されなければならない。またここではくわしく論じる余裕はないが,Hermione には Sons and Lovers の Miriam である Jessie Chambers の投影を考慮しなければならない。
次に Garsington と Breadalby の異同であるが,似ているという感じはたしかにあるが, Hermione の場合ほど,決め手となるべき特徴はない。ただ手紙の中にある Garsingtonの描写と作品が似ているところがある。手紙では,'So to the steps up the porch,through the doorway, and into the interior,fragrant with all the memories of old age, and of bygone, remembered lustiness'29) と,長い歴史を持った建物の魅力に触れているが,ニュアンスはややちがうが,作品の中では同じような描写をしている。'He(Birkin) was thinking how lovely, how sure, how formed, how final all the things of the past were-the lovely accomplished past- this house.'30) 前者の方の手紙は Garsington 発となっていて,旅行中の Ottoline にあてたものであろう。したがって邸宅の描写であることは間違いないが,作品中の Bradalby の描写とは「古さ」という点で共通しているにすぎない。しかし執筆当時彼が Garsington に何度か滞在していることを考えれば,他の邸宅の面影はあるとしても Breadalby は Garsington を頭に浮べて書いているといってよいだろう。次に間題になるのは Breadalby の位置である。Garsington Manor は Oxfordshire にあるが,小説上の邸宅は Derbyshire に存在するという設定になっている。Ottoline は少女時代 Nottinghamshire に住んでいたから,そこに邸宅をおいたのかといえばそうではない。彼の住んだ Welbeck Abbey でもなければ Ottoline の一族の所有地である Bolsover Castle でもない。Women in Love の説明によれば,Derbyshire の Cromford から程遠からぬ所であり,Derwent Valley から少し入ったところである。何故,Oxfordshire ではなくて Derbyshire にしたかといえば,自分の故郷附近の土地を舞台にしたかったからである。よく知っていることもあるし,また愛着も持っていた。これはかなり意図的であって,'The scene of my Nottingham-Derby novels a11 centres round Eastwood, Notts(where I was born)'31) とのべている。何故 Cromford をえらんだかというと,自分がよく知っていることもあったろうが,また,その附近が風光明媚で,邸宅の所在地としてふさわしかったからであろう。1918年5月ごろから一年間 Lawrence 夫妻は Cromford 附近に滞在していた。しかし, Women in Love の原稿は,1916年中には完成しているはずであるから,このときの体験を基にしているとは考えられない。おそらく Nottingham にいた青年時代までに得た知識,記憶を基にしているのであろう。少年時代にその附近まで旅行したことがあるのではないかと想像される。なぜなら,前作 The Rainbow(1915)には,Tom Brangwen が, Matlock や Bakewell という Cromford 附近の保養地に Whitsuntide に友人と馬で旅行する場面があるからである。Breadalby の邸宅も Hermione のところで述べたような一種の「歪曲」があると考えられ,前に引用した Garsington Manor についての Lawrence の描写のうち 'fragrant with the memories of old age' という表現には批判的なニュアンスはない。むしろ,邸宅の古さの持つ香気のようなものを指しているのであろうが,作品の中の 'the loveIy accomplished past' は批判的とはいえないとしても,しかし,その次の文章は,'And then, what a snare and a delusion, this beauty of static things- what a horrible, dead prison Breadaldy really was' となる。ここで邸宅の像は歪みはじめる。Birkin は Breadalby に対する感情を明白に表出しているが,主人公にとってこの邸宅は今や脱走しなければならぬ牢獄となったのである。Breadalby は Hermione の世界であるのだからそれも当然のことである。作品の中では Garsington Manor も単に美しい古い邸宅としてとどまっているわけにはいかない。邸宅は小説の主題にそうように変形されるのである。
Ottoline Morrell が Women in Love の Hermione Roddice のモデルになっていることはよく知られている。しかし,彼女の Memoirs とか Russell の回想など同時代人の記録を調べてみると,彼女は Hermione として描かれた人物とはかならずしも一致していないことがわかる。自由党の下院議員を夫に持ち,みずからも革新的思想の持主で,政治に関心を持ち,第一次大戦中は平和運動に尽力し,また,文学芸術の愛好家,庇護者として新進の画家,作家を援助している。この面は作品の中にはあまり描かれていない。そのかわり Ottoline の持っていた否定的な面が前面に強く出ている。したがって Hermione から Ottoline を類推することは危険である。全体として見れば,Ottoline は小説中の人物よりも幅があり魅力がある。もちろん風変りな服装をするとか,きざだとか,我が強いという,個人的な欠点はあったであろうが,それを補ってあまりある多くの美質もあった。事実,新進作家であった Lawrence は種々の便宜を与えられており,とくに The Rainbow が発売禁止の処分を受けた頃には,彼女から精神的,または物質的な援助をうけている。援助の額は大きくはなかったとしても有力な人物が味方として存在していたことは,彼にとって心強いことであったろう。一時的ではあったが,彼は自分の考える「新しい村」のまとめ役を彼女に頼んだほどであった。詩集 Amores を彼女に献呈したことには彼の敬意と感謝の気持が集約されて表わされている。とくに強調しなければならないことは,Ottoline によって,彼は英国の知的社会に導き入れられたことである。それまでの彼は,炭坑夫の息子としては教育,教養の機会は多かったが,なお地方的な視野以上のものを持ち得なかった。Ottolineによって Russe11 などを頂点とする知的社会の洗礼をうけることによって,本質的には変らず,また,反発はしたとしても,視野の広さ,想像力の幅を獲得したのであり,それ以後の作家活動に大きくプラスになった。しかし,このような役割を演じた Ottoline は作品には現われない。結局,彼女の性格,風貌の一部を拡大して見せたのが Hermione である。Hermione=Ottoline という等式を安易に信じることはできない。当然のことながら実在の人物と虚構の人物の相違を改めて考えなければならない。
注
1)Robert Gathorne-Hardy(Ed・): Ottoline, p.103.
2)Grover Smith(Ed.): Letters of Aldous Huxley, p.87.
3)Leonard Woolf(Ed.): A Writer's Diary, pp.289~290.
4)Bertrand Russeil: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1:1872-1914, p.203.
5)Bertrand Russell: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2: 1914-1944, p.18.
6)Ibid., p.225
7)Robert Gathome-Hardy(Ed.): Ottoline,p.183.
8)二人の関係については "D. H. Lawrence and Bertrand Russell"(A. D. H. Lawrence Miscelany 所収)参照。
9)Grover Smith(Ed.): Letters of Aldous Huxley, p.86.
10)Harry T. Moore: The Collected Letters of D. H. Lawrence, p.402.
11)Robert Gathorne-Hardy(Ed.): Ottoline ,p.125.
12)Leon Edel: Henry James: the Mastere,1901-1916,p.288.
13)Leonard Woolf(Ed.): A Writer's Diary,p.55.
14)Samuel Hynes: The Edwardian Turn of Mind, p.335.
15)Robert Gathome-Hardy(Ed.): Ottoline.271.
16)Emile Delavenay: D. H. Lawrence: the man and his work, p.252.
17)George J. Zytaruk (Ed.): The Quest for Rananim,,p. 109.
18)D. H. Lawrence: Women in Love, p, 500.
19)Catherine Carswell: The Savage Pilgrimage, p. 40.
20)D. H. Lawrence: Women in Love, p. 18.
21)Ibid., p. 17.
22)H. T. Moore: The Collected Letters of D. H. Lawrence, p. 326.
23)Bertrand Russe]1: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1: 1872-1914. p. 205
24)D.H. Lawrence: Women in Love, p. 333.
25)lbid., p. 46.
26)Rebert Lucas: Frieda Lawrence, p. 123.
27)D. H. Lawrence: Women in Love, p. 16.
28)lbid., p. 17.
29)H. T. Moore: The Collected Letters of D. H. Lawrence, p.391.
30)D. H. Lawrence: Women in Love, p. 109.
31)H. T. Moore: The Collected Letters of D. H. Lawrece, pp. 837-838.
引用文献
1)Robert Gathorne-Hardy (Ed.): Ottoline: the early memoirs of Lady Ottoline Morrell. Faber and Faber, 1963.
2)Grover Smith (Ed.): Letters of Aldous Huxley. Chatto & Windus, 1969.
3)Leonard Woolf (Ed.): A Writer's Diary. The Hogarth Press, 1954.
4)Bertrand Russell: The Autobiography of Bertrand Russell, Vol I-III. George Allen and Unwin, 1967-69.
5)Harry T. Moore (Ed.): D. H. Lawrence Miscellany. Heinemann, 1961.
6)Harry T. Moore: The Collected Letters of D. H. Lawrence, Vol. I-II. Heinemann, 1962.
7)Leon Edel: Henry James: the master, 1901-16. Hart-Davis, 1972.
8)Samuel Hynes: The Ediwardian Turn of Mind. Princeton U. P., 1968.
9)Emile Delavenay: D. H. Lawrence: the man and his work. Heinemann, 1972.
10)George J. Zytaruk (Ed.): The Quest for Rananim: D. H. Lawrence's letters to S. S. Koteliansky, 1914 to 1930. McGill-Queen's U. P., 1970.
11) D. H. Lawrence. Women in Love (Modern Library Edition) Randam House, 1920.
12)Catherine Carswell: The Savage Pilgrimage. Martin Secker, 1932.
13)Robert Lucas (Translated from the German by Geoffrey Skelton): Frieda Lawrence: The Story of Frieda von Richthofen and D. H. Lawrence. Secker & Warburg, 1973.