柴田多賀治「D. H. ロレンスとバートランド・ラッセル」
それから1年余り、詩人と哲学者の間には奇妙な、時には敵意を交えた交友が続くのである。この間、ロレンスがラッセルに送った書簡23通。1948年にH.T.ムアがこれらを編んで、D. H. Lawrence's Letters to B. Russell として出版した。ラッセルの手紙が消夫しているので、往復書簡の体裁にはならなかったが、そのかわり、当時両者が計画していた共同講演のラッセル草稿が含まれていて、それはロレンスの訂正加筆やら、激情的な No! No! No! の文字などがみえ、手紙の内容と読み比べてまことに面白い。
この書簡集は勿論、ロレンスの思想、感情、生活を示してはいるが、単なる断片的書簡の収集ではない。これ等の手紙を順に読むと、それは一つの劇を見る思いがする。それは開始され、展開され、クライマックスに達し、やがて終結するストーリーを持っている。1915年のロレンスといえば、未だ年歯30にみたず、例の赤ひげものびたばかり、「息子達と恋人達」(Sons and Lovers, 1913)及び幾篇かの美しい詩によって、文名漸く確立していたとはいえ、当時すでに名著『数学原理(プリンキピア・マテマティカ)』その他、数々の重要な著作を持ち、ケンブリッジ大学教授の職にあったラッセルとは、未だその業績において比すべくもなかったであろう。それにこの書簡集の編纂者も言っているように、ロレンスは常にラッセルの前に出ると、どんな気楽な時でも、「お邸の坊ちゃんに対する坑夫の倅(せがれ)」的態度をどうしても拭い切れなかった。公平に言って、年齢からしても、社会的地位からしても、ロレンスはラッセルに一目も二目も置かざるを得ない立場にあった。
しかし、ロレンスほどの天才が、弱気ばかりでラッセルに応侍したのでないことは勿論であって、一方にラッセルを対等の友人として眺めるだけの自負心は充分持っていたのである。対等どころではない。書簡集の表面から見るならば、指導し、命令したのはむしろロレンスの方であった。尤もそれによってラッセルが動かされることはなかったけれども。
この神秘詩人と合理哲学者の精神構造は殆ど対遮的(対「蹠」的「たいしょてき」の誤植?)といってもいいくらい似ていなくて、その友情は恐らく相互の誤解に発したのであったが、この誤解の友情を生んだ大きな原因の一つは戦争にあったろう。世界大戦は、彼らの交友の始まる1914年の夏に勃発していた。彼らは共に戦争を呪い、戦争を生ぜしむる社会を否定し、その改革を意図していたのである。
戦争は、ロレンスを悪魔の如く圧迫した。その体験を彼は「カンガルー」(Kangaroo, 1923)の中に次のように書いていている。
「恐るべき、恐るべき戦争。戦争をかくも恐ろしくするのは、すべての国々で、すべての人々が頭脳を失い、核心を失うためだ。生活を真実のものたらしめる独自の男性的個性を失うからだ。」(Kangaroo, Secker版 p.239)同じ章の徴兵検査の描写は、彼が受けた同様の経験の屈辱感を歯ぎしりかんで描いたものだ。彼は戦争とそれに伴う生活の苦脳から逃れたくて堪らなかった。そうでなければ気が狂う。いやもう狂ってしまっているかも知れぬと彼は思った。実際、戦時中の彼の行状はしばしば狂気ぢみていたと、リチャード・オールディントンも書いている。(Portrait of a Genius, but…p.165)
どこへでもいい、ロレンスは逃れたかった。当時モレル夫人に次のように書いた。
「私は行ってしまいたい。チベットヘ- カムチャッカヘ- タヒチヘ- 世界の果へ、果へ、果へ。私は時々気が狂うのではないかと思う。」(The Letters of D. H. Lawrence, edited by Aldous Huxley. Heinemann, p,226. 以後、この書簡集を Huxley と略す。)また同夫人宛、次のような手紙もある。
「間もなくイギリス人である私たちは、憎悪の余り気が狂うでしょう。私もまたドイツ人をひどく憎む。彼奴等を皆投しにしてやりたい。(Huxley, p.229)
一方ラッセルは、彼のエッセイ集(Justice in War Time. 1st ed., 1916)がイギリスの戦争目的を非難し、外交政策を批判したかどで、一時ケンブリッジを追われ、その書庫は閉鎖を命ぜられ(「書斎」の誤訳?)、アメリカヘの旅券は下附されなかった。1918年には4ケ月半の獄中生活を余儀なくされている。戦争否定と社会改造の情熱。それは決して同じ主張、同じ方式のものではなかったのだが、少くとも両者共に戦争を否定し、社会改造を意図することにおいては一致したのである。
のみならず、この両者の計画は、共に理想主義的な夢という点で似かよっていた。合理主義者も夢をみる。合理主義者なるが故にみる夢がある。ラッセルの世界政府がそれである。戦争を永遠に避けるがために、各国が軍備を撤廃し、そのかわり新しく世界政府を組織して、それのみに軍隊を持たせるということ、各国より集められた兵士たちは、国民感情、利害関係の一切をすてて、その組織に忠誠を誓うなどというのは、学者の夢ではないか。だが断わるまでもなく、ロレンスの夢は世界政府などにはなかった。彼の夢は想像的ではあるが、もっと漠然たるものである。絶対の個我の確立と、宇宙的生命観による他我との合一。その上に立つ原始共産主義的ユートピアとでも言おうか。両者の夢はその実質において全く相異なるものであったが、両者とも己れの夢を語るに忙しく、夢の喰い違いが明らかになったとき、彼らの友情は終っていた。この23通の手紙は、食い違った夢と夢の衝突の場所とも言えよう。
両者の当時の精神内部を一そうよく伝えるために、ここに両者の直接の文章を一つずつ記しておきたい。
はじめの文章は、例のモレル夫人宛ロレンスの手紙。それはハクスレー編さん書簡集では、ラッセルの名がみえる最初のものだが、日付は月曜とあるのみで詳しいことは分らない。サセックスのグリーサムから出したもので、交友当初のものであることはまちがいない。ロレンスがゴッホに託して、自己の心境を語っている。
「私はヴァン・ゴッホを読んでいました。…大変悲しかった。彼は気の毒にも、罠から抜け出すことができなかった。それで気が狂ったのです。彼が何を欲していたかは明らかです。彼は一つの観念の充足のために、すべての人々の一致した力が欲しかったのです-ヂォット(Giotte, 1266-1337)やチマブエ(Cimabue, 1240?-1302?)の時代のように。然しこの世界には未だ混沌があるばかりです。それで彼は骨を折って、混乱した知識の集積に、いま一項加えたにすぎません。しかしそれは生きるということではなかった。それは、堕落の過程に屈服することに他ならなかったのです。それが彼を狂気に追いやったのです。(Huxley, p.231)罠はそっくりそのまま、ロレンスの罠である。一言一句、当時のロレンスの苦悩を指さす如く説明している。ラッセルとの共同講演の目的も、同志を糾合して、新しき土地への移住の企ても、実は、すべて、この絶望からの逃走の一方便であった。しかしそのよう方便で、彼の絶望が救われる筈はなかった。彼には作家として、自己の絶望を描き切るより他の道が許されていなかったことは、その生涯に見る如くである。
ラッセルの言葉を記そう。
「ホワイトトヘッド博士とわたくしが力を合せて『数学原理』(プリンキピア・マテマティカ)」を完成したのち、ほぼ3年間というもの、わたくしは何をしようか、はっきりとした決心がつかなかった。ケンブリッジの教壇に立ってはいたが、いつまでもこの教壇生活をつづけようとはおもわなかった。単なる惰性であったのだろう。・・・ラッセルの幅広い教養やイギリス貴族の持つ政治的責任感や、若き者たちへの父性愛的愛情が、彼をゆさぶって、社会改造へ駆り立てていた。丁度そのときに、ラッセルは若き詩人・小説家 D. H. ロレンス(-彼もまた社会改造を熱望していた!-)に出会ったのである。
そこに戦争が起った。わたくしは、少しのうたがいの影もなく、わたくしのなすべき仕事を見出した。戦争中の平和主義の仕事にたずさわっていたときほど、わたくしは全身を打ちこんだこともなかったし、この仕事ほど、何の躊躇もなく、とびこんで行けたこともなかった。生れてはじめて、わたくしの全存在を打ちこんでなすべき仕事を見いだしたのである。以前の抽象的な仕事では、わたくしの人間的な興味は、みたされないでいた。そして、時たま、そのはけ口を、政治に関する演説や論文、とくに自由貿易と婦人参政権に関するそれらの活動に見出したのであった。わたくしの子供時代には、18世紀及び19世紀初期の貴族的な政治的伝統が吹き込まれたのであるが、そのためであろうか、わたくしは本能的に、公共の利害、国政に対して責任を感じた。そしてこの両親からうけついだつよい本能は、その当時わたくし個人の問題としては、まだみたされてはいなかった。ヨーロッパの青年たちがあざむかれて、かれらより年上のジェネレイションの悪の情熱を満足させるために、生命を失わねばならぬのをみて、わたくしは大きないきどおりを感じたのである。」(「私は信ずる」喜多村浩訳。 社会思想社・現代教養文庫、p125)
2
「フォースター(E.M.Forster, 1879-1970)が来て3日になります。」という言葉で第1の手紙(1915.2.12付)は始まる。甚だ長文の手紙で7頁に及んでいる。恐らくロレンスの書いた最も長い手紙の一つであろう。胸一杯のことを語ろうとしているので性急な口調である。一番力説しているのは、金銭の世界の否定、賃金奴隷に精神の自由はないということである。「靴が痛くて歩けないのに、人間の魂は自由であると言っても無駄だ」とロレンスは書いている。しかし、実を言えば、靴の痛さなどロレンスには問題ではなかった。おそらく当時、生活が困窮していたので、靴の痛さが身に泌みていたのだろうが、ロレンスのマネー・ワールド否定はもう少し深いところに根があった筈である。それが証拠に、靴の痛さはロレンス文学とは殆ど縁がないのである。ロレンスがマネー・ワールドを否定するのは、それが近代の虚無の生みの親であるからであった。「巨大な全社会機構の中の、ただ一つの煉瓦にしかすぎない」 スクレベンスキーの重苦しい虚無感を、彼は「虹」の中に描いている。もっと甚だしいのはチャタレー夫人の夫クリフォードで、彼もまた近代資本主義の生んだ虚無のとりこである。みんな所謂「虚ろなる人々」である。マンモン(松下注;mammon: マンモンとは、シリア語で「富」を指す。 天界では下位の天使だったが、堕天してから頭角を顕し、この世の王と呼ばれるようになった)の世界とそれにつながる虚無の世界の否定ということは、ロレンスは T.S.エリオットに実によく似ている。そうして両者共にその虚無の克服を宗教に求めた。エリオットはカトリシズムに、ロレンスは彼の血の宗教に。
その他、彼が第1の手紙に述べていることは、後に「無意識幻想曲」や「心理分析と無意識」の中で彼が展開する性の哲学の萌芽のいろいろである。たとえば、人間究極の目的について。シニシズムについて。自涜について。男色についてなど。その一々に深入りすることは止めるが、いずれについても言えることは、ロレンスの本質的難解さに突き当たることだ。そうして本質的難解さばかり珍重するのではないが、それは僕たちに衝撃を与え、全く新しい視野を与えてくれるのである。たとえば次のようなことを、ラッセルに書いている。
「女を抱く男は、未知なるものに直面しているのです。そして男はその挑戦に応じられなくて逃げ出さねばならぬより、むしろ女に係わらぬことをえらぶのです。あるいは、もしその男が魂の卑しい男であるならば、自涜の手段として女を利用するのである。」これは「虹」の一つのテーマになる考え方だが、この文章の難解さは、「荒地」や「ユリシリーズ」のそれとは全然別個のものである。ここには語学的難解もなければ、象徴の影もない。然し、これを理解するためには、ロレンスその人をさしおいて、いかなる尺度も間に合わない。ロレンスの謎は、あり合わせの鍵をいくら持ち出しても、解けぬのである。ロレンスの思想を軽蔑することは容易かも知れぬ。然し困難なのは、ロレンスの見たものを見ることである。
第1の手紙に対して、ラッセルが返事を書いた。その手紙は現存せぬが、懇切、鄭重、良心的理解を示したものだったろう。第2の手紙(1915.2.2付)は、そのラッセルの書簡に対するひどく恐縮した態度ではじまっている。「私は些か生意気だったように思う。」「抽象は私の仕事ではありません。」「私が馬鹿げていたり、強情すぎたら、仰ってください。」などと言っている。しかし、やはりロレンスは次のように付け加えることを忘れぬのである。
「私は、この口で、誰にも理解されぬ下品なことを喋ったかのように、全く悲しくなります。しかし、人が石になり、塩の柱になろうとも、彼らに語らねばならぬのです。・・・。私の世界は現実なんです。真実の世界です。それは私としては、明白な世界なのです。」語るに語れぬ孤独の世界であるが、それにしても、すべての人が石になろうとも語らねばならぬという確心はどこから来るのか。ロレンス研究家はいろいろに言うであろう。ホイットマン、ブレイク、ニーチェ等、先人の影響だとか、肺病やみの脆弱な肉体が却って、念願充足の意欲を燃え立たせたとか、20世紀ヨーロッパのキリスト教的、資本主義的風土がロレンスを生んだとか、そういうことは何れも事実であろう。しかし、そのような分析がどこまでロレンスの秘儀に参じうるであろうか。分析を放棄しては研究も批評もないが、ロレンスの場合は特にその感が強いのである。ただ確かに言いうることは、ロレンスがそのような確心に憑かれていたということで、ある時はその確心に追いかけられ、ある時はその確心に縋りながら、彼は自己の敷設した軌道を遮二無二走り続けたのである。
第2の手紙にすぐ追いかけるように、第3の手紙(1915.3.2付)は書かれた。ラッセルの招きに応じてケンブリッジへ行く予定を知らせたのである。はじめてそういうハイブラウな雰囲気の中へ入って行こうとしているロレンスのおづおづした気分があらわれている。イヴニングが入用かと尋ねたり、一どきにあまり沢山の人々に会わせないで欲しい、私はへどもどしてしまうから、などと頼んでいる。しかし彼の期侍は余り大きすぎた。それに一人角力の感も免れなかった。ケンブリッジの空気が彼の性に合う筈もなかったが、緊張しすぎたロレンスの気持では充分に打解けることもできなかったであろう。戻ってきたとき、いろいろ質問するフリーダにロレンスはこう答えたと、オールディントンは書いている。
「夜になると連中は葡萄酒を飲んで部屋を歩きまわりながら、バルカンの情勢だとか、何んだとか話すんだよ。ところが奴ら全然知ってやしないんだ。」(Portrait of a Genius, but…p.165)第4の手紙の日付は、月曜日とあるのみだが、ムアの推定によると1915.3.15となっている。傘をありがとうとあるところをみると、ケンブリッジの帰りに傘を借りてきたものらしい。自己の思索のミスティックな体験を述べているが、ロレンスとしては珍らしくもないので省略する。合理主義者ラッセルには、おそらく返事の仕様もない「未だ実在とならぬ地下の闇き宇宙」を語った後で、「私に誠実を誓って下さい。」と要求している。ロレンスは(自分が)絶対的個人主義者でありながら、平気で他(人)に奉仕的誠実を期待するという矛盾があった。多くの知識人がどうにもつき合いかねた理由の一半は、そんなところにもあっただろう。彼は、ラッセルにも、マリにも血兄弟(Blutbruderschaft)たることを依頼したり、命令したりしている。
「ケンブリッジが私を陰鬱にさせ、落胆させたことは本当です。私は、その腐臭に耐えられない。澱んだ沼だ。私は憂鬱な瘴気にふれた。あんな病人連中がどうして立ち上がれよう。彼らこそ真っ先に死ぬべきです。」これは第5の手紙(1915.3.19推定)の冒頭だが、第3の手紙のおどおどした、期待に胸ふくらませたロレンスと比べて、大変な相違である。ロレンスの感情の波の移り変わりのはげしさを示している。しかし、ラッセルには別の親しさを感じたものか、ケンブリッジの悪口をさかんにのべた後で、ラッセルには、是非とも自分の家を訪れてほしい、一緒に楽しい時間を過ごしましょうと誘っている。おそらく、ラッセルの穏和な理解力のある態度が彼をそのように感じさせたのであろう。しかしやがて、そのラッセルも次のように、他のケンブリッジの連中の仲間入りをさせられる運命にあった。
「あの古くさい、高級な集まり、ケンブリッジ、ローズ・ディキンソン、バーティ・ラッセル(松下注:ラッセルの愛称は、bertie)、若き改革者たち、社会主義者、フェビアンの連中-を頼りにしても、何の役にも立ちません。彼らは時代の病弊です。希望ではありません。」(シンシア・アスキス夫人宛書簡、1916.12.11付、Huxley, p.386)第6の手紙(1915.4.29推定)では、フリーダの離婚訴訟の費用が払えぬことを、憤懣やるかたなしという調子で語っている。私生活の面をラッセルに語ったのは、これがはじめてである。
第7の手紙(1915.5.29付)では、ケンブリッジをやめたい、あるいはやめねばならぬ、というようなことを、ラッセルがロレンスに言ってやったものらしい。その返事。ロレンスは、ラッセルに大いに親近感を感じたことだろう。だいたい、ケンブリッジは、ロレンスの虫の好かぬところであった。瘴気を発する澱める沼であった。「ケンブリッジを去りたまえ。結構なことです。」 彼は、ラッセルを我が同志と思った。ロレンスは来るべき彼らの政治的革命について、予言者的口調でラッセルに説いた後、次のようにつけ加えるのである。
「我々は堅く結ばれているのです。実際、貴方と私とは。我々は同じ信念を持っています。我々は結びあって、同じ戦いを闘わねばなりません。しばらく待ち給え、」ロレンスの独断と予言者的口調に、ラッセルは困惑を感じたことであろう。
第8の手紙(1915.6.2付)は、ロレンスの大衆嫌悪の感情を示し、第9の手紙(1915,6.8)では、ロレンスが彼の「哲学」の四分の一ばかりを送ったらしく、表現上の助力を依頼しているが、委細省略。
第10の手紙(1915.7.6)あたりから、少しずつ意見の食い違いが出てくる。主としてデモクラシーをめぐる論争である。このデモクラシー論議は、第11(1915.7.15付)、第12の手紙(1915.7.26)と続く。
「あなたはデモクラシーを捨てなければいけません。『民衆』なんか、信じてはいけません。ある階級が他の階級より良いなんてことはない。叡知、即ち真理が問題なんです。労働階級は労働階級たらしむべきです。それが真理です。叡智ある人々の貴族政治でなければいけません。そうして支配者、即ちカイザーが要るのです。大統領やデモクラシーじゃない。」デモクラシーは、ロレンスには虚偽の思想とみえた。民衆への愛とは何か。人はよく隣人を愛しうるか。そもそも愛とは何か。個人の問題としても、社会の問題としても。自由とか平等とか、友愛とか、そういうふやけた思想で、革命など思いもよらぬ。ロレンスはそう思った。デモクラシーは敵であった。ロレンスの理想とするのは、叡知の体現者たる君主を頂点とする「選ばれたる貴族政治」であったが、しかしこのロレンスの「選ばれたる貴族政治」なるものは、当然予想せられる如く、暴君の危倹をはらむものである。そのことをラッセルはロレンスに言ってやったものらしい。それに答えてロレンスは、
「現代の死のヒドラ(松下注: Hydra とは、ギリシア神話で、ヘラクレスに退治された9つの頭を持つ蛇のこと。)は、平等というヒドラです。自由、平等、友愛は、3つの牙の蛇だ。善きもの、より善きもの、最善のもに基いた政府でなければいけません。このことをあなたの講演にすぐ織込みなさい。あなたは旧式すぎる。貴方の蛇の背はすでに裂かれているのです。」
「私はタイラントを欲するのではありません。民主主義的統制を信じないのです。・・・愚かな大統領の、愚かな共和国では駄目なんです。たとえばジューリアス・シーザーの如き、選ばれる王でなければいけません」と言っている。しかし、僕たちはシーザーといえどもブルータスの刃を避けることができなかったことを知っている。善悪の問題は別として、シーザーはブルータスを生む宿命にあるであろう。
さすがのロレンスもこの頃になっては、自分とラッセルとの意見の相違に気づかざるをえなかった。この手紙の追伸に彼は付け加えてこう言っている。「何事かを為そうとするならば、我々は志を同じくしなければいけません。」
第13の手紙(1915.8.5)は、住所変更通知。ロレンス夫妻、バイロン・ヴィラに移る。
第14の手紙(1915.9.5)と前の手紙との間には1ヵ月の期間がある。筆まめなロレンスとしては、珍らしい。両者の間がうまくなかったことを示している。事実この第14の手紙を出した4日後の9月9日、ローレンスは、モレル夫人宛に「ラッセルとはしばらく別れています。」(Huxley, p.252)と書いている。この手紙でロレンスは、「署名」(The Signature)という小冊子を、マリ夫妻と共同で出すことを言ってやった。この冊子は、3号でつぶれた。オールディントンは、この頃ロレンスは、ラッセルとうまく行ってなかったので、反動的にマリと結びついたと言っているが、そんなこともあったかも知れぬ。
この「署名」にロレンスが書いたのは、後に「豪猪の死に関する感想」に収められた「王冠」の一部であった。これは彼がラッセルやモレル、その他の友人にしばしば語っている、彼の所謂「哲学」(これは完成されなかった)ではないらしいが、同工異曲の内容と推察されるのである。後にこれは「無意識幻想曲」「心理分析と無意識」に大成され、「極(Polarity)の哲学」となる。当時のロレンスのミスティシズムを知るには、この「王冠」は恰好の資料であろう。このエッセイは、ロレンス独特の二元論を象徴的に展開したものである。論理よりむしろ象徴の文章なので、その理解の道は、直接の読者以外には閉ざされているのであるが、身も蓋もない言い方をしてしまえば、世界における絶対的対立物 -光と闇、始めと終り、破壊と創造、生と死、男と女、精神と肉体、太陽と月、歓喜と苦痛等々-の斗争が、字宙本来の姿であって、時間的人間は、この2つの波より成る。時間を超越し、絶対となるとき、二元性はすべて消失するけれども、時間的人間なる限りは、光と闇の相対立する波の斗争と抱擁のうちに縛られるのである。この対立者を妥協させようとする試み、即ちラィオンを子羊と共に寝かしつけようとする試みは、最大の罪であり、許すべからざる神の冒涜である。そこに虚無が生ずる。ラィオンとユニコーンの相争う上に王冠の戴っている図柄は、僕たちにも親しいものだが、王冠はこの両者の斗争の完全なる均衡の上にあり、いずれか一方の勝利の果実ではない。それは両者のレーゾンデートルそのものである。ロレンスが実際に、肉体の出生の現象についてどのように述べるか。一例を引こう。
「されば人間の肉体は、歓喜と苦痛の恍惚の中に得られ、かつ、生れる。それは大気中における対立し、合流するエレメント間に輝く焔である。それは2つの不可視なるものの闘いの場であり、婚姻の臥床である。人間の肉体は力の限り焔となって然え上り、成就し、完成し。絶対となる。それは神の啓示であり、2つの波の泡沫の破裂でもり、2つの永遠に橋架くる虹である。それは焔であり、死すべき運命の風の中を羽ばたき飛ぶ。」(Reflections on the Death of a Porcupine. Sccker, p.17)ここは人間の肉体出生について述べた個所なので、特に引用したのであるが、全篇はこれ以上に詩的象徴に充ちたものである。ロレンスは、殊更に、曖昧な物の言い方をしたという批評家があるが、この場合はそうではないと思う。ロレンスは彼の生きた思想の実体をそのままに伝えたかった。意表を衝く、素晴らしいイメージが次から次へと、彼の脳裡に浮ぶ。そのままを彼は語り、書きつけたのだ。その豊富さは、即ち、彼の天才そのものである。それは矛盾なく形成された哲学的思索ではないかも知れぬ。しかし、それは詩人の生きた思想、即ち、詩であった。
第15の手紙(1915.9.14)の最上端には、「文明の危険(危機)」について、とある。ラッセルがそのようなエッセイを送ったものらしい。それに対する批判であるが、これは激しい怒りの発作の中に書かれた。激しい言葉でラッセルを非難している。(松下注: Danger to civilization, by B. Russell. In: Open Court, v.30: Mar. 1916, p.170-180. Repr. in:(09)Justice in War Time, 1916.)
「私はまたあなたと喧嘩をするつもりです。」ではじまり、「もう一度、お互いに知らなかった昔に還ろう。その方がいい」と結んである。ロレンスはラッセルのどこが悪いというのではない。全面的拒否である。ラッセルの合理主義的文明論は、根本的に間違いである。ラッセルはそれを承知しながら自己を抑圧して、平和の天使面をする。虫ずが走るとロレンスは思ったらしい。ロレンスらしいといえばロレンスらしいが、思い切った感情的な言葉の羅列である。「掠奪と残虐をこととするドイツ兵の方が、善を口にするあなたよりましだ。」「あなたはすべての人間の敵です。あなたは敵意に充ちている。あなたを鼓舞するのは、虚偽に対する憎悪の念などではない。肉と血を備えた人間に対する憎悪の念です。血に対する精神の歪んだ欲情だ。何故それを認めないのです。」この後さすがに2ケ月ばかり、手紙が途絶えている。ところが面白いことには、この先ロレンスはむしろ反動的にラッセルに親愛感を増したものの如く、それは、第20の手紙にいたって頂点に達している。
友情の再開を示す第16の手紙(1915.11.17)は、絶縁状の釈明である。
「結局、私があなたと口論したのは、私の中のあるもの、私の中にあって、私が逃れたいと努力しているものと口論したのでした。」現実の姿としてのロレンスと、理想の姿としてのロレンスの相克は、「白鳩雀」(White Peacock)から「チャタレー夫人の恋人」に至る作品群の随所にあらわれるロレンスの主題の一つだが、そういう自己嫌悪のみで彼があれほどのはげしい絶縁状を書いたかどうかは疑問であろう。
第17の手紙(1915.12.6?)では、「我々は敵同士というわけではありません。態度の問題にすぎません。」と、まだ幾分自分の出した絶縁状を気にしているが、第18の手紙(1915.12.8)になるともう、ほがらかに、例の「血の意識」(Blood-Consciousness)に関する、彼の独創的見解を一席、ラッセルに聞かせている。その後、ラッセルがどんな返事をしたものか、第19の手紙(1915.12.22-23?)では、フロリダの新しき村へ、ラッセルも一緒に来て、彼らの首領になって欲しいなどと、甘えたことを言っている。
第20の手紙(1916.1.13)は、相思の者の取り交わす恋文めいてみえるほど、第15の手紙と対照的である。
「親愛なるバーティ。ここへ来てから一度もお便りしませんでした。(ロレンス夫妻は、このときノース・コンウォ一ルのセント・メリンに移っていた。)殆ど毎日あなたのことを思ってます。あなたは今何をしていらっしゃるでしょうか。どんなお気持ですか。講演の方、如何ですか。いつお始めになりますか。それについてどうお感じですか。是非お知らせ下さい。」更にこの手紙でみると、ロレンスはコ一ンウォールがとても気に入っているらしく、上機嫌で、陽気である。「コーンウォ一ルは、イギリスではない。キリスト教国でもない。私はまた急に、哲学に手をつけ出した。古い気持の良い農家と、善良な家政婦を手に入れた。是非御出でなさい。小さな入江が見える、浜辺のすぐ近く、波が黒い岩を洗っている。」まあざっとこのような調子が続くのである。あの激怒の絶縁状- Let us be strangers, again-を、ラッセルに送ったことなどすっかり念頭にないらしい。
ちょっと常識では考えられない無神経ぶりだが、そういうロレンスの交友関係について、オールディントンは次のように書いている。
「彼の敏捷な直観にもかかわらず、ロレンスは彼がどれほど他人の気を悪くしたか、或いは他人の彼に対する個人的判断が、育ちのよさのために、彼らが言うを憚っていたのであって、もっと厳しいものであったことに気がつかないことがしばしばであった。皆の人々に屈辱的な事柄を傲然と、或はぴしゃりと言う彼の習慣は、彼が実際住んでいた、より原始的な社会のもののようであった。そうして彼はそんな事柄を黙って見送っていた人々が、気が付き、判断を下し、許していなかったのだということを、ついに悟らなかった。そんなわけで、ロレンスは、ヘスルティンが自分を友人と考えることを止めてしまった後も、ずっと愛情に充ちて、彼のことを、書いていたのである。(Portrait of a Genius, but..._p.178)ヘスルティンというのは、丁度、コンウォール時代のロレンスの家に来ていた、新しき村の一員たるべき若い小説家で、一時はロレンスを深く尊敬していた男である。ロレンスにはこのように、或る視角に対しては全く盲目になる手前勝手の鈍感さがあった。おそらく、ラッセルとしても、この頃では、ロレンスの天才は認めながらも、理性の使徒を前にして、本能の闘い(う?)力ばかり強調する、弱気で、傲慢で、気粉れな、この年若い友人との交友にはうんざりしていたのであろう。手紙も稀にしか出さなくなっていた。
第21の手紙(1916.2.11)は、やはり、コンウォ一ルから出ているが、例年冬になると悪化する結核のため、健康状態が思わしくなかったらしい。
「私はここで非常に気分が悪かった-ほんとうに死ぬかと思いました-だが今は急速に快方に向っています。」と報じている。事実、ロレンスの詩友の息子であったメイトランド・ラドフォード博士が、2月にコンウオ一ルへ診察に出向いている。また「虹」の私家版を出したいと言っているが、このためには、前出のヘスルティンが骨を折って、理解のありそうなところへ600通の廻状を出したのであるが、僅かに30通の好意ある返事を得たのみであった。
第22の手紙(1916.2.19)及び最後の第23の手紙(1916.3.9)は、ロレンスの例の俗衆嫌悪の「憂鬱症」的気分の中に書かれたのか、彼の意気旺んな革命章慾は消夫してしまっていて、全く逃避的敗北感と、それを裏返しにした強がりとがみえる。「この頃では、人は世間からの追放者たるべきです。教師や牧師たるべきではありません」とか「仕事をしたり、書いたりすることを全然おやめなさい。機械的道具でなくて、生き物になるのです。社会という船からきれいさっぱり縁を切るのです。あなたの誇りのために無能者になるのです。手探りで動き、考えることなどせぬ竜土(土竜:モグラのまちがい?)におなりなさい」などと、人もあろうにラッセルに思考の放葉を命令している。
最後の手紙は、コーンウォールのゼナーから出されているが、そこにも「我々は洞窟の中の生き物のように、人に知られず幸福になることができると思う。」とか「人は幸福になることを、心を労せざることを学ばねばなりません。・・・。心配しても何の役も立ちません。思索によって、何も生まれるわけではない。」などと書いて、革命にはすっかり、手を挙げてしまった形である。ロレンスの気紛れとか、肉体的条件とかいうことも、もちろん考えられるのであるが、しかし詩人の象徴的哲学でもって、社会革命を行おうというのは、どの道、諦観的敗北の栄光に到るよりなかったであろう。「死の船」による「忘却の海」への逃亡は、既に最初から明らかであった。
季節は秋、落ちる果実
忘却への長き旅路
・・・・・
3
ラッセル宛ロレンスの現存の書簡は、以上23通で全部であるが、その後はロレンスの胸中からも、ラッセルは殆どその姿を消したようで、あの厖大なハックスレー編さんのロレンス書簡集にラッセルの名前が出てくるのは、共通の友人も多かったのに、ロレンスの死ぬ1930年までの15年間に、わずか3度しかない。第1は、先に引用したシンシア・アスキス夫人宛(1916・12.11)、第2は、R.P.夫人宛(1922.2?)、第3は、モレル夫人宛(1929.2.5)。この3通のみである。後日物語になるが、1921年5月になって、「恋する女達」が漸くイギリスで出版されたとき、この小説は、ロレンスの知人達に非常な衝撃を与えた。というのはこの小説は、ロレンスが戦時中に最も親しくしていた知人達を屈辱するような戯画化された肖像に充ちていたからである。当時あれほど親しくしていた人々を、一方ではこのように眺めていた(「恋する女達」は、1916年12月には完成されていた)ということが人々を驚かせたのである。」マリ、マンスフィールド、ヘスルティン、モレル夫妻等、皆被害者であり、ラッセルもその例外ではありえなかった。彼は、ハーマイオン(オットリン・モレル)の友人サー・ジョシュア・マシースンとして登場するが、彼は「博学だが、うま味のない50歳の準男爵で、しょっちゅう警句を連発しては、しゃがれた声で、馬のように笑う。(Women in Love. secker,p.85)とか「その精神組織たるや無感覚かと思われるばかり強靱で、・・・」(Women in Love. Secker, p.86)などと描写されている。こういう扱い方をされたのでは、いかに温厚で、保護者的愛情でロレンスに対していたにしても、ラッセルとしては面白くなかったにちがいない。
最後にムアの伝えている挿話を記してこの稿を終わりたい。
ある若い小説家が後年、ラッセルに会って、ロレンスをどう思うかと尋ねた。するとラッセルの大きな目からは静かに澄んだ色が消えて、その答える声には知的な潔僻さがこもっていた。
「ロレンスには精神がない。」 一週間後にこの年若い小説家は、こんどはロレンスに会った。彼はラッセルの精神の美しさを讃えた。するとロレンスは鼻でわらって
「君は入浴着のラッセルを見たことがあるかね。可哀そうな男さ。彼は、肉体を略奪された精神だよ。」(1956.8.13)