市井三郎(著)『ラッセル』
* 市井三郎(著)『ラッセル』(講談社,1980年2月刊 7,368,4p 18cm./人類の知的遺産 n.66 箱入り)* 市井三郎氏(1922-1989)略歴
福沢諭吉の思想との比較 (本書pp.65-67より抜粋)
さて政治論へ移る前に,ラッセルの倫理思想と日本の福沢諭吉のそれとを,若干,比較しておきたい。この両者はともに,いちおうの評語として,「啓蒙的合理主義者」と呼ばれることが多かった。しかしラッセルの場合に,その胸奥に,宗教的回心と呼んでいいほどの体験が持続していたのに対応して,福沢諭吉の場合にも,次のような仏教的達観が人間観の根底にあった。このように諭吉が,全宇宙的視角からすれば人間がちり・あくたの如く無力であわれな存在であるとみる点では,1901年(29歳)のラッセルとほぼ軌を一にする。もちろん諭吉の場合,絶対的超越者を認めない自由人の境位は,仏教の影響に発するのだが,右のような仏教の諦観に通ずる言辞を吐きつつ,まさにそこから一転して,人間の「独立自尊」を次のように説くのが注目に価いする。「宇宙の間に我地球の存在するは,大海に浮べる芥子(けし)の一粒と云うも中々おろかなり。吾々の名づけて人間と称する動物は,この芥子の上に生れ又死するものにして……由て(よって)来る所を知らず,去て(さって)往く所を知らず……塵の如く埃の如く溜水に浮沈するぼうふらの如し。……されば宇宙無辺の考を以て独り自から観ずれば,日月も小なり,地球も微なり。況(ま)して人間の如き無智無力,見る影もなき蛆虫(うじむし)同様の小動物にして,石火電光の瞬間,偶然この世に呼吸眠食し,喜怒哀楽の一夢中,忽ち(たちまち)消えて痕なきのみ(『福翁百話』選集第7巻,pp.24-25)。
ラッセルの言葉366
「人生は至極些細なものにして,蛆虫に等しと云うは,他人の沙汰に非ず,斯く云う我身も諸共に蛆虫にして,他の蛆虫と雑居し以て社会を成すことなれば,蛆虫なりとて決して自からいやしく軽んず可らず。苛も(いやしくも)人として此世に生まれ出でたる上は,即ち万物の霊にして地球上の至尊なり。蓋し此人を蛆虫として軽く視るは心の本体にして,其霊妙至尊を恐るは心の働(き)なり。能く能く此処を区別して,さて人間を霊妙至尊のものなりと決定する上は,其位に相応ずる丈けの働(き)なきを得ず」(前掲書p.41。下線は引用者による)。下線をふした「心の本体」というのは,人間をそのようにわい小な存在とみる事実認識を指し,「心の働(き)」というのは,その認識にもとづいて人間が主体的に自分や同胞をみる価値定立を指している。この内的立論の構造も,ラッセルの場合と似ているのだが,ラッセルは「孤独な魂へのいつくしみ」という価値定立を重視したために,「其位に相応ずるだけの働(き)なきを得ず」と福沢がいう行動形態の決意が,福沢とかなり違いを見せた(たとえば反戦活動など)といえるだろう。
とまれ両者は,超越的で人間をも創造した神,そして当の神の人間社会に対する意図,といったキリスト教的神観から離れて立論しているのである。ラッセルが回心にさいして「仏陀にみまがうような深い欲求」をいだいたというのは,その辺を指している。なぜラッセルがキリスト信仰を棄てたかは,さらにあと(本章の)で論じるが,人間の倫理性という問題をめぐって,ラッセルがイエス・キリストよりも仏陀により高い敬意をいだくにいたっていたことは,注目しておくべき事柄である。(参考:野阪滋男「一高校生の心をとらえたラッセルの言葉」)