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野阪滋男「一高校生の心をとらえたバートランド・ラッセルの言葉」

* 出典:『日本バートランド・ラッセル協会会報』第15号(1970年5月),p.8 掲載

I appeal, as a human being to human beings: remember your humanity, and forget the rest. If you can do so, the way lies open to a new Paradise; if you cannot, nothing lies before you but universal death. (From: Man's peril, Dec. 1954)
 ラッセルが死んだ。(1970年)2月3日、福沢諭吉の墓参を終えて帰宅したわたしは、この訃報をきいた。奇しくも、わたしの尊敬するこの二人の人物が同じ日(正確にはラッセルの死は、英国時間では2月2日)にこの世を去った。そもそも、この二人は、わたしの心のなかで意味的な関連をもっている。福沢の一生(1835年1月10日~1901年2月3日)はイギリスの女皇ヴィクトリアの治世とほぼ一致する。ヴィクトリアの即位は福沢の出生に後れること2年、その崩御は福沢の死に先だつこと10日余りである。ラッセルもまたその青年時代をヴィクトリア治世下にすごした。福沢もラッセルも正しく「逝ける時代の最後の生存者」であり、その活動面では、旧時代の圧制、狂信や独断に対しては容赦なく理由ある抵抗を不断に試みた人でもあった。また、数多の著作を通して、並並ならぬ人間愛を示し、警鐘をならし、しかも自分自身の行動により、その理論を実践(証)した多角的な思想家であり、ある意味では、時代が生んだ英雄であった。

 顧みておもえば、ラッセルという名に接したのは、高校二年次に、'The Conquest of Happiness' を購読した時であったが、爾来、この哲学者の到達した境地に日々憧れながら、自らの生くべき道を探求しようと心に決めたのだ。ラッセルは言う。「典型的は不幸な人とは、その青少年時代に、ある種の正常な満足を奪われていたために、他のものはさておいて、この一種類の満足を非常に高く評価し、そのため彼の人生に唯一方的な方向だけを与え、この一種類の満足に関連のある行動にいやしくも反するような事柄の成就については全く不当な評価をしか与えなかったところの人間である*1」と。ラッセルの所謂「幸福なる人」とは、「客観的に生きる人」であり、「自由な愛情と広やかな興味をもてる人」である。そのためには、青少年時代に、非個人的な興味をもつことによって、自分たちの外にある目的に向って生きていくように、性格・知性を鍛練すべきだと教えてくれた。ついで、わたしをとらえたのは、"Roads to Freedom, 1918" における国家と法律に関するラッセルの見解である。政治組織の究極の目的は、「個人の自由な成長」にこそあるとし、「われわれの奉仕すべきは国家ではなくて社会、現在および未来の全人類の世界的な社会である。そして善き社会は国家の栄光から生れることはなく、拘束せられない個人の発達から生れる」と主張し、「われわれの探求すべき世界は、創造的精神が活発に働き、人生は歓喜と希望とに充ちた冒険であって、……建設への衝動に基礎を置くところの世界である*2」と結論しているところに、個人の尊厳を重視するラッセルの面目躍如たるものを感じたのである。
 わたしはラッセルが好きである。しかしかれを偶像崇拝の対象としたり、有名人扱いにすることはきらいである。ただかれの生涯から価値あるものを学びとりたいと願うだけである。ともかく、ラッセルは死んだ。自分の死を悟った時、きっとつぎの言葉を口遊みながら息を引き取ったことであろう。
「わたしが死ぬとき、わたしは朽ち果て、わたしの自我はあとかたもなく残存しないとわたしは信じている。わたしは若くないし、わたしは生命を愛する。しかしわたしは寂滅の思想におそれおののくことは軽蔑すべきだと思う。幸福は、それが終らねばならぬからといっても、やはり真の幸福である。また思想と愛とはそれが永遠につづかないからといってその価値を失うものでもない」と。
(1)堀秀彦訳「幸福論」(角川文庫)、22p.
(2)栗原孟男訳「自由への道」(角川文庫)、127 & 186p.
(3)大竹勝訳「宗教は必要か」(荒地出版社)71p.

      (会友・慶大大学院(博),1970.04.20 稿)