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電子掲示板の過去ログ(2003年)

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Re ラッセルの謎 投稿者:松下彰良  投稿日:12月16日(火)21時29分56秒

 おたずねの問題は、三浦俊彦氏が『論理パラドクス』(二見書房)pp.34-36で、「ベリー のパラドクス」として、詳述されています。書店でごらんになってください。
 突っ込んだ質問は、三浦俊彦氏のホームページ用電子掲示板
 https://8044.teacup.com/miurat/bbs
 でしてみてください。

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ラッセルの謎 投稿者:数学勉強中  投稿日:12月16日(火)17時09分21秒

大学の数学の授業で、ラッセルが1908年に発表した謎が、問題として課されました。
問題:The least integer not nameable in fewer than ninteen syllables.
この趣旨を生かして、日本語による同様の謎を作るとしたら、例えば以下のようになるだろう:
にほんご の ぶんしょう で かな と すうじ を つかって 60 じ いない では あらわし え ない ような しぜんすう の うち いちばん ちいさい もの。

これらの文について(どこが謎なのかも含めて)考えよ。
この問題がどうしてもわかりません。研究者の方、教えてください。

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Re 読書会のテキストについて 投稿者:松下彰良  投稿日:11月23日(日)23時42分59秒

三輪様

 読書会出席、ありがとうございました。

>「ラッセルを読む会(読書会)」のテキスト(ラッセル著)の内容に関する話題も、この掲示板でよろしいのでしょうか?

 ラッセル関係のことであれば何でもこの掲示板に書かれてけっこうです。

> また、副読本(三浦俊彦著)も、ここでしょうか?
> それとも、やはり、
>「三浦俊彦のページ電子掲示板」 https://8044.teacup.com/miurat/bbs
>へ行くべきでしょうか?

 三浦さんの著書に関すること及び、論理学関係は、三浦さんのホームページの掲示板に書いてください。論理学関係は私からはあまり答えられないと思いますので。  松下彰良

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読書会テキストについて 投稿者:三輪忠義  投稿日:11月23日(日)10時16分38秒

 「ラッセルを読む会(読書会)」のテキスト(ラッセル著)の内容に関する話題も、この掲示板でよろしいのでしょうか?

 また、副読本(三浦俊彦著)も、ここでしょうか?
 それとも、やはり、
「三浦俊彦のページ電子掲示板」 https://8044.teacup.com/miurat/bbs
へ行くべきでしょうか?

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(無題) 投稿者:ミック  投稿日:11月 6日(木)23時26分47秒

松下様

ご回答ありがとうございました。やはりラッセルの著作は完全にパブリック・ドメイン扱いのものは少ないようですね。

プロジェクト・グーテンベルクは、私もブックマークに入れてよく覗いております。グーテンベルクに含まれているということは、『心の分析』や『哲学の諸問題』は、パブリック・ドメインに属している可能性もあるかもしれませんね。もう少し調べてみます。

 このようなことをお聞きしたのも、自分のHPでラッセルの Principles of Mathematics や On denoting を訳して自由に閲覧・配布できないものか、と考えていたからです。
 もし法的に問題なく実現しそうになったら、またご一報いたします。

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追伸(ラッセルの著作の著作権) 投稿者:松下彰良  投稿日:11月 6日(木)19時33分29秒

(追伸)
 ミック様

 米国議会図書館(Library of Congress)のグーテンベルク・プロジェクトでは、評価の定まった、約20万冊図書を電子化してインターネットで公開することになっており、ラッセルの著書も現在のところ4冊(The Problems of Philsophy; Political Ideals; Roads to Freedom; The Analysis of Mind)が電子化されており、次のページから、閲覧・入手可能となっています。
  https://www.ibiblio.org/gutenberg/authors/russell__bertrand_arthur_.html

 グーテンベルグ・プロジェクトについては、LCのサイトに次のような説明がのっています。

 Project Gutenberg is the Internet's oldest producer of FREE electronic books (eBooks or eTexts).

 What books will I find in Project Gutenberg?
 Project Gutenberg is the brainchild of Michael Hart, who in 1971 decided
 that it would be a really good idea if lots of famous and important texts
 were freely available to everyone in the world. Since then, he has been
 joined by hundreds of volunteers who share his vision.
 Now, more than thirty years later, Project Gutenberg has the following
figures (as of November 8th 2002): 203 New eBooks released during October
2002, 1975 New eBooks produced in 2002 (they were 1240 in 2001) for a total
of 6267 Total Project Gutenberg eBooks. 119 eBooks have been posted so far
by Project Gutenberg of Australia.

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Re ラッセルの著作権について  投稿者:松下彰良  投稿日:11月 6日(木)08時25分10秒

ミック様

 ラッセルの著作の著作権は、複雑になっているとおもわれます。
 ラッセルが1968年に、ラッセル・アーカイブに売った書簡や類(や写真の一部)は、ラッセル・アーカイブにあるはずですし、ラッセルが生前、ラッセル平和財団に譲ったものは、ラッセル平和財団に、それからあるものは、Russell Estateに、といった具合に、いろいろです。
 それから、米国議会図書館では、著作権のなくなったものを中心に、20世紀の基本的文献を電子化して、世界に発信していますが、そのなかにはラッセルの、 Roads to Freedom, 1919 が入っています。
 それから、著作権(出版権)と電子化権とは関係はありますが、少し違う面もあると思います。
 とりあえず本日はここまで。

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ラッセルの著作権について 投稿者:ミック  投稿日:11月 5日(水)23時09分31秒

 皆様はじめまして。
 B.ラッセルの著作権について調べている者ですが、ご存知の方はいらっしゃるでしょうか?
 「ラッセル・アーカイブ」や貴サイトの「E-text」には多くのラッセルの著作が掲載されていますが、著作権の表示がなく、探しております。

 ラッセルはまだ死後日が浅いため普通に考えて著作権存続中のように思われるのですが、もしパブリック・ドメインに含まれるものがありましたら、お教えいただけるでしょうか。

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素敵! 投稿者:美藝  投稿日:11月 3日(月)13時00分41秒

松下様:
投票ありがとうございます。素敵なコメントまで!本当に感謝してます。
地道に協力を呼び掛けていこうと思います。
興味の有る方が回りにいらっしゃったら、どうぞこのことを広めていってください。

本当にありがとうございました。これからもよろしくおねがいします。

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Re 復刊に御協力ください! 投稿者:松下彰良  投稿日:11月 2日(日)19時54分57秒

美藝さま

 おしらせありがとうございます。
 早速以下のコメントをつけ、投票させていただきました。

 =======================================
 70年ほど前、ラッセルがアメリカに滞在していた時、ハースト系の新聞・雑誌等に寄稿
 したエッセイを集めたものですが、現代でも十分通用する内容です。ラッセル関係の本
 は最近余りでていませんが、この本は誰でも気楽に読めるエッセイ集ですので、復刊さ
 れればかなり売れるものと思います。個人的に何冊かもっていますが、古本屋で手に入
 れるよう、多くの人に紹介しています。また、第2巻(本邦未訳)も出ていますので、
 あわせて出版を希望します。
 =======================================
https://russell-j.com/KONGETSU.HTM

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復刊に御協力ください! 投稿者:美藝  投稿日:11月 2日(日)16時30分37秒

はじめまして、みきと申します。
この度、FUKKAN.comにて、ラッセルのエッセイ集「人生についての断章」の復刊を希望しました。
是非とも下記のURLにアクセスして御投票願います。何とぞ宜しくおねがいします。
https://www.fukkan.com/vote.php3?no=20510

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なるほど 投稿者:ゆーぼー  投稿日:10月21日(火)23時51分22秒

おおよそ、坪内逍遥と変わりないですね。

哲学者の悪夢は、一昨年あたり訳して、ラッセルは意外とむずかしいな。そう感じました。

I, because of my philosophical eminence, was early given audience with the Prince of Darkness.

当時、「サタンの臨席の下、聴講者を与えられた」と誤解していましたが、おかげで勉強になりました。

失礼します。

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木下順二訳「マクベス」 投稿者:松下彰良  投稿日:10月21日(火)19時48分28秒

ゆーぼー様

 岩波文庫の木下順二訳「マクベス」を入手しました。木下訳は以下のようになっており、ようやく理解できました。

 ====================================
 マクベス夫人
  さっきまであなたを包んでいたあの望みごとは、酒のせいだったのですか?あれから
 眠りこんでいま目を覚ましてみたら、あの時は平気で考えていたことに震えあがって
 蒼くなったとおっしゃるのですか?
  これからは、あなたの愛もそんなものだと考えることに致しましょう。思いの中で
 は結構勇敢だのにそれを実行に移すのは怖い。この世の華だと見た王冠をあれほど欲
 しがりながら、★自分はどうせ憶病者だときめこんで、「やってみせる」という口の
 下から「やめておこう」(と)、脚を濡らさず魚を取りたがる猫のように生きて行こ
 うとおっしゃる,のですね。//

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訳 投稿者:ゆーぼー  投稿日:10月21日(火)06時06分26秒

坪内逍遥では、

「ほしいほしい」というその同じ口で「だがおれにゃあできない」とおっしゃるんですか?

「できない」のI dare notは、I am afraidで「するのが怖い」。

「ほしい」のI wouldは、仮定法で「したいのに」。

こう考えましたけど。

失礼します。

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ゆーぼー様  投稿者:φ  投稿日:10月21日(火)01時54分15秒

 ナルホド、気づきませんでした。ありがとうございます。私も勉強になりました。

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Re(2): こんにちは 投稿者:松下彰良  投稿日:10月20日(月)19時43分17秒

ユーボー様(その2)

 googleで検索してみましたら、マクベス夫人の「名せりふ」として次のくだりを発見しました。訳がついてないのでよくわかりませんが、また調べてみます。

Was the hope drunk
Wherein you dress'd yourself? hath it slept since?
And wakes it now, to look so green and pale
At what it did so freely? From this time
Such I account thy love. Art thou afeard
To be the same in thine own act and valour
As thou art in desire? Wouldst thou have that
Which thou esteem'st the ornament of life,
And live a coward in thine own esteem,
Letting 'I dare not' wait upon 'I would ← ★

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Re こんにちは 投稿者:松下彰良  投稿日:10月20日(月)19時32分06秒

ゆーぼー様

 思いがけないご教授、ありがとうございます。
 シェークスピアからの引用は、イギリス人だったら多分すぐにわかるんでしょうね。
 こんなところにも限界を感じてしまいます。
 近いうちに、マクベスを調べてみます。
 深謝!

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こんにちは。 投稿者:ゆーぼー  投稿日:10月20日(月)02時06分21秒

lets I dare not wait upon I wouldは、マクベスです。

"I dare not" wait upon "I would"です。

哲学者の悪夢は、以前、自分でも訳したので、拝見して勉強になりました。

失礼します。

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Re^3 形而上学者の悪夢 投稿者:松下彰良  投稿日:10月16日(木)20時32分05秒

トマスさま

 ご教授、ありがとうございます。
 このようなわかりにくい、まわりくどい言い方をラッセルはしそうもないので、
初版本の時からのミスプリかもしれないと思ってしまいます。nativeに聞けば解
決するかもしれませんが・・・。
 どちらにしても、誤訳にはなっていないような気がしますが、とりあえず、これ
でよし、ということにしておきます。

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訂正 投稿者:トマス  投稿日:10月16日(木)00時51分27秒

(...)の範囲の訂正

「......”やろう”というふりをする(だけの)すべての臆病者」

「only」を補ったほうが分かりいいのであえてそうしました

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Re^2 形而上学者の悪夢 投稿者:トマス  投稿日:10月16日(木)00時33分41秒

松下さま

every timid man (that) I(→he) dare not wait who lets upon I(→he) wouldだとすると、直訳調ですが、「あえてそれ(=すべての臆病者)を望んでいるわけではないが、”やろう”というふりをする(だけ)のすべての臆病者」となるでしょうか。いわんとしていることは、松下さんの訳とあまり違わないのでは。

なお、「wait」には「期待して待つ」という意味があります。

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Re 形而上学者の悪夢 投稿者:松下彰良  投稿日:10月15日(水)23時53分09秒

トマス様

 投稿ありがとうございます。
 原文 every timid man who 'lets I dare not wait upon I would,'
の ' ' は もともと " " ですが、HTMLでは " " は特別な意味があるので、' ' に変えてあります。
  " " で囲んであり、会話文(直接話法)ですので、timid man = 'I' ということになる(間接話法であれば 'he')と思いますが、
every timid man (that) I(→he) dare not wait who lets upon I(→he) would
だとしても、正確にどういう意味なのかよくわかりません。
 想像では、「心のなかでは"やろう"と思う自分がいても、そのような自分を表にだせない全ての臆病者」だろうということで、とりあえず訳出しておいたのですが・・・?

https://russell-j.com/cool/NIGHT-M4.HTM

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形而上学者の悪夢 投稿者:トマス  投稿日:10月15日(水)23時22分01秒

いつも貴HPを楽しませていただいています。

ところで、本日の更新記事の青色でしるされた原文の箇所について、わたしは語学の専門家ではないので確信はありませんが、文法的には「二重限定」と考えてよいのではないでしょうか?つまり、下記と同義なものとみなしても差し支えないのでは?

every timid man (that) I dare not wait who lets upon I would

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家永氏は、気骨の人物だったそうですね 投稿者:キャリオカ  投稿日:10月 5日(日)12時26分03秒

残念ながら、その業績についてわたしはまったく無知なのですが・・・読んでみることにします。

ロレンス情報、ありがとうございます。ちゃんとこのHPのコンテンツを確認してから発すべき質問だったなあと赤面(笑)。

きのう、書き込みをした後、神保町に出かけました。天気がよく、体調も回復したので、なんだか良い一日になりそうな予感がしたんです。主に文庫本で収穫がありました。『西洋哲学史』はなにしろ分厚い本ですし、和訳と対照しつつ読んでいるためとても持ち歩くことはできないのですが、文庫本なら電車の中でも読めるのでうれしい。

三浦先生の本も入手しました。読むのが楽しみです。

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ラッセルとロレンス 投稿者:松下彰良  投稿日:10月 4日(土)15時07分42秒

キャリオカ様

 B.ラッセルとD.H.ロレンスとの関係について論じた文献はかなりあります。ラッセルとロレンスの間で交わされた書簡も英語で出版されています。それらについては、ラッセルのホームページ掲載のバートランド・ラッセル書誌(電子版、松下編)をごらんになってください。
(なお、ロレンスからラッセル宛の書簡はかなり残っていますが、ラッセルからロレンス宛の書簡は、ロレンスの気の短さからわかるように、気に入らないということから、ほとんど廃棄されています。)

 ラッセルのロレンスとの関係については、『ラッセル自叙伝』(理想社刊、絶版)に詳述されています。また、みすず書房版のバートランド・ラッセル著作集第1巻『自伝的回想-記憶からの肖像』(絶版: 原書は、Portraits from Memory and Other Essays,1956)のなかに1章を設けて、ロレンスについて述べています。

 このホームページにもラッセルとロレンスとの関係についてのエッセイや記事をかなりのせてあります。
 以下、いくつかあげておきます。  松下彰良

 ★D.H.ロレンスについて (『拝啓、B.ラッセル様-市民との往復書簡』)
  https://russell-j.com/beginner/DBR5-36.HTM

 ★柴田多賀治「D. H. ロレンスと B. ラッセル」
  『名古屋市立大学教養部紀要』n.2(1956年)pp.13-22.
  https://russell-j.com/cool/SIBATA.HTM

 ★[研究発表要旨]大竹勝「ラッセルと文学者たち」
  『ラッセル協会会報』n.14(1970年3月)pp.8-9.
  https://russell-j.com/OTAK2-01.HTM

 ★倉持三郎「D. H. ロレンスと Ottoline Morrell-Women in Love の背景-」
  『東京学芸大学紀要』第2部門人文科学第26集(1975年1月刊)pp.96-109.
  https://russell-j.com/cool/LAW-OTTO.HTM#sono-4

 追伸 家永氏はノーベル平和賞の候補になっていましたが、おしくも他界されてしまい
    ました。自国の戦争責任を追及しても、日本では評判をおとしますが、世界から
    は(国際的には)大変評価されていました。

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福田氏のラッセル批判は 投稿者:キャリオカ  投稿日:10月 4日(土)14時39分15秒

あくまでもラッセルの政治的発言にのみ目を向けて発されたものでした。これは、ラッセルをその全体においてとらえることを怠っていると言っていいでしょうね。(一定の限度を保っている、というふうに好意的にみることも十分に可能ですが。)

福田氏の文章は、とにかく威勢のいい啖呵をきる。なので、読んでおもしろいことは、おもしろい。ただ、議論のバックグラウンドをほとんど理解していない人間にとっては、いささか不安も残ります。いちばん楽なのは、完全に福田氏に身をすり寄せてしまうことなのですが・・・まあ、怠惰もほどほどにしようかとおもいます(笑)。

英文学者として、D・H・ロレンスを読み込んでいることも、福田氏のラッセルに対する先入観をつくる一因になっているかもしれません。ロレンスとラッセルの交流について書かれた本などは、あるのでしょうか?

家永氏の文章、ありがとうございました。ひとつ気が付いたことなのですが、昨年他界されましたよね。

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Re 追加の掲載ありがとうございます 投稿者:松下彰良  投稿日:10月 3日(金)20時46分28秒

キャリオカ様

 季節の変わり目は風邪をひきやすいですが、ご自愛ください。

 ところで、

 随分昔に、福田恒存(恆存)氏によるラッセル批判(「自由と平和-ラッセル批判」他)を読んだことがあります。しかしかなり以前のことなので、どのような内容だったか余り記憶にありません。まとはずれな批判だったと記憶しています。
 早稲田のラッセル関係資料コーナーには論文(というよりエッセイ)のコピーを寄贈してあります。手元にもコピーがあればこのホームページにのせようかと思い探してみましたが、見つかりませんでした。

 ラッセルは、理解されずに(誤解されて)褒められるより、理解されて批判されるほうがましだといっています。また、気に入らないことが書いてあるからといってすぐに批判するのではなく、まず相手の気持ちになって(感情移入をして)相手のいっていることをできるだけ精確に理解するようにつとめ、ほぼ理解できたら批判的に検討してみるというやり方をとるのがよい(ラッセル自身そのようにしている)と言っています。

 ですから、批判されること自体は問題ではない。むしろ理解して批判されるのは、自分の思想や感性の向上に役立つところですので、ラッセル自身は歓迎します。

 そのような観点から見ると、福田氏は(多くのラッセル批判者も同様ですが)ラッセルの主張を偏見なく、理解しようとする努力を余りされていないように思います。博識の人間はたくさんいますが、博識だが心の狭い人間は古今東西非常に多くいます。
 今手元に論文がないので、これ以上具体的に言えませんが、アインシュタインのような人物が、ラッセルの『西洋哲学史』の書評(というか推薦文)として次のようなことを言っている意味合いをよく考えてみたほうがよいだろうと思います。

 'B.ラッセルの「西洋哲学史」は貴重な書物である。この偉大な思想家ラッセルに
  おけるすばらしい新鮮さと独創性、還元すれば、過去の遠い時代や異質的な精神に
  対する感情移入の鋭さについて、私はいかにそれを讃えるべきか言葉を知らないく
  らいである。現代-この、かくもドライで野蛮な時代においてすら、かくも英知に
  満ち、信頼に値し、徹底的であり、しかもユーモアに満ちあふれた人間が存在する
  ことを示しうるのは幸福である。
   この本は、党派や見解の諸々の闘争をはるかに超越し、もっとも深い意味で教育
  的である。(Albert Einstein)'

  なお、以下の福田氏批判を参考にしてください。
  (批判と反省)家永三郎「「関特演」の違法性」(『歴史学研究』n.317:1966年月?)
   https://russell-j.com/cool/IENAGA-S.HTM

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追加の掲載ありがとうございます♪>松下様 投稿者:キャリオカ  投稿日:10月 3日(金)10時06分39秒

カゼをひいてしまい、今日は仕事を休んで朝から寝ています。

布団をひっかぶって、福田恒存著『日本を思ふ』(文春文庫)を読んでいます。
この本に「自由と平和―ラッセル批判―」という小文がありました。(約二十分前に発見)ぱらぱらめくってみたところ、ラッセルの政治的主張に対する批判のようです。
この福田氏の文章に対して松下さんはどう考えてらっしゃるのかな、とおもいました。・・・・

さきほど、玉子酒よりもビールのほうが好いなあとおもいつつ、逡巡し、結局両方のむことに決め、まずはビールをのみながら玉子酒をつくろうとおもいたちました。
ところがビールをのんだだけで満足してしまったわたしは、再び布団のなかに入り込んでしまいました。ゆうわくに弱く、かつ、怠惰な人間でもあるのです。わたしという人間は。

この怠惰さと知的克己心のなさが、今日のこの書き込みの原動力ともなっているのですが、正直、松下さんに福田氏のラッセル批判についてきくことには、いささかためらう気持ちがあります。
というのは、福田恒存氏は、本人はともかく、まわりの人間からの支持にはずいぶん党派的なものがある気がするんですよね。そのため、党派的な「進歩的文化人批判」や「戦後民主主義批判」「平和主義批判」なんかでは、よく名前のでてくるひとなのかもしれない。
もしかしたら、松下さんはこういう質問にはうんざりしているかもしれない、というためらいがあります。

ただ、まあ、事情に疎い素人の強みでこうして書き込んでもいるわけなのですが・・・。

カゼがなおったら神保町にでも出て、ラッセルの本を漁ってみようかとおもっています。
しかし、ああ、それにつけても金の欲しさよ・・・。

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林達夫「ラッセル(著)『西洋哲学史』v.1(古代)について」 
投稿者:松下彰良  投稿日: 9月28日(日)15時12分19秒

キャリオカ様

 お約束どおり、林達夫「ラッセル(著)『西洋哲学史』v.1(古代)について」の全文を以下のURLに掲載しましたので、ごらんになってください。  松下

https://russell-j.com/cool/REV-HWP1.HTM

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ありがとうございます 投稿者:キャリオカ  投稿日: 9月26日(金)10時37分13秒

松下彰良様

お忙しいなか、たくさんの情報をいただけまして、ただ感謝するばかりです。

>ラッセルの『西洋哲学史』は激賞する人と、ほとんど価値を認めない人が半ば
>する本ですが、大分昔ですが、私自身はたいへん面白く読みました。

こういうふうに、はっきり評価が分かれるというのも、名著の特徴ですね(笑)。燃えてきました。

リンクしていただいた文章を読んだ限りでは、どうやら『西洋哲学史』は入門書としてすぐれた本のようですね。林達夫クラスになってしまうと、もの足りないのかもしれませんね。

わが身を省みてみれば、わたしが『西洋哲学史』を手にとった背景には、仏教学者の中村元氏がことあるごとに激賞していたことと、英文学者の福原鱗太郎氏が名文として賞賛していたことがありそうです。

あれだけの大学者たちが激賞するくらいなんだから、さぞかし凄まじい本なのだろうとおもっていたのですが、案外親しみやすい本だということで、ホッとしたような・・・でも、とにかく難解な本にかじりついて根性叩き直そうという当初の目的には合わなくて残念なような・・・アンビヴァレントな気分です(笑)。

けれども、しっかりやれば実力がつきそうですね。哲学も、英語力も。

>『西洋哲学史』は、ゆったりした気持ちで、精読しないと益は少ないかも
>しれません。

ありがとうございます。がんばります。

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Re はじめまして   投稿者:松下彰良  投稿日: 9月25日(木)22時29分32秒

キャリオカ様

 キャリオカさんがいわれるのは、『思想の科学』v1,n3(1946年12月刊)に掲載された、ラッセル『西洋哲学史』合評の最初の論文(『西洋哲学史』v.1(古代)について)のことだと思われます。これは、林達夫著『共産主義的人間』(月曜書房 昭26)のなか(pp.7-23)に、「古代思想史の課題-ラッセルの『西洋哲学史』を読みて-」というタイトルで収録されています。
 手元に『思想の科学』にのったもののコピーがありますので、ホームページに掲載しようと思いますが、長文であり、26日(金)、27日(土)は出張で不在ですので、もどったら全文掲載します。とりあえず、最初の部分のみを次のURLに掲載しておきます。
 https://russell-j.com/cool/REV-HWP1.HTM

 林達夫氏は、ラッセルのことを「彼は私などの大した関心を持たぬ方面における大家・・・」というように書いていますが、林達夫氏の文章は少ししか読んでいませんので、想像にしかすぎませんが、百科全書的な該博な知識をお持ちの、優れた思想家・評論家である林達夫氏の限界が伺われるような気もします。

 ラッセルの『西洋哲学史』は激賞する人と、ほとんど価値を認めない人が半ばする本ですが、大分昔ですが、私自身はたいへん面白く読みました。

 このホームページにも『西洋哲学史』に関する記事をいくつかのせてありますが、次の2つを参考にあげておきます。『西洋哲学史』は、ゆったりした気持ちで、精読しないと益は少ないかもしれません。

(1) https://russell-j.com/cool/38TPOS31.HTM
 (市井三郎氏)
 "さて本書に対する私見にもどろう。ラッセルは「まえがき」でも述べている
 ように、哲学史を社会的諸条件との関連において眺める、という英米では珍ら
 しい試みをやっているのであり、果してその試みが充分に成功しているかどう
 かについて、訳者の所属している「思想の科学研究会」で、本原著の刊行直後
 に合評をやったことがあった。林達夫氏、松本正夫氏、武谷三男氏など、その
 時の出席者たちから、かなり手きびしい批判が出るには出たが、それは学問的
 に高い水準から、社会的哲学史のかなり高度な完成品を期待されていることか
 らくる不満だった、とわたしは思う。しかしわが国でもすでに邦訳されてよく
 読まれてきたシュヴェーグラーや、フォールレンダーなどの哲学史を頭に浮か
 べ、わが国の哲学界がドイツ観念論の偏重の下に育ってきたことを反省すると、
 社会的考察が本書の程度になされている哲学通史でさえ、これからわが国の一
 般読者に広く読まれる価値は充分にある、とわたしは確信している。

(2) https://russell-j.com/cool/SAEKIDA.HTM

 佐伯 まあ、こんな話ばかりしていると思想や文学の話がどこかに行ってしま
うので、そろそろ切り上げましょう。
 哲学について木田さんと好みが一致して嬉しかったのが、イギリス人のバートラ
ンド・ラッセルの『西洋哲学史』ですね。これは一九四五年に出た本で、ぼくは戦
後まもなく米軍の払い下げ図書だったのを手に入れました。ラッセルが一般向けに
行なった解説風の講演をまとめたんですね。これが読み始めたらもう巻措く能わず、
哲学が生きた形で、それこそナマナマしい力でこっちに伝わってくる。しかし、ぼ
くがラッセルの本で感激したのは、その本が初めてではありません。まだ高校生の
とき、一般向けの啓蒙的な文庫シリーズがイギリスで出ていて、そのなかにラッセル
の哲学の本があったんです。たしか The Problems of Philosophy というタイトル
でした。これも、じつに面白かった。

木田 あれは名著です。
  ・・・ 後 略

https://russell-j.com/cool/REV-HWP1.HTM

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はじめまして 投稿者:キャリオカ  投稿日: 9月25日(木)11時43分46秒

ラッセル初心者です。

さいきんたるんでるなあと反省し、ここはひとつ分厚い本でも読んでやろうと『西洋哲学史』を手に取りました。
杞憂かもしれませんが、以前なにかの文章で林達夫がこの本にケチをつけているのをみたことがあり、また、如何に名著とはいえ、日進月歩の世界で、内容的に古くなってしまっているところもあるのではないか・・・などと、初心者特有の心配に囚われています。

『西洋哲学史』を読むにあたってのアドバイスや、お勧めの参考書などありましたら、教えていただけないでしょうか。

原書と市井三郎訳とを付き合わせつつ、一週間で一章くらいのペースで読んでいくつもりです。

どうぞ、よろしくおねがいします。

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たいへんながい 投稿者:パンドラ  投稿日: 9月13日(土)21時16分39秒

ひとこと、ありがとうございました。

やはり、最終的定義はでてないもののようですね。でも、けっこう皆さん使っていて百花繚乱の体です。
松下様はどうお考えなのでしょうか?

でも、
>パンドラの箱は開けたくないですが、
怨念論理学でだいぶきらわれてしまったような・・・
あれ、未練が残ってます・・・(;;)

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Re: 命題的態度(Russell) 投稿者:松下彰良  投稿日: 9月13日(土)10時15分33秒

 パンドラの箱は開けたくないですが、ひとこと。

 命題的態度(あるいは命題態度)については、人によって意味するところは異なるかもしれません。
(たとえば、クワインの場合は、大阪大学の入江先生の「クワインによる命題的態度 の「概念的意味」と「関係的意味」の分析」
https://www.let.osaka-u.ac.jp/~irie/kougi/tokusyu/2003ss/2003ss07Quine.htm
を参照。)

 ラッセルは、ご存じのように哲学的主張を頻繁に変えて(発展させて)おり、ラッセルの著作をすべて精読しているわけではないので、精確にどうであったかは自信ありませんが、ラッセルのホームページにのせてある、竹尾先生の「竹尾著『言語と自然』あとがき1997(ラッセルの哲学的主張の変遷)」
https://russell-j.com/TAKEO-01.HTM
が参考になるのではないかと思われます。

  ラッセルが問題にしているのは、
  「オセロはデズデモーナがキャシオを愛していると信じる」)、
  といった多重信念(多項関係)の場合です。

 以下引用します。
 https://russell-j.com/TAKEO-01.HTM
 (「ラッセルの哲学的主張の変遷」の全文は、上のページをみてください。)

 '(1)真理論,詳しくは,信念あるいは判断の真理についての分析を挙げることが
 できる。この問題はもちろん「プリンキピア(数学原理)』の領域には含まれない。
 1906年から1912年までのラッセルは,信念を多項関係と考えた。「AはBがCを
 愛していると信じる」(たとえば,「オセロはデズデモーナがキャシオを愛している
 と信じる」)と考えよう。括弧内は,Aが偽な信念をもつ場合である。Aは、Bが
 CをRしていると信じるという場合,「信じる」以外の動詞R(ここでは「愛して
 いる」)は二項を関係づける動詞である。しかるに,事実として,判断が偽なときは,
 それがBとCとを関係づけない。これを説明するために、「信じる」をA,B,R,
 Cの四項からなる関係と考えるのが「多重関係説」である。そこで,もし,オセロ
 はデズデモーナがキャシオを愛していると信じることが真な信念を表すなら,オセ
 ロ,デズデモーナ,愛する関係、キャシオという四項が,信じるという関係で関係づ
 けられる。そこで,もし信じられているような事実が存在し,Aが真な信念をもつな
 ら,信念内容の後の三項の順序づけと,事実においてそれらにそれぞれ対応する存在
 者の順序づけとが対応する。他方,もしAが偽な信念をもつなら,それらは対応しな
 い。しかしながら,1918年の「論理的原子論の哲学」(第IV講,§3)では,ラッセルは
 この説を撤回した。すなわち,(イ)信じられている命題を独立の存在者として扱う
 こと,および(ロ)「オセロはデズデモーナがキャシオを愛していると信じる」にお
 ける,「愛している」という動詞を,信念における対象(関係項)の一つとして扱うこ
 とを,ともに不適当と彼は認めた。(これについては,私の『分析哲学の発展』(法政
 大学出版局,1997),pp.49-58を参照されたい。) しかし,信念その他の「命題的態
 度」(ラッセル,上掲書,§4)についての,最終的に満足すべき解決といえるものは,
 現在にいたるまで与えられていない。
 (2)以下省略'

 足りないところは、φさんに補っていただこうと思います。

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命題的態度 投稿者:パンドラ  投稿日: 9月12日(金)22時17分58秒

どうもこの用語は使う人によって、かなり意味がずれているのではないかと考えているのですが、わたしの場合、
「自分を含む意識所有者の構成する命題に対する観察的表現」
としています。Aを「わたしを含む意識所有者」として
Aは「水がのみたい」とおもっている。
Aは「扉の影に人が居る」と感じた。
Aは「彼は約束を守る」と信じている。
などが、具体的な例ですが、ラッセルが言ったものはこんなものと考えていいですか?

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RE 変な科学論 投稿者:松下彰良  投稿日: 9月 5日(金)22時26分01秒

coco様

 https://yy2.ziyu.net/yy/misako.html での議論がどうしてラッセルに関係しているかもしれないと想像されたかよくわかりませんが、ラッセルにはまったく関係ありません。
 どんな議論をされようとかってですが、非生産的な議論だと思います。  松下

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変な科学論 投稿者:coco  投稿日: 9月 5日(金)20時23分21秒

ここで変な科学論展開してるんですけど、この元ネタはラッセルでしょうか?
https://yy2.ziyu.net/yy/misako.html

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というより 投稿者:φ  投稿日: 7月22日(火)01時24分37秒

いま現に気前のいい気分になっていなくても(そういう心的営みが進行中でなくても)寛大な心を持つ人には「寛大である」という〔心に関する表現〕が適用される(あてはまる)、いま現に神のことを意識していなくても神を信じている人には「神を信じている」という〔心に関する表現〕があてはまる、等々でしょうね。心的状態ではなくいわゆる傾向性、を表わす表現(心に関する表現)のことです。ま、引用の前後を見てみないとわかりませんが。

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Re 教えてください 投稿者:松下彰良  投稿日: 7月21日(月)23時39分56秒

makiさん、φさん

 φさん、お手数をおかけしました。
 φさんがいわれるように、質問をされる場合は、出典をしめすか、前後の文章をしめすか、どちらかするのが、エチケットでしょうね。
 原文をみないとわかりませんが、想像するに、「しかるべき心的営みが見られない場合(状態)でも、(一様ではなく)さまざまな表現を適用できるいろいろな(心の)状態が存在する」とでもいうような意味でしょうか。
 そのような状態として、φさんが例にあげられた、「怒りっぽい」「神を信じている」といった心的状態がある、ということをいっている、のかもしれません。  松下彰良

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↓何からの引用でしょうか 投稿者:φ  投稿日: 7月21日(月)20時31分12秒

 おおかた「寛大である」「怒りっぽい」「博識である」「神を信じている」「勘が鋭い」のような表現のことを言っているのでしょう。「……場合がある。」で終わっていますが、そうでない場合の方がむしろ少ないですね。
 文脈がわからないため的外れなことを答えてている可能性もあるので、出典を示していただければと思います。

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教えてください。 投稿者:maki  投稿日: 7月21日(月)11時59分25秒

心に関するわれわれの表現はそれが適用されている時点で然るべき心的営みが見られない場合でも十分に適用される場合がある。
この言葉の意味を詳しく教えていただきたいのですが・・・。心と行為の関係について調べています。宜しくお願いします。

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(無題) 投稿者:HO  投稿日: 7月12日(土)21時26分16秒

ご回答ありがとうございました。他にも探してみます。

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RE 無題 投稿者:松下彰良  投稿日: 7月12日(土)12時05分00秒

HO様

 ラッセルの『幸福論』にも、『怠惰への讃歌』にも、引用されているような表現はないと思われます。また、逆説的な意味でも、冗談でも、as we make war that we may enjoy peace というような表現は、ラッセルはしないと思います。
(松下注:このように書いたが、見直してみると、このような表現はラッセルはしない、とはいえそうもない。2003.10.04)
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(無題) 投稿者:HO  投稿日: 7月12日(土)01時53分48秒

ぶしつけな質問ですいません。
It is thought that happiness consists in leisure. That is, we accept unleisure that we may have leisure, as we make war that we may enjoy peace.

ということを知りたくてインターネットで検索していたらこちらのサイトにヒットしました。上の文は関係あるのでしょうか。

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(無題) 投稿者:にし  投稿日: 7月 8日(火)16時44分04秒

高校でピースマークについても調べていたのですがその関係でも参考になりました。ありがとうございます。

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Re バートランド・ラッセル平和委員会とは?
 投稿者:松下彰良  投稿日: 7月 7日(月)21時35分48秒

にし様

 ラッセルのホームページの「ラッセル年譜」に書きましたように、ラッセルは、1958年1月、86歳の時、CND: Campaign for Nuclear Disarmament(核兵器撤廃同盟) 発足と同時に、初代総裁(議長は,聖職者コリンズ)となっています。しかし、しばらくして、CNDが形骸化してきたため、ラッセルは100人の精鋭を集めて百人委員会を別につくりました。

 https://www.ikenkoukoku.jp/tushin/tushin5-8.htm には、次のような記述がありますが、「ラッセル平和委員会」というのは、CNDの間違いだと思われます。

 「事務局から **さんに電話で問い合わせたところ、ピースシンボルの真ん中
  の縦の棒を人に見立て、二つに分けて、左右の斜め下に伸びる棒をそれぞれ人
  の腕として、手旗信号と考えたものという。ベトナム戦争が続いていたとき、
  **さんが米国でヒッピーたちから聞いた話。**さんはその後、英国のバー
  トランド・ラッセル平和委員会に手紙で照会したが、返事はなかったと言う。」

 ちなみに平和運動の時に使われている「ピースシンボル(通称ハトの足跡)」は、もともとCNDのロゴであり、「手旗信号」のNとDを図案化したもの、つまり,Nuculear(核)とDisarmament(非武装)を意味しているといわれています。 CNDのホームページ(https://www.cnduk.org/)をごらんになればロゴとして使われているのがわかります。

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バートランド・ラッセル平和委員会とは? 投稿者:にし
 投稿日: 7月 7日(月)14時35分05秒

バートランドラッセル平和委員会と言うのをインターネットページで見つけましたがこれは百人委員会のことでしょうか?

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♪ 投稿者:DAI  投稿日: 7月 1日(火)17時25分06秒

レスありがとうございます!

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Re 質問 投稿者:松下彰良  投稿日: 6月30日(月)21時23分39秒

DAI 様

 ラッセル関係のことであれば何を書かれてもかまいませんが、現代論理学は、(弁証法論理学のような性格の異なるものは別として)伝統論理学を包含するものですので、いまさら批判しても仕方がない気もします。また、書かれても余り反応がないかも知れません。むしろ、論理学は三浦俊彦氏の専門(の1つ)ですので、当サイトと連携サイトである、三浦さんのホームページ(https://members.jcom.home.ne.jp/miurat/)に開設されている掲示板(https://8044.teacup.com/miurat/bbs)の方が、(反応があるでしょうから)より適切だろうと思われます。

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質問 投稿者:DAI  投稿日: 6月30日(月)21時11分48秒

伝統論理学を「概念」の観点から批判したいんですけど板違いですか?

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松下さま 投稿者:KK  投稿日: 6月29日(日)16時11分24秒

わかりました!ご丁寧にありがとうございますm(__)m

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格言集の出典 投稿者:松下彰良  投稿日: 6月29日(日)10時32分44秒

KKさま

 「ラッセル格言集」の出典は、ほとんど明記してあるはずですが、「ここにある」というのは、何を指しているのでしょうか? メニューの「R5:格言集」は、今月の言葉、主題別、キーワード別等にわけてありますが、今月の言葉及びキーワード別は、最近は、ずっとMortal and Others, v.1(1975) というエッセイ集からの引用です。この本は、ラッセルが1931年から1935年の間に米国のハースト系の雑誌や新聞に発表したエッセイを収録したものです。主題別は、ラッセルの様々な著作からの引用であり、出典は全て示してあるはずです。
 Mortal and Others については、下記のURLを参照してください。  松下
https://russell-j.com/R2-BK-23.HTM

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(無題) 投稿者:KK  投稿日: 6月28日(土)21時18分04秒

ここにある、ラッセル格言集っていうのは、幸福論からの引用ですかぁ??

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ラッセルのさざなみ 投稿者:φ  投稿日: 6月 8日(日)02時39分15秒

下のアドレスに紹介した哲学啓蒙書、面白いと思った人は、ラッセルの『西洋哲学史』(みすず書房)を読めばさらに深い満足が得られるのではないでしょうか。この本の全25章の中にラッセルは立項されていませんが、著者の第一のタネ本はラッセル『西洋哲学史』だと訳者もp.9に書いている。実際、ラッセルからの引用が随所にあり。ラッセル的文体・視点の影響は21世紀に至ってますます深いと感じさせられます。
https://members.jcom.home.ne.jp/miurat/tool-thk.htm

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ラッセル関係文献 投稿者:松下彰良  投稿日: 6月 1日(日)21時16分25秒

 私もまだコピーを入手していませんが、下記のように、めずらしい?ラッセル関係文献がありました。
 ★ラッセルのホームページをごらんになっていただいている皆様、新しいラッセル関係文献  や情報をみつけられら、是非この掲示板でお知らせください。★

 論題   ロジャー・フライの美術批評--ラッセル論理学との関係
 著者   要 真理子 (カナメ マリコ)
 請求記号   Z71-F312
 雑誌名   美学研究
  Studies in aesthetics & art criticism
 出版者・編者   大阪大学大学院美学研究室 / 大阪大学大学院文学研究科美学研究室 編
 巻号・年月日   (1) [2001]
 ページ   27~45

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哲学若手研究者フォーラム 投稿者:松下彰良
 投稿日: 6月 1日(日)21時10分34秒

 参考まで

 哲学若手研究者フォーラムというホームページを発見しました。
 (https://www.wakate-forum.ath.cx/forum.html)
 掲示板に投函された書き込みは、テーマ毎にツリー上に展開・整理されていきますので、大変見やすいものとなっています。
 ご存じのない方は、みなさん、一度覗いてみてください。

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ラッセルは分析哲学者か 投稿者:φ  投稿日: 5月15日(木)14時27分39秒

ハンス‐ヨハン・グロック編『分析哲学の生成』(晃洋書房、2003年4月10日出版)に、レイ・モンク著「ラッセルは分析哲学者か」という論文が載っています。ダメットによる分析哲学の定義によるとラッセルは分析哲学者ではないことになるが、そして実際にラッセルが「言語の問題」に哲学を還元しようとしたことはないのだが、果たして……? という趣旨。
分析哲学の文献でラッセルがあれだけ言及され、彼のアイディアが必須の役割を果たしているにもかかわらず、ラッセルが中心的な主題となりにくい理由は、ラッセル思想のめまぐるしい変遷はもとより、ラッセル哲学の奇妙な「非分析哲学性」にあるのかもしれません。(ただし英語圏ではラッセルをタイトルにした本が次々出版されてますが)
 ラッセルの中性一元論の、量子力学への意外な貢献は、マイケル・ロックウッド『心身問題と量子力学』(産業図書)(量子論的な心の哲学の古典的文献)で知ることができますが、これも、ラッセルが本質的に言語哲学者ならぬ形而上学者だったからこその影響力かもしれません。

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タムリン著「ラッセル、人と作品」の原文
 投稿者:松下彰良  投稿日: 4月 1日(火)21時27分46秒

 読者様

 ラッセルに対する(Osterlingによる)ノーベル文学賞授与演説(Prize Presentation by Anders Osterling Permanent Secretary of the Swedish Academy)は、

https://www.literature-awards.com/nobelprize_winners/nobel_prize_presentations.htm
に掲載されていますが、タムリン(Tamlinではなく、Tomlin, Eric Walter Frederick,1913~1988 らしい)の「人と作品」の電子テキストはインターネット上に発見できていません。

 ノーベル文学賞全集は、スウェーデンのノーベル財団の協力のもとに、主婦の友社が編集・出版したものであり、ラッセルとチャーチルが収録されている第22巻は、1972年に出されています。タムリンは、英国王立学士院(文学)の会員ですので、大きな大学図書館で調べれば原文を発見できる可能性はありますが、調べている時間はありません。あしからず。  松下
https://www.literature-awards.com/nobelprize_winners/nobel_prize_presentations.htm

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(無題) 投稿者:読者  投稿日: 4月 1日(火)10時20分11秒

https://russell-j.com/cool/TAMLIN.HTM
の原文を読みたいと思い検索したのですが見つけられませんでした。
ネット上で読めるサイトがあったら教えて頂ければ幸いです。

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どうも 投稿者:N・D  投稿日: 3月22日(土)04時59分09秒

松下さん

お返事ありがとうございます。
正直に申しますと、実はまだよくわかっていなかったりするんですが、今度はできるだけ自分で調べてみようかと思います。
ありがとうございました。

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Re: 書き込んですいません・・・ 投稿者:松下彰良
 投稿日: 3月21日(金)16時54分30秒

 N.D.さま

 ラッセルの「人と著作」については、たとえば、ノーベル賞授与の時の次の解説なんかを読んでみてください。
 https://russell-j.com/cool/TAMLIN.HTM を

 それから、初心者向けに次のURLに「初心者向け」のコンテンツを掲載してありますので、ざっとごらんになれば、ラッセルとはどのような人物なのか、わかるのではないかと思います。
 https://russell-j.com/beginner/BEGINNER.HTM  松下

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書き込んですいません・・・ 投稿者:N・D  投稿日: 3月21日(金)05時54分45秒

どうもはじめまして。
インターネットで検索していたら、ここにたどり着きました。
これでどんな人かわかるかな?と思ったらよくわかりませんでした・・・哲学をやってた人であることはわかったんですが。
わたしがバカなだけなんでしょうか(TT)わたしが来るべき場所じゃないとはおもうんですが、どなたか簡単に教えてください・・・

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Re: 哲学と論理学の関係 投稿者:松下彰良  投稿日: 3月 3日(月)00時01分36秒

加藤さま

 哲学と論理学との関係は、吉田夏彦「バートランド・ラッセル:哲学と論理学」(日本バートランド・ラッセル協会パンフレットシリーズ第2号)がわかりやすくてよいと思われます。この論文は、
 https://russell-j.com/cool/PAM02-01.HTM
 にアップしてありますので、参照してください。
https://russell-j.com/cool/PAM02-01.HTM

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哲学と論理学の関係 投稿者:加藤  投稿日: 3月 2日(日)15時48分40秒

はじめまして
質問させてください。
①・哲学と論理学はどの様な関係にあるのでしょうか。
②・具体的な哲学の問題に、どの様に論理学が用いられているのでしょうか。
③・論理学の数学化によって哲学は、科学上の問題が扱えるようになったのでしょうか。
どうか応えてください。よろしくお願いします。

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ラッセルの意味論 投稿者:トマス  投稿日: 2月 3日(月)21時15分22秒

ラッセルに限っていえば、初期のいわゆる意味論についてでしょうか。そうであれば、『私の哲学の発展』(野又夫訳、みすず書房)の「14 普遍者と個別者と固有名」が参考になるかと思います。そこに書かれているように、記述理論とタイプ理論(型の学説)を考案した後はその考えを改めています。たまたま見つけたのですが、以下のHPも参考になるかもしません(ただフレーゲの解釈については研究書に基づいています)。

https://www.bun.kyoto-u.ac.jp/phil/ronso/25/yamada.html

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文脈原理等 投稿者:φ  投稿日: 2月 2日(日)01時21分13秒

 フレーゲの文脈原理は「語は文の中に使用されてこそ意味を持つ」といった趣旨のものですが、この文脈原理にまつわる「解釈学的循環hermeneutic circleのパラドクス」というのを今執筆中の本に入れる予定ですからご期待ください。
 さて、ラッセルが文脈原理に逆らって語の意味を基本単位にしているとのことですが、それは論理的原子論のことでしょうね。ラッセル記述理論の基本は「命題関数」なので、すべては述語に分解されることになります。ただ、フレーゲ流の「語の文脈原理」に反しているわけではなく、むしろラッセルは、その後に出たストローソンやサールといった日常言語学派の人々から「文が使われる文脈を無視している」として批判されました。その意味での文脈原理にはラッセルは反しています。ストローソンらの文脈原理とは、語ではなく文が主題。すなわち、文の意味はタイプとしての文に帰属するが、真偽はトークンとしての言明にしか帰属しない、と。ラッセル記述理論は、文のタイプに真偽を帰属させているので、文脈に関係なくある文は真理値を持つということになり、ストローソン的な「具体的な場面での言明トークンのみが真理値を持つ」という考えにとっては乗り越えるべき反文脈主義的真理論と映ったわけですね。これについてはここで長々と説明するのも却って混乱しますから、三浦俊彦『虚構世界の存在論』(勁草書房)第四章の第1,2節、および、飯田隆『言語哲学大全1』(勁草書房)をご参照ください。それから確かおぼろげな記憶では、フランソワ・レカナティ『ことばの運命~現代記号論序説』(新曜社)が、フレーゲ~ストローソンを一方に、ラッセルを他方に置いて、前者に軍配を上げるわかりやすい議論をしていました。しかしラッセル的な言語観が劣勢かというとそんなことはなく、ソール・クリプキなどは、ラッセル的な言語分析の方が基本となるべきだという見方をしているようです(「話し手の指示と意味論的指示」『現代思想』1995年4月号を参照)。

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RE はじめまして 投稿者:松下彰良  投稿日: 2月 1日(土)14時30分01秒

 フレーゲについては不勉強です。
 誰か詳しい方、答えてあげてください。 松下

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はじめまして 投稿者:バード  投稿日: 1月31日(金)08時44分32秒

僕は大学生で言語哲学を今学んでいます。僕の質問に答えてください。フレーゲから続く文脈原理の流れに逆らって,ラッセルは語を意味の基本単位にしているということですが,ラッセルの考えのどういう点がそうなのでしょうか?

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補足 投稿者:トマス  投稿日: 1月22日(水)23時00分02秒

下記の引用は、プラトンがソクラテスに語らせたものです。

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論理について 投稿者:トマス  投稿日: 1月22日(水)22時54分09秒

下記で論理について触れましたので、私も含め論理を学ぶ者にとって傾聴に値すると思われる言葉を以下に記したいと思います。プラトン作『国家』からのものです。

「それなら、そもそも若い者には言論の味は覚えさせないというのが、その用心の一つであり、重要な意味をもつのではないか。というのは、君も気づいていると思うのだが、まだ若いものが初めて論理(言論)の味をおぼえたりすると、これを遊戯の気分で面白半分に使用することになり、いつも反対論のために用いたりする。そして人が吟味にかけてやっつけるのを真似して、自分も他の人たちをやっつけることになる。そのときそのときに近くにいる人たちを、言論を用いてひきずったり、ひき裂いたりすることに興ずるわけで、まるで子犬のようだということになる」
……「これに対して、もっと年輩の者なら、まずこのような気狂い沙汰には参与しないだろうし、真似をするのにも、遊戯のために面白半分で反対のための反対論をするような真似はしないで、真実を考究しようとして、問答に志す者に学ぶだろう。そして自分自身が節度ある人になるとともに、この業(わざ)をも不名誉なものから、名誉のあるものにするだろう」(P286,287、田中美知太郎訳、中央公論社)

また、次のようにも言っています。

「現状では、<哲学>を手がける者があるとすれば、そういう人たちは、やっと子どもから若者になったばかりのころ、家を持って生計を立てるようになるまでのあいだに、<哲学>の最も困難な部分に近づいてみたうえで、離れ去ってしまう。そんな連中が、いちばんよく<哲学>を学んだ人たちと見なされているようなありさまなのだ。最も困難な部分というのは、論理的議論に係わる部分のことだがね。……」(P216、同上)

これはまったく個人的な意見ですが、相反する意見に分かれて勝敗を競うだけのディベートは、あまり好ましくないのではと思ったことがあります。

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♪ 投稿者:DAI  投稿日: 1月21日(火)10時00分42秒

ありがとうございました!勉強になりました!

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Re:♪ 投稿者:トマス  投稿日: 1月21日(火)01時14分25秒

801字以上で書きます。というのはさておき、前もってお断りしておきますが、私はあくまで「自称」ラッセル研究家ですので、そこのところをお忘れなく。また、あまり時間を避けませんので簡略に書きます。

ここではラッセルによれば、哲学の使い道は二つありますよね。一つは、仮説の領域で想像的世界観を拡げること。これはわたしなんかは古代ギリシアの自然哲学者たちがまず頭に浮かびます。タレースやデモクリトスなどなど。当時は今で言うところの科学上の知識はなかったでしょうからいささか意味合いは異なるでしょうが、デモクリトスなどは自然は不変な粒子(アトム)からなるという世界観を抱いていたことはあまりにも有名ですよね。いうまでもなく、現代科学では彼の見解は仮説の域を超えていますけれども。つまり、この場合、哲学的思索の果実が科学であるといってもいいのではないでしょうか。もちろん、実らなかった仮説もあるでしょうが。もう一つは蓋然性の問題でしょうが、この点については私はまだ勉強不足です。ラッセル自身もどちらかといえば演繹的推論に深く関わっていたので、非論証的推論(帰納法も含む)について本格的に取り組んだのはずっと後になってからです。非論証的推論では(帰納法がそうであるように)、諸前提が真で妥当な推論でも結論は確からしいとしか言えませんよね。たとえば、カラスが100羽黒いからといってすべてのカラスが黒いとは断定できないというやつです。したがって、「カラスは黒い」と当たり前のようにわれわれは言いますが、実は確実な根拠をもっているわけではないのです。それを哲学は気付かせてくれるというわけです。

とりあえず、こんなところでしょうか。なんかまとめというよりも解説になってしまいました。もともとまとめてあるものをさらにまとめるのはできない相談です。

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♪ 投稿者:DAI  投稿日: 1月20日(月)23時15分38秒

もし800字という制限がなかったら、トマスさんはどんな風に書かれますか?

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レス 投稿者:トマス  投稿日: 1月20日(月)21時51分33秒

「まとめる」というのは、そもそも「集めて一つにする」ということですから、それは不可能な注文です。なぜなら、下記の文章(ラッセルの返答)は800字に足りませんし、上記の意味からはさらに字数を必要とします(もし真面目な質問でしたらごめんなさい、私は先生ではないので)。

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感謝☆ 投稿者:DAI  投稿日: 1月20日(月)19時04分22秒

レスありがとうございます。もし、800字でまとめるとしたらどんな風に書けば良いでしょうか?

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『ラッセルは語る』より 投稿者:トマス  投稿日: 1月17日(金)22時45分30秒

DAIさんの質問の答えになっていないかもしれませんが、1959年のテレビのインタビューで、ラッセルは下記のような興味深い答弁をしています。

問 哲学はどんな役に立つのですか。

ラッセル 哲学には実際上、二つの使いみちがあると思います。一つは、まだ科学上の知識に従わない物事についての思弁を活発にしてくれるところにあります。けっきょく、科学上の知識は、人類の関心を引きもしまた引くのが当然な事柄のほんのわずかな部分にしか及んでいません。ともかくも目下のところ、科学にも殆んど分からない事柄で、大きな関心のまとになっているものが、じつにたくさんありますから、人びとの想像力が、げんざい知りうるものだけの範囲に限られ囲まれてもらいたくないのです。仮説の領域で想像的世界観を拡げることは、哲学の使いみちの一つだと思います。しかし、これと同じくらい大切と思う使いみちがもう一つあるのです。それは、わたくしたちが分かっていると考えていたもので、じつは分かっていないものがあるということを、示すことです。一方では、哲学は、わたくしたちが分かるようになるかもしれない事柄について、わたくしたちに考え続けさせてくれるためのものですが、他方では、知識のように見えるものが、いかに知識でないか、それをわたくしたちに謙虚に気付かせてくれるためのものです。

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質問☆ 投稿者:DAI  投稿日: 1月17日(金)11時49分56秒

ラッセルは「哲学」の保障する知識はどのようなものであると考えたのですか?

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(無題) 投稿者:松下彰良  投稿日: 1月16日(木)23時12分00秒

トマスさま

>なお、ここに投稿する文章はあくまでラッセルと関連したいわば雑記のようなもので、
>学問的に厳密なものを書いているわけではないことをお断りしておきます。

 私も厳密な議論をしようとしているわけではありません。
 トマスさんの書き込みを読んで最初に感じたのは、見出しの「ラッセルのいう「安定した世界」を鑑みて」と本文の内容がどう関連するのだろうか(余り関係ないように見える)ということでした。次に「真理」という言葉をどのように使っているのだろうか、「論理的真理」ではなく、もっと広い、「真理(人間的真理?、人間にとっての真理?)という意味で使っているのだろうか、とも思いました。

>また、「論理」と「心理」ということから「論理主義」や「心理主義」を
>連想されるのであれば、ここではその意図はまったくありません。

 論理学における「論理主義」とか、「直観主義」とか、「心理主義」とかを連想したわけではありません。「論理法則」と「心理法則」とは別物であるとトマスさんも区別しているだろうとは思いましたが、それにしても(よく例にあげられる)「醜い老婆」は適切な例ではないのではないかと思われました。論理学でいう「論理的」真理ではなく、もっと広い意味で「真理」という言葉を使っているのでしょうが、それでも何を言おうとしているか必ずしもはっきり理解できませんでした。

>「そう見える」ということは「そうである」ということとほとんど同義ではないでしょうか?
>すでにそう見えてしまっているのですから。

 はたしてそうでしょうか? 「醜い老婆」の例よりも、ヘンリー=ミュラー図でしたか、あの例の方がわかりやすいと思われます。二本の平行線を描き、一方には内側に矢印をつけ、他方には外側に矢印をつけると、人間には内側に矢印をつけた方が短く見えます。しかし、そう「見える」からといって、「そうである(内側に矢印をつけた方が短い)」ということにはなりません。人間にはそのように見えるということは間違いないとしても(心理法則しては正しくても)世界の認識としては、同じ長さであるというのが(論理的)真理です。「醜い老婆」の絵にしても2通りあるいは2通りに見えたとしてもそのように見えることは心理法則としては正しくても、世界が2通りあるといえるわけではありません。
 とりあえずの感想まで。  (松下)

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Re^2 ラッセルのいう「安定した世界」を鑑みて
  投稿者:トマス  投稿日: 1月16日(木)00時47分11秒

松下様

下記の投稿で、私は「多値論理の可能性・論理学の多様性および心理や認知の多様性・多義性」について論じたわけではありません。また、「論理」と「心理」ということから「論理主義」や「心理主義」を連想されるのであれば、ここではその意図はまったくありません。ちなみに、ご存知のように、ラッセルは認識において最終的には「心的なもの」を容認しているように思われます。

「事実」と「真実」が同じものでないことは承知しています。ラッセルは『私の哲学の発展』のなかで次のように言っています。「一つの「信念」は、それが一つまたはそれ以上の「事実」に対して適切な関係をもつ場合に真なのであり、そういう関係をもたない場合は偽である」(P235、野田又夫訳、みすず書房)。下記では、「この絵は醜い老婆に見える」という信念とこの絵は老婆に見えるという事実は、当の信念を真ならしめうる一つの事例として紹介しただけです。松下さんは「見え」にこだわっておられますが、「そう見える」ということは「そうである」ということとほとんど同義ではないでしょうか?すでにそう見えてしまっているのですから。同様に、「私は暑い」というのと「私は暑く感じる」というのは同義なように思えます。

なお、ここに投稿する文章はあくまでラッセルと関連したいわば雑記のようなもので、学問的に厳密なものを書いているわけではないことをお断りしておきます。

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Re ラッセルのいう「安定した世界」を鑑みて
 投稿者:松下彰良  投稿日: 1月15日(水)20時17分15秒

トマス様

 昨日から出張のため不在で、本日夕方帰京(この場合東京ではなく、京都に帰京)し、トマスさんの書き込みを発見しました。
 トマスさんの書かれているのは、「論理」と「心理」との混同ではないでしょうか。論理学は二値論理でも多値論理でもいいですが、そのこと(多値論理の可能性:論理学の多様性)と人間心理や認知の多様性・多義性とは別物ではないでしょうか。騙し絵が何通りに見えようが、それらの「見え」すべてが人間にとって否定できない「事実」だとしても、「事実」と「真実」とは同じものではありません。
 私も学部生のとき、人間における情報処理の問題(特に言語処理と映像処理の違いや相互関係の問題)等についていろいろ考えました。具体的には、卒論(「創造工学について-創造性の工学的研究-」)でとりあげました。
 ラッセルのホームページにも、確か「論理」と「心理」のちがいについてふれている論文をアップしてあったような気がしますが・・・?(永井成男氏のろんぶんだったか、石本新氏の論文だったか・・・。)
 φさんにでも明解・明確に解説してもらいましょうかね。  (松下)

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ラッセルのいう「安定した世界」を鑑みて
 投稿者:トマス  投稿日: 1月14日(火)20時16分30秒

一月も早いもので、もう半月近く経ちました。さて、真理(ちなみに、ラッセルは対応説と二値論理を採用しました)に関してよく言われることに次のようなものがあります。同一の対象について判断の異なる場合はどちらかが誤っている。つまり、真実(真理)は一つというわけです。もちろんそういう場合もあるでしょう。ところが広く知られているように、心理学的知見は見事にこの先入見を打ち破ってくれます。有名な多義図形に「婦人と老婆」の図(「ルビンの杯」とともによく心理学の教科書に掲載される図です)がありますが、見方しだいでは、醜い老婆にも見えますし、若い婦人にも見えます。この場合、いずれも真理であるといってもよいのではないでしょうか。この世界のあり方も見方しだいでさまざまに見え、どれも正しい(真理)のかもしれません。ただ醜い老婆が好きな人が多いだけなのかもしれません。

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皆様、どうも 投稿者:求む!お助けマン!!  投稿日: 1月 5日(日)22時11分44秒

 本当に親身に相談を受けてくださり、感無量でございます。
 実は講義を受けているのはフランスの大学です。ので、適当な和訳により皆さんを混乱させてしまったことを、まずお詫び申し上げます。フレーゲおよびラッセルの関連文献を読んでも、他をあたってみても、いまいち求められている答えが出せないので「だれかまとめてくれないかなぁ~」との軽い気持ちで投稿しましたが、やはり甘かったですね。ちなみに専攻は言語学です。意味論の授業で論理哲学を扱っています。1月からはウィトゲンシュタインです。
 φさんの【文章の哲学的センスを試される】という指摘、なるほど。やれるだけ【哲学的なフランス語】を書いてみます・・・。

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RE:フレーゲとラッセル、とりあえず……
  投稿者:松下彰良  投稿日: 1月 5日(日)10時07分46秒

φ様、求む!お助けマン様

 φさん、お手数をおかけしました。
 求む!お助けマン様、φさんに教えていただいた本を読み通すのはたいへんだろうと 思いますが、挑戦してみてください。
 それにしてもこのようなものを冬の宿題に課すのはどの大学のどの教師なのか興味が わきますね。(阪大入江ゼミ、立命館伊勢ゼミ、慶應・飯田ゼミ、都立大・野本ゼミ、 ・・・・)
 ところでこまかいことですが、「ライプチグの戦い」というのは「ライプチッヒの戦 い(1813年)」のことですね。課題を出した先生が、Leipzig の日本語読みを知らないということはないでしょうが・・・。

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フレーゲとラッセル、とりあえず…… 投稿者:φ  投稿日:1月 5日(日)07時09分23秒

 難しい課題ですねえ……、松下さんに代わって私がアドバイスを……と胸を張りたいところですが、哲学の問題はどうも簡略に答えられないのが困りものです。この短さの問いだと、課題の文脈というか、講義のバックグラウンドによっても答えが変わってきてしまうので。
 もうすでに参照しておられるでしょうが、飯田隆『言語哲学大全1』(勁草書房)がフレーゲとラッセルの比較をまる一冊当てて論じており、ほぼそれで片がつくのではないでしょうか。
 なお、ちょっと疑問に思ったのは、「命題関数Fonctionの価値(Value)、フレーゲのConceptの価値」とありますが、課題は外国語で出されているのでしょうか? valueは「値」ですね。xなどの変項に代入されるべき値です。価値ではありませんね。
 5~6行とは難しい注文ですね。私もフレーゲについては無責任なことを言ってしまいそうなので、やはり飯田本を熟読されることをお薦めします。あとは野本和幸『フレーゲの言語哲学』(勁草書房)でしょうか。フレーゲは勁草から著作集も出ていますしね。  ほかにふる答えですみません。いずれにしても、「について述べよ」「どう主張しているか」など抽象的な問いも入ってますし、さほど厳密に採点しちゃるという課題ではないようですね。むしろ文章の哲学センスが試される感じなのでは?

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丁寧なお返事、感謝。 投稿者:求む!お助けマン!!  投稿日:1月 4日(土)23時07分56秒

ご迷惑お掛けして、本当に申し訳ありません。
課題のほうは色々文献も参考にしながら格闘中です。
また後ほど、閲覧に参ります。

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RE: フレーゲとラッセル  投稿者:松下彰良  投稿日: 1月 4日(土)13時50分08秒

求む!お助けマン様

 フレーゲについてはほとんど読んでいませんので、アドバイスできません。
 そこで、ある人にアドバイスをお願いしてみます。
 ただし多忙な方なので、何を読めば良いか、というアドバイスだけになるかもしれませんが・・・。 (松下)

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フレーゲとラッセル 投稿者:求む!お助けマン!!  投稿日: 1月 3日(金)20時48分46秒

はじめまして。ワラをも掴む思いで投稿させていただきます。
言語哲学の授業を受けているものです。冬休みの課題が出まして、解答に困っております。
1.1)フレーゲによるConceptの概念とラッセルのそれとは同一のものか?
1.2)ラッセルのいうところの命題関数Fonction propositionnellとフレーゲのいうところのConceptにはどのような相違点が挙げられるか?
1.3)ラッセルのいう命題関数Fonctionの価値(Value)、フレーゲのConceptの価値について述べよ。
2)「ライプチグの戦いはワーテルローの戦いの前に起こった」という文は「ワーテルローの戦いはライブチグの戦いの後に起こった」と同じ判断可能内容(Contenu Jugeable)を有しているのか?
3)フレーゲは「私」という第一人称表現の意味Sensについてどう主張しているか?この場合、意味Sensは発話者によって変化するのか?

以上各問につき5・6行に簡潔にまとめろ、ということなのですが、もう何が何だか分からない状態です。
誠に不躾で、誠に申し訳ないのですが、時間のある方、助けてくださ~い!!

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