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鈴木康司「[B.ラッセルとA.C.バーンズ]」

出典:『人文社会科学研究(早稲田大学理工学部一般教育- 人文社会科学研究会)』n.16(1978年3月刊)pp.254-256.

・鈴木康司「アルバート・C.バーンズをめぐって」の第IV章として
・参考1:鶴見俊輔「バートランド・ラッセル事件」
・参考2:鵜飼信成「ラッセルの思い出(バートランド・ラッセル事件)」
・参考3:日高一輝「恋愛と結婚と離婚の自由論--B.ラッセル事件」
・参考4:悪魔と呼ばれたコレクター--バーンズ・コレクションをつくった男の肖像

 

VI ラッセルとバーンズ

の画像  1938年夏,Bertrand Russe11(1872~1970)は,Kidlington の家を売り払って,妻子を連れて渡米した。最初はシカゴ大学の教授となり,次いでカリフォルニア大学に転じて,そこの教授となった。1940年2月末,ニューヨーク市立大学の教授として招かれた。彼はこの招聘が確定的なものと信じて,カリフォルニア大学総長に退職願を出したが,『ラッセル自伝』によるとその直後この招聘が確定的なものでないと分かった。そこで彼は一旦出した退職願を取り下げるように申し出たが,総長はこれを聞き入れなかった。
 一方,ニューヨーク市立大学では,一度は教育委員会が全員一致でラッセルの教授就任に賛成したものの,かねてからラッセルの反キリスト教的思想を苦々しく思っていた当地の宗教界から反対の声があがり,また余りにも自由主義的なラッセルの結婚観や恋愛観に対し眉をひそめていた婦人団体からも彼の教授就任に反対運動が起こった。このため教育委員会も弱腰となり,結局ラッセル招聘は立ち消えとなった。この間,ニューヨークの知識人たちはこれを不服として,ラッセル招聘運動を展開した。デューイもこの運動の有力な指導的メンバーだったが,結局この運動は功を奏さなかった。ここに至って,ラッセルの収入の道は絶たれてしまった。イギリスの名門の御曹司ラッセルも家族をかかえた異国の地でさすがに途方に暮れたらしい。
の画像  この時援助の手を差し延べたのがバーンズであった。おそらくデューイの勧めか依頼もあってバーンズも立ち上がったのだろう(松下注:詳しくは、『悪魔と呼ばれたコレクター』参照)デューイは1920年北京でラッセルと知り合ったが,二人は哲学上の立場の相違もあって,その後,深い交渉をもつには至らなかった。だが,こうした立場の相違を越えて,デューイは窮地に立たされたラッセルを救い,且つニューヨーク市当局や教育委員会の理不尽な処置に対して率先して抗議した。バーンズもまたデューイのこうした意向を知って,敢然としてラッセル援助に乗り出した。

 バーンズ財団はデューイの発案に基づいて,「古代ギリシアから現代までのヨーロッパの哲学及び文化」というテーマでラッセルに講義を依頼した。週一回の講義で,年俸6千ドルであった。窮状にあったラッセルはバーンズのこの依頼を喜んで受諾し,バーンズの好意に心から感謝した。だが,ラッセルはかねがねバーンズという人は'移り気な人'だと聞いていたので,この契約の期間を5か年にするように申し入れたのだという。
 ラッセルの著書『西洋哲学史』の一部分はこのときの講義がもとになって成ったものである。
 初めバーンズはラッセルがこの講義を受諾したのを聞いて,これでバーンズ財団は世界最高の英知と明快な解明者を得たことになると言って大いに喜んだ。バーンズはラッセル一家の住宅をも世話しようとするほど好意的で乗り気だった。
 しかし,この友好的な二人の関係も次第に冷やかなものになって行った。バーンズの側からすると,ラッセル夫人(三度目の妻,パトリシア)の不遜な態度,厚かましい行為,バーンズ財団の職員に対する高圧的な振舞いなどがバーンズに不快の念を与えるようになった。またラッセルの講義内容も必ずしもバーンズの意にかなうものではなかったらしい。だが,バーンズの友情の冷却原因は主にラッセル夫人の言動に起因していた。
 こうした悪感情が高じて,その結果バーンズは5か年の契約を破棄し,1年でラッセルを解雇した。このことはラッセルにとって,まことに心外であった。むしろ青天の霹靂と言うべきものだった。初めバーンズが好意の余り,ラッセルに住宅を斡旋しようとしたことも彼にとっては有難迷惑なことだった。ましてそれがラッセルが望みもしないような広大な邸宅であってみれば,なおさらのことだった。またラッセル夫人の言行についても,これをとやかく言うのは「私生活に関する不当な干渉」と感じたであろう。ラッセルはこの一方的解約を不服として訴訟を起こした。その結果はラッセルの勝訴に終わって,残額の2万4千ドルのうち2万ドルがラッセルに支払われることで決着がついた。二人の間柄がこのように不和となり,決裂し,果ては裁判沙汰にまで発展した。その間にあってデューイはどんな態度をとり,どのような行動に出たのか。両者の調停に乗り出したか,それとも手のほどこしようがないままに,手を拱いていたのか。このような場合,デューイは徒に傍観しているような人とは思われないが,彼がどのような態度に出たか,その辺のことは詳かでない。

ラッセル著書解題
 バーンズはこの事件より10年以上後,1951年7月24日に自動車事故のため不慮の死をとげた。バーンズ美術館を訪れたことのある大画商ヴォラールもやはり自動車事故で1939年に物故した。むろん偶然の一致には違いないが,東奔西走,席の暖まる暇もなく活動する人の陥りがちな宿命のような気もする。
 写真で見るとバーンズはいかにも精悍な風貌の持ち主である。あくの強い頑固一徹なところがあり,容易に自説を曲げるような人ではなさそうだ。そのため多くの知人や友人たちが彼のもとを離れて行った。だが,ラッセル事件でも見られるように,彼は金銭的に出し借しみするような人間ではない。彼が有意義と考えた事業には多額の出資も厭わなかった。財団の職員たちにも長年の精励に対して報いることに決して吝かではなかった。ともあれ,一方では彼には頑迷とも思われる一徹な強い意志力とともに,他方ではマティスやルノアールの絵画に対する愛好心に見られるような,和やかな心情や繊細な感受性もあった。かように極端に異なった性質がバーンズという同じ人間の心の中に共存していたことは,わたしにとって興味深くもあり,また謎めいたものでもある。