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鵜飼信成「ラッセルの思い出」

『ラッセル協会会報』n.15(ラッセル卿追悼特集号:1970年5月)pp.18-19.

* (故)鵜飼信成氏(1906年-1987年5月10日)は当時、東京大学名誉教授。東大法学部教授、国際基督教大学長(2代目)を歴任


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 戦前の昭和十五年(1940年)六月に、私は大学新聞(松下注:『東京帝国大学新聞』n.814-816: 1940年6月3~17日)に「バートランド・ラッセル事件」(The Bertrand Russell Case)という一文をアメリ力から寄稿した。この時、ラッセルは六十八才の老人であったのには、今さらのようにおどろかされる。その小文を書いたのは、ニューヨーク市立大学が、ラッセルを哲学の講師として任命したのに反対するジャン・ケイという夫人の起した任命行為再審査請求訴訟の判決があったからである。
 ニューヨーク州裁判所のマクジーハン判事は、この判決で、原告は、ラッセル任命の取消を求める権利を有すると述べたので、アメリカでは大騒ぎとなった。ニューヨーク市立大学の教授の中には、これは魔女裁判の復活だという者もあったし、学者は一般に、大学自治論をふりかざして、この判決に反対した。
 しかし世間には、原告ケイ夫人のように、ラッセルの思想は異端不倫だとみる人も多かったようである。もともとラッセルを、市立大学が任命したことに対する反対論が猛烈にわき起っていたために、この訴訟となり、この判決になったので、健全な家庭を守ろうとする保守的な思想の中で、安定した生活を営んで来ている人々にとっては、ラッセルの思想が、彼らの家庭生活を破壊するおそれがあると思えば、耐えがたかったのであろう。
 ラッセルが、例えば、「大学生活は、もし大多数の学生が、一時的な友愛結婚をするようになれば、知的にも、道徳的にも、一層よいものになるだろう、と私は信ずる」などといっているのは、今日でもまだ十分に定着した考え方ではないから、いわんや戦前の社会が、驚愕したのも無理はない。しかし思想がどんなものであれ、思想として研究され、発表されるのは自由でなければならないという、学問の自由の見地からいうと、この種の異端には少しも騒がないのが、大学である。シカゴ大学総長のハッチンスや、科学者のジョン・デューイなどをはじめとして、カリフォルニア人学のスプロール総長まで、敢然としてラッセル擁護に立上ったのは、自然であった。私はアメリカの社会が、自由のために、これほど毅然とした態度をとったこと、ことに外国人であるラッセルを、学問自由の原理の例外としないで守ったことに深い感銘をおぼえた。そうして丁度、戦争前夜の日本、(皇紀)紀元二千六百年で翼賛思想一色に塗りつぶされている日本に、この小文を送ったのであった。
 その秋ハーバード大学に招かれたラッセルの講演を、私は聞いた。白髪痩躯の老人の熱弁に、内容はよく解らなかったが、私は全く圧倒された。あれから丁度三十年、今その計報を耳にして感慨あらたなものがある。