碧海純一「同胞愛に半生を捧げた哲学者(バートランド・ラッセル)」
* 出典:『革新』n.63(1975年10月号)pp.179-187.* 碧海純一氏(あおみ・じゅんいち,1924~ )略歴
*碧海純一氏は執筆当時、東大法学部教授
私の生涯を支配してきたのは、三つの単純な、しかし、圧倒的に強い情熱であった。愛への憧憬、知の探求、そして人類の苦悩に対する堪え難い同情の心がそれである。この三つの情熱は、颶風(ぐふう:強く激しく吹く風。もと気象用語で、風速32.7メートル以上の強風のこと)の如く私を吹きまわして苦悶の深海の上をここかしこと彷徨(ほうこう)させ、絶望の極まで追いやってきたのてある。(『バートランド・ラッセル自伝』第1巻(1967年)プロローグより)
我々が求むべき世界は次のような世界でなければならない。--すなわち、そこでは、創造的な精神が躍動し、また、そこでは、人生は歓喜と希望に満ちた冒険であり、その基礎を成すのは、自分の所有物を手離すまいという気持や他人の所有物を奪おうとする欲求よりは、むしろ、建設への衝動であるような。それは、愛情が存分に発揮され、愛が支配本能から解放され、残酷な心や羨望に代わって幸福が存在し、そして、人生の真髄であり人生を精神的な歓びで満たしてくれる一切の本能を自由に伸ばすことができるような世界でなければならない。このような世界は本当に可能なのである。人々がこのような世界を創ろうという気持ちにさえなるならば。『自由への道-社会主義、無政府主義、シンディカリズム』(1918年)より
1.少年時代
バートランド・アーサー・ウィリヤム・ラッセル(1872.5.18~1970.2.2)は、ヴィクトリア朝のイギリスの代表的な貴族の家に生を享け、九七年余の長寿と驚くべき活力とにめぐまれて,学問の上でも実践の面でも,文宇どおり古来稀に見るほど充実した生涯を送った思想家であり、疑いもなく今世紀のもっとも偉大な人物のひとりである。ラッセルの両親はたまたまかれの幼時に若くして逝ったが、ラッセル家はもともと長寿の家系だったようである。「長生きの秘訣」と題する愉快な随筆のはじめのところで、一番肝要なのは「自分の先組をうまく選ぶこと」である、とかれは記しており、この点では自分は成功したようだと自慢している。かれの遠い先祖の中にひとり若死にしたウィリヤム・ラッセル卿という人物がいたが、この人は王様(チャールズ二世)に反抗して首を斬られるという「現代では珍しい病気」で命を落したので、ほかの人々は大体やはり長命であったらしい。
幼にして両親を相次いで喪ったラッセルは、父方の祖父ジョン・ラッセル卿(初代ラッセル伯:1792~1978)夫妻の邸(ヴィクトリア女王から授かったロンドン郊外のペンブローク・ロッジ)で育てられたが、この祖父はイギリスのもっとも著名な家柄であるベッドフォード公爵家の出で、二度にわたって宰相の印授を帯び、有名な選挙法改正に当っても指導的な役わりを果たした大政治家であった。
何しろ,この祖父は若いころナポレオン一世にち会ったという世代の人であり、孫のバートランド自身も担父の邸でヴィクトリア女王の行幸を迎えたり、グラッドストンが祖母を訪れたおりに接待役をつとめたり、詩人ロバート・ブラウニングと席をともにしたりしたというのだかち、ラッセルがその出生においていかに古い時代に属する人吻であったかがよくわかる。
稀な長寿に恵まれたラッセルは、後期ヴィクトリア朝のイギリスの精神的風土の中で青少年時代を過し、二次にわたる世界大戦とその間にはさまれた不安定な戦間期とを体験し、さらに第二次大戦後の激動の四半世紀を眼のあたりに目撃して人類の未来に思いを馳せつつ、一世紀にも及ぶ生涯を終えた。
もし断簡零墨(だんかんれいぼく)まですべてを網羅した「ラッセル全集」を編集するとすれば、おそらく普通のサイズの書物にして少なくとも百巻は下らないと思われるほどかれは多くの著作を残したが、ただ長生きと多作だけを問題にするならば、ラッセルに比肩しうる人もないわけではない。しかし、その業績の重要さ、独創性、影響力、みずからの時代と社会的背景(特に、かれの場合には、ヴィクトリア時代にイギリスもっとも著名な貴族の家に生まれたという事情)に対する高度の独立性と先見力と視野の広さ、などを総合的に評価するならば、ラッセルに匹敵する人物は洋の東西を問わず、古来稀であったと私は確信している。
神の存在に疑いをもつ
イギリスの貴族社会では、イートンやハロウなどに代表される全寮制のパブリック・スクールに子弟を入れるのが普通であるが、ラッセルの祖母(祖父はかれが六歳のころ世を去った)は、バートランドが一八歳でケンブリッジ大学に入るまで、自分の膝下(しっか)で愛孫を育てる方法を選んだ(なお、かれにつけられた家庭教師の中にはドイツ系の人がおり、そのため、ラッセルはドイツ語に堪能となり、後年、ドイツ社会民主主義の研究のために渡独した時も、これが非常に役に立った)。この厳格な祖母レイディ・ジョンは清教徒的な雰囲気の中で孫を訓育したが、少年バートランドは、長ずるにしたがって、一面ではピューリタニズムおよび一般にキリスト教の信仰にまず疑いを抱き、さらにそれに強く反対するようになったが、他面で、祖母の信心がかれの性格形成に深い刻印を残したことは疑えないようである。
バートランドが十二歳になったとき、レイディ・ジョンは愛孫に-冊の聖書を贈ったが、その扉にはつぎの語句が書き記してあった。
「群集のなす悪事に追随する勿れ」(Thou shalt not follow a multitude to do evil
- 東洋の格言の中にこれにもっとも近い句を求めるならば、「自ら省みて直(なお)くんば、千万人と雖も(いえども)我往かん」というのがある)。この簡潔な格言は、その後の八十五年間におけるラッセルの強靭な正義感と不屈の反骨精神を集約的に表現している。
しかし、何事につけても他人に頼らずに、みずから徹底的に問題を考え抜いて納得の行くまでは決して妥協しないラッセルは、すでに少年時代に、まず霊魂不滅の教義に疑いを懐き、ついで神の存在までも否定するようになった。かれの無神論と既成宗教に対する批判はその後も終生ゆるがなかったが、あるきわめて重要な意味において、ラッセルの社会思想がキリスト教や仏教と基本的に相通ずるものをもっていたことを、ごこで特に指摘しておきたい。
かれが、晩年、いろいろな機会に述懐しているように、キリスト教の根幹をなすところの、同胞に対する惻隠の情(あるいは仏教における「慈悲」)こそ、かれの社会思想と、不ぎょう不屈の人道的実践活動を鼓舞してきた心理的源泉なのであった。(本稿冒頭の引用文を参照)。権威と権力の組織としての教会や神学の教義に対しては忌憚ない批判を加えたラッセルも、心情と倫理的確信の面では、釈迦やキリストに近いものをもっていたように思われる。
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2.学生時代と社会民主主義論
1890年の秋、ラッセルは十八歳でケンブリッジ大学のトリニティ・コレジに入学し、アカデミックな生活への第一歩をふみ出すことになった。ここで、かれは年長者の中では特にホワイトヘッド(A. N. Whitehead)、同年輩の中ではムーア(G. E. Moore)、トレヴェリアン三兄弟(政治家 Chales, 詩人 Robert,歴史家 George Trevelyan)のように、後にそれぞれ著名となった人々と交わりを結ぶことになった。ケンブリッジでの学生時代から第一次犬戦にいたる時期におけるラッセルのもっとも重要な学問的関心事は数学基礎論と論理学であり、この方面でのかれの業績は、ホワイトヘッドとの共同執筆にかかる記念碑的な大著『数学原理(プリンキピア・マテマティカ)』(三巻、1910年~1913年)において結晶することになる。このような抽象的で純理論的な専門分野の研究に没頭すると同時に、かれの眼はすでに早い時期から社会の諸問題に対しても向けられていた。ラッセルは、偶然に邂逅(かいこう)した アメリカ系の女性アリス・ピアサル・スミス(彼女のほうが五歳年長であった)と恋仲になり、ついに一八九四年十二月(ラッセル22歳)に結婚することになるのであるが、ピァサル・スミス家を通じて、当時のフェイビアン協会(Fabian Society)の中心メンバーであったウェブ夫妻(Sydney Webb と Beatrice Webb)と知り合い、さらに、ウェルズ(H. G. Wells)やバーナード・ショー(George Bernard Shaw)とも親しくなり、こうして社会主義の諸問題に深い関心を抱くようになった。
結婚後まもなく、一八九五年のはじめに、ラッセル夫妻はカイザー治下のドイツ帝国を訪れ、かれは持ち前の凝り性と探求心を存分に発揮して、当時のドイツの社会民主主義を徹底的に研究した。その成果がかれの処女出版『ドイツ社会民主主義論』(一八九六)である。この書物は、約七〇年後!(← 注:碧海がつけたビックリマーク)の一九六五年に、まったく手を加えることなしに重版されているが、その際にラッセル自身が寄せた「はしがき」には、こう記してある。
本書は約七〇年に書かれたものであるが、この七〇年間に多くのことが起こり多大の変化が生じた。私が本書を書いたころは、カイザーがその栄光の絶頂にあった。カイザーとその政府とは社会民主主義者たちに対して激しい敵意を示していたし、社会主義者のほうもその敵意を利息までつけて返していた。そのころの〔ドイツの〕社会民主主義者は完全に正統派のマルクス主義者であって、ドイツに革命が起こってそれによってこの国が社会主義共和国になることを希求していた。この書物は、六回の講演の原稿をもとにしたものであるが、その第一講と第二講とにおいて、著者はそれぞれマルクスとフェルディナント・ラサールとを論じている、かれのマルクスに対する評価は基本的にはきわめて高く、たとえば『共産党宣言』については、つぎのような評言が見られる。
本書の執筆に当たって私がとった立場は、正統派の〔イギリス〕自由党員としての立場であった。私は1914年になってはじめて労働党に入党したのである。〔重版に当たって〕自分の今日の見解に合致させるようなしかたで本書に手を加えることを私はまったくしなかった。私は、本書を、その中で往時の著者が往時の世界について述べているところの、ひとつの歴史的ドキュメントとして、(もとのままの姿で〕残す態度をとったのである。
・・・。マルクスおよびエンゲルスがその人生哲学を表明するために公けにした最初の偉大な作品は、一八四七年にロンドンで開催された国際共産主義会議の求めに応じて提出された『共産党宣言』である。この作品は文学的価値においてほとんど比類ないものであり、剰余価値説を除く(除いて)マルクスの政治的・歴史的信条の要点をつくしており、しかも『資本論』のもつ退屈な経済学的・へーゲル的街学(げんがく)はここには見られない。簡潔な雄弁、寸鉄人を刺す機知、歴史的洞察の点で、これは古今の改治文献中最高のもののひとつである、と私は信ずる。・・・。共産主義が何であるかを、この『宣言』は簡勁(かんけい)な表現で述べている。(『ドイツ社会民主主義論』一九六五年、アレン社版、p.10より)『共産党宣言』に対するこのような絶賛とくらべると、『資本論』に対するラッセルの評価にはかなりきびしいものがある。上に引いたパッセージのすぐあとのところで、かれは『資本論』で扱われている剰余価値説にふれている。
この雄篇は唯物史観のもつ叙事詩的な追力をすでにことごとく具えている--すなわち,その冷酷で感傷を交えない宿命観を、道徳と宗教に対する蔑視を、はたまた、あらゆる社会関係を非人格的な生産諸力の作用に還元してしまうやりかたを。・・・。マルクスには、正義や美徳の問題はなく、また人間の同情や道徳への訴えもない。力(マイト)のみが正(ライト)であり、共産主義の正しさの根拠はその不可避の勝利に求められる。(同書、pp.13-14.)
・・・。剰余価値説は、単に誤まっているだけでなく、資本の集中に関するマルクスの理論にとって不必要であるというよりは、むしろそれと矛盾するものであるとすらいえる。ゆえに、剰余価値説はかれの業績の価値にあまり寄与しない理論である。剰余価値説に対するこのようなきびしい批判にも拘らず、ラッセルのこの処女作『ドイツ社会民主主義論』は、全体として、マルクス理論およびそれに立脚する当時のドイツ社会民主主義に対する著者の深い理解と共感を読者に伝える書物である。本書がわずか24歳のイギリスの、しかも貴族出身の青年の筆に成るものであるということ自体がほとんど信じがたい事実であるが、さらに重要なことは、後年主として職業的な哲学者・論理学者として高い名声を博したラッセルの社会問題に対する深い関心と探求がすでにこの時期にはじまっていた、ということである。
〔剰余価値説は〕論理的必然性から出たものではなくて、むしろ、資本のもつ邪悪な性質を証明しようとするマルクスの欲求に由来するもののように思われる。(同書、pp.15-16.)
・・・ゆえに、大抵の社会主義者がマルクスの普及の名声の根拠と見なしているところの「剰余価値の大発見」が理論上妥当なものとは到底考えられないのである。(同書、p.24より)
すでにこの初期の著作において、ラッセルがマルクス主義とその信奉者に見られる宗教的な要素を指摘しているのも、また興味ある事実である。マルクス主義の歴史に見られる宿命論が当時のドイツ社会民主主義に「宗教的な信念と力」を賦与していることを示唆しつつ(同書p.6)、「資本主義社会が宿命的に破滅するものであり、共産主義国家の到来が運命的な必然であるという、すべての正統マルクス主義に共通の信念には、ほとんど東洋的とも形容すべき色彩が見られる」とかれは述べている。(同書、pp.6-7.)。 この宿命論的な(又は「終末論的」な)傾きは、マルクスが主としてへーゲルから受けついだものであったが(へーゲルのマルクスヘの影響については、同書、p.2以下)、学生時代に先輩の導きと当時の風潮のために一時へーゲルの心酔者となり、本書執筆の時点においてもまだへーゲル主義からの脱却を完全には遂げていなかったラッセルは、この点についても比較的寛大な、半ば共感するような筆致で書いている。
しかし、やがて、理論面ではへーゲルに叛旗をひるがえしてそのもっともきびしい批判者に転じ、かつ実践面においても、第一次大戦直後のソヴィエト・ロシアの実情を眼のあたりに見てそこにおける不寛容と抑圧とに幻滅を感じたのちのラッセルは、マルクス主義の擬似宗教的・狂信的・メシア的側面を忌憚なく糺弾するようになるのである。
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3.第一次大戦と戦間期
『ドイツ社会民主主義論』の執筆から第一次大戦の勃発にいたる約二十年間のラッセルの学問的な関心は、前述の『数学原理』に結実した論理学および数学基礎論の諸問題と哲学プロパーの中心領域ともいうべき認識論とに向けられた。後者の領域でのこの時期のもっとも重要な著作としては、『哲学における科学的方法のための場としての外界の認識』(略して『外界の認識』、一九一四)がある。一九一四年秋の第一次大戦の勃発はかれの生涯におけるきわめて重要な転期を画する出来事であった。本稿の冒頭に引いたかれの自伝中の表現を借りるならば、人類の苦悩に対する堪え難い同上の念が颶風(ぐふう)の如くかれを襲って、荒れ狂う社会的実践の場に誘った、と言ってもよいであろう。大戦中におけるかれの平和運動(その事については、本稿の末尾に掲げる文献を参考)は、まったく個人的利害を超えた献身的な記録であった。自分の敬愛する先輩や友人をふくめて大多数のイギリス人から白眼視されることを百も承知の上で、例の「千万人と雖も我往かん」という祖母の教えを、すでに四十代の半ばに達していたラッセルは、身を以って実践したのである。
そして、大戦が終結に近づいた一九一八年の五月、筆禍事件のために六ケ月の禁固を宣告されたかれは、ロンドンのブリックストン刑務所に収容され、その年の九月まで獄中で暮らすことになる。しかし、このような逆境にあっても、かれのウィットとユーモアとは無尽蔵に発揮されて、友人たちを喜ばせると同時に、刑務所の当局者を困惑させたようである。特筆すべきは、わずか数ケ月の獄中生活の間に、勉強な('勤勉な'の誤記?)ラッセルが有名な『数理哲学序説』(一九一九)を書き上げたほか、いろいろ重要な原稿を完成したことであろう。
大戦はドイツの降伏によって終結したが、ヴェルサイユ体制の重圧がドイツ人の心に「報復の念」を植えつけ、かれらを再び軍国主義に走らせる危険について、ラッセルが戦後いちはやく警告を発していることは注目に値いする。
新生共産主義国に対する失望
大戦の末期、一九一七年十月にロシア革命が起り、ついにレーニンの率いるボルシェヴィキが政権を手に入れたとき、ラッセルは多くのイギリスの進歩的知識人とともに、新政権の誕生を心から祝福した。しかし、戦後、イギリス労働党代表団の客員としてレーニン政権下のソヴィエト・ロシアを訪問し、自分の眼で新生ロシアの実情をつぶさに観察したかれは、大きなショックを受けたことを率直に告白せざるをえなかったのである。
かれの訪ソ体験の成果は『ボルシェヴィズムの実践と理論』(一九二〇/邦訳書名:『ロシア共産主義』)という形で結晶するが、この本はソヴィエト・ロシアに対するどちらがと言えばぎびしい見方を基調としていたために、当時のイギリスの進歩派陣営の中で不評を買い、ラッセルの評判をおとすことになった。しかし、ラッセルは新政権をきびしく批判すると同時に、腐敗した帝政ロシア時代にくらべてソヴィェト・ロシアがいろいろな点でよくなっていることもまた高く評価しているのであって、五十五年後の今日この本を読む者は誰しもかれの観察と判断の公正さに感嘆せざるをえない。
一八九六年の『ドイツ社会民主主義論』において、ラッセルがマルクス主義のもつ宗教的・教義的・終末論的な側面をすでに看破していることは前にも述べたが、イギリスのような最先進工業国にまず革命が起るであろうというマルクスの予言に反してヨーロッパ世界の中の最後進国とも称すべきロシアに起った革命の結果を自分の眼でたしかめたかれは、マルクス主義のこの側面がソヴィエト体制における狂信と抑圧の風潮を生じつつあることを重大な危機感をもって感じとったのであった。
ロシア旅行から帰ってすぐに、北京からの招きに応じて、ラッセルは中国を訪れ、約1年間この国で講義をすることになった。この訪中の成果が『中国の問題』(一九二二)である。この本も、ドイツおよびソヴィエトに関する上述の二著と同じく、中国の国情や思想に関する著者の深い洞察や先見力を示す名著として定評のある業績である。この三著が、独・露・中という三国の専門家とは必ずしも言えない著者によって、しかも比較的短い期間の研究や観察にもとづいて書かれたこをと想起するならば、読者はラッセルの卓越した能力に対して脱帽せざるをえない。(ラッセル伝の著者、故・アラン・ウッドによれば、中国問題の権威、C.P.フィッツジェラルドは『中国の問題』を口を極めて激賞したそうである。私の尊敬おく能わざる先輩でやはり中国に関する権威である坂野(ばんの)正高教授が私に洩らされたところによると、この本は今日なお味読に値する名著である、とのことであった。)
中国に対して全体としてきわめて好ましい印象を受けて帰国の途についたラッセルは、途中(一九二一年夏)、ごく短期間、日本にも立寄るが、当時の日本、特に官憲や報道機関、に対するかれの評価は最低であった。(かれに好印象を与えた小数の日本人のひとりは大杉栄であった。(松下注:ラッセルが『自伝』で言っている好感をもった唯一の日本人は「伊藤野枝」である。碧海氏の勘違いか?))
帰国後、ラッセルは、政界の名門であった生家の伝統を継いで(しかし、自由党ではなく、労働党の候補として)ロンドンのチェルシーの選挙区から下院の選挙に二回にわたって立候補して、幸か不幸か二度とも落選し、このころから第二次大戦の勃発にいたる約一五年間(一九二三~一九三九)、波乱に富むかれの生涯の中では比較的静謐(せいひつ)な環境のもとで、研究・思索・著作に没頭する。事実、この一五年間はかれの著作活動がもっとも活発な時期であった。
この時期の多彩な著書の中でも、かれの社会思想を知る上で特に重要なものとしては、『産業文明の将来』(一九二三)、『自由と組織、一八一四年から一九一四年まで』(一九三四)、『権力論』(一九三八)などがあげられる。『自由と組織』の第二部では、マルサス、ベンタムからマルクス、エンゲルスにいたる社会思想が紹介・論評されており、これらの思想家に対する当時のラッセルの見解を知る上で興味がある。この書物でも、また『権力論』においても、唯物史観に見られるところのあまりにも一元主義的・単線的な歴史把握に対するラッセルの批判の一端を窺うことができる
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4.第二次大戦と戦後
一九三八年の秋、アメリカの諸大学の招きで渡米したラッセルは、翌年勃発した第二次世界大戦をアメリカで迎えることになり、シカゴその他で講義を終えたのち、一九四一年からニューヨーク市立大学の教授に就任する予定であった。ところが、セックスの問題についてそれまでにかれが公けにしていた意見が「醇風美俗(じゅんぷうびぞく)に反する」という理由で反対運動が起こり、訴訟の結果、ラッセルの任命は取り消されてしまった(いわゆる「B.ラッセル事件」)。こうして、ラッセルは第二次大戦中も異郷で苦難の生活を送ることになるが、後世の史家にとって特筆すべきことは、こうしたトラブルが間接の機縁となって、かれの大著『西洋哲学史』(一九四五)が生まれたという事実である。
職業的な哲学史家の立場からきびしく批評するならば、必ずしも学説史・思想史の専門家ではないラッセルが逆境にあって数年間で書き上げたこの書物には、いろいろな欠点も多い(たとえば、カントに関するかれの論評がいささか公正を欠くものであることは、ラッセルの崇拝者である私のような人間も認めざるをえないところである。
しかし、こうした'瑕瑾'(かきん)にもかかわらず、『西洋哲学史』はラッセルが後世に残したもっとも偉大な遺産のひとつであると私は信じている。それほどこの書物は独創的・啓発的・挑戦的な業績であり、同時にラッセルの他の多くの作品と同じく、文体論的見地から見ても、簡潔・明快でしかも機知と諧謔に富む散文の典範としても無類の価値を持つものである。特に、プラトン、ヘーゲル、およびマルクス(特にかれのヘーゲル的側面)に対するラッセルの論評は、この三人の思想家が絶大な影響を後世に与えてきただけに、格別の重みを有している。
第二次大戦の末期にイギリスに帰ったラッセルは、終戦の年(一九四五)にはすでに七三歳の高齢に達していた。四十代の松尾芭蕉を「翁」と呼んだ東洋的伝統から見れば無論のこと、現代的基準から考えても、当然、悠々自適の生活に入ってよい年齢である。しかし、それから九七歳余で没するまでの四半世紀を通じてからが人類の将来のために、第一次世界大戦中の献身的な平和運動も勝るとも劣らないほどの、全身全霊をこめた活躍をしてきたことは、今日わが国でもあまねく知られているところである。
一九五〇年にはノーベル文学賞とイギリス勲功賞とを授与されたが、晩年のラッセルの名を世界中にとどろかせたのは、何と言ってもかれの精力的な核兵器禁止運動であった。一九五五年の「ラッセル=アインシュタイン声明」、パグウォッシュ会議、九十歳を越えてからロンドンの街頭で抗議のすわりこみを敢行して警察に連行されたことなど、いずれも戦後の歴史に残る事件であった。
ラッセルの半世紀余にわたる反戦活動に対しては、もとよりさまざまの評価が可能である。(たとえば、その「一貫性」にもいろいろな解釈があるが、この点については、拙著『ラッセル』(一九六一、後出文献表参照)で私見をのべておいた。) しかし、少なくともひとつのことは確実に断言できる。
数学基礎論、記号論理学、認識論、科学哲学、哲学史のような専門分野において画期的な業潰を残したばかりでなく、教育、結婚、人生論、文明論などの面でも、全世界の教養ある人々に絶大な影響を与え、さらに珠玉のような随筆や推理小説のジャンルにおいても八面六臂の活躍をしたこの巨人をして、その半世紀にも及ぶ後半生を通じて、みずからの個人的安逸はおろか、ときには名声さえも犠牲にして悔いることなく、人類の将釆のために身を捧げしめたものは、かれみずからも述懐しているように、同胞に対する'愛'と'側隠の情'であった、ということである。
あとがき
ラッセルは基本的に民主社会主義者であった、と私は信じている。この点については、拙著『合理主義の復権』(木鐸社、一九七三年)の第一部でややくわしく論じておいた。ラッセル最晩年の、見方によっては'矯激'で「新左翼的」とすら受けとられかねないキャンペインがこの点でやや誤った印象を世間に与えているのは残念である。ヴェトナムにおけるアメリカの軍事介入を非難したことはラッセルのそれまでの態度から見ても首肯できるところであるが、私にとってひとつ納得の行かない点は、「文化大革命」のころ絶頂に達した中国における集団的狂信と個人崇拝に対して、自由主義者・民主主義者でありかつ不世出(ふせいしゅつ)の懐疑家であったラッセルが、ついに一言の抗議も発することなく世を去ったという事実である。(松下注:「抗議声明」を発表したかどうかは不詳であるが、たとえば,1967年の1月あるいは1966年12月末頃,ゲオフリー・ムーアハウスがラッセルにインタビューした時に,ラッセルは次のように語っている。「中国人が今の怒りに狂った気分にいる限り、扱いにくいのではないか。数年前、彼らが文明人だったころなら、国連に参加させることで処理できただろうけど、今はとても文明人とはいえない。・・・。」)ラッセル(特にかれの社会思想)を知るための文献は非常に豊富であるが、ここではつぎのものをあげておきたい。
[参考文献]
A.ラッセル自身の著作
『自伝的回想』(中村秀吉・訳)、『自由と組織』(大淵和夫・鶴見良行・共訳)、『権力』(東宮隆・訳)、『西洋哲学史』(市井三郎・訳)、『懐疑論集』(東宮隆・訳)
以上はすべてみすず書房刊
『社会改造の諸原理』、『自由人の信仰』その他(一冊にまとめられた邦訳/市井三郎,中村秀吉・共訳/河出書房刊『世界の大思想』第26巻
B.ラッセルに関する研究書
アラン・ウッド著『バートランド・ラッセル-情熱の懐疑家』(碧海純一訳、みすず書房/ただし、絶版)
『ラッセル』(勤草書房、『思想学説金讐』)//