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市井三郎(解題)「(ラッセル)自由人の信仰」

『世界の大思想v.26:ラッセル』(河出書房新社,1966年 415pp.) pp.375-376.
* 原著:A Free Man's Worhisp. In: The Independent Review, Dec. 1903.
* Thomas Bird Mosher, 1923.
* (故)市井三郎氏略歴

解題(市井三郎)


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 これはもともと一九〇三年十二月、「ジ・インディペンデント・リヴュー」誌に寄稿された論文であり(松下注:執筆されたのは1902年)、そののち一九一〇年刊行のラッセルの著書(Philosohical Essays)および一九一八年刊行の論文集(Mysticism and Logic)にも、それぞれ再録されたものである。頭記の通り、一九二三年にはアメリカのモッシャー社から、この論文だけが二八頁の小冊子として公刊されている。

 本巻の「解説」に述べた通り、早くから両親を失って、進歩的ではあるが敬虔なキリスト教徒であった祖母に育てられたラッセルは、強い宗教的雰囲気を身につけて成長した。ところが二十歳になるまでに、知的な懐疑をキリスト教の信条に向けるようになり、後年には本巻に収められた『社会再建の諸原理』(「宗教」の章)や『なぜわたしはキリスト教徒でないか』に見られるように、よりひろい視野から、キリスト教と明確に訣別(決別)するにいたる。そのかれが、自由な人間として -つまり既成のいかなる宗教的教条にも拘束されずに- 何を信仰するかを述べたものがこの一篇なのである。
 そのような『自由人の信仰』は、一九〇一年の初めに、突如としてラッセルをとらえるにいたったのだという。この一篇の冒頭では、メフィストフェレス(悪魔)がファウスト博士に語りかけて、宇宙の無意味さを説くという戯曲的手法が用いられているが、そのメフィストフェレスの語り口は意外に科学的である。意識なく目的のない自然の盲目的な法則性、しかもその自然の一部としてある人間(外的存在として)とその社会、その社会に倫理意識から見て圧倒的に悪が認められるというのであれば、盲目的法則性や必然によればその悪が通常のことなのだ、と考えざるをえない。
 そこに事実的に支配している力 -しばしば悪を現出する力- を、われわれは崇拝(信仰)すべきか、それとも善性(われわれの倫理意識)を崇拝すべきであろうか、と設問するラッセルは、敢然として後者をとる。しかも一切の、超自然的な神の概念を排除してそうするのである。たいていの人間をとりまいている深刻な孤独、この孤独を紐帯として、自由人は連帯的ないたわり(愛)をもちあうべきだ、という『自由人の信仰』は、その情緒からして高度に宗教的であることを、読者は感得されるであろう。それは、神なきキリスト教、あるいは二十世紀の仏教(かれはキリストより仏陀をより高く評価するという)、といった形容をするよりも、やはり当分は少数派であるほかはない「自由人」の「宗教」なのであろう。