市井三郎「(バートランド・ラッセル)なぜ私はキリスト教徒でないか」解題」
* 出典:『世界の大思想v.26:バートランド・ラッセル』(河出書房新社,1966年 415pp.)pp.377-378.* 原著:Why I am not a Christian. London; Watts & Co., 1927.
* (故)市井三郎氏略歴
解題(市井三郎)「(ラッセル)なぜ私はキリスト教徒でないか」
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一九二七年に初出版された原型の小冊子は、わずか三一頁にすぎないにもかかわらず、多くのラッセル研究家がかれの主要著作の一つとしてあげている。それはいわれのないことではない。キリスト教が教会というかたちに制度化(つまり形骸化)し、それが政治とむすびつくとき、キリスト自身の倫理的教えとまさに相反する諸帰結をヨーロッパ社会のうちに産み出してきたことの意識は、過去半世紀のうちにヨーロッパ人自身のあいだにいちじるしくひろがってきた。そのような意識の変化をもたらすに当って、ラッセルのこの小著が果たした歴史的役割はけっして少なくないのである。
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ラッセルの最初の夫人はクェイカー教徒 -十七世紀にイギリスで始まったキリスト教の一派で、教会・牧師制を否認し、教義的独断からもっとも自由であるとともに、日常倫理的実践をもっとも重視する派- であり、また第一次大戦への、反戦運動にさいして、かれはクェイカー教徒たちを含めた多くのキリスト教平和主義者とも緊密に協力している。したがってラッセルは、キリスト教がそのようなあらわれ方をするかぎりにおいて、けっしてそれを否認するものではないのだが、この小篇でラッセルが痛烈に立ち向う相手は、一つにはキリスト教神学の知的虚偽であり、第二には、新約聖書にさえあらわれる道徳的欠陥--それを福音書が描くキリストの人格の問題、というかたちで扱っている--についてである。
その二つが結合したときに、「どのように教会は進歩を阻止したか」を述べるラッセルの筆致は、まさに生命をかけた白刃を思わせるものだが、この点をさらにふえんしたかれの言論は、一九三〇年の『宗教は文明に有益な貢献をしたか』、一九三五年の『宗教と科学』などに、よりよく見ることができる。ラッセルはこれらの言論のために、いくたびか代価を払わせられた。そのことを含めて、この知的勇気の結晶たる一篇は読まるべきだろう。