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バートランド・ラッセル『ヒューマン・ソサエティ-倫理学から政治学へ』- Human Society in Ethics and Politics, 1954

* 原著:Human Society in Ethics and Politics, 1954
* 邦訳書:バートランド・ラッセル(著),勝部真長・長谷川鑛平(共訳)『ヒューマン・ソサエティ-倫理学から政治学へ』(玉川大学出版部,1981年7月刊。268+x pp.)

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序論 n.6

Human Society in Ethics and Politics, 1954, introduction, n.6

 

 すべて人間は、生まれ出て最初の数日を経れば、二つの要因の所産となる。すなわち、一方には、人間生来の 天分があり、もう一方には、教育をも含めて、環境の影響力がある。これら二つの要因のうちどちらがより重要 かについては、はてしない論争が続けられてきた。十八世紀及び十九世紀初頭の、ダーウィニズム(進化論)以 前の改革者たちは、ほとんどすべてを教育に帰したが、しかし、ダーウィン 〔一八〇九八二] 以降は、ずっと 環境に対立するものとしての遺伝に力点を置く傾向がある。もちろんこの論争も、もっぱら、これら二つの要因 の重要性の程度如何に関わることになろう。そのおのおのがそれぞれの役割を演ずることは誰でも認めざるを得 ない。論争中の問題について何らかの結論に到達しようと試みなくても、われわれは、成人の行動を決定する衝 動と欲望が、かなりの程度その人が受けた教育と与えられた機会とに依存するものであることを、自信をもって 主張できそうである。このことが重要になってくる所以は、次の事実にある、すなわち、衝動には、それが二人 の人間に、ないしは二つの人間集団に見出される場合、一方の満足が他方の満足と両立しないために、本質的に 闘を伴わざるを得ないようなものがあるし、一方、衝動および欲望のうちには、一方の個人ないし集団の満足 が、他方の個人ないし集団」の満足を助長するか、少なくとも妨げにはならないようなものもある、という事 実である。 同様の区別は、程度こそずっと落ちるが、個人の生活にも、あてはまる。今夜は酒びたりになりたい が、明朝は、自分の能力を最高潮にあってほしいと思うことがあるとする。こういう欲望同士は、互いに他の妨 げになる。 ライプニッツの可能的世界の説から用語を借用すれば、われわれは二つの欲望ないし衝動を、それら が共に満足させられ得るときには 「両立型 compossible」 と呼び、一方の満足が他方の満足と両立し得ないときに。治的行動の大部分は、もとをただせば、これら四つの動機、並びに、生存に必要なものからきているといえる。 すべて人間は、生まれ出て最初の数日を経れば、二つの要因の所産となる。すなわち、一方には、人間生来の 天分があり、もう一方には、教育をも含めて、環境の影響力がある。これら二つの要因のうちどちらがより重要 かについては、はてしない論争が続けられてきた。十八世紀及び十九世紀初頭の、ダーウィニズム(進化論)以 前の改革者たちは、ほとんどすべてを教育に帰したが、しかし、ダーウィン 〔一八〇九八二] 以降は、ずっと 環境に対立するものとしての遺伝に力点を置く傾向がある。もちろんこの論争も、もっぱら、これら二つの要因 の重要性の程度如何に関わることになろう。そのおのおのがそれぞれの役割を演ずることは誰でも認めざるを得 ない。論争中の問題について何らかの結論に到達しようと試みなくても、われわれは、成人の行動を決定する衝 動と欲望が、かなりの程度その人が受けた教育と与えられた機会とに依存するものであることを、自信をもって 主張できそうである。このことが重要になってくる所以は、次の事実にある、すなわち、衝動には、それが二人 の人間に、ないしは二つの人間集団に見出される場合、一方の満足が他方の満足と両立しないために、本質的に 闘争を伴わざるを得ないようなものがあるし、一方、衝動および欲望のうちには、一方の個人ないし集団の満足 が、他方の個人ないし集団」の満足を助長するか、少なくとも妨げにはならないようなものもある、という事 実である。 同様の区別は、程度こそずっと落ちるが、個人の生活にも、あてはまる。今夜は酒びたりになりたい が、明朝は、自分の能力を最高潮にあってほしいと思うことがあるとする。こういう欲望同士は、互いに他の妨 げになる。 ライプニッツの可能的世界の説から用語を借用すれば、われわれは二つの欲望ないし衝動を、それら が共に満足させられ得るときには 「両立型 compossible」 と呼び、一方の満足が他方の満足と両立し得ないときに「葛藤型」と呼ぶことができるだろう。もし二人の人間が二人ともアメリカ合衆国の大統領候補であったならば、いずれか一人は失意を余儀なくされる。しかし、二人の人間のうち、一人は綿花を栽培し、もう一人 は綿布を製織して、共に金持ちになりたいというのであれば、二人が相共に成功しないという理由はない。別別の個人ないし集団の目的が両立しうる世界の方が、葛藤のある世界よりもより幸福でありそうだ、ということは明白である。したがって、「両立しうる世界という〕この目的を目ざす教育と社会体制によって、両立しうる目的を奨励し、葛藤する目的を阻止することは、賢明な社会体制の役割であるはずだ、ということになる。


Every human being, after the first few days of his life, is a product of two factors: on the one hand, there is his congenital endowment; and on the other hand, there is the effect of environment, including education. There have been endless controversies as to the relative importance of these two factors. Pre-Darwinian reformers, in the eighteenth and early nineteenth centuries, attributed almost everjnhing to education; but, since Darwin, there has been a tendency to lay stress on heredity as opposed to environment. The controversy, of course, can be only as to the degree of importance of the two factors. Everyone must admit that each plays its part. Without attempting to reach any decision as to the matters in debate, we may assert pretty confidently that the impulses and desires which determine the behaviour of an adult depend to an enormous extent upon his education and his opportunities. The importance of this arises through the fact that some impulses, when they exist in two human beings or in two groups of human beings, are such as essentially involve strife, since the satisfaction of the one is incompatible with the satisfaction of the other; while there are other impulses and desires which are such that the satisfaction of one individual or group is a help, or at least not a hindrance, to the satisfaction of the other. The same distinction applies, though in a lesser degree, in an individual life. I may desire to get drunk tonight and to have my faculties at their very best tomorrow morning. These desires get in each other’s way. Borrowing a term from Leibniz’s account of possible worlds, we may call two desires or impulses “compossible” when both can be satisfied, and “conflicting” when the satisfaction of the one is incompatible with that of the other. If two men are both candidates for the Presidency of the United States, one of them must be disappointed. But if two men both wish to become rich, the one by growing cotton and the other by manufacturing cotton cloth, there is no reason why both should not succeed. It is obvious that a world in which the aims of different individuals or groups are com- possible is likely to be happier than one in which they are conflicting. It follows that it should be part of a wise social system to encourage compossible purposes, and discourage conflicting ones, by means of education and social systems designed to this end.