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バートランド・ラッセル『ヒューマン・ソサエティ-倫理学から政治学へ』- Human Society in Ethics and Politics, 1954

* 原著:Human Society in Ethics and Politics, 1954
* 邦訳書:バートランド・ラッセル(著),勝部真長・長谷川鑛平(共訳)『ヒューマン・ソサエティ-倫理学から政治学へ』(玉川大学出版部,1981年7月刊。268+x pp.)

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『ヒューマン・ソサエティ』第5章:部分的善と一般的善

Human Society in Ethics and Politics, 1954, chapter 5: Partial and General Goods, n.22


 第三の理論 -それによれば各人が自分の集団だけに関心を持つべきであるという理論- は、それなりに現実的な知恵を持っている。私はおそらく、中央アフリカのどこかの家族のためよりも、自分の家族のためにできることが多いだろう。したがって、ジェラビー夫人(注:C. ディケンズの小説「Bleak House(荒涼たる屋敷)」に登場する架空のキャラクターで、ジェラビー夫人は慈善活動に没頭している一方で、自分の家庭や子供たちの世話を怠っていた。)は間違っている。しかし、世界が相互の結びつきを強めるにつれ、そのような考えの範囲はますます限られてくる。世界の食糧供給が十分でないとき、もし私が他国のニーズを考慮することを拒否する大衆の一員であれば、何百万もの人々にゆっくりとした痛みを伴う死をもたらす手助けをすることになる。この教義は、エゴイズムの極端な形を除けば、論理的に尊重できるものではなく、このエゴイズムの極端な形では、本章の冒頭で見たように、人間の本性に忠実ではない。結論として、これまでのところ、行為の正しい目的として一般的善に取って代わることが合理的であるような、定義可能な部分的善は見つかっていない。しかし、このことは道徳的義務という問題を提起することになり、それは事象で検討されるだろう。
 

The third theory, according to which each man should cocern himself exclusively with his own group, has a certain measure of practical wisdom. I can probably do more for my own family than for some family in Central Africa, and therefore Mrs. Jellaby was misguided. But as the world grows more interconnected the scope of such considerations becomes more and more limited. When the world’s food supply is inadequate, if I am part of the public that refuses to consider the needs of other countries I am helping to bring a slow and painful death to millions. The doctrine is not logically respectable except in the extreme form of egoism, and in this form, as we saw at the beginning of this chapter, it is not true to human nature.
I conclude that, so far, we have found no definable partial good which it is rational to substitute for the general good as the right end of action. But this raises the question of moral obligation, which will be considered in the following chapter.