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バートランド・ラッセル『ヒューマン・ソサエティ-倫理学から政治学へ』- Human Society in Ethics and Politics, 1954

* 原著:Human Society in Ethics and Politics, 1954
* 邦訳書:バートランド・ラッセル(著),勝部真長・長谷川鑛平(共訳)『ヒューマン・ソサエティ-倫理学から政治学へ』(玉川大学出版部,1981年7月刊。268+x pp.)

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第3章:手段としての道徳 n.6

Human Society in Ethics and Politics, 1954, chapter 3: morality as a means, n.6


 あるいは、近親相姦の禁止を取り上げてみよう。たとえば、原子爆弾が世界の人口を、兄(あるいは弟)一人、妹(あるいは姉)一人にしてしまったとしたらどうだろうか? 彼らは、(近親相姦は絶対ダメだということで)人類が滅び去るままにしておくべきだろうか? 私には答えがわからない。 しかし、単に、近親相姦が邪悪なことだという根拠だけでそれが肯定されうる、とは私は考えない。

 このような倫理的な問題(倫理的ジレンマ)(casuistical problems)には終わりがなく(問題がつきることなく)、答えが理論的に可能になる唯一の方法は、 明らかに、行為が役立つ目的を見出し、そうして、その行為がその目的を助長するものとされるときに、その行為を「正しい」と判断することである。

 私達はこのようにして、倫理学の根本概念として、「正しい(right 正義)」「間違っている(wrong 悪)」よりもむしろ「良い (good)」「良くない (bad)」へと導かれる。 この見方においては、「正しい」行為とは「良い(もの)」への手段である行為である。この見解は功利主義者と結びついており、彼らは、「正しい」行為とは「有益な」行為であると主張した。功利主義者はさらに進めて、行為は一般の幸福ないし快楽を促進するとき「有用」である(有益となる)と主張した。しかし、当面、私は、この一歩進んだ命題(注:「行為は一般の幸福ないし快楽を促進するとき「有用」である」)の方は考察しないことにする。私が(今)考えているのは「正しい」行為が定義されるべき何らかの目的が存在するという命題だけである。
 こういう観点は、それとはっきりと認められなくとも、倫理的規範の全発展過程を通じて終始見られるものである。タブーは、もし破られると、その結果が、不愉快なものになるだろうということで、破ってはならない(とされている)。「山上の垂訓」においては、至福の教え(Beatitudes)が功利主義的論拠(論法)によって強調される。「柔和な人たちは、幸いである、彼らは地を受けつぐであろう」〔五〕というのは、柔和であることを目的そのものとしては表現していない。よき統治者が、その人民の幸福を目指すであろうことは、一般に認められている、等々。
* 訳注 「マタイによる福音書」 五章三一一〇、「こころの貧しい人たちは、幸いである、天国は彼らのものである」 以下、八つの幸福、参照)
Or take the prohibition of incest. Suppose atomic bombs had reduced the population of the world to one brother and sister; should they let the human race die out? I do not know the answer, but I do not think it can be in the affirmative merely on the ground that incest is wicked.

To such casuistical problems there is no end, and clearly the only way in which an answer is theoretically possible is to discover some end which conduct should serve, and to judge conduct to be "right" when it is calculated to promote this end.

We are thus led to “good” and “bad”, rather than “right” and “wrong”, as the fundamental concepts of ethics. In this view “right” conduct is conduct which is a means to “good”. This view is associated with the utilitarians, who maintained that “right” conduct is “useful” conduct. They went on to assert that conduct is “useful” when it promotes the general happiness or pleasure, but for the moment I am not considering this further proposition; I am considering only the proposition that there is some purpose in terms of which “right” conduct is to be defined.

This point of view is obscurely present throughout the development of ethical rules, even when it is not explicitly recognized. Tabus must not be infringed because the results, if they are, will be unpleasant. In the Sermon on the Mount, the Beatitudes are enforced by utilitarian arguments; “blessed are the meek, for they shall inherit the earth” does not present meekness as an end in itself. It is generally recognized that a good ruler will aim at the happiness of his people. And so on.