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バートランド・ラッセル『ヒューマン・ソサエティ-倫理学から政治学へ』- Human Society in Ethics and Politics, 1954

* 原著:Human Society in Ethics and Politics, 1954
* 邦訳書:バートランド・ラッセル(著),勝部真長・長谷川鑛平(共訳)『ヒューマン・ソサエティ-倫理学から政治学へ』(玉川大学出版部,1981年7月刊。268+x pp.)

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第1章 n.8

Human Society in Ethics and Politics, 1954, chapter 1, n.8

 
 私達が理解しているように、タブーとして禁じられている行為に伴う処罰には、正当性のみせかけはまったく存在しておらす、それはむしろ、電流が通じている電線に触れた結果として死ぬのと同じように考えられるべきだろう。
【訳注:「, as we understand it,」の挿入部分の解釈は、DeepLとGoogle 翻訳では異なっています。私は Google 翻訳と同じ解釈をしましたが、ChatGPT からの「回答」を以下参考まであげておきます。

★ 私:
 意味的には「私たちが理解するような正義の見せかけはない」と理解するのが通常と思われます。しかし、英語の構文にこだわった場合、There is no pretence of justice, as we understand it, in the punishment following an act forbidden by a tabu」という構文は、"おかしな表現"ではありますが、「There is no pretence of justice in the punishment following an act forbidden by a tabu, as we understand it.」あるいは、「as we understand it, there is no pretence of justice, in the punishment following an act forbidden by a tabu」という構造を持っていると考えられないでしょうか? そう考えた場合は、Google 翻訳のほうがより適切な訳だということになりそうです。

★ ChatGPT:
 おっしゃる通り、英語の構文においては、文の配置や句読点の位置が重要で、異なる配置によって意味が変わることがあります。ご提案いただいた2つの構造においても、文の解釈が変わります。以下にそれぞれの構造に対する訳文を示します:

「There is no pretence of justice, as we understand it, in the punishment following an act forbidden by a tabu.」(DeepLの訳) → 日本語訳: 「タブーによって禁じられた行為の後の罰には、私たちが理解するような正義の見せかけはない。」

「There is no pretence of justice in the punishment following an act forbidden by a tabu, as we understand it.」(提案1)
→ 日本語訳: 「私たちが理解するように、タブーによって禁じられた行為の後の罰には正義の見せかけはない。」

「As we understand it, there is no pretence of justice in the punishment following an act forbidden by a tabu.」(提案2)
→ 日本語訳: 「私たちが理解するように、タブーによって禁じられた行為の後の罰には正義の見せかけはない。」

提案1では、「as we understand it」が文の後半に配置され、タブーによる罰に対する「正義の見せかけがない」という文が強調されます。この構造は、Google翻訳の訳文に近いものです。

提案2では、「as we understand it」が文の前半に配置され、正義についての説明が先行します。この構造は、原文の文脈により忠実であると言えるかもしれません。

したがって、文脈に応じて適切な翻訳を選択することが重要であり、提案1や提案2も原文の意図を伝えるうえで有効な翻訳構造と言えます。どの構造が最適かは、文の詳細な文脈や著者の意図に依存します。】


 ダビデが神の契約の箱(the Ark:モーセの十戒を刻んだ二個の石板をおさめた箱=神の契約の箱。ノアの方舟ではないことに注意)を荷車に載せて運んでいた時、箱がでこぼこした脱穀上で揺れた、そこで、荷車を押していたウザは、箱がずり落ちはしないかと思い、手を伸ばしてそれを支えた。称賛すべき動機にもかかわらず、これは不信心な行為であるということで、彼は打たれて死んだ(「サムエル記下」第6章6-7)。故意の殺人だけでなく、偶発的な殺人にも、儀式的な浄化が必要だという事実にも、同様に、正義の欠如が現れている。

 タブーに基礎を置く道徳の諸形態は、一部の人々が認識している以上に文明社会の中に生き残っている。ピタゴラスは豆を禁じ、エンペドクレスは月桂樹の葉をむしゃむしゃ食べるのは邪悪だと考え、ヒンズー教徒は牛肉を食べることを考えると身震いする。イスラム教徒や正統派のユダヤ教徒は豚肉を不浄なものと見なす。イギリスへの宣教師の聖アウグスティヌスは、ローマ教皇グレゴリウス1世に、既婚者が前夜性交をした場合、教会に来てよいかどうかを尋ねる手紙を出し、そうして教皇は、既婚者は儀式的な洗浄の後にのみ教会に来ることができるとの裁定を下した米国のコネティカット州には、-まだ正式には廃止されてないと信じるが- 男が日曜日にその妻にキスするのを不法とする法律があった。スコットランドから来たある牧師は、1916年に新聞社に手紙を書き、我々(イギリス)がドイツに勝てないのは、政府が日曜日ごとのジャガイモ植付けを奨励したせいだとした。これらの意見は、いずれもタブーをもとにしてのみ、正当化可能である。

There is no pretence of justice, as we understand it, in the punishment following an act forbidden by a tabu, which is rather to be conceived as analogous to death as the result of touching a live wire. When David was transporting the Ark on a cart, it jolted over a rough threshing floor, and Uzzah, who was in charge, thinking it would fall, stretched up his hand to steady it. For this impiety, in spite of his laudable motive, he was struck dead (II Samuel, vi, 6-7). The same lack of justice appears in the fact that not only murder, but accidental homicide, calls for ritual purification.

Forms of morality based on tabu linger on into civilized communities to a greater extent than some people realize, Pythagoras forbade beans, and Empedocles thought it wicked to munch laurel leaves, Hindus shudder at the thought of eating beef; Mohammedans and orthodox Jews regard the flesh of the pig as unclean. St. Augustine, the missionary to Britain, wrote to Pope Gregory the Great to know whether married people might come to church if they had had intercourse the previous night, and the Pope ruled that they might only do so after a ceremonial washing. There was a law in Connecticut - I believe it is still formally unrepealed - making it illegal for a man to kiss his wife on Sunday. In 1916 a clergyman from Scotland wrote a letter to the Press attributing our lack of success against the Germans to the fact that the Government had encouraged the planting of potatoes on Sundays. All these opinions can only be justified on a basis of tabu.