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バートランド・ラッセル(著)『ロシア共産主義』_訳者(河合秀和) 解説

* 出典:バートランド・ラッセル(著),河合秀和(訳)『ロシア共産主義』(みすず書房,1990年4月刊。145pp.)
* 原著:The Practice and Theory of Bolshevism, 1920.
* 河合秀和氏(1933~)略歴
* ウィキベディアより

訳者解説 (1990年3月)


 この本はイギリスの哲学者バートランド・ラッセルの『ボルシェヴィズムの実践と理論』(Bertrand russell, The Practice and Theory of Bolshevism, 1920)の翻訳である。この本は先に2度邦訳されているが(前田河広一郎訳『ボリシェピーキの理論と実践』1921年、三田書店刊/江川照彦訳『ソヴィエト共産主義』1959年、社会思想研究会出版部刊)、現在では入手が困難になっているという声を聞くので、新しく訳出したものである。
 表題を『ロシア共産主義』としたのは、同じくラッセルの『ドイツ社会民主主義』(German Social Democracy, 1896)を『ドイツ社会主義』という表題で、本書といわば一対にして読者に届けたいと思ったからである。(German Social Democracy は、これまで翻訳がなかった。)。西はドイツから東はロシアにかけて、いわゆる社会主義圏に文字通り世界史的な変動が起こりつつある現在、社会主義とは何か、共産主義とは何かを改めて考える上で、この2冊が他のいかなる著作にもまして思索の助けになるだろうと、私は信じている

 ラッセルはこの本を1920年、ロシアの10月革命から2年半ばかり後に書いた。多くの文献資料を読み、レーニン、トロツキーらの指導者とは直接に話し合い、都市でも農村でも通訳を介して多くの人々と対話を交した。調査や会話の完全な自由を政府から保証されていた。それにしてもこの本は、ソ連社会の本質的な問題点を見事に描き出している。たんに1920年という時点でのソ連についての優れた現地報告というだけではない。彼がここで提出し議論した問題のいくつかが、まさに現在のソ連で具体的な改革の問題になっているのである。例えばラッセルは、ソヴィエト民主主義について「すでに死滅しかけている」(p.39)という判断を下している。私の知る限り、ラッセルは早くもこの時点でそのような判断に到達していた極めて少数の人々の一人であった。レーニン自身は、1919年の3月、「労働者による統治機関」である筈のソヴィエトが「プロレタリアートのもっとも先進的な部分」――もっと率直に言えば共産党のことである――による「労働者に代っての統治機関」になっていることを率直に認めていた。そしてレーニンは、先ず党を改造し、やがてはソヴィエトを復活させる構想を打ち出しただけで死んだ(例えば拙著『レーニン』(中公新書)を参照されたい)。そしてレーニン以後のソ連の指導者あるいは理論家は、ソヴィエト民主主義こそ世界史上もっとも民主的な政治体制であるという怪しげな理論を展開し、自らを欺し世界を欺してきたのである。

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 もちろん、反ソ反共の立場に立ってソヴィエト民主主義などはおよそインチキであると主張するのは簡単なことである。そのような人々は、逆にいわゆる議会制民主主義こそが真の民主主義であると開き直るであろう。ラッセルの立場はそうでない。彼は、議会制民主主義なるものがいかに多くのインチキを含んでいるかを充分に知っている。したがって議会制民主主義にたいするボルシェヴィキの批判的議論がきわめて強大であることも知っている。だからこそ、「代議制政府の新形態について興味ある実験」が見られるのではないかと期待して、ロシアにまで出かけたのであった。他ならぬ議会制の母国イギリスにあって議会制民主主義なるものを批判的に見抜いていたからこそ、ラッセルはさらにソヴィエト民主主義を透徹した批判にかけることができたのである

 1948年、つまり第1版から28年後に(本書の)第2版が出た時、ラッセルは1920年のロシア共産主義観をそのまま今も持っていると書いている。「それ以後のロシア共産主義の発展は、私がかつて予想したものと似ていなくもない」とも言う。まさに満々たる自信である。何がこのような洞察力を生み出したかは、誰もが知りたいと思うところであろう。(なおこの第2版の序言で、自分が書いたのではない1章を除いたと書いているのは、ラッセルがロシアを離れた直後にかの地を訪れたドーラ・ブラック(当時ラッセルの秘書、のち再婚相手)による「芸術と教育」の章である。)。
 先に『ドイツ社会主義』の訳者解説でもラッセルの方法についていくらか述べておいたが、ここでもラッセルの方法の特徴をやや角度を変えて指摘しておきたい。『ドイツ社会主義』でのラッセルは、マルクス主義の理論的な誤りを洗い出しておいた上で、それにもかかわらず、ドイツ社会民主党に何故あれ程までに強い支持が寄せられているのかを問い、彼自身の答を提出した。そしてドイツ社会民主党がその綱領にいささかの論理的虚偽を抱え込むことになったとしても、その強さを保ちながら、かつドイツ労働者階級の状態を改善していく道を探ろうとした。もちろん自由主義者に相応しく、ドイツの支配階級にたいして、権力者の責任として先ず彼らの方から階級闘争をやめ、労働者階級にたいする寛大と妥協の態度を採ることを求めていたが。
 けれども、『ドイツ社会主義』ではドイツ社会民主党の将来はまだ仮説と予想の問題であったのにたいして、この『ロシア共産主義』でのラッセルは、――結論としてはロシア共産主義は失敗であったという判断に立っている。第1章では、ボルシェヴィキの最大の業績は希望を生み出したこと――第1次大戦の後に残された幻滅と絶望の中にあって、資本主義に代って社会主義を樹立しようとする1つの実験として、人類に希望の灯をかかげたことだという。しかしラッセル自身は、「ボルシェヴィキと同じ希望を持つことはできない」ともいう。先ずラッセルは、ボルシェヴィズムの狂信を拒否する。キリスト教の狂信と並べて共産主義の狂信を批判する(このように急進的な反キリスト教的態度を持っている点では、ラッセルはイギリスの思想家の中でも例外に属する。またドイツ社会主義、ロシア共産主義に宗教と共通する側面を指摘した点でも、ラッセルは最初の人であった)。 次いでボルシェヴィズムは、社会主義への手段として適切ではないと批判する。さらに進んで、ロシア共産主義は世界的な社会主義の発展を妨げるであろうという判断にまで達している。ここでも、資本主義に批判的であることによって、はじめてロシア共産主義を批判できるとする点では、ラッセルの批判はいわば二枚腰の強さを秘めている。

 このようなラッセルの態度は、一見したところ複雑に見えるが、実は簡単である。それを説明するには、ラッセルが終生のモットーとしていた18世紀イギリス(スコットランド)の哲学者 D.ヒュームの言葉を挙げるのが、もっとも適切であろう。ヒュームは、「理性は情熱の奴隷であり、またそうでなければならない」という。目的の選択情熱――結局は好きか嫌いか――の領域であり、その目的を達成するのにどのような手段が適切かは理性の領域であり、論理的には目的は手段に先行するから(現実に、手段があることから目的が発見されることもあるが)、理性が情熱に奴隷のように仕えるものだと、いうのである。そして、理性の名において目的を決定するのは、必ずどこかに虚偽をはらんでおり、したがって理性は常に情熱の奴隷でなければならないと、いうのである。ラッセルが議論するのは、第1共産主義が望ましい目的であるかどうか(ラッセル自身はそう考えている)、第2にボルシェヴィキ的方法によって得られるものと失なわれるもの、つまり成果と代価の差引き勘定であり、第3ボルシェヴィキ的方法が共産主義樹立という目的にとって相応しい手段であるかという目的-手段関係である。この時期のラッセルは哲学的には、サンタヤーナの影響を受けて、例えば正義のような何か倫理理論の出発点になり得るような前提は存在しないという立場に移っており、「よい」とか「悪い」とかは個人の好き嫌いに依存すると考えており、逆に手段の合目的性を理性的批判にかけることでは一層きびしくなっていた。ラッセルのような方法を採るものは、現実政治においては進んで困難な立場に身をおくことになるのを覚悟しておかねばならない現実政治の場では、ある問題について敵か味方かが単純に問われる。たとえ敵の立場であっても味方の立場と同じく徹底的に公平にその存在の根拠を明らかにするラッセルのような方法は、味方からは味方の弱点を敵に暴露し、敵の強さを賞めそやすかのように受け取られ、よくて厄介な味方、悪くすると裏切者のように扱われかねない。現実にこの本が刊行された時、ラッセルはイギリスの社会主義者たちの激しい反感を買うことになった。たとえ彼の批判が正しいとしても、それを公表したことによって反革命の立場からソ連を攻撃しようとしている保守主義者を助けることになるからである。たしかに現実政治は単純に敵・味方に人々を分ける。それだからこそ、職業政治家はそもそも職業的に政治を正直に討議することができなくなり、まさにそれ故に政治について確実な理解を求めることが知識人の課題、さらにはすべての市民の政治的義務となるのである。たとえ敵に歓迎され味方を裏切ることになろうと、これ以外に共産主義についての真実を求める方法があるのかと、ラッセルは問いかけたのである。

 さて、『ドイツ社会主義』という政治、経済の分野の本を書くのとほとんど平行して、数理哲学の研究が進められていた。そして論理学と数学の関連を追求した『数学諸原理』(1903)に続いて、ホワイトヘッドと共著の『プリンキピア・マテマティカ』(全3巻、1910~1913)へと、数理哲学者としてのラッセルにとってはもっとも多産な時期を迎えるのである。
の画像  第1次世界大戦は、そもそもそれが起り、多数の人々が熱狂的に戦争に参加したことで、ラッセルにとっては大きな衝撃であった。彼は自分の思想の多くが誤っており、人間は決して自分が信じていたようには合理的ではないということを(思い)知らされた(右イラスト出典:B. Russell's The Good Citizen's Alphabet, 1953。そして受動的な絶望からやがて積極的な反戦運動へと移っていった。ラッセルは後に、第1次大戦には反対したが第2次大戦には賛成したというので一貫していないとして非難されたが、この非難には根拠はない。第1次大戦の時にはドイツ皇帝に征服される方が戦争をするよりましだと考え、第2次大戦の時にはヒットラーに征服されるよりは戦争をする方がましだと考えたのであって、戦争そのものに反対した訳ではないからである。しかし反戦運動のために1916年には罰金100ポンドを課せられ、もっと彼の心を傷つけたことにトリニティ・コレッジの講師の地位を追われ、1918年には6カ月の禁固刑を受けた。獄中では『数理哲学序論』(An Itroduction to Mathematical Philosophy, 1919)を書き、次の『精神の分析』(The Analysis of Mind, 1921)の準備にもかかっている。
 戦後(第一次大戦後)には中国を訪れ、次いでソ連を訪れたが、本書はこのソ連訪問の産物である。ラッセルは戦時(第一次世界大戦)中の講演を集めて『社会再建の原理』(Principles of Social Reconstruction, 1916)として刊行し、そこでは戦争だけでなく、教育や結婚などさまざまな話題について、およそ躊躇することなく、既成の観念を打ち砕き、さらにいったん壊したものを集めて組立て直し、再建の構想として打ち出した。彼はすでにイギリスとアメリカ、ヨーロッパ大陸では広く知られていたが、この『社会再建の原理』以後、彼の著作はインド、中国、日本などでも読まれるようになった

 1920年代の彼の著作は、例えば『相対性(理論)のABC』(The ABC of Relativity, 1925)と『結婚と道徳』(Marriage and Morals, 1929)とかの表題からも察せられるように、もっぱら啓蒙書の類のものであった。また2度目の夫人ドーラとともに実験的な学校経営にかかわったりもしている。1931年に長兄フランクが死ぬと、第3代ラッセル伯爵となり、上院議員になった。1930年代末にはアメリカに渡って大学で授業をし、その授業をもとに『西洋哲学史』(A History of Western Philosophy, 1945)を書いた(松下注:大学で授業したものではなく、バーンズ財団の公開授業で講じたもの)。これは直ちに米英でベスト・セラーになり、彼の生活の糧となった。そして戦後の15年(間)、彼はイギリス国営放送BBCの人気出演者、あるいは『西洋哲学史』によるノーベル文学賞受賞者として、世俗的な名声の頂点にあった(松下注:『西洋哲学史』というよりも『結婚論』を中心とした一連の著作が受賞対象)
 1954年、彼はBBC放送で「人類の危機」(Human's peril)という講演を行い、ビキニ水爆実験に抗議した。それをきっかけに,ラッセル=アインシュタイン声明、ノーベル賞受賞の科学者を結集した原水爆製造にたいする反対運動、東西両陣営の科学者を召集したパグウォッシュ会議(ラッセルは初代会長に選ばれた)、そして1958年には,核非武装運動(CND)にまで進むことになった。1960年にはCNDを脱退し、原水爆反対の市民的不服従運動を起こすために、もっと戦闘的な「百人委員会」(Committee of 100)を結成、翌年には坐込みデモを行なったために2カ月の禁固刑を受けている(健康上の理由ということで、7日間に減刑されたが)。
 また90歳になった1962年には、キューバ危機、あるいは中印国境紛争に積極的に介入し、各国の首脳、国連事務総長のU.タントなどに電報を送って活躍した。ケネディ米大統領暗殺の真犯人を追求する運動、あるいはベトナム戦争の責任を究明するための国際戦犯裁判(いわゆる「ラッセル法廷」)などにも、ラッセルの名がいつも先頭に並んでいた。どこまでも真実を追求しようとした人であった。そして今日のソ連のペレストロイカを見ることなく、1970年に死んだ。

 最後に、社会主義、共産主義、ボルシェヴィズムという3つの用語の関係について、一言解説しておこう。マルクスとエンゲルスが『共産党宣言』(1848年)を執筆した時、「われわれはこれを『社会主義宣言』とは呼ぶことはできなかった」と、後にエンゲルスが書いている(1888年英語版への序文)。1847年という時点では、社会主義者とはさまざまな空想的体系の信奉者、例えばイギリスのオーウェン主義者、フランスのフーリエ主義者のことを指し、ともに宗派的になり、消滅しかけていたという。それにたいして共産主義者とは、たんなる政治的革命では不充分であり、全面的な社会変革が必要であると信じている人々のことであった。社会主義、共産主義のいずれを選ぶかについては、「なんの疑いもあり得なかった」のである。しかし、ドイツでマルクス主義が普及し、先に刊行したラッセル『ドイツ社会主義』に述べられているように政党の結成にまで至った時には、党の名を社会民主党と名乗るのがヨーロッパ大陸では普通のこととなっていた。そしてマルクスは、ドイツ社会民主党のゴータ大会綱領(1875年)を批判した文章で、社会主義を共産主義にいたる1つの歴史的段階と規定している。資本主義から共産主義への転化の過渡期が社会主義であり、この社会主義段階の国家を、マルクスは「プロレタリアートの革命的独裁」と呼んだ
の画像  1898年、ロシアにマルクス主義政党が結成された時、それはロシア社会民主労働党と名乗っていた。警察は総勢9人の創立大会出席者に尾行をつけて全員を逮捕し、党創立の試みは早々と流産したが、事実上の創立大会である第2回大会が1903年にベルギーとイギリスで開かれた時、党は創立とほとんど同時にボルシェヴィキ(多数派)とメンシェヴィキ(少数派)の2つの派に分裂してしまった。メンシェヴィキの指導者マルトフが、ドイツ社会民主党にならって「ストライキに参加した労働者は誰もが自分は社会民主党員だと名乗れる」くらい党員の幅を広くすることを提案したのにたいして(実は『ドイツ社会主義』に述べられているように、当時のドイツ社会民主党は社会主義鎮圧法との関係で党員の規定を曖昧にしていた)、レーニンは、党は地下活動の訓練を受け厳格に規律に従う「職業革命家集団でなければならないと主張した。そしてこの1点をめぐって激論を交している間に両派の対立は固定化し、多数派、少数派と罵り合っていた言葉が派の名称となってしまったのである。ボリシェヴィキは多数派と呼ばれてはいたものの、大抵の論点では少数派であり、ロシア語の日常的感覚ではボルシェヴィク(ボルシェヴィキは複数形)とは頑固なつっぱり屋を意味していた(英語のボルシィーという形容詞は、大抵の人が語源を忘れているが、今でもこの意味で広く使われている)(右イラスト出典:B. Russell's The Good Citizen's Alphabet, 19531917年10月の権力奪取によって、両派の対立は決定的になり、ボルシェヴィキは1918年3月の第7回党大会で党名をロシア共産党(ボルシェヴィキ)と改めた。1952年の党規約改正まで、党名にはカッコ付きのボルシェヴィキがついていたものである。

 ラッセルがこの本を書いた時期のロシアでは、共産党員のことをボルシェヴィクと呼ぶ方が普通であった。共産主義はむしろ国際的運動の側面を指していた。社会主義とは、議会制と複数政党制を支持し、プロレタリア独裁を否定する立場であった
 1990年3月  河合秀和