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バートランド・ラッセル(著),河合秀和(訳)『ドイツ社会主義』(みすず書房,1990年4月刊。145pp.)

原著:German Social Democracy, 1896.

* 河合秀和氏略歴

訳者解説 (1990年3月)


ラッセル著書解題
 1989年という年、6月の北京の天安門広場事件から12月のルーマニア革命にいたるまで、われわれは文字通り世界史的な変革を目撃した。この一連の事件の中から、共産主義は死滅した、社会主義は亡んだといった声も聞かれた。果してそうなのか。現実に東ヨーロッパで存在していた共産主義、社会主義が死滅しつつあるとしても、西ヨーロッパの社会主義(例えば西ドイツの社会民主党の社会主義)、あるいは日本の社会党に代表される社会主義、あるいは第3世界における社会主義(南アフリカのANCの主張には明確に社会主義的要素が含まれている)は死滅したのか。国家権力や体制と結合していた社会主義が死滅したとしても、社会主義の理想や価値や運動も死滅したのか。そもそも社会主義とは何であるのか。問題は次々と思い浮んでくるであろう。私は、読者がこのような問題を考える一助となることを願ってこの本を訳した。
 この本は、Bertrand Russell, German Social Democracy, 1896(ラッセル24歳の時)の翻訳である。私の知るかぎり邦訳はこれまでなかった。表題は「ドイツ社会民主主義論」とでもするのが原題にもっとも忠実な訳であったであろう。ヨーロッパ語では抽象名詞で具体的なものを指すことがよくあるから(例えば社会主義で社会党を、社会主義者で社会党員を総称的に意味するという風に)、「ドイツ社会民主党論」とするのも適切であったかもしれない。実際にこの本の内容はドイツ社会民主党の理論と実践――マルクス主義理論とその現実への適用である。しかし、ここで『ドイツ社会主義』という表題を選んだのは、実は同じラッセルがこれより四半世紀許りも後に書いた The Practice and Theory of Bolshevism, 1920 を『ロシア共産主義』という表題のもとで本書に続いて訳出し、この2冊を一対のものとして読者に届けたいと考えたからである
 したがってこの解説では、もっぱら『ドイツ社会主義』との関連でラッセルのいわば前半生の生涯と業績を紹介し、同じように多彩な彼の後半生については『ロシア共産主義』の解説に譲ることにしたい。この2著の内在的な関連についても、そこで解説することにする。



 著者ラッセルは、1872年に生れ、1970年に死んだ。家系は徹底したイギリス貴族で、平民の血はまったく混っていない。また政治的には、これまた徹底的に自由主義的な家系であった。祖父ジョン・ラッセル(1792-1878:右写真)は、1832年の選挙法改革案が可決された時の首相であった。若き日のラッセルには、あらゆる権威――政治的、社会的なものか、数学や哲学におけるものかを問わず――に疑いをかけ、当るを幸いなぎ倒さんばかりの気概があったが、若いラッセルが回想する祖父ジョンは、即位したばかりのヴィクトリア女王にむかって繰返し「イギリスの政治的伝統は、かつて国王の首を斬ったことにある」と語って、若い女王を立憲君主に仕立てるためのいささか手荒い教育をほどこした人であった。晩年のラッセルにとっては、祖父はイギリス的な妥協の能力を象徴する人であった。人民が大革命の時のフランスのように貴族階級の特権の廃棄と国民主権を要求してくるのに先手を打って、選挙権を拡張し、民主主義と伝統的な価値との両立を図ったからであった。

 しかし、若いラッセルと晩年のラッセルとの間に力点のおき所に相異があるとしても、後に述べるように自由主義者としての立場はどこまでも貫かれていた。本書の第2版序文で言うように、彼はこの本を「正統的な自由党員」の観点から書いた。イギリスの用語法では、自由党員、大文字のLで始まるリベラルは同時に「自由主義者」を指していることに注意されたい。そして彼が社会主義に関心をもち、後にイギリス労働党に加わって社会主義を支持した時にも、自由主義者としての姿勢を貫いていた。
 ラッセルの父アムバーレー卿はきわめて急進的な自由思想家であった。自由思想家とは、キリスト教にたいして徹底的に懐疑的な立場に立つ人のことをいい、宗教が道徳観、秩序観の骨組を成していた19世紀のイギリスにおいては、社会主義者よりも危険な人物と見なされていた。母はラッセルが2歳の時に、父は4歳の時に死んだが、父は遺言書で長男のフランクと次男のバートランドの後見人に無神論者を指名していた。この遺言の効力は、貴族の家族問題を審議する権限のあるイギリス上院で争われ、無効という判決が下った。そして2人の孤児は大法官庁(最高裁判所に相当し、上院の中に設けられている)の後見に服することになり、祖父母のもとで育てられた。祖母は老いてますます急進化する自由主義者で、アイルランド自治を支持し、イギリスの帝国主義的植民地戦争に反対した。また2人の孫の家庭教師には、ドイツ婦人やスイス婦人を採用した。当時のイギリスの自由主義者の間では、フランスはナポレオン一族の支配下で、独裁政治と軍国主義に毒されていると考えられており、ドイツの方がフランスよりも評判がよかった。おかげでバートランドは、英語とほとんど同時にドイツ語を覚えた。後にフランス語、イタリア語も覚え、英語と同じく自由に読み書き話すことができるようになった。
 兄は、寄宿制のパブリック・スクールに入って家を出たが、バートランドは大学に入るまでの教育を家庭教師から受けた。11歳の時には、休暇で帰宅していた兄からユークリッド幾何学を習った。その時バートランドが、幾何学の出発点である公理はそれ自体としては証明されておらず、ただ信用する以外にはないことを知ってひどく失望したという話は有名である。ユークリッドの「同一のものと等しい2つのものは、互いに等しい」(A=B,B=CならばA=C)という公理は何故成立するのかの証明を求めたが、兄は「もし公理を認めないならば、これ以上先には進めないのだ」としか答えられなかった。しかし11歳のバートランドの頭に浮んだ疑問は、その日から大著『プリンキピア・マテマティカ』が完成するまでの彼の前半生を支配することになるのである。
 数学に次いで歴史に、さらに文学に興味を覚えた。祖父の邸宅の図書室にあった蔵書の大部分は、少年には読んではいけないと言われていたが、むしろそのためにむさぼり読んでしまった。「文学的教養を身につけるには、これくらい有効な方法はほとんど考えられない」と、後に回想している。
 他方で、家系の政治的位置はしっかりと孫に伝えられていった。祖母は夫が選挙権拡張ののために戦ったことや、ラッセル家のもう1人の英雄で、チャールズ2世に反抗したために処刑されたウィリアム・ロード・ラッセルのことなどを話して聞かせた。まだ幼いころから、バートランドは、ラッセル家の人々には公のために奉仕する義務があること、時としては権力に反抗するのが正しいことを教え込まれた。12歳の誕生日に祖母から贈られた聖書には、Thou shalt not follow a multitude to do evil(群衆に追随して悪をなすなかれ)と書き込まれていた。
 バートランドは、18歳でケムブリッジ大学のトリニティ・コレッジに入学した。フランシス・べーコン、ニュートン、バイロン、テニスン等のいたコレッジである。オックスフォードではなくてケムブリッジを選んだのは、特に数学が勉強したかったからであった。ラッセルを試験したのは哲学者のホワイトヘッドで、ラッセルの入学試験の答案にひどく感心したホワイトヘッドは、上級生をつかまえてラッセルと友人になることを奨めてまわった程であった。
 ケムブリッジには、優秀な学生を選んで会員とする秘密結社めいた討論の会――使徒会と呼ばれる――があり、いまも存続しているが、ラッセルはその会員に選ばれて討論の日々を過した。(写真は、大学入学時のラッセル/出典: R. Clark's Bertrand Russell and His World, 1981.)1893年の数学の卒業試験には、7位ではあったが優等で合格した。優等試験では学生の席順をはっきり定めるために、数学の問題を解くことが試験の内容になっていたが、ラッセルは11歳でユークリッドの公理に疑問を発して以来、数理哲学の根本問題に関心を抱いていた。そのため、ありきたりの数学の問題を解くことは時間の無駄と考えており、優等試験に合格すると数学の本は売り払い、大学でもう1年、哲学を勉強することにした。
 他方でラッセルは、アメリカから移住してきたクエーカー教徒の美しい娘アリス・ピアサル・スミスに恋をした。クエーカー教徒との取合せは、急進的なラッセル家にとっても異例のことであり、祖母はバートランドの気をそらそうとしてパリのイギリス大使館に就職させた。しかし、ひとたび恋に落ちたバートランドは、徹底的に相手に魅かれ、1894年の末にはついに結婚してしまった。新郎は22歳、新婦は5歳年長で、結婚式はクエーカー流の沈黙と独白で行なわれた。この『ドイツ社会主義』――ラッセルの長い著作目録の冒頭の地位を占める本は、彼の新婚時代の所である。

 ラッセルは、1895年の3月、ベルリンのティアガルテンの雪どけの道をひとりで散歩しながら、ひとつの決心をした。この決心のことについては、自伝をはじめ色々なところでしばしば触れている。彼は2種類の本――一方は数学のような抽象的な問題から説きおこして次第に具体的になっていく本を、他方では政治学や経済学のように具体的な問題から始って次第に抽象的になっていく本を、生涯を通して書いていこうという決心であった。両者はやがて統一して理論と実践の両面にわたる完全な総合を成すはずであった。彼は、哲学の勉強を始めて数年を経ずしてへーゲル主義者であることをやめたから、終局的な総合は遂に生れなかった。それでも実際に生涯を通じて、この2種類の本を書いたのである。もっとも、別のところでは頭が悪くなって数学ができなくなると哲学に移り、哲学もできなくなると歴史をやるようになったと、語っているが。(松下注:もちろん半分本気で半分冗談)
 哲学と数学の両方にまたがった学位論文を書いてコレッジの研究員の地位を得ると、今度は一転して経済学の研究に打ち込み、『資本論』3巻を読破し(注:当時、英訳は第1巻しか出ていなかった)、1895年には2度ドイツを訪れて社会民主主義の研究に打ち込んだ。2度目の訪問では、ベーベルやリープクネヒト家の人々をはじめとして、ほとんど社会民主党員とだけ交際したという。当時の夫妻の日記には、このような書き入れがある。「製本工組合の会合に行く。約100名が出席、ひどく単調で、この種の他のすべての会合とまったく同じだ。演説の一語一語にマルクスがしみ込んでいる。」 数日後には、「窒息しそうなひどいビア・ホールで単調な小さな会合。弁士は例によって散文的でマルクス的。」 そしてもうひとつの会合の記録として、「ひどく単調、ちょっと顔を出しただけで帰る。」 同時にラッセルは、これらの会合にはいつも警官が出席しており、いつ何時でも解散を命じそうな気配で熱心にノートを取っており、現実に解散を命じたのを目撃していた。
 イギリスの青年貴族が外国のこととはいえ社会主義を研究するのは、けしからぬこととまで言わなくとも、少くとも型破りのことであった。アリスがベルリンのイギリス大使館で2人が社会党の会合に出たことを話したところ、大使はさすがに外交官らしく、「今ではわれわれはみな社会主義者です」という当時のイギリスのはやりの台辞で話をかわした。しかしそれ以後、2人は2度と大使館の晩餐に招待されなくなった。(この時期のイギリスにおける社会主義については、河合秀和著『現代イギリス政治史研究』所収、「イギリス社会主義の形成」を参照されたい。)
 イギリスに帰ると、ラッセルは第1版序文にあるように、1896年の2月から3月にかけて、ロンドン政治学経済学校(ロンドン大学所属の一つのコレッジ)で講義した(写真は、1896年頃のラッセル:From R. Clark's The Life of B. Russell, 1975. )。この学校は、フェビアン協会の創立者として有名なウェッブ夫妻が設立したもので、ラッセルはその最初の講師であった。その講義が本書である。他にフェビアン協会でも講演したが、イギリスでの講演は1時間許りの報告の後に充実した質疑と討論が続くのが通例であり、ラッセルにとってはかなりの苦痛であったようである。「私はこの講演がいやでたまらず、その日までに脚でも折れてくれればよいと思った」と回想している。当時のイギリスにあっては、労働者階級はこれまで通りに自由党を支持して、むしろ労働組合を通じて政府にたいして圧力団体として行動していくか、それとも自由党から独立した独立労働党を結成して政治的に自立するかの選択の前に立たされていた。本書で述べられているドイツ社会民主党のディレンマ―マルクス主義の立場を堅持して政治的孤立を守るか、それとも自由主義的勢力との協力、さらには政府との妥協の道を探るかにいくらか相通じる選択に、イギリスのラッセル自身が直面させられていたのであろう。
 それにしてもこの講義は、一面ではジャーナリズムの傑作であった。ジャーナリズムという言葉は悪い意味で用いられることが多いが、それはラッセルの哲学の目指すものとまったく同じであった。つまりあらゆることに人間的な好奇心、正義感を働かせ、単なる伝聞を拒否し、あらゆることに疑問を持ち、確実な知識を求めることである。1895年にドイツを視察したラッセルが、その後100年近くにわたって世界史を動かしてきた2つの勢力――つまりマルクス主義と軍国主義に着目した先見の明そのものが、現在のわれわれにとっての驚きである。本書の第6講で、ラッセルはドイツの将来の見通しを立て、1つに「戦争と国民生活の破滅」説を挙げている。現在のわれわれからすれば、その予見はさして驚くべきことのようには思えないが、この時期、19世紀の最後の10年には、植民地戦争――帝国主義国と植民地化されつつある民族との間の戦争――はあり得ても、列強間の戦争はまったく予想されていなかったという事実に照らせば、彼のジャーナリストとしての現実感覚の鋭さを改めて感じさせられるであろう。
 しかし、それと並んで同じよう重要なのは、彼の研究の方法である。この本をどう読むかはどこまでも読者者の自由にゆだねねばならないことであるが、本書の分析と記述の方法について特に注目すべき点を次に指摘しておきたい。

 1895年のティアガルテンにおけるラッセルの決心については、先に触れた。そこでラッセルは、抽象から具体への本と、具体から抽象への本と2種類の本を書く決心をしたが、この『ドイツ社会主義』は明らかに後者の系列に属している。つまりドイツ社会民主党の理論と実践がこの本の対象である。しかし、この本はまずマルクス主義の理論的検討から始まり、ドイツの歴史と現実、ドイツ社会民主党の綱領と戦術へと進み、理論の分析を通して現実を把え、現実に照らして理論を見直す作業が、何度も繰返されている。同時にこの本の対象は政治であり、当然に敵か味方かによって物の見方に大きな違いが生じる性質のものである。ラッセルは一方で味方の立場から見、ついで逆に敵の側から見、両方の観点を完全に公平に展開していく。政治について合理的かつ客観的に討論する方法が、ここではいかにも模範的に(おそらくはラッセルにおいてきわめて意識的に)展開されているのである。読者がそれぞれに現代における社会主義の問題を考えられる時、社会主義といわず、およそ政治的な問題を考えられる時、この方法は必ずや役に立つに違いない。
 ラッセル自身に、政治的な立場がないというのではない。いうまでもなく自由主義者の立場が彼の立場である。そして読者には、右に述べたような政治的議論の方法は実は自由主義の展開としてのみ可能だということに、御注意願いたい。さまざまな立場が1つの社会に共存し、それぞれの意見と政策を主張し、影響力の大小を争う社会、つまり自由な社会においてだけ本来の政治的議論が可能であり、また必要なのである。1つの立場しか存在を許されていない社会では、政治の議論はその1つの立場の弁明でしかないであろう。その立場にたいする反論の可能性がなければ、その議論はもはや本来の意味の政治的でもなく、議論でもないであろう。
 ラッセルは、自分が自由主義者であるにもかかわらず『共産党宣言』を「文学的価値にかけてはほとんど右に出るものがない」偉大な著作と呼ぶ。ここで文学的とは、人々の詩的想像力に訴えかける力について言っているのであろう。次いでラッセルは、マルクスの価値理論がその議論の各段階で誤っていることを証明する。さらにその上で、その理論的な誤りにもかかわらず、マルクス主義がある時期のドイツ労働者階級の間で、何故あれほどの影響力を持ったかを証明する。ラッセルは、ドイツ社会民主党員が政策を決定する拠りどころとしているのは、戦術上の必要でも、人間の政治的性向の経験的観察でもなく、マルクスの先験的な(ア・プリオリな)階級闘争論であったと、言う。ア・プリオリなものを嫌い、経験的観察を強調するのは、まことにイギリス経験論者らしい。そして彼は階級闘争の理論が誤っているかどうかはともかく、階級闘争戦術の正しさが果して実践の結果によって証明されるかどうかを問う。
 現実に、ドイツ社会民主党は階級闘争理論を掲げることによって、むしろ階級闘争を現実化していった。人々を苛惜なく敵と味方に分け、そうでなければ味方になり得た自由主義者までも敵にまわした。これは、政治的には自ら招いた不利であった。しかしラッセルは、革命的な綱領を掲げて敢えて孤立することは、自由主義者との協力、妥協によって得られる部分的、断片的な改革よりもはるかに大きな熱狂、精力、自己犠牲を喚びおこすという。ドイツ社会民主党は、どうすれば一方でこの強みを失わずに、他方で実践上の利益を得ることができるであろうか。ラッセルの提案は、さし迫った実践上の必要と党の基本的原理とを「多少とも虚偽を含んだ論法によって両立させていく」ことであった(本書p.157)ラッセルは合理主義であったが、非合理的なものの力を十分知っているという意味での真の合理主義者であった。論理的分析の鋭さにかけてはかなうものはなかったが、同時に実践の必要と革命的原理という2つの異なる論理の間には、論理的に一貫した関係は成立し得ないことを知っていた。
 バートランド・ラッセルについて、私の読んだ限りではアラン・ウッド著『バートランド・ラッセル-情熱の懐疑家』(碧海純一訳)はきわめて優れた評伝であり、私はこの解説を書く上でも大いに参考にしたが、著者ウッドは、右の「多少とも虚偽を含んだ論法」のくだりについて、次のように言う。「ラッセルの発言を活字で読むと、言葉のアイロニックな曲折を彼の眼の表情から見てとることができないために、しばしば誤解が生じうる。しかし後年のラッセルならば」、例えば次の『ロシア共産主義』におけるラッセルならば、「冗談にもせよ、いかがわしい論理を大目に見ようと提案するなどということは、到底考えられぬことである。」 果してそうであろうか。ラッセルは、この『ドイツ社会主義』を刊行すると、直ちに彼の生涯の大作『プリンピキアア・マテマティカ』の準備にかかっていった。

 私事ではあるが、この本は、学習院大学政治学研究科大学院で、中国からの留学生で「一国二制論」の研究を進めている李暁貞君、台湾研究を専攻している平垣真穂さんと一緒に読み進めた。天安門の学生の動き、その背景をめぐっての熱のこもったやりとりに時間を取られ、訳読の方は遅々として進まなかったが、あの激動の年にこの本を読んだことは忘れがたい経験であった。辛抱強くつき合ってくれたみすず書房の加藤敬事氏に感謝したい。
 1990年3月 河合秀和