「まあ、なんて利口(りこう)そうな赤ちゃんでしょう。」召使い(めしつかい)や看護婦(かんごふ)たちは口ぐちに語りあっていた。 そのことばをお産(さん)のベッドにいるアンバーレー夫人のケイトは、にこやかに聞いていた。出産後三日目、かたわらの小さなベッドに寝ている赤ん坊を見てケイト夫人はびっくりした。生まれてからまだ三日しかたっていない赤子が、しっかりと目を開いて、まるでなにもかも見ているぞというように、じっとあたりを見つめていたのだ。この子は、もしかしたら、みんながいうように、立派な仕事をする大人物になるかもしれないわ、とケイトは思った。
「きっといまに、大きな仕事をなさる、立派(りっぱ)なお方におなりになさるにちがいありませんよ。」
「そうだ、このことは、はっきり書きのこしておかなくては。」(松下注:以上は、『ラッセル自叙伝』に引用されている母の日記をもとに塩谷氏が創作したもの)赤ん坊はバートランドと名づけられた。のちに学者として、また偉大な平和運動家として全世界の人びとから尊敬されるようになったバートランド・ラッセルはこうして生まれたのだった。
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「わたしは自分の思想、信念にしたがって悔いのない人生を過ごしてきた。人びとは自分を急造主義者、異端者と呼び、神を恐れぬ自由主義者、無神論者とののしったが、わたしはそれにたいして敢然と闘ってきた。三十三という若さで死ぬのは残念だ。しかしわたしはいいたいことをいい、主張すべきことを主張してきた。だから、そういう点ではもう思い残すことはない。だがこの子たちは・・・。」彼は医師のさし出すバートランドのほおにやさしくキスした。なにも知らずにたわむれかかる、無心の幼子に、子爵は無量の思いにかられた。どうかすこやかに育つように、たとえ両親はいなくても、ぶじにすくすくと育ってくれるように――。
「さようなら、かわいい坊や。」これが、アンバーレー子爵がバートランドに与えた最後のことばだった。そして彼は静かに目をとじた。
「なくなった子爵は自由主義者だった。それも極端な自由主義者だ。新しい思想にかぶれ、貴族という身分も忘れて、婦人参政権を主張するばかりか、産児制限といういまわしい考えまでも支持した。彼が二度目の選挙にやぶれて、国会の議席を失ったのも、そのためだ。」こうして、子爵の願いもむなしく、二人の遺児は、祖父のジョン・ラッセルの屋敷に引きとられることになった。
「このような手狭な屋敷においでくださいまして、まことに光栄に存じます。」と、年老いた大政治家はいった。
「ここは広いとはいえませんが、訪ねてくるのは、みんな偉大な人ばかりなのでしょう。」と、ペルシャ国王は笑いながら答えた。たしかに、王宮にくらべたら、ここは小さな屋敷にすぎなかったろう。ジョン・ラッセルは公の席ではひどく厳格で、だれもがおそれるほどだったが、家族の者にはとてもやさしかった。とりわけ、幼いバートランドにたいしては、やさしいおじいさんだった。
「いまのぼくの苦しみや悩みは、かつておとうさんが感じたものと同じなのだ。」若くして死んだ父の、神を捨て、因習や偏見にしがみついている貴族階級に反抗した姿が、目の前に見えるような気がした。
「一人の人が自分の考えをみんなにおしつけるということは、いけないことなんだよ。それを防ぐためには、議会政治というものが必要なんだよ。みんなして自分たちのかわりになる人を選び、その人たちが議会へ集まって、みんなのためになるような政治をする。・・・でも世界にはまだ議会をもたない国がたくさんあるんだよ。たとえばロシア・・・。」そして、笑いながらいうのだった。
「だいぶ前のことだがね、ロシアの大使がここへきたとき、わたしはこういってやったのだよ。ロシアにだって、いつかは議会ができますよ。』すると大使はいったよ。
「いいえ、奥さま。そんなことはけっしてありません。」って。祖母の話は、当時のバートランドには、正しく理解できなかったが、彼女のいおうとしていることは、幼い彼にもなんとなくわかるような気がした。
「大使には世界の動きがわからなかったんだよ。かわいそうなことだよ、大使にとっても、ロシアの国民にとっても。」
「おじちゃん、鳥はどうして飛ぶの?」バートランドの疑問はつぎからつぎへと続けられる。あるとき、バートランドは聞いた。
「羽があるからさ」
「どうして羽があると飛べるの?」
「地球って丸いの?」あくる日、ロロはおやと思った。バートランドが大きなシャベルをふりまわして、庭を掘っていたからだ。
「そうだよ、ボールみたいに。その上にいろんな国があるんだよ。イギリスの反対側にはオーストラリアって国があるんだ。」
「なにをしてるんだね、坊やo」ロロはあきれたが、バートランドはそういう子だった。好奇心が強くて、おまけになんでも自分で試してみなければ気がすまないという性質だったのだ。
「きのうおじちゃんがいったこと、試してみるんだよ。ぼんとうにイギリスの反対側にオーストラリアって国があるかどうか。」
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「バーティー(バートランドのこと)――幾何って知ってるかい。とてもおもしろいんだよ。」フランクはバートランドを自分の部屋へ連れて行って、ユークリッド幾何学の教科書をひろげ、まず定義の説明から始めた。バートランドは熱心に聞いていた。
「にいさん、知ってるの?」
「知ってるとも。教えてあげようか。」
「うん、教えて。」
「わかったかい、バーティ?」つぎは公理だった。
「わかったよ。」
「幾何っていうのは、いろんなことを証明する学問なんだけど、それには公理が必要なんだよ。それを使って証明するんだよ。」バートランドは納得できなかった。証明もしないで公理なんてものを決めるなんて。それじゃ、ほかの証明だって、あやふやになるじゃないか。バートランドがあまりいつまでも公理にこだわっているので、とうとうフランクは腹をたてた。
「じゃあ、公理の証明はなにを使ってするの?」
「公理は証明しないでもいいんだよ。」
「どうして? わかんないなあ。」
「でもそういうことに決まってるんだよ。」
「おかしいなあ。」
「おかしくっても、そう決まってるんだよ。だから、これだけはそのまま覚えておかなければいけないんだよ。」
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「それでいやなら、幾何の勉強はできないよ。」フランクは乱暴にパタンと本をとじた。バートランドはあわてた。
「だって・・・。」
「だってもくそもあるもんか。これで勉強はおしまいだ。」
「わかったよ、にいさん。公理はそのままおぼえるから、先へ進んで。」フランクはきげんをなおして、また本を広げた。こうしてバートランドははじめて幾何というものを学んだが、このことがひっかかって、彼の心はすっきりしなかった。
「ほんとだね?」
「ほんとだよ。」
「お誕生日おめでとう。」祖母はやさしくキスして続けた。
「この聖書にだいじなことばを書いておいたから、忘れずにおぼえておくんだよ。」バートランドは、聖書を開いてみた。本のとびらのところに、こう書いてあった。
「ありがとう、おばあさん。」
「大衆といっしょになって、悪を行なってはいけない。」バートランドはだまってこの文字を見つめていた。祖母はその頭をなでて、
「いいかい、バーティ。大衆というものは、大きな力をもっている。でもときどき大きなまちがいをおかすことがある。大勢の人がまちがったことをするときが、いちばん恐ろしいんだよ。世の中がめちゃめちゃになってしまうからね。だからみんなを指導する者は、いつもみんなを正しい方向へ導いていかなければいけないんだよ。」バートランドはすなおにうなずいた。
「おばあさんがいうのは、ぼくも大きくなって人を導くような立ち場になったら、どんなに大勢の人がすることでも、まちがっていると思うことは、させてはいけないってことなんだね。」と、祖母は満足そうにいって、
「そう。」
「おまえは考え深くて利口な子だね。そのことばを忘れるんではないよ。そして自分が正しいど思うことは、たとえ一人ぼっちになっても、恐れずにやりとげるんだよ。これは、昔からラッセル家の者たちがやってきたことで、いわば、この家の家訓のようなものなんだよ。」このころから、バートランドはますます、ものごとを深くつきつめて考えるようになった。
「わかったよ、おばあさん。」
「よしよし。この聖書はいつまでもだいじに持っているんだよ。」
「はい、おばあさん。」
「便所はどこですか。」と、聞けば、すぐにわかることだった。ところが、内気なバートランドは、どうしてもそう聞く気にはなれなかった。そこで、てくてく駅まで歩いて行って、駅の便所で用をすませたというのだ。
「彼はすばらしい詩人です。」
「大衆のために大衆の心をうたっています。彼がうたうのは、散りかかった美しい花ではなく、たくましく生きていく草の葉です。彼こそ、若いアメリカにふさわしい詩人です。」アリスはいかにも満足そうにいった。
「わたしホイットマンさんによく会いますの。」こうして二人の心はいっそう通いあった。二人はよく連れだって、野原や林を散歩した。
「ほんとうですか。」
「ええ。わたしもあの人の詩は大好きですし、心から尊敬していますわ。あの人は、ほんとうの大衆詩人です。それに、立派な民主主義者ですわ。」
「アリス、きみは恋愛についてどう考える?」とアリスはいって、
「ほんとうの恋愛だったら、美しいと思うわ。」
「二人が心から理解しあっているんだったら、どんな恋愛だって祝福されていいと思うわ。」と、バートランドは思わず叫んだ。
「たとえ親やまわりの者たちが反対しても?」
「そうよ。恋愛は個人の自由ですもの。」
「そうだとも!」
「でも、それができるのはわたしたちの国よ。ここではむりだわ。まだまだいままでの因習にしばられていますもの。とりわけ貴族たちの家庭では。貴族のおぼっちゃんのあなたにこんなことをいうのはわるいけど。」
「たしかにそうだけど、ぼくはちがうよ。」バートランドはむきになっていった。
「どうちがうの?」と、バートランドはしっかりとアリスを見ながらいった。
「ぼくはいまにきっとほんとうの恋愛をしてみせるよ、理解と愛で結ばれた。そのためなら、どんな反対にも負けはしないよ。」
「できるかしら?」
「できるとも。」
「なんですって。おまえは由緒あるラッセル家の一員ですよ。こともあろうに、アメリカ人の平民の娘と結婚するなんて!」
「国籍や身分なんか問題じゃありません。」
「おたがいの理解と愛情こそ、結婚の第一条件ですよ。」いったんこうと思いこんだら、どんなことがあってもやりとげる、そういう性質はラッセル家伝来のものだった。祖母は夫のジョンや、バートランドの父のことを思い出した。そしてこの子も祖父や父親にそっくりだと思った。
「おまえはまだ若い。そんなことは、もっと人生を経験してからいうべきことですよ。」
「いいえ、ぼくはおばあさんがなんといわれても、アリスと結婚しますよ。」
「バートランドの行為は一族の体面をけがすものだ。」彼らは、なんとかしてバートランドの決心を思いとまらせようと相談した。
「ぜったいにそんな結婚を許してはならない。」
「あの子はイギリスにおいといてはだめだ。このままではアリスと結婚してしまうだろう。」こうしてバートランドはパリのイギリス大使館に勤めさせられることになった。政界の大立て物として大きな力をもっていたジョン・ラッセル伯の孫である。バートランドをパリの大使館にはめこむくらいぞうさないことだった。こうしてバートランドはパリヘやってきたが、外交官の仕事は、少しも楽しいものではなかった。彼はかたときもアリスのことが忘れられず、早くイギリスヘ帰って、アリスと結婚したいと、そればかり考えていた。
「外国にやってしまうのがいい。そのうちにはおたがいに熱がさめて、ばかげた結婚は思いとまるだろう。」
「アリス、ドイツに行ってみないか?」と、アリスはいった。
「遊びにですか。それとも研究?」
「もちろん研究さ。」
「マルクス主義の勉強でしょう。」
「こんど、ある男を会に入れようと思うんだが、なかなか才能のある男だよ。」と、バートランドはいったが、そのころ彼は『協力者の会』の人びとに、少しばかり失望していたのだった。この会には進歩的な人もいたが、保守的な政治家や軍人もかなりはいっていた。彼らはほとんどが帝国主義者で、ドイツとのあいだに戦争が起こるのをのぞんでいた。
「なんという男だい。」
「ウェルズというんだ。きっときみのいい話相手になると思うよ。」
「そりゃ楽しみだな。」
「彼は、ジュール・ヴェルヌ(一八二八年~一九〇五年、フランスの作家)ふうの物語を書いている作家だが、それで満足しているわけじゃない。いまにきっと、もっとすばらしい仕事をする男だよ。」たしかにウェルズは、ウェッブのいうように、ただの男ではなかった。しかしなによりもバートランドを喜ばせたのは、帝国主義には反対で、戦争をのぞんでいる連中にはまっこうから反対していたことだった。二人はよく戦争推進論者たちを相手に、激しい議論をたたかわせることがあった。そんなことから、バートランドはウェルズとすっかり親しくなり、ときおりウェルズ夫妻を、自分の家に招待したりした。
「えらいことになったよ。」バートランドはウェルズをなぐさめていった。
「きみは信じることをいったのだから、そうがっかりすることはないだろう。」と、ウェルズはうかない顔をしていった。
「そうかもしんないが。」
「ぼくはまだ利息で生活するほど金はもっていない。もっと書いて生活費をかせがなくちゃならないんだ。だから、いま新聞でたたかれるのは、こまるんだよ。」と、バートランドは、ウェルズのにえきらない態度に、少し腹をたてて聞いた。
「では、どうするんだね。」
「しかたない。あの本に書いた自由恋愛のことはとり消すつもりだよ。」ウェルズのこのひとことで、バートランドはすっかり不愉快になった。そしてそれ以来、ウェルズとはあまり行ききしなくなった。彼らが以前のような友情をとりもどしたのは、第一次世界大戦が終わってからだった。こうしているうちに、バートランドの心の中には、ラッセル家伝来の政治家的情熱がもえあがってきた。
「アリス、ぼくはきみを尊敬し、理解しているつもりだ。でも、愛することはできなくなってしまった。ぼくたちは別れたほうがいいと思うよ。承知してくれるね。」二人はいろいろ話し合った。しかし、そのころのイギリスの法律では、離婚には、いろいろむずかしい法律上の手続きが必要だった。結局二人は別居生活をし、おりを見て、正式の離婚をすることにきめた。こうして一九一一年、彼らは別れた(松下注:法律上の離婚ではなく、別居)。
「戦争をやめさせるための戦争、それがこんどの戦争である。わたしは、ドイツの軍国主義に反対するこの戦争を、心から支持する。」と、バートランドは思った。ウェルズまでが戦争熱にうかされている。戦争をやめさせるための戦争・・・なんというこじつけだ。戦争はどんな理由をつけようと、死と破壊のうえになりたつものではないか。国民大衆が為政者の宣伝にのって戦争熱にうかされるのはわかる。しかし、理性や知性を売りものにしてきた知識人までが、なんの反省もなく、戦争を賛美していいものだろうか。
「なんたることだ!」
「祖国を守れ!」これが、いままで平和だった家々が戦場へかりだされていく兵士たちへのはなむけのことばだった。バートランドはこういう情景を見るたびに胸がいたんだ。怒りは恐怖にかわった。
「ドイツを倒せ!」
「恐ろしいことだ」と、彼は思った。
「こんな時代に生まれてこなければよかった。・・・わたしは一九一四年以前に死んでいればよかった。そうすれば、こんな恐ろしい思いはしないですんだのに。」しかし、絶望と恐怖の時がすぎると、彼の胸には、激しい闘志がわきあがった。
「わたしは闘わねばならない!」彼は心の中で叫んだ。
「平和を守るために、闘わねばならない!」神を信じないバートランドは、のちに、このときのことを、「神の声を聞いたように思った。」
「『大衆といっしょになって、悪を行なってはいけない。』」と、バートランドは思った。
「そうだ」
「これは、われわれにたいする軍の挑戦だ!」
「言論の自由にたいする、許すことのできない弾圧だ。国民から考える権利を奪おうとする軍の暴力だ!」しかし、なんといっても戦時下だ。軍の力は絶対だ。しかし、屈してはならないと、バートランドは思った。
「反戦運動は最後まで続けなくてはならない!」たとえわずか六人の同志でも、いま彼らを失うことは同盟にとって大きな痛手だ。彼らはあらゆる困難と闘いながら、わたしたちと運動を続けてきたのだ。彼らを救うのはわたしたちの義務だ! そう考えると、彼はすぐさまペンをとって、つぎのような声明文を書いた。
そしてそれをイギリスの大新聞『ロンドン・タイムズ』に送った。この声明文は、大々的にとりあげられて、大きな反響をまき起こした。若い同志を救おうとして、自分からすすんでその罪をきようとしたバートランドの男らしい行為に、彼とは反対の立ち場にあった者たちまで賞賛を惜しまなかった。しかしこの結果彼は、軍の徴兵を防害をしたという理由で起訴され、ロンドン市長公邸で、裁判にかけられることになった。バートランドはこの裁判の場も、反戦反軍の宣伝に利用した。彼は激しいことばで、戦争の罪悪とおろかしさを叫び、平和の尊さを力説した。裁判の結果、バートランドは百ポンドの罰金刑を課せられただけですんだが、しかしこのときの挑戦的な陳述は、あとあとまで尾をひいた。「問題のパンフレットを書いたのは、わたしである。配布の責任もわたしにある。もしだれかがそれによって罰せられなければならないとするなら、わたしである。 バートランド・ラッセル」
「イギリスの平和主義は、まだ死んではいなかったのだ!」こうして彼の『社会再建の原理』は出版されたのだった。しかし、バートランド・ラッセルの名は、イギリスの軍や役所では、やく病神のように嫌われていた。彼らはなんとかして、このやく病神をこまらせてやろうとして、いろんないやがらせをした。
「彼の言動は、挙国一致をみだし、徴兵にも重大な支障をきたすことになる」彼の身辺には、いっそうきびしい監視の目が光りだした。どんな小さな言動も見のがさず、逮捕の手がかりをつかもうとした。一九一八年、当局はその機会をつかんだ。その少し前、バートランドは、『徴兵反対同盟』の機関紙『ザ・トリビューナル』で、アメリカのヨーロッパ派遣軍ををこっぴどく批判し、イギリス政府の無能ぶりをこきおろした。当局はそれをとりあげて問題にしたのだ。
「彼は非国民だ。戦争防害者だ。」
「このままほおっておいてはいけない。だんこ逮捕して監禁すべきだ。」
「これはあきらかに、アメリカ軍、ならびにイギリス政府にたいする中傷である」と当局はいって、すぐさまバートランドを告訴した。その結果、彼は裁判にかけられ、六か月の禁固刑をいいわたされた。
「わたしはアルキメデス(紀元前二八七年?~紀元前二一二年、古代ギリシャの数学者で物理学者)のように、永遠なるものをさがしもとめていきたい。」といって、バートランドはブリクストン刑務所につながれたのだった。
「どうせ行き先は決まっているのだ。よけいな気など使わずに、規則どおり、護送車で送ればいいのに。」バートランドは皮肉そうに笑いながらいった。
「学校は知識をつめこむだけではいけない。子どもたちの情操をやしない、真の人間をつくるところでなければいけない。」ドーラ夫人も同じ考えだったので、二人はそういう学校をつくることにした。さいわいピータースフィールドに、兄のフランクが持っていた、あいた建て物があったので、そこを借りて、校舎にあてることにした。この学校はビーコン・ヒル・スクールと名づけられ、バートランドの考えによる新しい学校教育が始められたのだった。彼がここで教えようとしたのは、自由と訓練の調和ということで、子どもたちの自由を認めながらも、野放しに放任することではなく、社会にたいする義務を教えようとしたのだった。
「バートランド・ラッセルは神を認めない男だ。そんな人物を、わがニューヨーク市立大学教授に任命した大学当局や市高等教育委員会の猛省をうながす。」彼は新聞やその他の刊行物に(注:変な日本語 → 彼について新聞やその他刊行物は)、盛んにこう書きたてた。マニングはさらに、バートランドが書いた『結婚と道徳』を、善良な社会秩序をみだす不道徳な本と決めつけ、そんな本を書いた人物に、だいじなわれわれの子弟の教育をまかすことはできないと、わめきたてた。こういう声にあおられて、ラッセル排斥運動はたちまち全市に広がった。人びとは大学当局や高等教育委員会におしかけて、ラッセルの任命取り消しを要求した。しかしこれにたいして、宗教や政治が教育に口出しするのをにがにがしく思っていた人びとは、ラッセルを守れといって、いっせいに立ちあがった。その中心となったのは、良識ある知識人や学者で、アメリカ大学教授連盟、文化自由委員会、哲学関係の諸学会、アインシュタイン博士をはじめとする学者たちも、これに参加した。また宗教家の中にも、この運動に加わる者がいた。彼らは、もしラッセルの任命が取り消されるようなことがあれば、ニューヨーク市ばかりでなく、アメリカ全体の恥だと叫んで「反対派」に対抗した。こうしてラッセル事件は、アメリカ全土に広がっていった。三月十八日、この問題に決着をつけるため、高等教育委員会で、投票が行なわれ、ラッセルの任命が決まった。良識と理性の勝利だと、ラッセル派の人びとは喜んで祝杯をあげた。しかしこれで「反対派」がおとなしくひきさがったわけではなかった。彼らはこんどは別の手を考えて、この大学に娘をやっていたある婦人を使って、ラッセル任命の責任者である高等教育委員会をうったえさせた。こうしてこの事件は、最後に、この婦人と高等教育委員会との裁判ざたになった。事件の中心人物でありながら、いままでつんぼさじきにおかれていたバートランドは、この裁判に出席して、自分の考えを述べたいと思った。それで裁判に出られるように市当局に申し出たが、この願いは、あっさりにぎりつぶされてしまった。こうして三月三十日、判決が下された。裁判にあたったのは、マクギーンという、ローマ・カトリックの判事だった。彼は、バートランドがアメリカ人でないこと、その著述が不道徳であることなどを理由にして、ラッセルの任命は取り消されるべきであるとの判決を下した。バートランドは「自由の女神」によって象徴されるアメリカも、けっして自由の国ではなかったことを知ったのだった。
「大学がわたしに求めたのは、数学と論理学を教えることで、わたしの道徳観を教えることではなかった。わたしもそんなつもりはなかった。しかしわたしにも、自分の道徳観をのべる自由はあるはずだ。言論の自由は、アメリカの憲法でも保証されている。」その自由がふみにじられたのだ。バートランドは、大きな怒りをこめて、そういう公開状を新聞に発表した。
「未来はこの若者たちのものだ。彼らを、おろかな戦争の犠牲にしてはならない!」彼は心の中で叫んだ。そして残された生活を平和のためにささげようと、かたく心に誓ったのだった。
「今回のソ連の決定は、かならず西欧側の核実験再開をうながすことになるだろう。すべての平和の友は、今回のソ連の決定を、心からいかんに思わなくてはいけない。」ラッセルは、そのときそういう声明を出した。『百人委員会』はさらに十月にも、一万人を動員して、トラファルガー広場で、核兵器反対の抗議すわりこみを行なうことになっていた。しかしその前、バートランドは、大衆を扇動して、治安をみだす行動にかりたてたという理由で逮捕され、裁判にかけられた。
「ラッセル伯だ!」弁護人に助けられて、バートランドは静かに被告席についた。イギリスが世界にほこる数学者、哲学者バートランド・ラッセル伯の裁判が、いま始まろうにしていたのだ。やがてバートラム・リース判事によって、開廷が宣せられた。リース判事は、起訴理由を読み終わると、そこでひと息いれて、いたいたしげに被告席のバートランドを見た。
「バートランド・ラッセル伯、あなたは今後このような行動をしないと誓いますか」リース判事はいくらか声をやわらげて聞いた。彼としては「誓う」と答えてくれれば、それで無罪とする考えだった。新聞記者も傍聴人も、かたずをのんで、バートランドの答えを待った。一瞬しーんとなった法廷に、彼の声が、はっきりと響いた。
「ノー!」リース判事も、もうどうすることもできなかった。
「それではあなたを有罪としなければなりませんが。」
「わたしは有罪となることを、少しも恐れはしない。それによって、あなたもわたしたちの運動に力をかしてくれることになるのですからね、判事。わたしが有罪となったら、世界の世論はわきたち、イギリスを、そして世界を核兵器の惨害から救おうとするわたしたちの運動は、ますます盛んになっていくだろう。」
「被告人を禁固二か月に処します。」と、判決をいいわたした。とたんに傍聴席がさわぎだした。
「お気のどくな。」監視員の注意で、ようやく法廷が静かになったとき、弁護人が立ちあがっていった。
「なんてひどい裁判だ!」
「裁判長、ラッセル伯は、病気中です。二か月の禁固には、とうていたえられません。」
「それはわたしのきめることではありません。刑務所の医師がきめます。」とつぜん、傍聴人席からかん高い女の声が起こった。
「いいえ、判事さん、あなたが決めるべきですよ。逃げるなんて、ひきょうだわ。」法廷はまたそうぜんとなって、あっちこっちから、判決の不当を鳴らす声が起こった。それでとうとう判事も、病気を理由に、禁固一週間ということに、判決を改めなければならなかった。
「そうだとも、病人を牢に入れるなんて。」
「世界の人びとは、あやまった政府のもとで、核戦争への道を歩いている。このままでいくなら、地球は生命のない廃墟となって、永久に太陽のまわりを回転することになるだろう。わたしたちの運動をやめてはならない。きたる十二月二十九日の抗議デモは、あくまでもやりぬくのだ。」バートランドは刑務所内から、そう声明した。それにこたえるように、その日になると、大勢の人が、デモ隊の集合地に決められていたトラファルガー広場に向かって行った。ロンドンは朝から雨だった。降りしきる雨の中を、かさもささずに三々五々、広場へいそぐ人びとの姿が、早朝から見られた。男もいた。女もいた。学生もいれば、サラリーマンや工場労務者もいた。彼らがかかげていたプラカードには、「核武装反対!」「原水爆の製造実験を禁止せよ!」などの文字が、雨ににじんでいた。人びとの群れは、あとからあとからと続いた。トラファルガー広場へ! トラファルガー広場へ!
「このあんばいだと、きょうのデモはただじゃすまないぞ!」広場の内外は、ただならぬ空気につつまれていた。この日トラファルガー広場に集まった群集は二万にのぼった。予定の一万人の倍になったのだ。ラッセル伯らにたいする不当な判決が、ロンドン市民を怒らせたのだ。広場のまわりは、四千の警官によって、アリのはいでるすきまもなく、とりかこまれていた。彼らはそこに群集をとじこめて、一歩も出すまいとした。とつぜん、人びとの中から、叫び声があがった。
「警戒線を突破して、議会におしかけろ!」わあっという喚声とともに、二万の群集は、せきをきったように動き出し、警官隊に向かってぶつかっていった。たちまち激しいもみあいになったが、デモ隊はおし返されて、また広場にとじこめられてしまった。しばらくは重苦しいにらみあいが続いていたが、そのうちに群集は、また警官隊に向かっておし出していった。前にもましてすさまじい乱闘が、あっちこっちで起こった。プラカードがくだけ、警官の帽子がふっとんだ。とっくみあっている者、なぐりあっている者・・・。ようやくかこみをやぶってとび出した者は、どろんこの道路にすわりこんで、警官隊をののしった。警官はそういう連中を片っぱしからゴボウ抜きにして、トラックに積み込み、警察署に運んでいった。こうして『百人委員会』の運動は、官憲のきびしい弾圧をはねのけながら、それからも活発に続けられた。
「大衆といっしょになって悪を行なってはいけない!」「わたしはいまイギリス人としてではなく、その存続をあやぶまれている人類の一人として、語ろうと思う。わたしが話しかけようとするのは、特定のグループの人たちではなく、すべてのグループの人たちである。なぜなら、わたしが話そうとするのは、全人類の危機についてであり、それが理解されれば、その危機からまぬかれることができるからである。(いまわたしたちが考えなければならないのは、あらゆる方面に大きな惨害をもたらす、武力による抗争をふせぐには、どうすればいいかといことである。多くの人びとは、まだ水素爆弾の恐ろしさを、ほんとうには知っていない。新しい水爆は、古い原爆にくらべ、はるかに恐ろしい威力をもっている。広島は一発の原爆で壊滅したが、一発の水爆は、ロンドンやニューヨークのような大都市でもわけなく破壊することができると考えられている。
ビキニ(西太平洋にある環礁。一九四六年以来、米国の原水爆実験場となった)での実験以来、水爆は、想像以上に恐ろしいものであることがわかった。専門家のいうところによれば、今日では広島に投下された原爆の二万五千倍の破壊力をもつ水爆も製造できるということである。地上または水中で爆発した水爆は、強い放射能をおびた微粒子を高く上空にふきあげ、それはやがて、死の灰となって地上に降ってくる。ビキニの実験でも、この死の灰は、アメリカの専門家が安全といっていたところにまで降ってきて、そこにいた日本人船員を汚染したのである。(一九五四年の実験で日本の漁船第五福龍丸の乗員が被災した。)水爆戦争によって(水爆を使った戦争が起これば)全人類が絶滅するだろうということは、多くの学者が口をそろえていっているところである。イギリスの空軍大将フイリップ・ジョーバート卿はこういっている。
'水爆の出現によって、人類は、戦争をやめるか、それとも絶滅するか、どちらか一つを選ばなければならなくなった。'
しかし多くの人びとは、近代兵器の製造、使用をやめさえすれば、戦争はあってもしかたがないではないだろうかと考えている。だがわたしはそういう考えはまちがっていると思う。なぜなら、たとえどんな水爆禁止の協定が結ばれたとしても、いざ戦争となればそんな協定は無視され、敵も味方も水爆の製造を始めるにちがいないからである。戦争をさけるための協定を実現させることができるのは、戦争の惨禍について語ることのできる中立国である。彼らは、自分の利益を守るという点からも、世界戦争が起こらないようにする権利をもっている。なぜなら、水爆戦争のような戦争が起これば、全人類とともに、彼らも死滅しなければならないからである。もしわたしがある中立的政府を思いのままにすることができるとすれば、わたしはその国の人びとをそういう死から救うことを、自分の最大の義務とするだろう。そしてそのためには、鉄の力ーテンの両側にある国ぐににたいして、戦争防止のために和解するよう働きかけるだろう。
わたしは戦争によって東西の対立に決着をつけようとするのは、まちがっていると思う。このことは鉄のカーテンの両側で理解されなければならない。そのためには、いくつかの中立的な強国が、中立的な立ち場にある専門家の委員会をつくって、水爆戦争の破壊的な結果についての報告書をつくり、それを世界の列強に示す必要がある。
人類は、その知恵の結果が地球上の全生物を絶滅させるほど、おろかでおたがいに愛することができないものなのだろうか。しかしわたしは、まだおしまいとは考えていない。もしわたしたちがしばらくのあいだ戦争を忘れ、真剣に、生きることを考えるなら、わたしたちの未来は、輝かしいものとなるだろう。そして、もしわたしたちがほんとうにそれをのぞむなら、わたしたちの将来には幸福と知識の休みない進歩が待っているのである。