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大蔵宏之(作)「水爆戦争に勝利はない-心からの平和主義者バートランド・ラッセル

* 出典:『平和をもとめる物語』(集英社,1964年4月刊 260 pp. 世界100人の物語全集・第12巻)pp.217-236.
* 大蔵宏之(おおくら・ひろゆき:1908~1994):奈良県生。日本児童文学者協会,日本児童文芸家協会所属。著書に「戦争っ子」「山の子」他。/* さしえ=下高原千歳
* 児童図書のため,本文には,'ルビ'(読み仮名)がふられているが,ここでは省略。フィクションの部分も少なくなく,記述は正確でないところがありますが,小学生向けの(?)児童図書ということで,子供の立場(目線)で,お読みください。
* その他の,ラッセル関係の児童図書:塩谷太郎「ラッセル」

(p.217)
大蔵宏之「水爆戦争に勝利はない-心からの平和主義者ラッセル」

 わたくしたちは,原水爆反対の旗をかかげて,デモの先頭に立って歩いているバートランド・ラッセルのすがたを,新聞でよく見かけます。
 92歳(=『平和をもとめる物語』の出版年)のラッセルは,つねに,人類の平和をもとめ,戦争に反対してきました。それがために,刑務所に入れられたことさえありました。
 それでも,なおもがんばり,人類を減亡におとし入れる原水爆には,強いいきどおりをもって反対を続けています。だれがなんといっても反対だと,デモの先頭に立って歩いているラッセルの考えを聞いてみましょう。(・大蔵宏之/さしえ・下高原千歳)


(p.218)
 ラッセルの小伝

 バートランド・ラッセルは,1872年,イギリスのツレレックに生まれた。
 まだ小さいときに,両親に死に別れたラッセルは,祖父と祖母に育てられたが,祖父ジョン・ラッセル卿は,イギリスの民主主義に力をつくした,りっぱな人物であった。祖母も,何かとラッセルのめんどうをみてくれるやさしい人だった。
 こんなに,やさしい家庭に生まれたラッセルだったが,そうかといって,あまやかされて育ったわけではなかった。家庭の生活は,清教徒のあの厳格さで,きびしく秩序づけられていた。貴族の家でありながら,スパルタ式ともいえる質実剛健な日を送ったラッセルは,祖父の死にもまけなかった。こんなラッセルだったから,ただ,ひとりで数学の問題をとくことに,ひじょうな興味を持ったのも不思議ではなかったのだ。
 ケンブリッジ大学に入学したラッセルは,よき師,よき友を得て,数学,哲学の勉強にはげみ,その成果は,大学卒業後の,「数学の原理」などの出版にあらわれたのだった。
 そのころのラッセルは,広い学問の分野で一流の学者として世界に活やくしていた。第一次,第二次の世界大戦にも,ただ「平和」をさけんだラッセルは,ノーベル文学賞を受けてから,原水爆禁止,世界平和の実現に,今も,はげしい情熱を,もやし続けている。

 参考図書:ラッセル著「自由への道」,「哲学入門」,「幸福論」
 写真提供:ブリテイッシュ・ライブラリー
(松下注:参考図書としては,上記の3冊しかあげられていないが,本伝記の最大の情報源は,あきらかに,みすず書房から1959年に出版された『自伝的回想』である。なお原著の Portraits from Memory and Other Essays は,1956年に出版されている。)
(p.219-236)

 デモの先頭を

 ここは,イギリスの首都ロンドン。
 核爆発実験反対のデモ隊が,えんえんと続いている。
 デモ隊の大多数は,学生やわかい勤労者だが,その先頭を行くのは,ことし90才のバートランド・ラッセルと,その夫人である。(←松下注:1962年の核兵器撤廃要求デモのことを描いているので,90歳。本書は,1964年の出版なので,最初のところでは,92歳と書かれている。)
 ラッセルのかみの毛はまっ白,ほおには90年の歳月をきざむ,深いしわがきざまれているけれど,どこかに少年のような,わかさとおさなさが残っている。
 ラッセルは,ときどき手をふってさけぶ。
 「人類を自滅にみちびく核爆発実験反対!」
 「水爆戦争に勝利者はないのだ。」
 「人はすべて,幸福になる権利があるのだ。」
 「人類の幸福をおびやかす核爆発実験に抗議しよう。」
 道行く人たちも,老学者がデモの先頭を行くすがたには,しばしば出くわしており,直接見かけないまでも,ニュース映画やテレビでおなじみになっているので,
 (ラッセル先生,こくろうさま!)
というように,さかんに手をふって,答えている。
 ラッセルはとても,90才の老人とは見えない。精力的で生気にあふれている。あい変わらず手をあげて,さけびなから,ちょこちょこ,まるで走るようにデモって行く。かれの目,口いや顔全体,いやいや,からだ全体がさけぶ。うったえる。まるでほのおのように。
 わらうものはわらえ!
 だれがわらおうと
 だれがけなそうと
 そんなことを苦にするおれではない
 おれは90年生きてきたのだ
 私利私欲,そんなものはとっくの昔になくなってしまった
 そのおれのやることは正しいのだ (← 松下注:ラッセルは,このようなことは言わない)
 人類のしあわせだけを願っている
 このおれのやることにまちがいはないのだ (← 松下注:ラッセルは,このような言い方はしない)
 わか者よ続け
 壮年も続け
 老人も続け
 イギリス人よ続け
 フランス人よ続け
 ドイツ人よ,イタリア人よ続け
 日本人も,中国人も,インド人も
 アジアの庶民よ続け
 中近東の諸民族も
 アフリカの諸民族も
 南アメリカの諸国民も
 世界中の全人類よ続け
 そしてさけぼう
 おれたちは核戦争に反対する
 おれたちは平和を愛すると
 アメリカ合衆国にも
 ソビエト連邦にも
 世界のすみずみにとどろけ
 戦争のない
 いかりもにくしみもない
 ゆたかでしあわせな
 かがやかしい未来のために!

 ラッセルのこのほのおのような情熱,意志,精力は,いったいどこから出てくるのであろうか。
 「90才の老学者が,このように元気に,このようにはげしく,平和をもとめているのだ。われらわか者,負けてはいられない。」
 あとに続くわか者たちも,目をかがやかせ,愚行をなじり,平和をさけびながら,勇ましく前進して行く。

 思索の朝

 デモの次の日,ラッセルはさわやかな朝をむかえた。人はだれでも,したいことをやったあとは,気持ちのいいものである。ラッセルもけさは,とくべつ,くったくのない顔をしている。紅茶を入れてはいってきた夫人も,にこやかである。
 「おつかれではありません?」
 「ううん,つかれてなんかいない。このとおり元気だ。でも少し歩きすぎたから,こしのあたりが,少しはいたいがね。はっははは・。」
 ラッセルは,正直に白状した,
 やがて夫人が去ると,ラッセルはいつものとおり,静かに思索にふけり始めた。こうしてひとり,静かに考えごとをするのは,ラッセルの,子どものころからの習慣なのだ。
 (だれからも,保証されたわけではないが,じぶんはなんとなく,90歳までは生きるような気がしていた。じぶんでそう,決めてきたのだ。そしてもう,90才になってしまった。だからもう,何もしなくても,だれもとがめはしないだろう。しかし,じぶんにはまだやらねばならない仕事がある。世界に真の平和がくるまで,平和をもとめ続けること,これがじぶんの,最後のただ一つの仕事なのだ。)
 目をとじて,思索にふけるラッセルの顔は,心持ち紅潮している。戦いのない,にくしみのない,すべての人が,ゆたかにしあわせにくらせる世界,そういう世界を思いえがくたびに,ラッセルのむねは,少年のように高鳴ってくるのだ。
 (じぶんがこの年まで,生きてこられたのは,年をとらないひけつを知っていたからだ。じぶんは機会あるごとに,多くの人に,長生きのひけつを伝授してきたが,人はどうも,このひけつが守りにくいらしい。なんでもないことなのだがなあ。過去に執着しないこと,たったそれだけのことなのだがなあ。記憶に生きること,むかしの良き時代をおしんだり,なくなった友だちを思い出して悲しがったりするのは,よろしくないということだけなのだがなあ。未来を考え,かがやかしい未来をむかえるために,何をなすべきかを知り,それを実行するというだけのことなのだがなあ。しかし,このことは,それほどたやすいことではないのだ。じぶんの過去というものは,しだいに重みをますからだ。そりゃ,だれでもわかいときの方が,感情は生き生きとしていたし,精神はずっと強かったのだ。だからこそ,それをわすれねばならないのだが,しかしこれは,動かせない事実だから,それをわすれることは,むつかしいことではある。)
 ラッセルは,思索を続ける。
 (人間の一生は,川の流れのようなものだ。初めは小さく,せまい土手の間を流れ,瀬を横ぎり,滝をこえて進む。しだいに川幅が広がり,土手は後退して,水はもっと静かに流れ,ついにはいつのまにやら,海へぼつにゅうして,なんの苦しみもなく,個人の存在というものがなくなるのだ。
 じぶんは,90才までは生きると思っていたが,これから先,なん年生きるかわからない。これから先のじぶんの人生は,いわばおまけのようなものだ。このおまけの人生を,りっぱに生きるために,じぶんはもう,じぶん一個人のことは考えまい。そうだ。いかりとにくしみのない,すべての人がしあわせで,ゆたかにくらせる世界,そういう平和の実現のためにだけ働けばいいのだ。)
 ラッセルの考えは,またしても平和をもとめる所へおちつく。何を考え,何をおこなっても,おちつく所は平和である。さすがにじぶんで,じぶんがおかしくなり,かれはひとりで大声でわらった。

 めずらしい客

 ラッセルが,ひとりで大わらいしている所へ,家の者が,来客だ,と知らせてきた。
 「お客だって? きょうはだれとも,会うやくそくはなかったはずだが,だれだろう?」
 「日本の吉田さんという方です。」
 「ほう,日本の吉田さん。日本にはもと,吉田という総理大臣がいたが,じぶんはその吉田さんとは知り合いでもないから,たぶん元総理の吉田さんではないだろう。しかし,日本人なら,会うことにしよう。お通ししなさい。」
 ラッセルが,応接間にはいって行くと,東洋人にしてはせいは高いが,まだわかい日本人が待っていた。
 「とつぜんたずねてきた失礼を,おゆるしください。会っていただくだけで,たいへんうれしく思います。」
 その日本人は,礼儀正しくあいさつをした。
 「あなたは,日本からいつこられたのですか。」
 「わたしは,今,日本からきたのではありません。わたしは,日本の放送局の特派員として,もう一年以上,ロンドンにたいざいしているのです。」
 「ほう,そうでしたか。」
 「じつは,昨日あなたが先頭に立っておこなわれた,核実験停止要求デモのようすは,BBC放送局からニュースフイルムを日本に送ってもらうことにしたのですが,これがテレビで放送されると,日本の多くの人は,あなたに大きな関心を持つと思うのです。で,インタビューにうかがったというわけです。」
 「そうですか,そうですか。それは,よくおいでくださいました。さいわいきょうは,急ぐ用事がありませんから,いくらでもお話しましょう。」
 「90才にもなられて,なお先頭に立ってデモをなさるのは,わたくしたち日本人から見ると,一種壮烈さのようなものを,感じるのですが。」
 「わたしは90才だからこそ,デモの先頭に立たせてもらえたのです。わたしがあなたくらいの年令だったら,だれも先頭に立たせてはくれなかったでしょう。」
 ラッセルは,大声でわらった。
 「でも,あなたのその情熱におどろいているのです。」
 吉田放送局員は,(きょうのインタビューはうまく行くぞ。)とうれしそうである。
 「わたしが,この年になっても,なお戦争に反対し,核爆発実験の停止を要求するのは,いろいろ理由がありますが,まずわたしの体内には,祖先から受けついできた,正義を愛する血が流れているからです。損得を無視して,わたしはじぶんが正しいと信ずることは,主張することにしています。しているのではなく,わたしの体内に流れている血が,そうすることを要求するのです。」
 吉田特派員は,大きくうなずいて聞いている。
 「それから,わたしはじぶんの主張を,よういなことではひるがえしません。このがんこさも先祖から受けついできたものですが,わたしはとちゅうで,ひるがえすような主張なら,初めからしません。わたしは,ねっからの反戦論者です。第一次大戦のとき,反戦運動をしたために,獄につながれました。そのとき,わたしは40歳(松下注:1918年5月入獄なので,46歳)でした。40歳(→46歳)でやれたことを,90歳にもなって,なぜやらずにすますことができましょうか。」
 バートランド・ラッセルは,熱をこめて話を続ける。
 「わたしは数学者として,哲学者として,世界に多くの友人を持っています。わたしは,老学徒としての責任を感じています。水爆戦争には勝利者はありません。共に生きるか,共に死ぬかの,どちらかしかないのです。このことを,よく知っている者は,世界中にうったえる義務があると思うのです。といっても,世界中にこれをさとらせることはなかなかよういなことではありません。いかなる困難にぶっつかっても,絶望することなく続けなければなりません。」
 「わたしは,確信しています。わたしたちの前に,いかなる暗黒時代が横たわろうと,人類はそこを乗り切るだろうし,現在失われたように見える,おたがいに相手をみとめ合うという習慣も,やがては回復し,野蛮な暴力の支配は,そう長くは続かないだろうと。」
 吉田特派員は大きくうなずいた。と,ラッセルは立ちあがってさけんだ。
 「そうだ。あなたは日本人だった。日本人は,世界最初の原爆のぎせい者だ。原爆のおそろしさを,だれよりもよく知っているのは日本人だ。日本人は,ヒロシマ,ナガサキの悲惨さを,二度とふたたびくり返すなと,世界にうったえる義務と権利があるのだ。日本人,吉田さんがんばってください。」
 ラッセルは,吉田特派員のそばにきてかれの手を,強く強くにぎった。吉岡特派員は,このはげしい実行力とあたたかい心情の持ち主の,せつせつのうったえを聞いて,強くむねを打たれた。
 ラッセルは,まるで演説をしているときのような調子で続ける。

 おいたち

 「先生は先ほどから,たびたび先祖から受けついだ血ということを,おっしゃいましたが,先生のご先祖について,お話をうかがいたいのですが・・・。」
 進んで話を聞かせてくれるバートランド・ラッセルのくだけた態度に,吉田特派員はすっかり安心して,こういう質問をした。
 「わたしのような人間が,どのようにして形成されたのかを語れというんですね。よろしい。お話しましょう。」
 バートランド・ラッセルは,今度はいかにも,くつろいだ調子で話を始めた。
 「わたしの両親は,わたしが物心つく前になくなったので,わたしは祖父と祖母に育てられたのです。祖父ジョン・ラッセル卿は,フランス革命の始まったころ,生まれた人です。ナポレオンが皇帝であったとき,祖父は国会議員だったのですが,フランス革命とナポレオンに対するイギリスの敵意を,祖父は行きすぎと考え,エルバ島に流刑中の,ナポレオンをたずね,この偉人に耳をひっぱらせたのだと,祖父はよく話してくれました。
 ナポレオンが,エルバ島から帰ったとき,祖父は議会で,かれに敵対すべきでないという演説をしました。ところが,政府は別の決定をおこない,そのけっかは,ワーテルローの会戦になってあらわれたわけです。
 祖父ジョン・ラッセル卿の最大の業績は,イギリスを完全な民主主義のレールにのせた,1822年(1832年の誤植と思われる./1832年=選挙法改正)の改革案を通過させたことです。この改革案をめぐって,進歩派と反動派は,ほとんど内乱になりそうなくらい,はげしく争ったのですが,ついに進歩派が平和的に勝利を得たのです。この勝利をうるために,一番ほねおったのが,祖父(注:John Russell,1792~1878:第6代ベッドフォード公爵の三男で初代ラッセル伯爵;1846~1852及び1865~1866の2度英国首相)だったのです。
 祖父は,いわば貴族的自由主義者だったのですね。つまり,国王はじぶんを,人民の使用人とみとめ,人民が不満に思うときは,やめさせられるということを,しょうちしているかぎりにおいて,王政をみとめようという考えを持っていたのです。
 祖父は,権勢にこびる人ではなかったので,この考えをなん度もビクトリア女王に説明したそうですが,女王はかならずしも賛成しなかったようです。しかし女王はリッチモンド公園の家を,祖父にあたえたのです。わたしがおさない日をすごしたのが,その家です。」

 バートランド・ラッセルは,おさない日をなっかしむように,目を細めて,静かにことばを続けた。

 「そうそう。この家で,たびたび内閣の会合がおこなわれ,多くの知名人がやってきました。あるとき,ペルシヤ王がおとずれたことがありました。祖父が,こういうせまくるしい家へおこしいただいて恐縮ですというと,ペルシャ王は,家は小さくても,偉大な人が住んでおられますよといわれました。
 またあるときは,中国の儀式服を着た,3人の中国人外交官がたずねてきました。別のときには,リベリアから黒人の使者がおとずれたこともありました。
 そう,リッチモンドの家の応接間には,象眼模様のある日本のつくえがおいてありましたよ。90年も前に,イギリスにこられた日本の方に,いただいたものだと思います。おさない日のわたしは,中国人や黒人の訪問,それからあしのひくい日本のつくえが,とてもめずらしかったので,今だにわすれないのです。
 こういう話をすると,おさないわたしが,はなやかな家の中を自由自在に飛びまわっていたように聞えますが,どうしてどうして,家の空気は清教徒的なつつしみ深さと厳格さを持っていて,子どもがおとなの世界に顔を出すなどということは,決してゆるされていなかったのです。」

 人に聞かせるというよりは,じぶん自身,思い出を楽しんでいるような口調で,話はさらに続いた。

 孤独な少年

 少年バートランド・ラッセルは,一年中,どんな寒い朝でも,起きるとすぐ,冷水浴をさせられた。そして,7時半から8時までは,ピアノの練習をしなければならなかった。ストーブにまだ,火がはいっていなくて,手がかじかんでいるので,感覚のない手で,ピアノのキイをたたかねばならなかったのだ。8時になると,家中そろっての,朝のおいのりがあるのだった。
 貴族の家だから,8人も召使いがいたが,食事はいつも,スパルタ式の簡素なもので,かりにごちそうが出ても,おいしいものは,子どもにはぜいたくだといって,あたえられなかった。たとえば,リンゴ入りパイと米のプデイングが出た場合でも,子どもは,プデイングだけで,がまんさせられた。
 しかし,厳格と冷淡は別である。バートランドは,きびしく育てられたが,決してそまつにあつかわれたのではない。祖父母は,早く両親を失ったバ一トランドを,とてもかわいがってくれたし,召使いたちも,よくめんどうを見てくれた。家庭教師も,何かと親切に指導してくれた。
 伝統というものが,どっしりと腰をおろして,ゆるぎない時代だったのだから,これがあたりまえのことだったのだ。イギリスと日本とは,遠くはなれており,国情も宗教もちがうのに,明治時代の日本にも,これと同じような家庭教育のきびしさがあったのは,おもしろいことである。
 さて,ある日,バートランドが祖父の書斎をのぞくと,祖父は本を読みながら,ふふふ・・・ははは・・・と,からだをゆすぶって,ひとりわらいをしていた。
 「おじいさん。何が,そんなにおかしいの。そんなにおもしろい本,ぼくにも読んで聞かせてください。」
 「うん。これはドン・キホーテという本だが,これはフランス語だから,そのまま読んでもおまえにはわからない。英語に訳して,話してやろう。」
 ジョン・ラッセル卿は,本のあらすじをかいつまんで話して聞かせた。
 卿はこのように,バートランドをかわいがっていたのだ。卿は子どもずきなので,足音が高いとか,さわぐなとか,老人がよく子どもにいうこごとは,いっさいいわなかった。
 バートランドが6才のとき,祖父ジョン・ラッセル卿は,重い病気で床についていた。そのとき,家の前の芝生に,しんけんな顔をした大勢の人が集まっきて,
 「ジョン・ラッセル卿,ばんさーい,ばんさーい!」
と,さけんでいた。バートランドは,ふしぎに思って,家庭教師にたずねた。
 「あの人たちは,なぜあんなに大声で,さけんでいるのですか。」
 「わがイギリスでは,もとはイギリス国教会に属していない人たちは,上下両院議員になることも,公職につくことも,できなかったのです。あなたのおじいさまは,おわかいときに,国教徒でない人たちを,しめ出す宣誓令と自治体令を,やめてしまうように,力をつくされたのです。きょうは,それがとりやめになってから,50回めの記念日なので,あの人たちは,おじいさまへのお礼の心をあらわすために,祝福にきているのです。」
 家庭教師は,こう説明してくれたが,おさないバートランドには,そのわけが,よくわからなかった。しかしおじいさまが,とてもえらい人なのだ,ということだけはわかった。
 こういうことがあって数日後,やさしい祖父ジョン・ラッセル卿は死んでしまったのだ。だれよりもたよりにしていた祖父がいくなると,バートランドは,しだいに,ひとりぼっちで,はにかみやで,しかつめらしい少年になっていった。
 しかしバートランドは,別にさびしいとは思わなかった。少年時代に友だちと,つきあう楽しさを,経験しなかったので,ひとりぽっちでいることが,少しも苦痛ではなかったのだ。
 バートランドは,小さいときから,数学がすきであった。むつかしい問題を,ひとつひとつといていくのは,なんともいえない喜びであった。しかしそのうちに,そのすきな数学にも,疑問を持つようになった。神とは何か,精神とは何か,物質とは何か,何ものにも疑問を持つようになった。こういうバートランドを家庭の人たちは喜ばなかった。しかし,こういう環境の中で,不屈のたましいが,強く強く育っていったのだ。

 新しい出発

 18歳になったバートランド・ラッセルは,ケンブリッジ大学に入学した。大学に入学したラッセルは,まわりの学生たちが同じことばで話していることに,まずびっくりした。ラッセルが,こんなあたりまえのことにびっくりしたのは,伝統をそんちょうし,何よりも形式的な道徳を重んじる家庭の中では,じぶんがほんとうに考えていることを,口に出せなかったからなのだ。もしそうすれば,気ちがいか何かのように見つめられ,罪人のようにとがめられたからである。
 ケンブリッジ大学ではどの学生も,じぶんの考えを,だれにもえんりょすることなく,ずばりずばりいってのけていた。有名な学者や,芸術家の著作についても,こういう点は同感であるが,こういう点は気にくわないと,平気で意見をのべていた。ラッセルは,これがとてもうれしかった。まるで,魚が水を得たような,喜びを感じた。
 ケンブリッジにくるまで,ラッセルは,学校の教育でない,特殊な教育をさずけられてきたじぶんは,はたしてみんなと,調和していけるだろうかと,少しばかり不安に思っていたが,それが取りこし苦労だと,すぐに気がついた。ラッセルにとって,ケンブリッジの環境は,手ぶくろのようにぴったりしたものであったのだ。
 ケンブリッジ大学では,学生はすべて,学内に寄宿することになっていたので,バートランド・ラッセルは,1,2週間の間に,たちまち多くの友人ができた。ラッセルは,たいへんなはにかみやだったので,じぶんから友人を作れる男ではなかったが,奨学生試験で,ラッセルの優秀さをみとめた,ホワイトヘッド教授が,同じように優秀な学生たちに,ラッセルと友だちになるようにすすめてくれたことが,大いに役立ったのだ。
 ところが大学には,はにかみやのラッセル以上に,はずがしがりやの学生がいた(松下注:フェローになる直前の,哲学者のマクタガートのこと)。ある日,ラッセルのへやのドアを,小さくノックする音が聞こえた。「どうぞ。」といったが,だれもはいってこない。ラッセルがさらに,大きな声で,「どうぞ。」というと,やっと静かにドアがあいて,ひとりの学生がはいってきた。しかしその学生は,くつぬぐいの上に,つっ立っているだけで,何もいわない。ラッセルの方も,はずかしくて,へやにあがるようにすすめる勇気がない。だからふたりは,いつまでも,もぞもぞしていた。
 この学生はラッセルよりは上級生で,学問のうえで,少しは世間に知られているほどの人だったのに,このように内気だったのだ。今日では,ちょっと想像もできない,こういう学生が,そのころはいたのだ。しかし,そういうはにかみや同士も,すぐしたしくなり,おたがいに食事によんだり,よばれたりする間がらになった。
 ケンブリッジで,多くのよき師と,よき友人を得たラッセルは,楽しく有意義な学生生活を送った。初めの3年は,数学の勉強をして,後の1年は哲学の勉強をして,卒業までに特別研究員の地位も得たし,将来,大学者になる素地を作りあげたのだ。
 バートランド・ラッセルは1894年,ケンブリッジ大学を卒業したが,2年後の1896年には,処女作「ドイツの社会民主主義」を出版した。
 そして1903年(松下注:1910年の間違い)には,恩師のホワイトヘッドと共著で,「数学の原理」をあらわした(松下注:1903年の「数学の原理」はラッセルの単著。ホワイトヘッドとの共著になる「数学原理(プリンキピア・マテマティカ)」3巻本は,1910~1913年に出版)。この著作で,かれはいちやく,世界の思想界の注目を集めた。
 第一次世界大戦が起きると,ラッセルは,てってい的な非戦論をとなえ,戦争反対運動に参加したために,ケンブリッジ大学から追放され,6か月間,刑務所に入れられた。
 1939年には,ニューヨーク大学の教授にむかえられて,ラッセルも,しょうちした。ところが,ある牧師が,ラッセルは宗教と道徳を無視する宣伝屋だから,大学教授にふさわしくないという投書をした。この投書がもとで,アメリカの学界は賛成と反対の二派に別れて,たいへんなさわぎとなった。これが有名な,ラッセル事件であるが,けっきょくラッセルは,不適格ということになった。
 ラッセルはこのことが,よほどしゃくにさわったとみえて,「意味と真理の探求」という本の巻頭に,じぶんの経歴を書きならべ,次のように書いている。
  1940年,ニューヨーク大学哲学教授に不適格の判決を受ける。
 ラッセル事件でもわかるように,道徳とけっこんについての,かれの考えは,そのころは過激だとみられたのだ。かれがこういう思想の持ち主になったのは,1つには,少年時代に,伝統の重しにおさえつけられすぎた反動であったともいえよう。ところで,かれの考えは,今の考えとして,通用するようになっている。このことからも,ラッセルは人よりも,一歩先に歩く人,いわゆる先駆者であったといえる。

 信念の人

 ラッセルは数学,論理学,教育学,社会学,哲学など,他(誤植→多)方面にわたるたくさんの本を書いた。学者として,世界一流であることはいうまでもないが,かれの特色は,じぶんの信念をつらぬき通したことだ。このような心をこそ,不屈の精神の持ち主というのであろう。
 第二次世界大戦後のラッセルは,以前にもまして,はげしい平和の闘士となった。1950年6月には「第三次大戦をふせぐ道」という論文を発表。この年,ノーべル文学賞を受賞した。ストックホルムで,ノーベル賞の授与式がおこなわれたとき,ラッセルは次のような,人をくった平和提案をした。
 われわれにとって,今必要なことは,フカのいるプールを作ることです。そして野蛮な戦争をたくらむやつらを,毎日少くとも2時間,このプールで泳がせることにします。そうすれば,戦争はなくなってしまいます。
 しかし,今のバートランド・ラッセルは,もうこんなのんきなたとえなど,いわなくなっている。事態は,もっと緊迫しているからだ。
 「日本人,吉田くんよ。永久平和を勝ちとるために,共に手をつないで,戦いましょうね。」
 2時間近くも語り続けて,ラッセルが最後にこういったとき,吉田特派員はかれのそばに歩みよって,握手をもとめたが,ことばはただ「ありがとう,ありがとう。」としかいえなかった。
 帰路についてからも,吉田放送局員は,偉大な人にインタビューした興奮を,いつまでも,しずめることができなかった。
 (世界には,思想のうえでは,ラッセルとちがった考えもを持っている人も多いだろうが,人間ラッセルのこのあたたかさ,精神力の強さを否定する人はいないだろう。)
 吉田特派員は心の中で,こうつぶやき続けた。

 バートランド・ラッセルは,今日も,世界の永久平和を願って,仕事を続けている。近く開くことになっている,ロンドン百人委員会(注:ロンドンは余分)での演説の草稿を,せっせと書き続けているのだ。

 「あんまり精を出すと,おつかれになりますよ。お休みになっては,いかがですか。」
 夫人が,お茶とお菓子を持って,はいってくると,ラッセルはいった。
 「うん。いい所へきてくれた。ひとつ演説をやってみるから,聞いてくれ。」
 「ええ。聞かせていただきます。でも,今のわたしは,あなたのおっしゃりたいことが,何もかもわかっているつもりです。わたしは,あなたといっしょに演壇に立って,テーブルをたたいて,さけびたいくらいですわ。」
 「そうか,そうか。じゃ,いっしょに演説をやろう。」
 バートランド・ラッセルは,夫人とならんで立ち,満員の聴衆を,目の前にしているようなまじめな態度で,さけび続けるのであった。
 「人類は,かつて人類史に起こったことのない二者択一に直面しています。それは戦争を否定するか,人類の絶減を待つかということです。」
 「人類の眼前には,協定による平和か,世界中の死の平和しか,横たわっていないのです。」
 「東西が争いをやめれぱ,世界中のすべての人が,もっと幸福に,もっと裕福になれるのです。」
 「永久平和が確立したとき,全世界の人類は,歓呼の声をあげて,過去のいかなる時代よりも,幸福な時代への出発を,全身全霊で祝福することでしょう。」

 ああ,なんというはげしい情熱であろう。(完)