第9章 科学と倫理 n.6 - 私利私欲がない立法家?倫理(と)は,我々(人間)の欲求のなかのある一定の欲求に対して,普遍的であって単に個人的なものではない重要性を与えようとする試みである。私が,我々の欲求のなかの「一定の(欲求)」と言うのは,強盗の欲求の事例で見たように,欲求のある種のものに関してはこのこと(重要性を与えること)は明らかに不可能だからである。何らかの秘密の知識を使って株式取引(市場)で金儲けをした人は,他人も自分と同じようにそれらの秘密情報に通ずることを望まない。真理(真理を価値あるものと評価する限りにおいて)は,彼にとっては私的所有物であり,哲学者にとってそうであるように晋遍的な,人類にとっての,善ではない。哲学者は,事実(実際),ある(哲学上の)発見に対して先取権(優先権)を主張する時のように,相場師(a stock-jobber)のレベルにまで成り下がる(落ちぶれる)かもしれない。しかし,これは(哲学者にとって)ひとつの堕落(a lapse)である。純粋の哲学的能力において,哲学者はただ真理について熟考することだけを楽しみ,そうすることにおいて,同様に熟考したい人たちの邪魔(干渉)は決して(in no way)しない。我々(人間)の欲求に普遍的な重要性を与える(重要視する)と思われること -それは倫理の仕事である(が)- は,二つの観点から試みられよう(訳注:To seem to give universal importance ~ may be attempted/ 「To seem to give」 はわかりにくいが 「attempted」 は「先頭の to」に掛かっていると解釈)。即ち,立法家(legislater)の観点及び(宗教の)説教家(preachewr)の観点である。まず,立法家の観点から取上げてみよう。 議論の都合上(ために),立法家は個人的に私利私欲がない(personally disinterested)と仮定しよう。即ち,彼(立法家)の欲求の一つが彼自身の幸福にだけ関りをもつと認識した場合には,(私利私欲のない)彼は立法(法案づくり)において,その欲求が自分に影響させない。例えば,彼の作る法律や規則(code)は彼の個人的な財産(富)を増加させるように意図されることはない(と仮定する)。だが,彼は(欲求が全然ないのではなく)非個人的と思われる他の欲求を持っている。彼は,王から小作人に至るまでの,あるいは鉱山主から黒人の契約労働者(注:indentured labourer いわゆる非正規の契約労働者/季節労働者など)に至るまでの,秩序だった階層制(の必要性)を信じているかも知れない。彼は,女性は男性に従属すべきだと信じているかも知れない。彼は,下層階級における知識の普及は危険だと考えている(考える)かも知れない。その他,いろいろ同様のことを信じているかも知れない。その場合,彼は,可能であれば,彼が価値があると評価する目的を増進する行為が,できるだけ個人の利益と一致するように法律や規則を構築するであろう。また,彼は,それが成功すれば,彼が価値があるとする目的(*原注)以外の目的を追求することは邪悪であると人々に感じせるような道徳教育の体系を確立するであろう。 (原注:アリストテレスと同時代人(ギリシア人ではなく中国人だが)の次のようなアドバイスと(上記の立法者の考えとを)比較してみよ。「支配者(統治者)は,自分自身の考えを持っていると信じている人々や,個人の重要性を信じているような人々の言うことに耳を傾けるべきではない。そのような教えは,人々をして静かな場所に退き,洞窟や山に隠れ,時の政府(the prevailing government 支配的な政府)をはげしく非難したり,権威あるものを冷笑したり,位階や報酬(給与)の重要性を軽んじたり,官職にある者を全て軽蔑させたりする。」(A. ウェイリー(著)「『The Way and Its Power』(老子、道徳経)」p.37 こうして,「徳(美徳)」は,実際に,立法家が自分の欲求が普遍化される価値があると考える限り,主観的評価ではないけれども,立法家の欲求に従属するようになるであろう。 |
Chapter 9: Science and Ethics, n.6
To seem to give universal importance to our desires - which is the business of ethics - may be attempted from two points of view, that of the legislator, and that of the preacher. Let us take the legislator first. I will assume, for the sake of argument, that the legislator is personally disinterested. That is to say, when he recognizes one of his desires as being concerned only with his own welfare, he does not let it influence him in framing the laws ; for example, his code is not designed to increase his personal fortune. But he has other desires which seem to him impersonal. He may believe in an ordered hierarchy from king to peasant, or from mine-owner to black indentured labourer. He may believe that women should be submissive to men. He may hold that the spread of knowledge in the lower classes is dangerous. And so on and so on. He will then, if he can, so construct his code that conduct promoting the ends which he values shall, as far as possible, be in accordance with individual self-interest ; and he will establish a system of moral instruction which will, where it succeeds, make men feel wicked if they pursue other purposes than his.(* note) * note: Compare the following advice by a contemporary of Aristotle (Chinese, not Greek) : “ A ruler should not listen to those who believe in people having opinions of their own and in the importance of the individual. Such teachings cause men to withdraw to quiet places and hide away in caves or on mountains, there to rail at the prevailing government, sneer at those in authority, belittle the importance of rank and emoluments, and despise all who hold official posts.” Waley, The Way and its Power, p. 37. Thus "virtue" will come to be in fact, though not in subjective estimation, subservience to the desires of the legislator, in so far as he himself considers these desires worthy to be universalized. |