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『ラッセル教育論』(B. Russell On Education/松下彰良・訳)

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* ディケンズ作『デヴィッド・コパフィールド』の概要

第一部 教育の理想
 第2章 教育の目的(承前:OE02-010)

 '教育方法'について検討する前に,'達成したい成果'について明確にしておくことはよいことであろう。アーノルド博士は「心の謙虚さ」を望んだが,それは,アリストテレスの「度量の大きい人」(magnanimous man)が持っていない性質である。ニーチェの理想は,キリスト教の理想とは同じではない。カントの理想も,同様にキリスト教の理想と異なる。なぜなら,キリストは'人を愛しなさい'と諭す一方,カントは,'愛'を動機とする行為は真に'道徳的'でありえない,と説いているからである。また,よい性格を形成する(種々の)構成要素について意見が同じ人びとでさえ,それら諸要素の相対的重要性(いずれの要素がより重要であるか)については,意見が違うかもしれない。Aは'勇気'を強調し,Bは'学識'を,Cは'思いやり'を,Dは'正直さ'を強調するだろう。また,ルキウス・ブルートゥス(注:堀秀彦訳及び魚津郁夫訳では,ブルートゥスは,シーザを暗殺した「マルクス・ブルートゥス(ブルータス)」としているが,安藤訳では,「大ブルートゥス(ルキウス・ブルートゥス)」としている。国家のために子供を殺したのは後者であるため,ここでラッセルが言うのは,ルキウス・ブルートゥスと思われる。)のように,'国家に対する義務'を'家族愛'よりも重視する人もいれば,孔子のように,'家族愛'を第一とする人もいるだろう。このような(達成したい成果についての)意見の違いは,'教育'(のあり方)についての意見の違いを生み出すだろう。私たちは,最良だと考える教育について明確な意見を持つ前に,まずどのようなタイプの人間を産み出したいかということについてある程度の考えをもたなければならない。
 もちろん,教育者は,自分が意図していたのと異なる結果を生み出すという意味で,'愚かである'こともある。ユライア・ヒープ(Uriah Heep:ディケンズ作『デビッド・コパフィールド』の登場人物の一人で,ウィックフィールド事務所の書記。謙遜を装うが,じつは復讐の権化/作品名なしで名前が引用されていることから,英国では誰でも知っている名前らしいことが伺える)は慈善学校(貧民学校)で'謙虚さ'を教えこまれた所産であったが,その学校はその教育が目指したものとはまるで異なった影響をヒープに与えたことになる。しかし,最も有能な教育者の大部分は,これまでかなりの成果をあげてきた。たとえば,中国の知識人(文人),近代の日本人,イエズス会士,アーノルド博士,アメリカの公立学校の政策を指導している人たちなどである。これらの人たちは,やり方はいろいろであるが,いずれも高度の成功を収めている。異なる事情のもと目指された成果はまったく違っていたが,大体において,その成果は達成された。我々が教育の目指すべき目標を決める前に,これらの異なった制度(教育制度)についてしばらく考えてみるのも,無駄なことではないだろう。

Chap. 2 The Aims of Education (OE02-010)

Before considering how to educate, it is well to be clear as to the sort of result which we wish to achieve. Dr Arnold wanted 'humbleness of mind', a quality not possessed by Aristotle's 'magnanimous man'. Nietzsche's ideal is not that of Christianity. No more is Kant's: for while Christ enjoins love, Kant teaches that no action of which love is the motive can be truly virtuous. And even people who agree as to the ingredients of a good character may differ as to their relative importance. One man will emphasise courage, another learning, another kindliness, and another rectitude. One man, like the elder Brutus, will put duty to the State above family affection; another, like Confucius, will put family affection first. All these divergences will produce differences as to education. We must have some concept of the kind of person we wish to produce, before we can have any definite opinion as to the education which we consider best.
Of course, an educator may be foolish, in the sense that he produces results other than those at which he was aiming. Uriah Heep was the outcome of lessons in humility at a Charity School, which had had an effect quite different from what was intended. But in the main the ablest educators have been fairly successful. Take as examples the Chinese literati, the modern Japanese, the Jesuits, Dr Arnold, and the men who direct the policy of the American public schools. All these, in their various ways, have been highly successful. The results aimed at in the different cases were utterly different, but in the main the results were achieved. It may be worth while to spend a few moments on these different systems, before attempting to decide what we should ourselves regard as the aims which education should have in view.

(掲載日:2006.10.26 更新日:)