私が初めてトマス・ハーディ(Thomas Hardy,1840 - 1928/参考「トマス・ハーディの小説世界」/トマス・ハーディについて)の名を知ったのはそこに滞在していた時であり,ハーディの作品「(騎兵隊の)ラッパ隊長」全3巻が応接間(客間)の机の上に置いてあった(松下注:米国議会図書館では,世界の古典や重要な著作を電子化して公開するグーテンベルク・プロジェクトを実施していますが,トマス・ハーディのこの作品も,同じ著者の多くの作品とともに,ダウンロード可能となっています。因みに,ラッセルの Proposed Roads to Freedom (「自由への道」)も同サイトからテキストを入手できます。) 私がそれを記億している唯一の理由は,騎兵隊のラッパ隊長というのはいったい何のことだろうかと思案したこと,「狂える大衆から遙か離れて」の作者によって執筆されたものであると記されていたことからであり,「狂える大衆」というのはどういう意味かも,私には理解できなかったことからである。(松下注:日高氏は,「・・・の理由は,「狂える大衆からはるかにかけはなれた」作家によって書かれたものとしるされていたからである。」と訳されているが,Far from the Madding Crowdは,同じくハーディの作品である。) 私たちがそこに滞在している時,私のドイツ人の保母兼家庭教師が,サンタクロース(松下注:Father Christmas = 英国 Santa Claus)を信じない人はクリスマス・プレゼントを何ももらえませんと私に言った。これを聞いて私は,そのような人物を信ずることが出来なかったため,大泣きした。 そこでのもう1つの思い出は,未曾有の雪嵐(松下注:ボーンマスは,冬でも零下にならない温暖な気候のリゾート地であるために'未曾有')にあったこと,またスケートを覚えたことであるが,スケートは私が少年時代の間ずっと非常に好んだ娯楽の1つである。私は,たとえ氷の状態が安全でなくても,スケートができるチャンスを決して見逃さなかった。ロンドンのドーヴァー・ストリートの家に滞在していたとき,セント・ジェームズ・パークにスケートに行って,(公園の池の氷が割れ)池に落ちてしまった。ずぶぬれになって通りを走って帰らなければならず,非常に恥ずかしい思いをした。しかしにもかかわらず私は,薄氷の上でスケートをすることをやめなかった。 その翌年のことは何一つ覚えていないが,10回目の誕生日のことは今でもまるで昨日のことのように鮮やかである。晴天で暖かかった。私は花の咲いたキングサリの木のところに坐っていた。やがて,面接のためこの家に来ていて後に私の家庭教師になった,スイス人女性が私とボール遊びの相手をするよう言われてやって来た。彼女が,ボールを捕えたというのを have 'catched' と言ったので,(「catched は誤りであり caught と言わなければならない」と)訂正してあげた。 それから自分の誕生日だったので,自分でバースデー・ケーキを切らなければならないのに,最初の1切れがどうしても切れないのでとても恥ずかしかった。しかし,私の心に残っているのは'陽光'の印象である。 (右欄画像)蔵書印には,昭和52年となっているので,今から27年前に古書店で購入したものであるが,ほとんど有効活用していない。 ハーディ書誌は,世界的にみればもっと詳しいものがいろいろあるが,タイトルにあるように,日本における『トマス・ハーディ書誌』(526p.)ということで,当時としては,画期的なものであった。 因みに約20年前(1985年)に私家版でだした私の『ラッセル書誌』(第3版)も同様であろう。 |
Reverting to what I can remember of childhood, the next thing that is vivid in my memory is the winter of 1880-81, which we spent at Bournemouth. It was there that I first learned the name of Thomas Hardy, whose book The Trumpet Major, in three volumes, was lying on the drawing-room table. I think the only reason I remember it is that I wondered what a trumpet major might be, and that it was by the author of Far from the Madding Crowd, and I did not know either what a madding crowd was. While we were there, my German governess told me that one got no Christmas presents unless one believed in Father Christmas. This caused me to burst into tears, as I could not believe in such a personage.
Of the following year I remember nothing whatever, but my tenth birthday is still as vivid to me as if it were yesterday. The weather was bright and warm, and I sat in a blossoming laburnum tree, but presently a Swiss lady, who had come to be interviewed, and subsequently became my governess, was sent out to play ball with me. She said she had "catched" the ball, and I corrected her. When I had to cut my own birthday cake, I was much ashamed because I could not get the first slice to come out. But what stays most in my mind is the impression of sunshine.
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