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バートランド・ラッセル「政治的に重要な欲求 −ノーベル文学賞受賞記念講演(10) 1950年12月11日,ストックホルム」n.10Bertrand Russell: What Desires Politically Important? 1950 |
私は,今や,(これまでのべた以外の)他の動機について検討するところに来ました。これから検討する動機は今まで検討してきた動機ほど根本的なものではありませんが,それでもなお,かなり重要なものです。 それらの動機の第一は(人間が)興奮を好むことです。人間は退屈を味わえる能力(注:"their capacity for boredom" 「退屈に耐える能力」と訳している人が多いですが、なぜ「退屈を味わえる点(能力)」としたか,一番下の「考察」を参照してください。)によって獣よりもすぐれていることを示しています。ただし,動物園(注:"at the Zoo" 定冠詞付きかつ大文字のZooとなっているので,ロンドン動物園のことか?)の類人猿を観察していて(in examining),彼らも,もしかすると,この退屈な感情の初歩的なものをもっているかも知れない,と時々思ったことがあります。いずれにしても,経験の示すところでは,退屈(倦怠)から逃れることはほとんど全ての人類の本当に強い欲求の一つです。 白人が,まだ損なわれていない未開人と初めて接触をする時に,白人は彼らに,福音の光明からパンプキン・パイにいたるまで,あらゆる種類の便益(恩恵)を提供します。けれども,我々としては残念なことながら,そういったものは大部分の未開人には全然興味がありません。我々がもたらす贈り物のなかで彼らが本当に価値があると思うものは人を酔わせる酒であり,それは,野蛮人に,生まれて初めて,ほんのつかの間,死ぬよりは生きていた方がましだという錯覚を与えることができます。アメリカ・インディアンは,白人による影響をいまだ受けていなかった頃,パイプを我々のように穏やかに吸うのではなく,めちゃくちゃに深く肺まで吸い込み,そのために失神してしまいました。そうして,ニコチンによる刺激が失敗する(効果がなくなる)と,愛国的な雄弁家が一族を扇動し,近くの種族を攻撃させました。これが,(気質により)我々なら競馬や総選挙から得るような,全ての楽しみを一族に与えました。ギャンブルの楽しみはほとんどすべて興奮することのなかにあります。(フランス人の)フック氏は,冬の万里の長城で,中国の商人が,全ての現金を失うまでギャンブル(賭け事)をやり続け,次に全ての商品を失い,ついには自分の服を脱いで裸になって寒さのため死んでしまうまでギャンブル(賭け事)をにふける姿を描写しています。原始的なアメリカ・インディアン部族の場合と同様,文明人にとっても,戦争が勃発した時に,民衆に拍手をさせるのは,主として興奮を求める心である,と私は思います。この感情は −戦争勃発の結果は時としてもっと重大ではありますが− フットボール試合(に熱狂する時)とそっくりです。 [考察] 『ヒューマン・ソサエティ』(玉川大学出版部)の勝部訳では,"capacity for boredom" のところを「人間は,退屈に耐える能力では,獣どもよりすぐれている。」と訳されています(インターネット上にはこのように訳されている例が非常に多くあります。Yahoo 知恵袋で模範解答?としてだされている例は酷い誤訳であり参考になりません。 「Yahoo 知恵袋」の誤訳 それから,主婦の友社のノーベル文学賞全集第22巻「ラッセル、チャーチル」に収められた大竹勝訳では「人間は倦怠をもよおすという能力によって動物(注:人間も動物であり,ラッセルは'brutes' と書いているのですから,「獣」と訳して欲しいところ)よりもすぐれている」と訳されています。 * capacity (n):受容力,収容能力;容量;知的能力;達成(産出,抵抗)しうる能力;一定の処理(作用)が可能な性質(状態)日常,日本語では「キャパがない」といった使い方をする場合は、収納能力や自分の処理能力がない(限界だ)という意味合いで使うことが多い。それでは,"capacity for boredom" は「退屈に耐える能力」でしょうか? 単語に多くの意味がある場合には,前後関係が重要であるとともに、論理的におかしくなる訳はさけなければなりません。 ラッセルは,「政治的に重要な人間の欲求や動機」について考察しており、上記の文章では「興奮を好む」ということも大きな動機になる,と言っています。人間は刺激や興奮を求め、戦争だけでなく,フットボールなどのスポーツでも我を忘れてしまうことが多々あり、危険なことが少なくありません。つまり、退屈に耐えられずに刺激を求めるのが人間の性(さが)です。 ラッセルの有名な言葉に次の言葉もあります。 Wars, pogroms, and persecutions have all been part of the flight from boredom; even quarrels with neighbours have been found better than nothing. Boredom is therefore a vital problem for the moralist, since at least half the sins of mankind are caused by the fear of it.(戦争,虐殺,迫害は,すべて退屈からの逃避の一部(→逃避から生まれたもの)であり,隣人とのけんかさえ,何もないよりはましだと感じられてきた。それゆえ退屈は,人類の罪の少なくとも半分は退屈を恐れることに起因していることから,モラリスト(道徳家)にとってきわめて重要な問題である。)これを読めば、ラッセルの文章を,勝部氏のように「人間は,退屈に耐える能力では,獣どもよりすぐれている。」と訳すことなどとうてい考えらません。 いや、その前に、論理的におかしくないでしょうか? 人間に近い動物(猿など)を除いて、動物は「退屈などという感情を感じることはない」のではないでしょうか?(つまり「退屈を味わえない!」 また,人間のように(人間ほど)退屈に耐えられない動物って何でしょうか? 退屈に耐えられない牛や馬やクジラ?? ネットに「退屈に耐える能力」という訳がたくさんでていますが、一つだけ、適切に訳していると思われるものを見つけました。以下にあげさせていただきます。 適切な訳例 |
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