バートランド・ラッセルの名言・警句( Bertrand Russell Quotes )

 1906年に,私は「タイプ理論」を発見した。あとやらなければならないことは,(本として出版するために)詳細に書き上げるだけであった。ホワイトヘッドは学生の教育で忙しく,この機械的な仕事をする十分な時間がなかった。(そこで)私は,1907年から1910年まで,毎日10時間から12時間,毎年約8ヶ月間,この(執筆の)仕事にあたった。原稿(の量)は,しだいに膨大になっていき,散歩に出るたびに,私は,家が火事になって原稿が焼失してしまわないかと,いつも心配になった。その原稿は,当然のこと,タイプライターで打ったり,また複写さえもできない類のものであった(注:ほとんど論理記号の羅列であったため)。
In 1906 I discovered the Theory of Types. After this it only remained to write the book out. Whitehead's teaching work left him not enough leisure for this mechanical job. I worked at it from ten to twelve hours a day for about eight months in the year, from 1907 to 1910. The manuscript became more and more vast, and every time that I went out for a walk I used to be afraid that the house would catch fire and the manuscript get burnt up. It was not, of course, the sort of manuscript that could be typed, or even copied. .
 出典:The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 6: Principia Mathematica, 1967
 詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB16-140.HTM

 <寸言>
この文章の後に,次の文章が続いている。 「原稿ができ上がって,最後にそれをケンブリッジ大学出版部にもっていく時,あまりに膨大なため,運搬用に旧式の四輸馬車を雇わなければならなかった。困難はそれで終わらなかった。大学出版部は,その本の刊行によって(出版に要した費用と売り上げ利益の差は)差し引き600ポンドの損失があるだろうと見積もった。ケンブリッジ大学の特別評議員会の委員たちは,300ポンドの欠損は喜んで負担するが,それ以上大学が負担することはできないだろうと考えた。英国学士院は寛大にも200ポンドを寄付してくれたが,残りの100ポンドば私たち二人で工面しなければならなかった。私たちは,このようにして,10年間の労働によって,一人あたりマイナス50ポンドずつかせぎ出した(注:10年間共同作業をやった結果,利益を得るどころか,一人あたり50ポンドの負債を負うことになってしまったということ。)。これは,ジョン・ミルトン(John Milton, 1608-1674:イギリスの詩人)のパラダイス・ロスト(失楽園)の記録を破っている。」