以前は、感覚や感覚の上に築かれた思想をひとつの牢獄と考え、感覚から解放された思考によってのみ,我々はそこから脱出しうる、と常に考えていた。今ではそうは感じない。感覚と、感覚の上に築かれた思想とを、牢獄の格子としてではなく、窓として考える。我々は、いかに不完全であったとしても、ライプニッツの単子のように世界を映しうる、と私は考える。そして、物を歪めない鏡となることにできるかぎり努めることが哲学者の義務である、と考える。
I used to think of sense, and of thought which is built on sense, as a prison from which we can be freed by thought which is emancipated from sense. I now have no such feelings. I think of sense, and of thoughts built on sense, as windows, not as prison bars. I think that we can, however imperfectly, mirror the world, like Leibniz's monads; and I think it is the duty of the philosopher to make himself as undistorting a mirror as he can.
出典:Bertrand Russell: My Philosphical Development, 1959.
詳細情報:http://russell-j.com/cool/54T-1701.HTM
<寸言>
理性や知性は最重要なもんであるが,感性や情熱も人間にとっては重要なものである。ラッセルは長い間どちらかと言うと,公的には,感性や情熱のコントロールにつとめてきた。しかし、年を重ねるにつて、感覚と、感覚の上に築かれた思想とを、牢獄の格子としてではなく、窓として考えるようになる。ライプニッツのモナド(単子)のように。