バートランド・ラッセル「口紅を使ってよい女性」(1931年9月14日)(松下彰良・訳)* 原著:Who may use lipstick? by Bertrand Russell* Source: Mortals and Others, v.1, 1975 |
このエッセイが書かれたのは70年前ですので、「口紅」のたとえは今ではピンとこないかもしれません。「マニュキュア」あるいは「ネール・アート」のたとえの方がまだよいでしょうか。いずれにせよ、たとえば、「学校の教師(特に女性の教師)は、・・・でなければならない。」といった世間の暗黙の期待やきめつけが今でもあり、本心をなかなか言えないという側面もあると思われます。(2002.07.28) 「なんという馬鹿げた質問でしょう! 当然、現在では女性なら誰でも口紅を使っていますよ」と、読者は言うかもしれない。しかし、少し考えなおしてみると、誰にでも許されているこのことが許されていないある種の女性たちがいまだ存在していることがわかる。口紅(訳注:「ネイル・アート」に読み替えてみてください。)の使用を許されない女性は、どのような種類の人たちかを考えるならば、多分、倫理上の価値に関する従来の考え方に対し、興味ある間接照明を当てることになるだろう。 女性の聖職者は、きちんとした人物であるべきであるとともに、南カリフォルニア出身の女性は別として、男性を魅惑することを意図しているように想われるようなおしゃれをしてはいけない(と考えられている)。彼女たちは、世間に対し、無私の生活をするように熱心に説く以上、彼女らが説教しているその教えを自ら実行していない明らかな印(証拠)があってはならない。(女性の)社会福祉家は、彼女たちの資金を提供するご婦人方がみな口紅を使っているにもかかわらず、口紅を使ってはいけない。病院の看護婦は、勤務中、患者の健康以外は何も関心を持っていないように見えなければならない。そこで、担当(監督)の看護婦長は、看護婦たちが勤務中に看護婦らしからぬおしゃれをしているのを発見すれば、確実に叱責するであろう。 この奇妙なタブーの最大の犠牲者の集団は教師たちである。アメリカではどうか実情を知らないが、イギリスにおいては、魅力的でありたいと願う女教師に対しては世間の風当りが強い。 このような制約の背後にある哲学(基本的な考え方)について少し考えてみよう。まず第一に -これは皆同意見だろうが- 教師は(生徒に対し)道徳的に良い影響を与える人間でなければならない、と考えられている。第二に、女教師は男性に無関心であるかまたは無関心を装わなければ道徳的に良い影響力を発揮しえない、と考えられている。若い女性においては、これは偽善者であるかあるいは精神的な病いにかかっているか、いずれかを意味する。 偽善(感情や信念の偽装)は、もちろん人生において成功するためにはとても必要であり、教育にたずさわる者は偽善を教える能力がなければならないという考えには、一理も二理もある(訳注:少し皮肉)。生徒に対し偽善を教える能力をもっている必要があることを教師に課す人々は、これによって偽善を強要することを意図しているとは思わない。即ち、彼らは、良い教師になれる女性は自分の魅力に心底から無関心でなければならない、と考えている(だけである)。 私は、このような見解はまったく間違っていると考える。肉体的に不健康でないのであれば、若者が異性に無関心でいるのは、ある程度力ずくで抑圧する方法によってのみ可能なことであり、そのようなやり方をすれば、間違いなく、子供の幸福で自発的な成長に反する厳格かつ規律重視の態度を生み出すだろう。 けれども残念ながら、(道徳家の思いとは裏腹に)たいていの大人は楽しい時間を過ごそうと試みることは世間一般に認められている。しかし、明らかにそれが子供たちに徳を愛させる方法であるという理由で、徳は不愉快なものである(苦労なしには徳は身につかない)ということを子供たちに教えるために、すべての権威の影響力が傾注されるべきだと信じられている。徳は不愉快なものという事実を立証するために、教育当局は不愉快で有徳な教師を任命する。(松下注:中野氏は、this restriction(この制約) を「口紅を使ってはならないこと」と訳し、その後の they も「口紅を使ってはいけないという制約を女教師にする人々」と訳出している。本エッセイのタイトルは「口紅を使ってよい女性」であり、前半部分では口紅のことを言っているが、途中から女性のおしゃれ全般についての制約 these restrictions について言っている。それゆえ、その後に出てくるthis restriction を(直前に「口紅」のことを言っていないのに、最初にさかのぼって)「口紅を使用しないこと」と解釈することは無理があるように思われるがどうでしょうか?) 私は、最も望ましい人間については、これとは異なる考えを持っている。私は、人間は陽気で元気で親切であるべきであり、ノーと言うよりもイエスと言う傾向があるべきであると考えている。即ち、自分自身にノーと言いたがる人たちは、おおむね、他人、特に子供たちに対してもノーという権利があると思う傾向がある。そのようなわけで、若い人々との接触を職業にしている人たちや、道徳の基準を守る職業についている人々の陽気さが罪と考えられてはならないということは重要なことであると私は考える。 |
'What a silly question!' the reader may say. 'Of course, every woman uses lipstick nowadays.' But a little reflection shows that there are still some kinds of women to whom this otherwise universal toleration is not extended. Perhaps if we consider who the women are who are not allowed to use lipstick we shall get an interesting sidelight upon conventional ideas of ethical merit. Female ministers of religion, while they should be neat in their person, should not have any such adornments as may be supposed calculated to attract the male sex, unless they hail from Southern California. While they are engaged in exhorting us to a life of self-denial, there should be no obvious sign that they do not practise what they preach. Welfare workers should not employ lipstick, in spite of the fact that all the ladies from whom their funds come do so. Hospital nurses while on duty must appear to have no interest except the health of their patients, and the Sister in charge would certainly reproach them if they were found unduly beautified during the hours of work. The largest class of victims of this curious taboo are teachers. I do not know how it may be in America, but in England any female teacher who wishes to be not unattractive gets into hot water. Let us try for a moment to think out the philosophy underlying these restrictions. In the first place, it is held - and so far we may agree - that a teacher should have a good moral influence; in the second place, it is held that no woman can have a good moral influence unless she is or pretends to be indifferent to the male sex. In a young woman this implies either hypocrisy or psychological ill-health. Hypocrisy is, of course, very necessary to success in life and there is much to be said for the view that those concerned in education should be competent to teach it. I do not think, however, that those who enforce this restriction upon teachers are intending to demand hypocrisy : they consider that the sort of woman who is capable of being a good teacher must be genuinely indifferent on the subject of her own attractions. For my part I think this view profoundly mistaken. Unless there is physical ill-health, indifference to the opposite sex on the part of a young person can only be secured by means of somewhat violent repressions, which will inevitably produce an attitude of severity and discipline very inimical to the happy and spontaneous development of children. It is generally admitted that most grown-up people, however regrettably, will try to have a good time, but it is felt that the whole weight of authority should be directed to teaching children that virtue is unpleasant, on the ground, apparently, that this is the way to make them love virtue. In order to prove to them that virtue is unpleasant, education authorities try to provide teachers who shall be at once unpleasant and virtuous. For my part I have a different view as to the best sort of person. I think people should be jolly, and cheerful, and kindly, and more inclined to say 'Yes' than to say 'No'; those who say 'No' to themselves generally feel that this gives them a right to say 'No' to others, especially to children. For this reason I think it important that jollity should not be thought a crime in those whose profession it is to be in contact with the young, and generally in those whose business it is to uphold moral standards.
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