バートランド・ラッセルの名言・警句( Bertrand Russell Quotes )


 私達一行がローマから世界政府協会の次の集会が開かれることになっていたパリに飛行機で向かっていた時,その機内でアインシュタイン逝去のニュースが,機長によってアナウンスされた。私は身も心も打ち砕かれたように感じた。それは,彼を失った悲しみという明白な理由からだけではなく,また,彼の支持なくしては計画が失敗することを理解していたからであった。しかし,私がパリのホテルに到着すると,署名に同意するというアインシュタインからの手紙が届いているのを発見した。。

As we flew from Rome to Paris, where the World Government Association were to hold further meetings, the pilot announced the news of Einstein's death. I felt shattered, not only for the obvious reasons, but because I saw my plan falling through without his support. But, on my arrival at my Paris hotel, I found a letter from him agreeing to sign. This was one of the last acts of his public life.
 Source: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3
 More info.: https://russell-j.com/beginner/AB32-190.HTM

<寸言>
 アインシュタインが1週間早く死亡していたら、ラッセル=アインシュタイン声明(宣言)は発表されることなく、パグウォッシュ会議(1995年ノーベル平和賞受賞)も創設されなかったことでしょう。(ラッセルへの手紙の日付けは1955年4月11日となっており、アインシュタインはその4日後の4月15日に入院し、4月18日に死亡しました。ちなみに、ラッセル=アインシュタイン声明の署名者の一人のロートブラット教授も1995年にパグウォッシュ会議と一緒にノーベル平和賞を受賞しています。)
 ラッセルはノーベル平和賞に十分すぎるほど値しますが、ベトナム戦争でアメリカをはげしく非難するだけでなく、アメリカのベトナム戦争を支持した欧米諸国をも非難したために、ラッセルはノーベル平和賞を授与することはありませんでした。
 参考まで、「ノーベル平和賞」に関するウィキペディアの記述を少し引用しておきます。

「1973年には、ベトナム戦争のパリ協定調印を理由に、アメリカ合衆国のヘンリー・キッシンジャーとベトナム民主共和国(北ベトナム)のレ・ドゥク・トが共同受賞したが、キッシンジャーへの授与に対しては、ノーベル平和賞委員会の中でも激しい議論が巻き起こり、反対した2人の委員が、抗議のため辞任するほどだった。平和賞の授与主体であるノルウェー政府は、激しい世論の批判にさらされ、当時の国王オラフ5世が、首都オスロの路上で雪玉を投げ付けられる事件まで起きた。・・・」。

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