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ケンブリッジ大学のトリニティ・コレッジは,私に対し5年任期の講師職へ就任するよう要請してきた(招聘した)。・・・。その講師職には大学評議員の資格と学内での居住権がついていた。・・・部屋(研究室兼居室)はまったく気持ちよいものであった。・・・。
しかし,ピーター(妻)とコンラッド(次男)をどこに住まわせるかという問題が残っていた。ケンブリッジは,信じがたいほど住宅難であり,当初は下宿屋の汚らしい部屋を見つけるのがせいぜいだった。私はコレッジ内でぜいたくに暮らしているのに,ピーターとコンラッドは,食事も十分与えられず,みじめな状態だった。私は,バーンズに対する訴訟から金が入ってくるめどがたつやいなや,ケンブリッジに一軒の家を購入し,私達は,しばらくの間そこで暮らした。
Trinity College had invited me to a five year lectureship and I had accepted the invitation. It carried with it a fellowship and a right to rooms in College.I went to Cambridge and found that the rooms were altogether delightful ...
But the problem of housing Peter and Conrad remained. Cambridge was incredibly full, and at first the best that I could achieve was squalid rooms in a lodging house. There they were underfed and miserable, while I was living luxuriously in College. As soon as it became clear that I was going to get money out of my lawsuit against Barnes, I bought a house at Cambridge, where we lived for some time.
Source: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3
More info.: https://russell-j.com/beginner/AB31-020.HTM
<寸言>
まだ第二次世界大戦が終わらない1944年6月に英国に帰国したラッセルは、1872年生まれなのですでに72歳でした。しかし、亡くなったのは1970年2月2日(97歳8ヶ月)ですので、その後25年以上生きており、長い「晩年」の始まり(波乱の人生の第3幕?)でした。
ラッセルは、米国滞在中に、ホワイトヘッド夫妻から1944年1月13日付けの手紙を受け取っており、次のように書かれていました。
「私達(ホワイトヘッド夫妻)は,今ちょうど,ケンブリッジ大学トリニティ・コレッジ評議会の議事録で,あなたがフェローと講師の地位に再任されたことを知りました。その議事録は,その決定が全員一致であったことを強調しています。」
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