私としては,善悪は個々人のなかに具体的に表現されるものであって,主として社会の中に表現されるものではない,と考える。組合国家(注:ファシズム体制下のイタリアで,ムッソリーニがつくった国家)を支持するために用いることができる若干の哲学 -特にヘーゲルの哲学- は,倫理的特質を社会そのものにありとし,国家はその市民の大部分が(肉体的及び精神的に)哀れであっても称賛すべきものでありとする。そのような哲学は権力の保有者の特権を正当化するためのトリック(策略/ごまかし)であり,また,我々の「政治」がどのようなものであろうと,非民主的な「倫理」を支持する妥当な論拠はまったくありえない,と私は考える。
For my part, I consider that whatever is good or bad is embodied in individuals, not primarily in communities. Some philosophies which could be used to support the corporative State - notably the philosophy of Hegel - attribute ethical qualities to communities as such, so that a State may be admirable though most of its citizens are wretched. I think that such philosophies are tricks for justifying the privileges of the holders of power, and that, whatever our politics may be, there can be no valid argument for an undemocratic ethic.
情報源: Power, 1938.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/POWER17_120.HTM
<寸言>
国民が全て死んでしまえば、国家はなくなる。国家があって国民があるのではなく、人間の集団が先にあり、それらの人々が長い年月をかけて国家を形成する。国家主義者は、国家に強い権限がなければ国民の安全や幸福は守れないといって法律や規律で国民を縛ろうとするが、実際は、一部の支配者が権力を振るい、便益を自分たちが優先的、独占的に享受したいために、自分たちに都合のよい理屈を考え出す。