しかし,(子供の)反応を求めるのは,親の愛情の本質ではない。自然なままで,素朴な(素のままの)親の本能は,子供に対して,自分の肉体の一部が外在化されたものに対するように,同じ感情をいだくものである。自分の足の親指の具合が悪ければ,あなたは自分の利益から(利益のために)手当てをするけれども,足の親指が(総体としての人間に)感謝することを期待することはない。
But it is not of the essence of parental love to seek a response. The natural unsophisticated parental instinct feels towards the child as towards an externalized part of the parent’s body. If your great toe is out of order you attend to it from self-interest, and you do not expect it to feel grateful.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 11: Affection and Sympathy
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE11-020.HTM
<寸言>
子どもに対する親の感情と親に対する子どもの感情は時代とともに変化していく。世界的な流れは、(大きく見れば)「ゆりかごから墓場まで」、社会や国家が面倒を見る割合が大きくなってきている。北欧や英国などはその考え方に立っている。
これに対し、自由競争を信奉する米国や(その真似を好んでする)日本などでは、「拡大し続ける社会保障費を抑制しなければならない」ということで、逆の動きもしているが、格差拡大(非正規労働者は労働者全体の約4割!)や貧困対策(日本の子どもの貧困率は先進国で最悪!)に力を入れずに、「頑張った者が報われる社会」(安倍総理)などと言い続けている。そういった総理を支持している国民が多いのだから、被虐的な国民が少なくないのかも知れない。