三浦俊彦による書評

★ 土屋賢二『人間は笑う葦である』(文藝春秋)

*『週刊読書人』1998年9月4日号掲載


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 外界は本当に実在しているか。他人に心があることをいかにして知るのか。物理法則に従いながら自由意思を持てるのか。存在しないものを名指せるか。私はあなたでありえたか。この椅子でもありえたか。……
 伝統的な哲学の問題を思いつくままに列挙してみると、どれもジョークと紙一重であることがわかる。事実、「ナンセンス」は、分析哲学の真理論における重要概念だ。
 哲学というものは深刻な人生論などではなく、四角四面の常識から人知を解き放つ救いであるとして提示したジョーク哲学書が本書である。……と言ったらこれ自体、ジョークになるだろう。著者が哲学の先生だからといって、本書は決して哲学の本ではない。生粋のユーモアエッセイ集なのである。
 頁あたり平均五個連発されるジョークは、ほとんどがテレビのお笑い番組のノリ。「本書を読まなかった人も読んだ人も、本書を批判する資格はない。しかし、本書を賞賛する資格は万人にある。もっと重要なことだが、本書を購入する資格が万人にあることを強調しておきたい」と締めくくられる「まえがき」の凡庸なウケ狙い的語調は最後まで変わらない。夫人の悪妻ぶり、自分の恐妻ぶり、怠慢教師ぶり等をダシに虚実とり混ぜた(全てが実話であるはずはあるまい)与太話は、あきれるほど下らなく、型通りで通俗で、だから何も考えずに読めるスピーディな気晴らし本であることだけは間違いない。
 しかし、使い古された古典的ジョーク群の中に、ふと、明らかに哲学的なフレーズが紛れ込んでくるのが曲者である。「神に祈るときは、「予知能力を与えて下さい」と祈るのではなく、「競馬がまぐれで当たりますように」と祈るようにしよう」「最近の番組は、若者向けであるか、若者に迎合しているか、若者が出演しているか、若者には無縁であるかで、いずれにしても若者が関係している番組ばかりだ」「規則正しい生活を維持するためには、自分の生活にあてはまる規則を見出す練習が不可欠になる」……
 大半が軽薄なジョークであればあるほど、ジョークと哲学問題の連続性が実感される。「だれでも……「いかに生きるべきか」とか「自分とは何か」といった疑問を抱く(と思う)が、一度このような疑問を抱いたら、それを解決しないまま一生を終えるのは不幸だと感じるのではなかろうか。ナンセンスのもっている深刻な見せかけと闘い、できればそれを笑えるような形にしてみせること、これが哲学の役割ではないかとわたしは思う」。なるほど、この一節はジョークではなかろう。
 ナンセンスをシリアスな本当の問題として奉り直す反動的揺り戻しが、今日の日本の哲学界に起こりつつある。右の著者の言葉を私は勝手に、永井均の<私>論への批判として受け取ったのだが、さてしかし……、やはり本書は、ただのユーモアエッセイ集ではなく、哲学批判の書として読むべきなのだろうか?

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