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三浦俊彦による書評

★ 戸田山和久『知識の哲学』(産業図書)

* 出典:『論座』2002年9月号掲載


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 著者の戸田山和久は一九五八年生まれ。〈危険な年頃〉である。四十歳を過ぎたあたりから、世の哲学者たるもの、なぜか何が何でも「独自なこと」を言いたくなるらしいのである。
 地道な勉学と思索の結果、いつかかっこよく壮大に飛躍する野望はかなえられそうにない、と悟る時期がくる。そこで少なからぬ哲学者が〈逃げ〉に走る。最も厳密な論証を旨とし、科学者気質の頭脳派がひしめいているはずの「分析哲学」でも事情は変わらない。日本の分析哲学者の多くは、パズル解きに類した現場作業は不惑過ぎたら卒業とばかり、もっと深遠な独創的見解を体系化せねばとの強迫観念に囚われているかのようだ。
 実際、ここ二、三年に刊行された分析哲学書には、「落差の反復」とか「因果的超越の果てしない後退」とか「反転の織り合わせ」とか、客観的な議論のやりようのない比喩を多用した本が目立つ。それらはみな、残念ながら一昔前の脱構築主義の亜流か、古き観念論の焼き直しかいずれかに帰着しており、独自性意識転じてこの上ない定型へ収束するという皮肉な結果になっている。
 この『知識の哲学』の著者はまったく違う。オーソドックスなパズル的論争にこそ、わくわくする難問がいっぱい残っていることをよく知っている。科学に直結した論証を地味に突き詰めてこそ真に独自な、創造的な展望が開けると信じている。自信たっぷりである。
 本書のテーマは「認識論」。私たちが何事かを「知っている」とはどういうことか、という考察だ。二十世紀後半以降の英米哲学が土俵だが、十七世紀フランスのデカルトなども主な登場人物の一人。西洋哲学二千五百年の最重要テーマ「知とは何か」をめぐる議論史が、鮮やかに描き出される。
 プラトン以降ずっと受け入れられてきた「知識」の定義はこうだ。
 「正当化された真なる信念」
 知識はまず、「真」なる「信念」でなければならない。本書の例を使うと、「箱の中にシュークリームがある」と知っているためには「箱の中にシュークリームがある」と思い込んで(つまり信じて)おり、かつ、その信念が「真」である(箱の中に本当にシュークリームがある)のでなければならない。
 これだけではまだ足りない。姉と弟が箱を見て「あ、シュークリーム」と同時に言い、そう思った理由が、姉は「占いに書いてあったから」、弟は「お母さんがシュークリーム置いておくって言ってたから」。この場合、二人が同じくらいの確信を持っていたとしても、姉の「真なる信念」は知識ではなく、弟の「真なる信念」は知識である。弟だけがそう信じる尤もな理由を持っていた、つまり信念が「正当化されていた」からである。
 これが、二千年以上も続いた「正当化された真なる信念」という知識の定義なのだが、この定義に対して本書が提起する疑問は主に二つある。「なぜ哲学はこんなにも長い間、知識の問題を正当化の問題と結びつけて考えてきたのか?」「なぜ正当化を認識者の心の中の問題として考えてきたのか?」
 本書の答えは「懐疑論への応戦」。私たちは実は何も知らないのだ、あるいは、知ってると思っていることの多くをホントは知らないのだ、と言い立てる懐疑論を、何とかして払いのけようという努力が「信念の正当化」だったのだ。
 しかし懐疑論に対しては、信念の正当化とか、確実な知識とかを案出して対抗するのは間違いだという。懐疑論の理屈そのものの欠陥を暴くという論証路線を採るべし、というのが本書の戦略だ。その方向を突き詰めるうちに、「正当化」とは何かということがあやふやになってゆき、のみならず「信念」と「真」さえも、知識の成立のためには不要かもしれない、という境地へ読者をいざなってゆく。知識を得る目的が「真理」の把握ではないなんて……。この一見奇を衒ったような見識へ至る道筋は、生半可なミステリーよりもはるかに刺激的だ。
 全般に、基礎づけ主義、内在主義、外在主義、信頼性主義といったいろんな「主義」をはじめ、ゲティア問題、培養槽の中の脳、双子地球といった定番の用語や思考実験がいっぱい出てくるので、哲学マニアにもこたえられないだろう。「認識論の自然化」(知識とは自然現象である)「知識の社会性」(個人の心ではなく社会全体の中に意識なき知識(情報)が宿る)を説く第3部から、終章のアンドロイド認識論や図書館情報学の展望に至る流れは、まさしく、現代社会がいかに西洋哲学二千五百年の常識を短期間で覆したか、さりげない文明批評にすらなっている。
 本書は「哲学教科書シリーズ」の一冊で、大学教養課程向けに書かれたものだ。社会人諸氏は、学生時代と比べ自分がどれだけ賢くなったか、逆に理解力が衰えてないか、チェックするのに使えるだろう。これだけ平易かつ流麗な文章で手際よくまとめてもらった以上、本書の九割がすんなり理解できて目から鱗を三、四枚、というあたりを標準としたい。