三浦俊彦による書評

一柳廣孝編著『心霊写真は語る』青弓社

* 出典:『読売新聞』2004年9月26日掲載


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 背景に故人の顔をはっきり配した初期の切り貼り写真、ブレや逆光の失敗写真、「見ようによっては顔に見える」ポストモダンの隠し絵タイプなど、多種多様な心霊写真。霊を「実証する」科学と非科学の接点として、心霊写真は学術的にも重要な、かつ不気味なテーマだ。
 不気味といっても、霊を信じていない著者たちは、フレーム内より外の、文化の無意識を映す装置としての不気味さを追う。編著者まえがきが述べるとおり「意味処理できないノイズ」から「心の深淵へ下りていく試み」である。
 写真論の視点で、心霊写真にこそ写真の本質があることを歴史的に論ずる前川修。十九世紀の「追悼」から現代の「娯楽」まで、心霊写真の見られ方と身体感覚との連動を指摘する長谷正人。心霊写真を信じる人の生活傾向を学生アンケートの分析により報告する小泉晋一。心霊写真を描いた明治期の小説を拾い、その影響連鎖の欠如に心霊写真らしさを読みとる奥山文幸。現実の心霊研究およびマスコミ報道と〈呪いのビデオ〉系ホラー映画との関係を論じた吉田司雄。説明としての「精神疾患」と「憑依」とを、画像診断や心霊写真鑑定への信頼度を絡めて比較する今泉寿明。現存しない写真をめぐる熟老年主婦たちの噂話から、口承文化としての心霊写真を考える戸塚ひろみ。UFOやネッシー、雪男といった眉唾写真の勢力図において、心霊写真がいかに浮沈を繰り返したかを社会背景で説明する小池壮彦。八者各々の専門分野からの切り口が総合されて、心霊写真の全影がかくあるべき曖昧さで浮かび上がる。
 小池が最後に提起した問いが今後の鍵になるだろう。鏡や写真にはよく出現した幽霊が、なぜパソコン内には姿を見せないのか。当面の答えは「幽霊は現実のなかにしか存在しない」から。なるほど。現実逃避の濃いネット社会では、心霊はむしろ、確かな現実感覚の証し、という新しい意味を帯びつつあるのかもしれない。

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