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第二の相違を解消するような、 さほど不自然でない考え方がある。 A世界の利己的な人類は、 未来の世代に対して 「実験」 を施していると想定することである。 地球は壮大な実験場であり、 各世代の人類は自己利益を追求して後の世代にその代償を回してゆく、 という歴史観だ。 ちょうど毒物や細菌への抵抗力を試される犬のように、 A世界の後の世代は、 諸々の課題を創意工夫でどれだけ解決できるか、 実証することを求められる。 世代ごとに自己防衛の能力を試されるのである。 実験動物としての人類の自己証明の繰り返しが歴史の本質なり、 という文明モデルだ (注11)。 このモデルを採用すると、 未来世代への我々の倫理的責任はそれだけ重いものと解釈される。 これは冒頭に分類したに相当するパラダイム変換をうけた文明観かもしれない。 この文明モデルがどれほど妥当であるか、 つまり 「いまだ存在しない他者」 を人類がどれほど利己的に手段化できるかということは、 「種としての他者」 つまり実験動物に対する態度と正比例的に連動しているに違いない。 「種的他者の悲惨」 が我々の倫理を試している眼前の現実であるならば、 「未来の他者の悲惨」 は我々の倫理に試されている脳裏の虚構である。 むろんその虚構は、 現在の選択次第でいずれ現実となりうる虚構だ。 非同一性問題を媒介に 「現実」 と 「虚構」 とを照射させあうことにより、 文明モデルの輪郭を粗描し直す予備的提言が、 本稿だったのである。(了) *注は、次ページにあり |