三浦俊彦による書評

★ キングズレー・ブラウン『女より男の給料が高いわけ』(新潮社)

* 出典:『論座』2003年8月号


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 「この世で女は男よりずっと楽しい思いをする。男よりも女には禁止事項がはるかに多いから」
 「女は常識を持たない。常識は男の特権、しかも決して使わない特権である」
 「女が再婚するのは前夫を嫌っていたからだ。男が再婚するのは前妻を敬愛していたからだ」……
 オスカー・ワイルドのアフォリズムから適当に選んでみた。女はこう、男はこうと対比されただけで警句っぽい妙味が漂う感じがしないだろうか。男女の違いというテーマは、よほど根深い先入観や疑念を育んできたという証拠だろう。
 この永遠のテーマ、詩的直観の洞察に今度は現代科学による考察を対比させてみよう。自然人類学から転じた労働法学者が書いた本書の診断は――
 「競争は男のやる気を高めるが、女に対してはそういう効果はない」
 「男はより難しい仕事を選びがちなのに対し、女はより簡単な方を選びがち」
 「女の方が諦めやすく、失敗したのは能力が不足していたからだとし、努力が足りなかったからだとは普通考えない。一方男は、失敗の後には何らかの改良を加えようとする傾向がある」
 「男はごく小さい頃から『縄張りと他者を支配すること』に興味を持ち、同様に女は社会の中で他人との関係をこじらせずにうまくやっていくことに興味を持つ傾向が見て取れる」
 これでもかと男女の違いが強調され続ける。レトリックも婉曲もない、身も蓋もない事実の提示。
 「女の子は『人に惹かれる』傾向があるが、男の子は『物に惹かれる』」「男は一つのことに打ち込みやすいのに対し、女は多種多様なことに興味を持つ」「男はリスクを冒しやすく、地位や財産を得ようとする傾向がある。女は子どもを育てることに熱心で他者に感情移入しやすく、社会関係のネットワークを崩さないことの方に重きを置く」……
 そんなことはわかってる、だからこそ社会的・文化的に作られたそうした男女差を無くさねばならないのだ。これがフェミニズムの主張ということになろう。
 しかし著者は、進化心理学の観点からして、人為的な補正はあまり意味がないと説く。社会的条件づけ以前の幼児期にすでに行動の男女差が見られること。地球上の多様なあらゆる文化に同じ男女差傾向が見られること。イスラエルのキブツで伝統的役割分担を否定し自然に任せた結果、男女の役割分担が逆に一般社会より拡大してしまったという事実。いくつもの傍証が挙げられる。男女の心理には生物学的基盤があるというわけだ。ではその進化的メカニズムは?
 男は、努力して他の男との競争に勝てば自分の子孫を無限に多く残せる。女は、生涯に生める子の数が限られるため競争しても見返りがなく、一度生んだ子を大切に育てた方が有利だ。男がパートナーをより好みせず、逆に女のより好みに適うよう自分の地歩固めに躍起になるのは当然なのだ(そういえばワイルドのアフォリズムにはこんなのもあった、「男は、女の最初の恋人になりたいと望む。女は、男の最後の恋人でありたいと願う」)。こうして努力が報われる男の繁殖戦略と、リスクを避ける女の繁殖戦略とが、自然淘汰と性淘汰によって遺伝的に定着し、それぞれの生き残りに適した性質が分岐したのである……。
 こうした説明は、いかにも俗流進化論の悪用のように響く。だがよく考えてみると、遺伝的素因を軽視して社会的要因ばかり強調する文化論の方がずっと独断的かもしれないのだ。たとえば「ガラスの天井」という比喩を文字通りにとる誤謬。ガラスの天井とは、女がキャリアを昇ろうとしてしばしば突き当たる限界を表わす言葉だが、あたかも企業や社会の制度に、女の活動を阻む見えない仕掛けがされているかのような印象を与える。しかし著者は言う、「ガラスの天井」は格差の原因ではなく、結果ではないか。自発的な選択の結果、男の方がガムシャラに働く傾向が現に強いとすれば、給料や地位が高くなるのは当然だ。競争や権力を例外的に好む個々の女から相応の機会が奪われていない限り、集団的統計を問題視するのは的外れである、と。
 なんとも正論に聞こえるではないか。さらには、女の方が実は選択の幅が広いという指摘もなされる。女は、キャリアを求めても家庭第一でも女としての魅力を持ちうるが、長期にわたって稼ぎを妻に任せ家で子どもと過ごしたがる男を魅力的と感じる女はきわめて少なかろう。つまり、男女の生活様式の差を無くしたければ、女の好みと価値観をこそ変えねばならないというのだ。
 私は女子大の二年生のクラスでワイルドのアフォリズムを、三年生のゼミで本書を講読してみた。とくに本書には、学生からはっきり反発の声が出る。そうなのだ。普通にイメージされる男女の相違を改めて明言されると、女は不愉快になるのだ。男の方はそうでもないのではなかろうか。
 この非対称性は何ゆえだろう。本能に発するかもしれない男女の役割分担を、女に不利なシステムだとして糾弾する風潮ゆえか。そういえば昔のCM「私作る人、僕食べる人」は放送中止になっても「亭主元気で留守がいい」は大丈夫だった。この反応差は、外で働くことは立派だが家事や子育てはそうでないという価値観のせいだろう。女の自然な選択を貶め、男性的性向ばかり称揚し、結果的に女性差別を強めてしまったフェミニズムの責任は深いかもしれない。政治運動の孕むそんな逆説に気づかせる、一見単純皮相ながら侮れない一冊である。

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