三浦俊彦による書評
★野矢茂樹『哲学・航海日誌』(春秋社)
* 出典:『論座』1999年7月号,pp.256-257.
* 大脳を適度に揺さぶられ,知的吐瀉を促す装置
この『哲学・航海日誌』の「まえがき」を読んだとき、正直のところ、なにやら不穏な香りが漂っているか、と思った。「私が本書においてめざした方法は、一直線の論証であるよりもむしろ「呼応」――響き合い――ということにある。……別に目的地があるわけではない。あちこちに寄港し、あるときは凪いだ海をくつろいだ気分で……」ムム……?
例のあれか、ウィトゲンシュタインの「語らずして示す」というやつだろうか。まさか多方向に逃走するとやらいうフレンチ・ポップ哲学のノリってことはあるまいな。地道な論証を放棄し、断片的な謎めいたレトリックによって読者を惑わす変にすれっからしたスタイル。ああいうのが世紀末を越えてトレンディであり続けたりすると、次のような真面目な哲学者の切望が封殺される怖れがありはしないかと危惧していたところだったのだが……「床の間の掛け軸みたいな哲学ではなくて、現場の科学者が真剣に耳を傾けてくれるハード科学哲学を日本に根づかせたい」(戸田山和久)(『科学を考える』(北大路書房)「編者のプロフィール」)。
しかし『哲学・航海日誌』の本文を読み始めるや、その意外な「論証性」に私はたちまちほころんだ。人は他人の痛みを本当に想像することができるのか。意図と欲求とはどう違うのか。自分の身体が他の物体に比べ特別であるのはいかなる点でか。コミュニケーションの道具としての言語はフライパンのような他の道具とどこが決定的に違うのか。……互いに関係してるようなしてないような微妙なテーマ群をめぐり緩やかに、しかし着実に進む論理の流れは説得的である。35の節に分かれていて、一つの節が平均10頁。著者は「懐石風」と称しているが、ソフト的にもハード的にも、味覚ならぬ思考リズムに合った人間工学的な作りになっているのである。
ウィトゲンシュタインを(特に前半で)多く引用しながら、かの哲学者が無責任に放り出した議論の隙間を、わかりやすい日常語で埋めてゆく。これを「論証をめざしたものではない」というのだから、著者の「論証」の基準はよほど厳しいところに設定されているのだろう。ただし本書の「論証」は、専門書的な微に入った論証ではない。設計図的というか、ああ、この方針に沿って細部を厳密に仕上げてゆけば、専門レベルの理論に仕上がるんだろうな、と了解させうる下書きを提示したような印象だ。しかし著者は「専門レベルの理論」なるものには否定的である。参加者がたえず各々の言語ゲームを調整しあい、そのつど相手のゲームを理解しなおしてゆく、いわば新たなゲームのたえざる共同制作こそがコミュニケーションだという。すると、言語というコミュニケーション・ツールでなされる他はない「哲学」にも、静止的な「理論化」はありえないことになるだろう。なるほどこれは、懐疑精神を本質とする哲学という文化の、本道をゆく考えに違いない。
こうしたダイナミックな認識論は、例えば次のようなアフォリズム的な文章に端的に表現されている。「行為とは、身体と環境とが呼応しあい一体となって作り出すできごとの姿にほかならない。われわれは世界の中で行為するのではなく、世界とともに行為するのである。」(21節)。
哲学という行為も同じというわけだ。還元主義的な哲学ではなく、全体論的な哲学が説得的に提起されてくる。この観点のもとにこそ、様々な問題が「全体的な呼応」で結びつけられてゆく。「意味」と「対象」の関係が、図‐地反転という枠組みで「規則」と「言語使用」の関係を読み解くのに利用されるくだり(17節)などでは、哲学に限らず日常の諸概念が補助線でみるみる結びついてゆく絶景の一端をたしかに垣間見たという満足感が得られるだろう。
本書はいわゆるハード科学哲学の本ではないが、「現場の科学者に真剣に耳を傾けさせる」力を持っていることは間違いない。科学に対する教訓をとくに秘めていると感じられた部分は、28、29節だ。そこで著者は、還元主義的理論化を徹底追求した言語哲学者ポール・グライスの方針を疑問視し、「厳密な特徴づけは困難だとか不可能だというのではなく、してはならないことだと思うのである」として、意図・言語なる対象を客体として分析せず、自己言及的な全体の場に位置づける方向を粗描する。これは、宇宙と人間とを一体のものとし、意識の自己観察の前提として宇宙を捉える近年の「人間原理宇宙論」と並行した考えだと思われるのである。科学において人間原理的なパラダイム転換がまだ熟してはいない現在、本書のこの部分はとりわけ科学者に注目されるべき箇所であろう。科学者ではない私も、本書のこのへんを端緒にして、ひとつ「人間原理意識論」の論文を書きたい衝動に駆られてきた。
大半の読者が、同様にそれぞれの刺激や動機を本書から受け取るのではなかろうか。大脳を適度に揺さぶられる感覚。『哲学・航海日誌』とは、たぶん知的船酔いを投射して、知的吐瀉を促す装置だったのだろう。
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