三浦俊彦「ミステリー嫌いの"謎解き"愛憎」
* 出典:『ユリイカ』1999年12月号 収録
私はミステリーが大嫌いだ。
いや、大嫌いと断定すべきかどうか。期待が大きすぎるがための反動的な拒絶反応かもしれないし。実際、「推理小説」と称される本の第一頁をわくわくしながらめくったことは幾度となくあるのだが、最後の頁を満足感とともに閉じたためしがない(例外は『僧正殺人事件』と『グリーン家殺人事件』)。謎解きらしきプロセスが進めば進むほどどんどんシラケていってしまうのだ。最近ほとんど読んでないのでどこでどうシラケけたか思い出せる作品は少ないが、たとえば『アクロイド殺人事件』。途中で犯人の目星がついて、なるほどーこういう仕掛けでしたかーと微笑みながら読んでいくと、最後の方で語り手が前の記述を振り返りつつ「どーですあそこの書き方巧みだったでしょー、うまく犯人を隠してたでしょー、ズルしてないでしょー、わからなかったでしょー」的自慢を始める箇所があって、あまりにくどくど念入りなので、おいおい読者を軽く見るのもたいがいにねと一挙シラケてしまったのを憶えている。まあクリスティはミステリープロパーの人だから仕方ないとしても、筒井康隆のような洗練された芸術的小説家ですら、ミステリー作品においてはなんというか、終盤の謎解き部分で序中盤の記述を延々ページ参照つきで確認しながら仕掛けの隅々洩れなく開陳するという、非文学的ダサダサの挙に出ざるをえなくなってしまう。ミステリーの本質が職人芸であり、読者にはっきり気づいてもらってこそ報われる種類の労働なのだとすれば、こうした物欲しげな俗手も無理ないのかもしれないが、だからこそ私はミステリーが嫌いなのである。うん、やはり私はミステリーが大嫌いだ。
小説家の臆面もない露出症的本音を露わにするという点以外にも、ミステリーの構造そのものが私はダメである。たとえば『Yの悲劇』。召使か誰かが毎日ミルクか何かをテーブルの上に用意しておき、しばらくしてからそれを飲みにゆくというのを習慣とする登場人物がいたと記憶するが、家の中で連続殺人が進行中というのにその習慣を続け、周囲の人も黙認しているのである。ミルクが放置されてる間に毒を入れろと言わんばかりではないか。あるいは『十角館の殺人』。屋内で次々と仲間が殺されてゆくというのに、若者たちは夜、各々自分の部屋に戻って個々別々に眠るのである。こういう事態になったら夜は警戒して交替で見張り立ててみんなでいっしょに眠るでしょうが、ふつう。この種のご都合主義的シチュエーションこそ、ほとんどのミステリー作品の必需品らしいのである。
いやべつに、ご都合主義的な不自然さ自体はかまわないのだ。フィクションなのだから。私がしっくりこないのは、ミステリー(とりわけ本格推理もの)には超能力と幽霊は禁じ手と聞いているからである。たしかに念力で殺人がなされたりテレパシーで犯人が割り出されたりでは、読者として謎解きに参加する余地があるまい。ミステリーは徹頭徹尾「現実的」でなければならぬ所以だ。なのにその裏で、殺人を起こりやすくし皮相な謎解きを成立させるため、心理学に反した非現実的行動を登場人物に強制している。表でリアリズムのフェアプレイを宣しながら裏でアドホックなファンタジーを密輸入しまくる。これがミステリーなるジャンル特有の欺瞞であり、おそらくは宿命なのだ。うん、やっぱり私はミステリーが嫌いだ。大嫌いだなあ。
ただ最近、逆の傾向に首を傾げることもある。『バトル・ロワイアル』(いや、掛値なしに面白かったぞ!)を読んでそれを最も強く感じた。42人の中学生のうち誰が生き残るのか、始めからわかるような語り方がされており、その通りに決着する。きわめてナイーブなスプラッタ小説だ。しかしせっかくのゲーム小説なのだからやはり知的謎というか、一寸先は闇のサスペンス設定でこそ真の立体感が滲み出たはずではなかろうか。知的謎解きよりも描写や情緒的シチュエーションに頼るあのテの作品がしばしば「ミステリー」枠に収められてしまう現状に、疑問を感ずる今日この頃なのだが……、ん? 私ゃほんとはミステリーが好きなのだろうか?