エッセイ索引
三浦俊彦「大江健三郎とバートランド・ラッセル」
* 出典:『文學界』1994年12月号,pp.237-239.
大江健三郎は、僕にとって、いわゆる肌に合わない作家である。
なのに、不思議なことに僕は大江健三郎の作品の大半を読んでいる。大岡昇平も中上健次も吉本ばななも一冊も読んでないこの僕がだ。『同時代ゲーム』以前の大江作品はぜんぶ読んでいる。そのあとのも、『新しい人よ眼ざめよ』なんかは実に感激した。
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それでなぜ肌が合わないと感じることができるのか。第一には、「哲学や科学と違って、文学は遊びだ」という僕の信条からたぶん最も遠い作家だということ、第二には、「大江の原点にフランス実存思想」という事実が作品の内外に漂うからである。僕は学生時代バートランド・ラッセルの数理哲学にかぶれたので、英米分析哲学と犬猿というか水油の大陸実存哲学は、内容以前にスタイルからしてどうにも耐えがたいものがあったのだ。大江健三郎の文体には明らかに反経験論的な、反原子論的な大陸哲学の匂いがしみついている。
かくも肌の合わぬ大江作品を、ではなぜああも読み続ける気になれたのか。大江健三郎が、核時代という環境を常に意識して書く作家だからだ。僕はラッセルの反核運動にも心酔した。が、ラッセルは僕が小学四年の時に亡くなっていた。サルトルが「ラッセル法廷」の裁判長としてベトナム反戦を叫んでいたときリアルタイムで作家生活を営んでいた大江さんという人はほんとうに羨ましい。
実存流「シリアスな」反逆に対して、ラッセル的「喧がしい」逸脱を大江さんはどう見ていただろうか。実存哲学は個人の内省を拠点とし、客観的普遍化を戒めた。大江健三郎自身はむしろ、誰よりも普遍的原理を模索しているように見える。だが大陸思想の枠組では、どうしても個人的定型の罠を対象化できにくいのではないか。『同時代ゲーム』を境に僕があまり大江健三郎を読まなくなったのは、あれ以降どうも大江作品が、「森」だの「救済」だの「共生」だのという決まり文句で論じられやすくなってきたからだ。
いうまでもなく定型は退屈だ。大江作品が容量を広げるにつれますます退屈化していったその責任が、批評の方にあるのか作品そのものにあるのか、手軽な厚さに誘われ『治療塔』を読んだはいいがその類型倫理臭に辟易、後期諸大作は幻滅怖さに頁めくる勇気も失っている僕には何ともわからない。巨視的構造のみ捉える書評言語に惑わされて細部への感性を括弧に入れてしまった僕のような読者の未熟が一番悪いには違いないが、しかし大江作品になにか「聖人の文学」めいたオーラが漂い始めているのが大いに気にかかるのだ。このオーラに抗して、己れの自由な読みを楽しむ自信は、今のところ僕にはないのである。
大江さんには、聖人作家になってほしくない。初期の作品群にあった崩壊感覚を賦活させ崩れ続けて、いかがわしい本気のメッセージによって、硬直した国境制度の不意を襲いつづけてほしい。「森」や「癒し」や「魂」の体系に閉じないでほしい。ラッセルが晩年、自己の数理論理や中立一元論と無関係の、矛盾すらする規範倫理を叫んで街頭に座り込みを繰り返した姿は、専門哲学者としての魅力を損なったとも言われる。だがラッセルが真に偉大なのは、体系にこだわるそぶり一つみせず道化になりおおせたことではないかと思う。ソ連を原爆でやっつけろと講演して回ってノーベル賞を受けたかと思うと一転全面核廃絶を唱え、世界政府を主張するかたわらベトナム・ナショナリズムを熱烈絶賛する英国の老ファウストのあの狂気に近い崩れ感覚が、実存流二項図式の反逆精神よりも数段、普遍的な迫真性をもって僕の心を捉えるのである。
反核という公理を信じて、核戦略擁護派の法学部の友人と喧嘩寸前の議論をしていた学生時代の僕の励みは、ケネディヘのラッセルの悲壮な罵倒と、大江健三郎『ヒロシマ・ノート』だった。核兵器を生んだ西欧物質文明の権化たる数理哲学者と、第一次核戦争の被災国の戦後民主主義作家。ラッセルは自己否定の疾走を続けたまま死んだが、大江健三郎の方はだんだん私的体系の構築へ、未知の風景よりも「懐かしさ」「励まし」へと落ち着きつつあるようだ。だが広島長崎の国だからこそ無私の崇高なドン・キホーテが現われることが似合うし、必要なのだと思う。救済され終えたので筆を置くなどと綺麗に完結してしまわずに、名実ともに世界を代表する作家、という紋切型の形容のついた今だからこそ、大江さんにはこれから、89歳で投獄されたラッセルに匹敵する異形の、不定形の文学的パフォーマンスに打って出てほしいと思う。
普遍的な原理に慣れ、表現し続けた作家が唯一安住しうるであろう無窮界。出来合いの象徴・道徳的語彙で括られかけている作品体系を今度は自ら切り崩して、それこそ揺れ動く世界の地平線へ後退してゆきかねない普遍原理を、懐かしいイメージの中にではなく、怪訝な眼差の中に再演してみせてくれることだろう。