三浦俊彦による書評

★ 清水義範『迷宮』(集英社)

* 出典:『すばる』1999年8月号,p.28.
* 虚構を呼び醒ます「事実」と「心の闇」


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 レーモン・クノーの『文体実験』を思い出した。バスの中での何の変哲もない些細な出来事を、99種類の別個の文体、別個の視点で書き分けた「小説」。この『迷宮』も一見同じ趣向のようだが、いくつか大きな違いがある。まず第一に、描かれている出来事が全然些細ではない。ストーカーがOLを殺して性器を切除したという猟奇殺人事件だ。第二に、同一事件の報道や証言や供述調書が繰り返されるに従って次第に細部が付け加わり、因果関係の解釈が変更され、あるいは互いに矛盾をきたしたりして、文体のみならず内容が微妙に揺れ動いてゆく。
 そして第三の、最大の違いは、全ての言説の外側に、それらをまとめて「理解可能な物語」を形成しようとする意思が存在することである。調書や週刊誌記事やルポ小説が読まれるのは、記憶喪失の「患者」=「私」と「治療師」との対面においてであり、「私」は記憶を取り戻すためにこの事件について自ら検討することが必要だと説明されている。事件そのものの謎(なぜOLは殺されなければならなかったか? 犯人はどんな心理で犯行に及んだか?)の全体に、記事を読み続ける「私」の身元が何であるのか(そして「治療師」は何者であるのか)という謎がかぶさる。読者は、レベルの違う多階層の迷路の中を同時にさまよわねばならないのである。
「私」が事件の犯人であり、「治療師」が事件を題材にしたルポ小説を構想する小説家であり、「治療」とは手の込んだ取材であるらしいことが浮かんでくるが、定かではない。「私」の記憶がそう告げるのではなく、学習による推測が塗り重ねられるのみだからだ。週刊誌的憶測が周辺事情を濃厚に描けば描くほど殺人者の心の闇がわからなくなってゆくのと同じように、「私」の記憶回復の作為は「私」自身の自己失認をますます深めてゆく。そしていつしか主題は、事件の原因を虚構のパワーに還元しようとする小説家の、倒錯したメタフィクション的欲望へすり替わってゆくのである。
 「事実」が本質的に不明である以上、虚構の力によって暫定的決着をつけるしかない、という倒錯的試みを、清水義範は浅はかと嘲りつつ、奥底では肯定したいと思っているのではなかろうか。「正しい理解」を始めから放棄したかのような週刊誌報道の、倒錯以前の杜撰さに対する清水流風刺の筆致には、「事実の正しい創作法」を探って苦闘せざるをえない小説家の誇りと情熱が、仄かに滲んでいるように感じられるのである。
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