三浦俊彦 - エッセイ索引

(エッセイ)三浦俊彦「街の風」

* 出典:『朝日新聞』2002年6月1日付夕刊「街の風」欄に掲載


 西武線ひばりヶ丘駅から自宅まで七、八分歩く間に、知った顔としばしばすれ違っているはずだが、ほとんど挨拶したことがない。人間ってのは案外目立たない動物なのだ。そのぶん、〈人間ならざるもの〉への挨拶は欠かさないよう心がけている。
 いちばん気を遣うのはとすれ違うときですね。野良猫らしき抜け目なさそうなのが道端にうずくまっている。こちらをじっと見上げて、いよいよ近づくとピクッ、と立ち上がりそうにする。逃げようか逃げまいか迷っている感じ。迷うくらいならさっさと逃げりゃいいのに、と思うのだがもう距離10センチ。上目遣いの微妙顔のまま、猫は逃げずに踏みとどまった。僕はあえて歩幅を狭めてゆっくり通り過ぎる。振り返ると、猫も僕を見送っている。
 と、こういう挨拶ができた日はまことに気持ちがいいですね。「ピクッ」という迷いがなんともタマラナイ。逃げずにいられたことを猫も喜んでいるに違いあるまい。念のため逃げとこう、とやってしまうと、人間への信頼を放棄したことになるのを猫心にわかっている。人家の只中で生きてゆく身、できれば自然体の信じあいを望んでいるわけだ。ならば彼らに対する最上の挨拶は、ギリギリ至近距離を気にせず無視もせず黙って通り過ぎてやることである。
 ゴミ収集所の陰から突然ガサッと現れたカラスと接近遭遇、お互い嚇かすことなく乱すことなく頷きあって通過したときなんかも同じような満足感がありますね。
 猫やカラスの何倍も挨拶の機会が多いやつもいる。夜道、街灯ごとに塀を見ていくと、ちょろちょろっ、と白く斜めに走る。ピクッどころか問答無用の逃亡なので「こいつメ!」はっしと捕まえる。ヤモリへの正しい挨拶は、しっかり捕まえることだ。
 動きのディテールが素早いわりに移動は遅いので、捕獲はそう難しくない。捕まえるとキューキュー鳴いて体をよじって脱糞してしっぽ振り回して大暴れ。懸命に親指に噛みついてくる。ちっとも痛くないところが可愛いな。
 こうしてご挨拶したヤモリはみんな、わが家にお連れする。気が咎めないではない。ヤモリは守宮と書いて「家を守る」の言い伝えがあり、世界中で幸運のシンボルになっているらしい。新聞の投書欄やインターネットに「毎晩同じ時刻に窓辺にやってきて虫を食べる姿を楽しみにしています」といった記事がよく見られるし。この町に住んで三年間、駅からの帰路でヤモリを百匹以上捕まえたが、よその家の塀に居るものを剥ぎ取ってくるわけで、家運を盗むこういう行為も窃盗罪にあたるのだろうか。少なくとも、何軒かの家族団欒の窓辺観賞タイムを奪っているであろうことは確かだ。
 いや、気が咎めるというのはそのことじゃなくて、ヤモリ自身に対しての。なんというかカブトムシやトンボとは違い、どうも最低限自分の立場がわかっているらしい賢いヤモリ、じっと握られ連行されたのではパニックになって、明日からの生きる元気に支障が生じやしないか。
 でもみんな、庭に放ったとたんサササッと元気よく逃げてゆく。木造でないわが家はヤモリの住みかとして快適とはいいがたいのだが。それに場違いな運気を次々持ち込んで、もともとツイてた運を逆に乱しているおそれなきにしもあらず。
 こないだ初めて、玄関で2センチほどの子どもヤモリを目撃した。しめた……。わが家の軒下で繁殖したに違いない。棲みついた。せっせと連れてきた甲斐があったな。
 わがヤモリ捕獲技術はこの三年で熟練の域に達したが、たまに逃げられてしまうことがある。そんなとき反省してみると必ず、アルコールが入っている。酔った自覚など全然なくても、動体視力と反射神経に影響が出ているのだ。車は運転しない僕だが、飲酒運転がなぜイケナイか実感するには、日々の〈ヤモリに挨拶〉がおすすめ。町に潜む〈人間ならざるものたち〉の気配は、人間界の倫理とさりげなく連動しています。