(p.15)
こうした「結ぼれ」がついにダ・カポ・シネ・フィネの無限反射のぐるぐる廻りへと陥ったとき、何が起こるのか。長い長い緊張の果てはたった5行の下水管の中の死−あの鼠の夢はおそらく、核シェルターの中でみじめに死んでゆく人間の姿を映し出したものでもある。この地下における死の夢を記したすぐあとに、レインは次のように洩らしている−
私は言わねばならない、われわれの病院で見てきた幾人かの人々に与えられた死よりも私はこうした死の方を好む、と。(The Facts of Life, p.105)
「病院で見てきた人々の死」とは、結ぼれによる疲弊を一因とする、或いは『ひき裂かれた自己』にいう「呑みこみ(engulfment)」「内破(implosion)」「石化と離人化(petrification and depersonalization)」による存在論的不安定からの精神の死滅を意味しているのであろう。不幸な結ぼれの迷宮的緊張による精神死を被るよりは、レインが述べるとおり、地下における腺ペスト=放射能障害による肉体的死の方がまだましであろうか? 堂々めぐりか非生命的硬直に帰する完全な狂気に至るよりは字義通りの死の方が? (「夫れ哀しみは心の死するより大なるは莫く、人の死すること亦之に次ぐ。」−『荘子」田子方篇)
だがもちろん、それらは余すところのない完全な二者択一というわけではない。レインを震憾せしめた「異文化」は、また別の側面においては確かな希望の拠所を灰めかせてもいるようなのだ。『子どもとの会話』序文にレインはこう言っている、(次ページに続く)
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