展覧会評
 
 引用符を挟んだこのメカニズムは微妙だが、重大である。一つには、芸術家による自己解説が臆面もなく洗練されうるということだ。自作解説というのは常に胡散臭いものだが、ここでは引用符の表裏で作者が二重化しているため、カバコフは引用符の外側と内側で同時に、現実界と虚構界それぞれの批評家をすら演じることができる。ローゼンタール作品を批評するキュレーターを演じながら(「シャルル・ローゼンタールについて」)、カバコフ当人の現実のコンセプトを自家解説することができるのである(「展示作品に署名する代わりに、なぜ「登場人物」の仕掛けを講じる必要があるのか?」T,pp.20-24)。のみならず、「このシャルル・ローゼンタール展は、ローゼンタールの偉大で独創的な才能にふさわしい関心を喚起するとともに、今世紀初頭の美術における複雑で多義的なプロセスを新しい視点から眺める端緒となるだろう」(T,12)といった本来なら身も蓋もない自画自賛の言辞さえ、周到な虚構的自己分裂の装置に濾過されているがゆえにまっとうな芸術的言語として機能してしまう。先ほど芸術家の三位一体的分裂と述べたが、引用符を挟んだ芸術家-解釈者二項分裂の全貌は、実はかくも四位一体の多重芸術空間を現出するにいたるわけだ。
 中原佑介との対談(U,pp.57-71)でカバコフが述べるように、この代理的表現という装置は、実は私たちに馴染みの薄いものではない。「もし私が小説家なら、だれも私にそんな質問はしないでしょう。……文学の世界ではずっと前から小説の中に出てくる人物をつくりあげ、その人物の口を借りて著者の言いたいことを言わせるという手法がとられています。それは美術の世界では非常に珍しいことです。というのは、美術家は自分を表現することに一所懸命で、自分でないものを通して表現することはあまり普及していないからです」(U,p.58)。
 しかし文学における語り手と、カバコフによる架空の画家との間には、決定的な相違がある。すなわちカバコフの場合、現実の発信者と架空の発信者とがともに「作者」として設定されているということだ。小説においても、主人公が小説家であるようなメタフィクションは少なくないが、虚構の小説家の書く文章が作品の枠全体を規定しているというメタ小説 −虚構の作者を配した小説、あるいは引用符が一番外側にある小説− というのは、スタニスワフ・レム『完全な真空』のような例外はみられるにせよきわめて稀だろう。本展覧会も、第7室の存在によって、引用符が一番外側よりもほんの少し狭い範囲で閉じたメタ展覧会にとどまってはいるが、実在と虚構の画家がすっぽり重なっているという点で、いかなるメタフィクションにも比せられない特異な論理を弄ぶことに成功しているのである。(次ページに続く)