三浦俊彦 - エッセイ索引

(エッセイ)三浦俊彦「近藤隆夫著『グレイシー一族の真実』解説」

* 出典:近藤隆夫著『グレイシー一族の真実』(文春文庫,2003年10月10日刊)


 私たち日本人は、グレイシー一族に対して、まだ恩返しをしていない。
 いや、「日本人」などという、国境を強調するような言い方は私は好きじゃないのだが、やっぱりそういう言い方をせざるをえないだろう。そう、グレイシー一族こそ、日本文化の大恩人であると。
 ことし(二〇〇三年)に入っても近藤隆夫が、ヒクソン・グレイシーへの地道なインタビューを続けているのを雑誌『アスラ』で見たとき私は、ああ、これでかろうじて、日本人も恥をかかずにすむ、と思った。そうなのだ。桜庭が出てこようがブラジリアン・トップチームのつわものが続々参戦しようがボブ・サップがブレイクしようが、今日の格闘技界の枠組みそのものを作ったエリオ・グレイシー一族の視点を絶えずフォローしていなくてどうする。グレイシーが巨大な革命体制の創設者であるのに比べれば、桜庭もサップもミルコもみな、革命政権内の細かい実務に才を発揮する兵卒に過ぎないのだから。
 日本武道が二十一世紀にまで保存されることを可能にしてくれた文化功労者がグレイシー一族であることは、何度強調しても強調しすぎることはない。明治創生期の講道館柔道が実は、海外で他流試合を繰り返し、無敵の強さを誇り、「柔術」の名で地球の裏側にその秘伝と精神を伝承していたという事実は、柔道がスポーツ化した今だからこそ、劇画のようにロマンチックだ。二十世紀末のグレイシー一族の鮮烈な出現がなければ、この華々しい日本武道の物語的復興はなかったはずなのである。
 いやもちろん、前田光世の生涯は語り継がれてきたし、ブラジリアン柔術の存在そのものも細々と知られてはいた。しかし、現物が目の前に、しかもその実力を実証する形で登場してきたというのはインパクトが違う。世界に誇る日本武道が、形式だけでなく実力そのものによって、しかも日本人ではなくブラジル人によって保存されていたとは、なんという感激であろうか。すっかりスポーツマンしていた日本の柔道家が格闘家の本能に目覚め、吉田秀彦らが他流試合に参戦し始めている現在の活況も、柔道の分身たるグレイシー柔術のおかげなのだ。日本政府は、いや新聞社でも出版社でも全日本柔道連盟でもどこでもいいから、エリオ・グレイシーに大きな賞を授けるべきだと私は思う。
 だが、現代サブカルチャーの通例に洩れず、格闘技界もめまぐるしく変化している。グレイシー一族の功労が、いつしか忘れ去られようとしている。この本が象徴的な革命記念日として描き出している「第一回アルティメット大会」で幕開けした初期UFC、その映像を目にしたことのない格闘ファンも増えているようだ。二〇〇三年五月現在、初期アルティメット大会のDVDは日本で発売されていない。『プライド』や『K-1』の、言っちゃ悪いがグレイシーの土俵を薄めて惰性で演じているような多くの亜流試合がすべてDVDマルチアングルでじっくり観賞できる時世だというのに。これはどうしたことか。
 ホイス・グレイシーもヒクソン・グレイシーも、たしかに日本のリングで戦う場を提供され、注目を浴びてきた。日本の格闘界はグレイシーを中心に回っている、と言っていい時期もあった。しかしそれは、すでに馴染みの日本人格闘家や日本人プロレスラーを活躍させるためのダシに使われていたとしか思えない。そう、日本人は単に、文化的恩人グレイシーの名声を利用してきただけなのだ。
 実際、ヒクソン対高田延彦、ヒクソン対船木誠勝、ホイス対桜庭和志……、私は現場で観戦していて、グレイシーに対する歓声の少なさに苛立ったものだ。のみならず、ブーイングすら起こっているのには唖然というか、悲しみが込み上げてきた。日本人の文化レベルはこの程度かと……。
 ホイスに対する観衆のブーイングには、もちろんそれなりの背景があった。ホイラー、ホイスが続けて、対桜庭戦のルール変更を要求してきたという背景である。これが、スポーツライクに洗練された日本の格闘技ファンの目に「グレイシーは汚い」「グレイシーは自分のルールでしか戦おうとしない」というイメージを植え付けたのだろう。
 一度決定したルールを覆すというのは、形式的には理不尽に違いない。みんなと同じルールで合わせられないなら、そもそも『プライド』に参加するなという事務的な言い分も一理あるだろう。しかし、おおもとの問題はといえば、そもそも日本の、そして世界の格闘技界が、グレイシーの貢献を正当に認める場をセットしていないということなのだ。
 近藤隆夫はきっぱりと書く。
 「戦いは興行のために存在するのではない。見るべきはファイター同士の真の戦いなのだ。競技が最初にあり、それが人気を博した上で興行として成立していくのだ。戦いが先か、興行が先か、その順序を間違ってはならない。人気を呼ぶために戦いの本質が曲げられるようでは本末転倒ではないか」(一六〇頁)
 この言葉への合理的な反論があればぜひ聞きたいものだ。たしかに、興行としてのスポーツ格闘技というものは存在する。ボクシングを筆頭に、大相撲、ムエタイ、そしてプロレスもその一つに数えてよいだろう。また、観賞しやすいルールでコントロールされたアマチュア格闘技も、オリンピックや世界選手権の形で山ほど存在している。そのような、興行としての/スポーツとしての格闘技では物足らない真実の夢想者たちが、グレイシーの真剣勝負に衝撃を受け、魂を揺り動かされ、バーリトゥード・ブームに火がつき、『プライド』のリングも用意されたのではなかったか?
 そもそもいまだに、初期UFC流の真のノールールでホイスに勝ったやつはいないのだ。確かに、世界選手権レベルの超一流どころが次々参戦しつつある現在、もはやホイスもヒクソンも、真のノールールでやったとしても最強にはなれないかもしれない。しかしそれが断定できるのは、初期UFCと同じ時間無制限ノールールの戦いで彼らを実際に負かしてみせてからのことだ。バーリトゥードでない舞台のみ設定し続け「グレイシー神話は終わった」としたり顔で言い切るのはフェアではない。
 こうして倫理的に見ても、日本のファンがホイスにブーイングを送るのはほとんど犯罪行為だったと言えるだろう。
 結果として時間無制限の要求は認められ、そしてホイスは桜庭に敗れた。「不敗神話」は終わった。ただしそのリングは依然として、初期UFCとは別ものだったことを忘れてはならない。ラウンド制で攻防が中断されるという要因一つ加わっただけで、選手は、リアルファイトとはほど遠い精神状態になってしまうものである。つまりホイス・グレイシーが制覇していた〈あのような戦い〉では、まだ誰もグレイシーに勝ったやつはいないことに変わりないのである。
 ホイス自身は桜庭戦に満足した様子を見せており、そこまで弁明などするまいから、私が代わって言おう。対桜庭戦で時間無制限は認められたにせよ、依然としてラウンド制、フィンガーグローブ着用、禁じ手多数といった舞台では、モチベーションもいまいち盛り上がらず、九十分の激闘の末の試合放棄につながったのではなかろうか。グレイシーへの共感と尊敬に溢れた本書の中でただ一つ近藤は、あのタオル投入での決着にだけは苦言を呈している。死ぬまで戦うはずだったホイスにして「虚脱感に見舞われた。それはないだろうと思った」(一六七頁)。
 グレイシーへの期待と尊敬が深かったゆえの虚脱感だろう。私も現場で見ていて、タオル投入のとき「え?」と力が抜けたのを覚えている。どうみても戦いはこれからだったからだ。しかし、あの場が初期UFCと同じ金網の中であったなら、タオル投入を相談できる暇など与えられていなかったら、ホイスは桜庭が参ったと言うまで戦いつづけたのではないだろうか。
 ホイスが時間無制限の決闘を申し込むとブーイングが飛びかうが、桜庭が試合中ホイスの柔術着を脱がしかけヒラヒラもてあそんでみせると歓声ばかりが湧き起こるというのが、残念ながら現在の日本のレベルなのだ。明治の武道魂が柔術の故郷に凱旋してきたときに肝心の故郷がこのありさまでは、ホイスの心にすでに見えない失望が広がっており、戦いのモチベーションに一抹の影がおりていたということは想像に難くない。タオル投入に幻滅したことでは私も近藤と全く同感なのだが、幻滅の対象は本当にあのタオルだったろうか、と今しみじみ考えているのだ。そう、私たちはグレイシーに幻滅したのではなく、おそらくは日本の格闘技界の現状に幻滅したのである。

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 グレイシー一族の設定してくれたリアルファイトの理念が近年、ますます危うくなってきている。逆に言えばそれだけ、近藤隆夫の警世の書ともいえるこの名著が読まれるべき意義が大きくなっている。
 二〇〇二年大晦日、プライドとK‐1、そして猪木軍が一堂に会して盛り上がった『イノキボンバイエ2002』を思い出してみよう。
 試合当日の全国紙の見開き両面に、試合紹介とアントニオ猪木の談話がでっかく載っていた。こうした大広告そのものは格闘技の世間的認知を広める上で喜ばしいことなのだが、その中で、〈柔道王対空手王〉吉田秀彦VS佐竹雅昭のところに猪木の言葉としてこうあったのだ。
 「オレたちの商売ではキャラクターが絶対。プロは客を呼んでナンボ。だから『負けても光が当たる』場合があるのがプロの面白さ。吉田には、それがわかる試合をしてもらいたいね」
 猪木が何を言わんとしているかは明白である。吉田秀彦に「あっけない勝ち方をするな」と注文をつけているのだ。「演出しろ、手加減しろ、相手の技も引き出せ」というわけだ。勝つよりも、見せろ、演じろ、と。
 冗談じゃない。吉田は佐竹相手に全力を出す必要なし、むしろ観客を向く余裕を見せろとでもいうのか。これは佐竹雅昭に対してきわめて失礼な言葉だ。そして、真剣味の必然性のないそんな試合を組むなんて、観客に対してものすごく失礼な話だ。
 「観客に見せる余裕」のある試合など見せられては、それこそ観客は見る気がしない、ということがアントニオ猪木にはわかっていないらしい。すでにたくさんあるプロレス団体をもう一つ増やすだけというのがグレイシーの遺産になってしまったのでは、一体何のための前田光世の、エリオ・グレイシーの血の滲む激闘の歴史だったのか。
 実際の吉田・佐竹戦は、容赦なく進んだ。試合開始から50秒で前方首固め、タップを奪って吉田の勝ち。佐竹の引退試合だったから、50秒殺とは確かにムゴイと言える。しかしそれがプロなのではないか。勝てる隙に確実に勝つ緊張感が真剣勝負の醍醐味だ。格闘の世界の厳しさを見せつけられたことで、心ある格闘技ファンは観客冥利に尽きる思いを味わっただろう。吉田がああいう勝ち方をしてくれてよかったよかった、グレイシーの、前田光世の遺伝子ここにあり、と私も喜んでいたのだが……。
 しかしなんたることか。格闘雑誌、新聞、そして猪木やプライドの社長をはじめ関係者の談話は、ほとんど吉田批判一色だった。「見せなかった」というのだ。
 あの鮮やかな秒殺のどこが不満なのか。触れたときには斬っている。まさに武道の真髄。あれほどの技はオリンピックでもなかなか見られまい。むしろ批判されるべきは佐竹の方だろう。吉田の必殺術をさばいて「見せる」力が佐竹になかっただけのことなのだ。
 対戦相手を尊敬していればいるほど「見せる試合」になどなるはずがない。尊敬し怖れるべき対戦相手よりも観客サービス優先とは、それで観客も大喜びと決めてかかるとは、それこそ観客をお子様扱いした〈悪しきパターナリズム〉である。発展途上の格闘技をすべてプロレス化しようとする〈悪しき全体主義〉である。そんな悪しきプレッシャーが、現代格闘技の至宝・吉田秀彦を潰してしまうとしたら、こんな損失はない。
 グレイシー柔術を未だに正当に評価できていない日本格闘界の限界が、こういうところに危険なまでに現われてきていると言えるだろう。グレイシーを正しく尊敬できるかどうかが、格闘業界の発展を占う試金石になる。真の格闘家が活躍できるかどうかの分岐点になる。現在の吉田秀彦の置かれた立場を見守っていると、このことがまことに痛感されるのだ。
 そのためにも、今こそグレイシー柔術の、その貢献、その歴史、その人間模様、すべてがもっともっと語られ、知られるべきなのである。グレイシー柔術への恩義と尊敬を常に忘れず、格闘技ファンと大衆に向けて啓発を続けてくれている良心的なジャーナリストの筆頭が、近藤隆夫である。いや、良心などという義務的なモチーフではないだろう、むしろ嗅覚というべきか。文化的感受性、あるいは教養と言ってもよい。
 日本人のグレイシーへの忘恩ぶりには大いに憤りを覚えている私だが、近藤のようなジャーナリストが見るべきものを見続け、ホイスやヒクソンの話に耳を傾け、彼らの言葉を発信し続けているかぎりは、日本格闘業界の、そして日本文化の未来に希望を抱くことができるだろう。