三浦俊彦による書評

★ アメリー・ノートン「午後四時の男」

* 『すばる』1998年7月号,p.296.
* 通俗ストーカー劇への高踏心理学的闖入


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 ストーカーを描いたテレビドラマが複数、同時放映されていたことがあった。恋の激情にまかせて行動するストーカーにより主人公は家庭や日常生活を破壊されるが、ストーカーが一転して自暴自棄による自傷・自殺行為に走るや、主人公は超人的な優しさを発揮し、身を挺してストーカーを救おうとする。ストーカーが復活すれば再び自分を窮地に陥れるだろうことがわかっていながらも。これもちろんお茶の間娯楽の御都合主義、いかにもリアリティに欠けていた。が、あえて解釈すると、平凡善良な市民の中に潜む無垢の渇望が、現実の逸脱的人物と無意識の同一化を果たしていくことの表現だ、とも読めたかもしれない。
 『午後四時の男』に出てくるストーカーは、恋愛者ではなく、ただの隣人だ。六歳の時から「六十年間の結婚生活」を送ってきた夫婦が、引退後の静かな生活を楽しむべく、田舎の家に越してくる。ところがただ一軒ある隣家の住人・ベルナルダン氏が、毎日きっかり午後四時に来訪し、二時間ほとんど何も喋らずに居座る。これが毎日続くのである。おかげで夫婦の生活は台無しになるが、元高校教師である主人公は、隣人に不快な思いをさせまいと気を遣い、苦情一つ言えない。「いや」「ええ」しか言わないベルナルダンと無理に饒舌をふるまう主人公夫妻との暗黙の駆け引きが続く。しかしある日ついに堪忍袋の緒が切れた主人公は、ベルナルダンを罵倒し蹴飛ばし追い出してしまう。しばらくしてベルナルダンは自宅で真夜中に自殺を図り、主人公が間一髪で救出する。このあたりまでは、通俗ストーカードラマの筋を踏襲している。
 しかし単なる通俗では終わらない。コミカルな疑似会話から成る前半と、異常な隣人を通して主人公が自分という人間の「正体」に次第に気づきはじめる後半との対照。ギリシャ・ラテンの学芸思想の豊富な引証による内省の陰影。ベルナルダンに軟禁されているベルナルダン夫人の救出を名目に、主人公自らがストーカーと化してベルナルダン宅に闖入し始める過程。再び自殺を試みることをベルナルダンに執拗に勧め、ついには殺害するに至るその理由付けの緻密さ。……等々が絡み合うなんともグロテスクな心理劇なのだ。知的・身体的障害者であるベルナルダン夫人の醜貌の真に迫った描写さえ、どうでもよくなってしまう。
 象徴としての雪も効いている。引っ越してきた日も、事が終わったちょうど一年後も雪の日。「わたし自身の白さは解けてしまい、誰もそれに気づくものはいなかった。……この雪もまた跡を残さずに解けてしまうだろう。」夫の殺人行為を妻は知らぬまま、夫婦の生活は万事元に戻る、という結末はこれ、再び通俗だ。中盤から終盤にかけての高踏とうまくバランスをとって打ち消し合う、愛すべき通俗である。
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