三浦俊彦による書評

★ ジャック・デリダ『有限責任会社』(法政大学出版局)

* 出典:『読売新聞』2003年2月16日掲載


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 こんな面白い論争にはめったにお目にかかれないだろう。フランスのデリダが創始した「脱構築」と、アメリカのジョン・サールが代表する「言語行為論」。全く相容れないこの二つの哲学が衝突して始まった泥仕合だ。
 今思えばデリダ=サール論争は、「サイエンス・ウォーズ」の前哨戦といった趣がある。対象を緻密に区分し階層化する言語行為論の偏執狂的努力を、デリダ流「差異の戯れ」が曖昧かつ晦渋なレトリックを駆使しておちょくり、挑発する。サイエンス・ウォーズでは科学者の反撃にあってすっかり守勢に回った観のあるポストモダニズムが、科学的分析に対して攻勢に出ていた絶頂期の記録が本書である。
 しかも主な論点は「真面目な言説とは何か」。発言者の意図に即した標準語法を考察の出発点とすべしというサールに対し、標準と逸脱、真面目と不真面目の序列づけを固定するイデオロギーだとしてデリダは攻撃する。論理的・方法論的な前者と、形而上学的・政治的な後者のスタンスが噛み合うわけがない。これ以上の議論はアホらしいと思ったのか、サールは自分のパートが本書に収録されることを拒否した。だからサール側の発言としては、デリダの洪水のごとき言葉の波間に、サール原論文の引用・要約と、サールの代理を買って出た編集者によるデリダへの質問が垣間見えるだけである。
 図らずも自ら一個の「不在」と化すことで、サールの方が脱構築的身振りを引き受けてしまったかのようだ。かたや、一方的に現前するデリダの過剰反応気味の雄弁こそが「討議の倫理」を偏執狂的に訴え続ける。サールの肩を持ったドイツの哲学者ハーバーマスの「不誠実」を声高に非難する箇所などを読むと、今やデリダの方が愚直なほど律儀な言語行為論者と化したかに見えるのだ。参戦者に反転・逆説を余儀なくさせたこの論争自体が、脱構築的言語行為論の模範演技であったと言えるだろう。

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