三浦俊彦による書評

★ 永井均『マンガは哲学する』(講談社)

* 出典:『論座』2000年5月号掲載


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 永井均といえば、現代には珍しい「職人哲学者」である。専門的テクニックを駆使する人という意味ではない。反対に彼の哲学はどちらかというと非分析的である。知性より感性で掴んだのっぴきならない世界観の肌合いを尊重する、昔気質の人生職人なのである。
 永井のキーワードは「哲学的感度」だ。高感度の哲学アンテナを周囲にめぐらし、微妙な神秘や謎の感触を説得的に提示すること、それが課題である。これを果たしていない哲学書は、どんな見事な論証を積み重ねていても失格だ。たとえば永井は、デレク・パーフィット著『理由と人格』(勁草書房)という七百頁を超える体系的哲学書を書評して「私の年来の問いには答えていない。……他の多くの哲学書と同様、問いの存在に対する感度が著しく鈍い」と一蹴している(『科学哲学』一九九九年、32-1号)。
 先決めした特定のパースペクティブからの問題意識を持たないからといって苦情を言うのはむろんフェアでなかろう。しかし、パーフィットのあの名著にすら断じて満足しない頑固職人が日本の哲学界にいるというのは重要なことだ。そしてさらに重要なことに、そんな頑固職人をも感服させる哲学作品が、実は現代日本に豊富に存在していたらしいのだ。それはなんと、藤子・F・不二雄や諸星大二郎のマンガだというのである。
 「この本は二兎を追っている。マンガ愛好者には、マンガによる哲学入門書として役立つと同時に、哲学愛好者には、哲学によるマンガ入門書として役立つ、という二兎である」(まえがき)。藤子や諸星をはじめ、手塚治虫、萩尾望都、高橋葉介、楳図かずお、佐々木淳子、吉田戦車、しりあがり寿、つげ義春、永井豪、松本大洋、吉野朔実、星野之宣、川口まどか等々の作品を豊富に引用しつつ、1節一~三作品の割合で45節にわたり論じてゆく。「意味と無意味の境界とは」「私とは何か」「夢と現実の区別とは」「未来が過去を変えられるか」「大人になるとはどういうことか」……形而上学から認識論、倫理学にいたる主要テーマが、マンガの中に鋭く提示されているありさまが次々鮮やかに摘出されていく。
 とりわけ永井自身の懸案の関心事である「私」の問題――記憶喪失、クローン、シャム双生児、転生、多重人格、等々がマンガ作品で多彩に扱われている実例を見せられると、「発想の破天荒という点で、マンガは小説などの他のジャンルをはるかに凌駕している」(まえがき)という評価に深く納得せざるをえないだろう。萩尾望都『半神』が、一人称物語と三人称物語とを文で絵で同時進行させることにより、確かに「小説などではけっして表現できない世界」を現出させていることなどを改めて実感させられるのだ。
 永井の尺度は本書でもやはり「感度」だ。吉田戦車『伝染るんです。』を評して「こういうマンガを描ける人の哲学的感度は、ほとんど筆舌に尽くしがたいものがある。私は、少なくとも日本の哲学者で、この水準の哲学的感度をもった人を、ひとりも知らない。……歴史的に見ても、私がこの水準の哲学的感度を感じ取れるのは、ウィトゲンシュタインくらいのもの……である。」石ノ森章太郎『リュウの道』について「思想的に読めば、この作品はつまらない。だが、つねに問いが答えを凌駕していることこそ、哲学的感度の存在の証なのである。」あとがきでは「小林よしのり『戦争論』のような作品も意図的に取り上げなかった。これは哲学的感度がないからである。」
 私自身は、個々のマンガに対する永井の「芸術的評価」には驚くほど共感した。「ただ連載をながびかせるためだけの、よけいなストーリーの展開が、多くの長編マンガに認められることは事実だ。……一部で評価の高い望月峯太郎の『ドラゴンヘッド』など、かなりひどいんじゃないかな」という評には歓呼拍手した。
 ただし肝心の「哲学的評価」となると、個々の評釈について多々頷きはしたものの、全般的なスタンスについて首を傾げざるをえなかった。「感度」を重視するあまり、著者が一種「目利き」「思索の鑑定士」を演じてしまっているからだ。
 感度は哲学の必要条件ではあっても十分条件ではない。感度という主観的能力は本来、詩や芸術や骨董の領分であって、哲学の本質は論証であろう。謎への感性のみを存分敷衍できるマンガ芸術を、永井が哲学として過大評価しているように思えてならないのだ。「真の」哲学とは世の哲学者が論文で述べるようなものではない、マンガや子どもの科白の中に光るものこそ本物なのだ、といったただでさえ口当たりよいアマチュアリズム礼賛が、哲学初心の読者の琴線に触れるとすると、由々しきことではなかろうか。
 客観的論証よりも苦吟や詠嘆の断片を然るべき構えで仄めかすことが本当に深い哲学なのだと思い込むいわば哲学芸道観は、すでにいやというほど日本に広まっている。「二兎を追う」ことに紛れもなく成功したきわめて魅力的啓蒙的な本書であるからこそ、哲学という営みへの安易なイメージの流布に寄与してはいまいかという危惧を、一哲学徒として抱かされた次第である。(了)