三浦俊彦による書評

★ 前野隆司『脳はなぜ「心」を作ったのか』(筑摩書房)

* 出典:『読売新聞』2004年12月19日掲載


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 こんな本を待っていた。工学系の洞察で「心」をあっさり解明したと称するこんな本を。
 「私」の謎を解く受動意識仮説、とサブタイトルが付いている。受動意識仮説とは、能動的な「私」など無い、という仮説だ。知、情、意といった心の働きはすべて、無意識のうちに反射的になされる。それらが直後に追認され、すべてを自発的にコントロールする主体がいるかのような錯覚が生ずる、というわけだ。
 この見方そのものは、新しくない。この世に本当にあるのは物質だけで、心は物質の複雑な相互作用の副産物にすぎない、という唯物論は、昔から唱えられてきた。自由意思なるものも物理法則の結果であり、自由は幻想かもしれない、という怖れが、たえず文学や哲学の主題になっている。身体を操る究極の「私」などあるはずはない。こういった真実には、科学時代の人間なら誰でも、うすうす気づいているだろう。
 本書の素晴らしいところは、その暗黙の了解を共通の常識へと固めてゆく確信と熱意だ。脳の働きや心理実験データを引き合いに出した説得調は、魂の自律性をまだ信じていた人の最後のためらいを吹き飛ばす力に満ちている。自意識や感情を持つロボットなどすぐ作れるだろうという近未来像も、信憑性たっぷり。
 ただ、大きすぎる野望を素朴に公言したのは本書の弱みか。「心の謎がついに解けた」!?
 本書の実行した「いかにして意識が生ずるか」の解明は、「なぜ、どんな意識がなければならないのか」の理解にはほど遠い。哲学界が「意識」を前に途方に暮れているのは、心が物理的に説明できればできるほど、意識の謎は逆に深まってしまう、という論理的必然ゆえなのだ。唯物論的記述からはみ出るクオリア(感覚質)等の主観的経験を、科学的世界像にどう組み込めばよいか。哲学者の悪戦苦闘に、本書流の朗らかな楽観論が通用するものなら、それに越したことはない。続編をぜひ読んでみたい。

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