三浦俊彦の時空-電子掲示板(過去ログ 2013年分)

過去ログ索引

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投稿者:tosy 投稿日:2013年12月 4日(水)13時15分50秒
> No.3825[元記事へ]

φさんへのお返事です。

 ご返事ありがとうございました。

>  ところで、
>  また別の本のことでしょうか、税金のことは私はとくに何も見解がないので何とも言えませんが。

 書籍ではございません。
 こちらは、その後よく調べてみたら、経済学のアトキンソン係数というのに関係してきそうです。どのように公平を実現するかということで、規範や功利主義にも関係はありそうです。
 しかしながら、現在進行中の実在する問題なので、投稿は見送ることにさせて頂きます。


Re: 学問について 投稿者:φ 投稿日:2013年12月 3日(火)23時33分8秒
> No.3823[元記事へ]

tosyさんへのお返事です。

>
> #念のためですが、「論理」ではなく、「すべし」とあるから「倫理」でよいのですよね?
>

 そうですね、論理的であるためには偏見に囚われない倫理を有している必要があるし、倫理的にフェアであるためには自ずと論理的に明晰でなければならないので、ここではあえて「倫理」で。

 『宇宙はなぜこのような宇宙なのか――人間原理と宇宙論』
 大変良い本だと思いました。
 ただ、カーターの論文がいかにも捉えがたい曖昧なことを述べているような印象を与えていますが、
 青木さんが仄めかしているような曖昧さはカーターの論文にはありません。
 青木さんが推奨するような意味での人間原理が、すでにカーターの最初の論文で明晰に述べられています。強い人間原理とマルチバースを併用する発想も明言されていますし。
 それ以外のところは、この本は大変良いと思いました。

 ところで、
 また別の本のことでしょうか、税金のことは私はとくに何も見解がないので何とも言えませんが。

哲理と信仰  投稿者:実現 投稿日:2013年12月 3日(火)17時59分44秒
実現と成立 


Re: 学問について 投稿者:tosy 投稿日:2013年12月 3日(火)16時08分26秒
> No.3807[元記事へ]

>  ダーウィニズム的倫理に従えば、「究極理論の誇大妄想(あわよくば物理学は数学に還元される、のような)に囚われずに、環境記述としての慎ましやかな自覚をもって物理法則を追究すべし」ということになるのでしょう。

#念のためですが、「論理」ではなく、「すべし」とあるから「倫理」でよいのですよね?

 ところで、最近、人間原理に関する新刊が出たので、読んでいるところです。
 僭越ながら、以下の書を紹介します。

宇宙はなぜこのような宇宙なのか――人間原理と宇宙論 (講談社現代新書) 青木 薫 (2013/7/18)
http://www.amazon.co.jp/gp/search?field-keywords=

 一言で感想を申し上げると(読んでいる途中ですが)、人間原理の理解につながり、徐々に私の人生観が変わっています。

 φさんはお読みでしたら、一言でもこの本に対するコメントを頂けると幸いです。


書き込みの前に 投稿者:tosy 投稿日:2013年12月 3日(火)15時57分43秒
 φさんへ
 ここに、φさんのご著書以外の問題を書き込んでもよろしいでしょうか?
 主に、憲法、地方自治体、税金、四則演算と確率を使いそうですが、
公平・不公平といった概念が必要になってくると思い、少々哲学的な内容もあるかもしれません。
 いかがでしょうか?
 なお、実在する団体や人物とは関係がある問題なので、
名前は出しませんが、荒れないように投稿を控える可能性もあります。


リヴァースと同値変換 投稿者:Hatrick 投稿日:2013年11月11日(月)09時42分42秒
「2項真理関数」における「真理値表3」は、「Reversed Conditional」と言いますが、
「真理値表3=Converse Implication」とも言います。

私が、石飛女史は、リヴァースの意味を取り違えていますね、と指摘したら、
魔女的な猛烈な反発を喰らいました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

(1) (P⊃Q)  ⊃  (Q⊃P)

このように⊃として、真理表を用いるから、ixtlanさんのように真理表が書けるのです。一本の命題にすることができる、ということです。
その場合に、上の命題は、「偽」となるわけです。

ですから、真理表5の定義のときに、安易に、真理表3にQ⊃Pを入れてはいけない、ということになりますね。(1)が、成り立ってしまうからです。

そこを、わたしは問題にしています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

石飛女史は、リヴァースの意味を取り違えて、同値変換でしょ、
という理解のようです。
真理表5「コンディショナル」のリヴァースは、前件と後件を入れ替えたとき、
真理表の2行目と3行目が、自動的に入れ替わる、という関係性のことでしょう。
これを同値変換というと、誤解を招きますね。
彼女の以下の発言のように、トンチンカンな誤解に、つながるからです。

〉真理表5の定義のときに、安易に、真理表3にQ⊃Pを入れてはいけない、ということになりますね。(1)が、成り立ってしまうからです。


備忘録的に石飛女史の反論を1つ 投稿者:Hatrick 投稿日:2013年11月11日(月)01時27分37秒
少々アゼンとしてしまったので、彼女の反論を備忘録的に。

・・・・・・・・・・・・・・・・
>それに対しては、イマジンブレーカーさんが直ぐに、真理表5においてそれは真であり、しかし、現実世界ではそれが偽とされるから、命題論理学では、それはパラドックスとして了解事項であるというような反論をしていますね。

この説明が、完全に破綻しています。備忘録的に石飛女史の反論を1つ

a. それがほ乳類である ⊃ それはクジラである

この命題がが、演繹論理学の本の中で取りあげられて、「真」とされることは、どんな場合でも、ありません。

なぜなら、常識で考えておかしい例を、わざわざあげて、実例とすることは、いくら命題論理が、命題計算を本来としているとは言っても、ありえないからです。

それに、この場合、「真」とできない理由も、はっきりとあげることができます。

すべての可能世界(仮想じゃないよ!)において、「真」とされないものは、「真」である、と認められない、ということです。

真理表の読みの問題です。「可能世界」というのは、論理的にありうる論理空間を網羅する考え方で、たんに、ありえない世界とか、仮想の世界とか、そういう世界のことを述べているのではないのです。
論理的にどう考えるかという、考え方の問題で、出てくる西洋的な概念です。

可能世界は、名前のとおり、可能な世界なのであって、不可能な世界をいうのではありません。
起こりうる場合を網羅するので、PQという二つの命題において、11,10,01,00という四つの可能世界を問題にするのです。

このうち、ある命題(ほ乳類⊃クジラ)があるとして、これが、第二番目の可能世界では、偽になるということは、この命題は、現実にいわれるとき(現実世界では)、「間違っている」「偽である」といわれる、ということです。

なぜなら、すべての可能世界において、真でないものは、真とされないからです。

この意味、たぶん、magagiokさまは、誤解するでしょう。
具体例と、真理表の定義は、同じ記号が用いられても、読みはちがいます。

たとえば、

b.それがクジラである⊃それはほ乳類である

これを取りあげますと、すべての可能世界で「真」なのです。わかりますか。
可能世界の第二番目のケースはどうなるんだ、といわれるでしょうけど、その場合、よくみてください、「クジラであって、ほ乳類でないもの」は、いかなる可能世界を考えても、ない!からです。

つまり、第二番目の可能世界は、この場合、存在しないということです。だから、あらゆる可能世界において、「真」の場合しか見当たらないので、この命題は、堂々と真である、と言われるのです。

可能世界ということを持ち出すならば、このように説明されるのです。

イマジン氏のやってる、

a.それがほ乳類である ⊃ それはクジラである

は、一行目が真になるのだから、「真」でいいのだ、というのは、真理表の読み方すら知らない人の意見だ、といわれても、文句は言えません。

かれは、真理表5の⊃の例として、よくあげられる

c. 空は青い ⊃ 地球は丸い

のような文とごっちゃになっているのです。これは、要素命題の真偽の値だけから、定義どおりであれば、命題の真偽を機械的に決めようという、命題論理の操作を印象づけるために出されるものです。

これも、可能世界という立場を考えると、ちゃんと、すべての場合に「真」になっているのです。

第二の場合、「空が青い」が真であって、「地球は丸い」が偽になるような場合、そのような場合は、どんな可能世界においても、存在していません。
可能世界は、不可能世界ではないのです。可能な場合を網羅するので、いかなる可能世界においても、「ない」と言えます。

可能世界と言うことを持ち出して語るとき、もっとも有効なのは、様相論理かもしれませんが、今の場合、命題論理を扱うので、様相論理は考慮しません。命題論理に限定して話しています。

命題論理が、いくら記号を用いて、現実の世界そのものを対象としないからといって、現実の世界(古典形式論理の世界)で理屈に合わないことを、命題論理が理屈に合うものとして認めることは、ありえないのです。

この場合、「現実の世界」というのは、常識の世界ととることもできますが、より論理的にみるならば、古典形式論理の世界、ということもできます。

やはり、論理の世界ではあるのです。デタラメを嫌うのは、世界中の誰でも同じです。まあ、わざとデタラメで、magagiokさまをまんまとつるような人もいますが、そういう場合は、だまされたとわかったら、腹が立つかもしれません。

あと、

d.(P⊃Q) ⊃ (Q⊃P)

ですけど、これも、同じように、第三の可能世界において、即ち、Pが0、Qが1の場合、
P⊃Qが、1、
Q⊃Pが、0
になるので、1⊃0 という形になって、全体としては、0(偽)になります。

このように、偽になるケースがでますと、この命題を、アレンジしてつくられる推論は、「非妥当」といわれ、正しい推論形式とは言えません。

即ち、推論の形式の場合、それを一本の命題としてあらわしたとき、全部が真、即ち恒真命題になっていることが、求められるのです。
あらゆる可能世界において、成り立つ式が、妥当な推論形式をつくるのです。どんな世界でも形式の上では成り立っていないと、人は、おかしいと思うからです。

たとえば、正しい例をあげてみます。

   P⊃Q
   P
 ∴ Q

このような推論の形式は、一つの命題にすると、

 ((P⊃Q) ∧ P) ⊃ Q

これが、可能世界四つの場合について、すべて真となっていることを確かめてください。恒真命題でなければ、ならない、という意味がわかるでしょう。

こういうことは、「僕は良いと思いますけどね」みたいな意見で、どうこうなるものではありません。

意見と意見をぶつける議論の話ではないのだ、と何回も言ったでしょう。
わたしは、何も主張していないと!

たんなるmagagiokさまの、論理学的な無知に起因するだけなのです。
イマジン氏にだまされるmagagiokさま、という展開にすぎません。
http://www.hannya.net/index.htm


Re: P⊃Qがトートロジーとなる特殊なケース 投稿者:φ 投稿日:2013年11月 1日(金)14時09分24秒
Hatrickさんへのお返事です。

ポイントをまとめておきましょう。

◆真理表はただの道具であるから、使いやすいように全行書かねばならない。

◆真理表に場合分けされるP、Qなどの命題型記号は、真理条件が互いに独立であるものとして扱う。

◆真理表は、実質含意と形式含意の区別は出来ない。そんな精密な道具として作られてはいない。

◆実質含意と形式含意の区別をどうしても真理表でやりたいなら、形式含意を表わす式をもっと細かく書いて、互いに独立な命題型記号の真理関数にまで分解せねばならない。

◆真理表はあくまで命題論理の基礎における道具である。真理関数も同様。真理関数だけで「因果関係」を扱おうなどとは、足し算だけで一般相対論を書き出そうとするに等しく、怠慢も甚だしい。

◆足し算の限界を批判することで数学全体を乗り越えたつもりでいるらしい誇大妄想系を相手に、あまりムキになるのはやめた方がいいですよ。


Re: P⊃Qがトートロジーとなる特殊なケース 投稿者:Hatrick 投稿日:2013年10月31日(木)21時56分58秒
> No.3812[元記事へ]

φさんへのお返事です。


三浦先生、解答を ありがとうございます。

今回の一連の質問は、「P⊃Qがトートロジーになる特殊ケース」に関する質問でした。
当初、私の「思い込み」としては、ラッセルの「形式含意」がこれに該当すると考え、「実質含意と形式含意」の形で、質問させて頂きました。
しかし、三浦先生の見解は、次のようなものでした。

>・・引用開始・・・・・
P「aはクジラである」がQ「aは哺乳類である」を【形式的に】含意するかどうかは、すぐに決めることはできません。(これは論理学ではなく哲学の問題になります)

ある可能世界には、哺乳類でないクジラがいるのかもしれません。
 いや、クジラは定義(語義)からして哺乳類なのだ、と言う人もいるでしょう。
 しかし、動物学のパラダイムが変わって、クジラは魚である、つまり哺乳類でないと認定される日がくるかもしれません。
 あるいは、クジラ全体でないにしても一部のクジラは哺乳類でない(たとえば爬虫類であった)ことが発見されるかもしれません。

付言すると、クジラの動物学的分類と同じことが、数学的命題についても起こりえます。
 数学はときどきとんでもない転換を起こすことがあるようで(公理が否定されたり)、
 「aが9の倍数であるならばaは3の倍数である」はトートロジーとは限りません。
 真理表のように命題論理の話をするときは、「トートロジー」という認定は、命題論理の恒真式に限定するのが無難でしょう。

 (なお、別の誤解についてですが、命題の含意関係P⊃Qが集合の包含関係P⊂Qで表わされており、記号では逆向きとなることが混乱のもとになっていることを読者からの質問で知り、『論理学がわかる事典』pp.154-155『本当にわかる論理学』pp.115-117ではその説明を書きました。)
・・・・・・引用終了・・・・・・・・・・・

上記の解答によって、「形式含意」=「P⊃Qがトートロジーになる特殊ケース」
という思い込みは、崩壊しました。
そして、結局、結論としては、
「P⊃Qがトートロジーになる特殊ケース」というのは、
たとえば   P⊃(P∨Q)
のようなケース・・・「だけ」であり、これを法則的に表現すると、
「前者(P)が後者(Q)をたまたま含意するだけでなく、
いかなる可能世界でもPがQを含意せざるをえないケース」であること(p.39参照)
と、なる、と。

これは、「2つの<原子式> PとQがあるだけの場合」(他に無条件の時)には、
「P⊃Qがトートロジーになる(と言える)特殊ケース」は、(命題論理的には)ない。
ということを意味しますね。
(∵ Qの論理的内部構造が不明だから)


>なぜいちいちそんなことを考えねばならないのか、不明ですね。真理表は、あらゆる場合について機械的に整理したベン図と同じ道具であって、オイラー図は「命題の強さ」を表すために臨時に導入したものにすぎませんから。


なぜ、「いちいち、そんなことを考えたか」と言いますと、
ここが、「石飛ブッダ論理学」の「誕生秘話」に関わる問題だからです。
石飛女史は、三浦先生の「論理学入門」の38、39ページを読んだときに、「これだっ!」と閃いたのでしょう。
「縁起を論理的に語る」には、「P⊃Qがトートロジーになる特殊ケース」オイラー図「集合の包含関係P⊂Q」における「弱い命題」を「現象の原因」に割り当て、「強い命題」を「現象の結果」に割り当てれば良いのではないか。そうすれば、世界の因果関係 を論理学的に語れるみたいだぞ、と。
・・・・このように、発想したわけです。


>(なお、別の誤解についてですが、命題の含意関係P⊃Qが集合の包含関係P⊂Qで表わされており、記号では逆向きとなることが混乱のもとになっていることを読者からの質問で知り

三浦先生は「別の誤解」と位置づけていますが、別ではないようです。「混合一体型」でしょう。上記の「石飛女史の閃き」において、
「P⊃Qがトートロジーになる、オイラー図・集合の包含関係P⊂Q」
は、真理関数の出力値パターン全16種類を羅列した「真理値表1~16」において、
「1011」は「⊃」に当てはまりますが、「1101」は「Reversed Conditional」と名付けられていますから、「⊂」に当てはまります。
ゆえに、「縁起関係を表す」のに、「弱い命題」を「現象の原因」に割り当て、「強い命題」を「現象の結果」に割り当てた「1101」の真理値表を
「換骨奪胎」して「縁起の表」に利用すれば良い、
という発想になったのでした。

この場合、「因果関係を表す論理結合子」は、記号的には確定されていませんが、仮に、私的に、「有因関係」ということで「yuin」という記号で表すとします。

「P yuin Q」は、真理関数の結合子ではないので、前件と後件が結合することで、
「双頭の原子命題」(ベトちゃんドクちゃん型)として扱います。
ゆえに、「Pだけの原子命題の真偽判定」と同様に、「現実と合致するか否か、観察して決める」ことになります。
そうして、「観察して実際の現象と照合して」「1101」の評価値が揃えば、大当たり。
そのとき初めて「因果関係があると確定される」、これぞ、ブッダの公式なり、と。
(人類は科学の検証においても、みんな、このブッダの公式を使っているのだよ、と。)

P Q  P yuin Q
1 1     1
1 0     1
0 1     0
0 0     1

1行目「P(1) yuin Q(1)」のケースを現実に観察して
「因果関係有り判定」のときは、「1(真)」を出力します。
2行目 PQに因果関係有りならば、後件は現実化しないケースも有り得るので「真」と評価します。
4行目 PQに因果関係有りならば、原因が「0」のとき、後件も「0」と連鎖的・因果的に消滅するので、現実の観察によって、そうなっていることを確認して「真」と評価します。
そして、問題の3行目。
これは、「命題論理学における含意⊃のPQがトートロジーのとき」の2行目に該当します。
彼女は、この2行目について、「前件・クジラ/後件・哺乳類」がトートロジーになるケースだと「誤信」しつつ、「有り得ないので偽である」と解説した部分です。
「一般ケース型」として、2行目を立てているけれど、ここは「トートロジーである特殊ケース」であるし、その見地からすると、2行目は「恒真性を妨げる要素」なので、ここでは例外的に、出力値としての「偽」に、「2行目自体を空集合宣言して無効化する強い否定効果」を付与して、「有り得ないので偽である」とします。
(真理関数の出力として、やってはいけない解釈。効果付与の仕方として「有り得ない」。)

そして、それの「リヴァース版」として利用している、「縁起の表/1101」のときには、「⊃の2行目の出力値の偽に特殊効果付与問題」が、「3行目問題」として出現します。

「縁起の表/1101」の3行目については、
「P(1) yuin Q(1)」で因果関係が双方に有るとされている状況において、
「P(0)Q(1)」の組み合わせ自体「有り得ない」ですし、よって当然、
「P(0) yuin Q(1)」という因果関係も「有り得ない」となるので「偽」となります。

結局、「⊃がトートロジーとなる特殊ケース」のリヴァース版として「縁起の表」を作成しただけですから、
「因果関係があるときには、あるよ」と述べているだけのことに過ぎないのですが、
彼女には、それがわからないようで、「何かを語りえた」と思っているのです。

以上、
石飛女史は、命題論理学の「含意⊃」が「トートロジーとなる特殊ケース」において、
後件を原子式として扱い、2行目を「一度、有るものとして立てた」上で、
全体がトートロジーであるようなオイラー図「集合の包含関係P⊂Q」として扱うには、2行目が「邪魔」であるため、空集合化して、「有り得ないので偽」という評価をして、「幽霊行」化する操作をしているわけです。
それが、そのリヴァース版である「縁起の表」にも反映して、
「P yuin Q」の結果値パターン「1101」の3行目に出現して、
因果関係があるなら、「原因ないのに結果だけある」ことは「有り得ないので偽」だ、
となります。

私の批判の仕方として当初想定していたものは、行数生成の段階(真理値割り当て段階)で、トートロジーのケースのとき「⊃」の2行目は生成されない、全3行になるから、そのリヴァース版である「縁起の表」も「全3行」になるべきで、
それをみれば、トートロジーで語る「縁起」がいかに、無益か、わかるだろう?
という斬り込みを想定していました。

しかし、三浦先生に確認したところ、結論は、次のようになりました。
すなわち、
「全4行の真理値表」を作成して、4行全部で「1」が出力されないものは、トートロジーではない、ということ。
2行目をもつ「⊃」の真理値表は、2行目の組み合わせが空集合であることは「有り得ない」、または、「有り得ない組み合わせ」であっても「有り得るもの」として、仮想して、「有った場合での含意関係の有無」を出力しているのだ、ということ。

そうすると、形式的には「トートロジーではないことを示している真理値表」を使用して、特定行のみを「偽」化することで、実質的にはトートロジー、として扱う彼女の「誤用」について、どのように批判するのが、最も有効か、
現在、考慮中です。

http://www.hannya.net/index.htm


Re: P⊃Qがトートロジーとなる特殊なケース 投稿者:φ 投稿日:2013年10月31日(木)01時02分28秒
> No.3811[元記事へ]

Hatrickさんへのお返事です。


>
> では、このp.38の右図のオイラー図について、真理値表で表現すると、どうなりますか?
>
> このように考えると、やはり、私が述べていたように、
> 2行目が出力されない、または排除された形の「全3行」
> P Q  P⊃Q
> 1 1   1
> 0 1   1
> 0 0   1
>
> になるのではないでしょうか?

 なぜいちいちそんなことを考えねばならないのか、不明ですね。
 真理表は、あらゆる場合について機械的に整理したベン図と同じ道具であって、オイラー図は「命題の強さ」を表すために臨時に導入したものにすぎませんから。
 真理表は、命題の強さ・弱さの関係を表わすことはできません。ベン図の省略形にすぎないオイラー図を真理表に読み替えるなどということは、しないでください。
 オイラー図は、視覚的にベン図よりわかりやすい場合があるので利用できますが、行を減らした真理表なるものは、わかりにくくなるだけです。単なる書き落としだと思われてしまい、(たとえば8行あるべきところを6行しか書かなかったら、書き忘れだと思われてしまいます)、真理表の用をなさなくなります。

 前回述べたように、PかQが不可能命題である時や、互いに矛盾する命題である時にも、いちいち真理表の削減を考えるつもりでしょうか。含意だけでなく、選言、連言、同値、その他あらゆる真理関数について。
 お望みならいちいち削減してもよいですが、メリットはありませんね。

>
> ということは、2行目を入れた瞬間に、
> 「左図の白い部分にも可能世界がある場合」(ベン図)になってしまい、
> 「右図のように考えることはできません。」ということになってしまうと思います。
>

 繰り返しますが、真理表は、ベン図のようなものであって、オイラー図で表せるかどうかという区別はできません。そのような目的を持っていないからです。
 真理表は、「命題型」についての場合分けであって、個別の命題はそのどれかの行にあてはまることが確認されればよいだけです。
 個別の命題については、いちいち真理表を作成することはしないようにしてください。

>
> 問題の2行目「P(1)Q(0)」の組み合わせ、
> 「私はあす新宿に行く」∧「私はあす新宿か渋谷に行く、のではない」
> この組み合わせについては、仮定であっても、立てない、ということでしょうか?
> つまり、「私はあす新宿に行く」が「1」になったとき、
> 自動的に、「私はあす新宿に行く」が含まれるQも「1」になるしかない。
> ゆえに、2行目「P(1)Q(0)」は、「有り得ない」ものとして、出力しない。
> ゆえに、全3行「111」出力のトートロジーになる。
> ・・・・・そういう扱いだ、ということで、宜しいのでしょうか?

 行は減らさないでください。
 そんなことをしたらトートロジーの確認ができません。
 「私はあす新宿か渋谷に行く」を「私はあす新宿に行く、または私は渋谷に行く」とし、
 P∨Qと書いてください。
 そして、P⊃(P∨Q)の真理表を4行で書き、トートロジーの出力が全部1になることを確認してください。

 いかなる命題についても成り立つ、つまり命題型の真偽の組み合わせのパターンを書いたのが真理表ですから、行を減らすという無意味なことはせず、トートロジーの確認には、すべての行が出力1になることを確認するようにしてください。


P⊃Qがトートロジーとなる特殊なケース 投稿者:Hatrick 投稿日:2013年10月29日(火)22時35分4秒
> No.3810[元記事へ]

φさんへのお返事です。


三浦先生、回答ありがとうございます。
諸般の事情でレスが遅れて申し訳ありません。

確かに、三浦先生が仰る通り、
付値関数を使った「真理関数の定義」として、「⊃」の場合、
「1⊃0」→出力値「0」、「それ以外の形」→出力値「1」とする、
というように、機械的に一律に、演算されるだけなので、
「形式含意」や「実質含意」の区別について、いちいち命題の内容ごとに判断して、特定の行、特に、2行目が排除したり、しなかったり、というのは、マズイですね。
命題内容に踏み込まず、機械的に、形式的に「全4行」で考え、
「有り得ない組み合わせ」も「有り得るものと仮定」して真理値表を作成する。
この点、納得しました。
ありがとうございます。

しかし、やはり、問題がある、又は、疑問が消えないことがあります。

>『論理学入門』p.38の図は、矢印のところに、「灰色部が可能世界の全てだとすると」と但し書きがありますね。左図の白い部分にも可能世界がある場合には、右図のように考えることはできません。

真理値表が以下のように全4行で出力され、「有り得ない組み合わせ」があったとしても、「もしも有り得たとしたら」との仮定のもとに、行を機械的に立てます。
P Q  P⊃Q
1 1   1
1 0   0
0 1   1
0 0   1

これは、『論理学入門』p.38の「左図の白い部分にも可能世界がある場合」(ベン図)
について、「真理値表の全4行」で表現したものと言えます。

「白い部分」とは、ベン図の「P(1)Q(0)エリア」(真理値表の2行目)で、
ここだけでも「無数の可能世界が散らばっている」との三浦先生のコメントがあります。

>矢印のところに、「灰色部が可能世界の全てだとすると」と但し書きがあります

図を見られない人のために補足すると、
この「灰色部」とは、「1行目∨3行目∨4行目」のエリアです。
つまり、三浦先生は、「2行目のエリア」を除外した「灰色部」が「可能世界の全てだとすると」という仮想を立てておられます。
(PがQの真部分集合になっている、p.38の右図のオイラー図がそれです。)

では、このp.38の右図のオイラー図について、真理値表で表現すると、どうなりますか?

このように考えると、やはり、私が述べていたように、
2行目が出力されない、または排除された形の「全3行」
P Q  P⊃Q
1 1   1
0 1   1
0 0   1

になるのではないでしょうか?
次頁 p.39の冒頭には「P⊃Qがトートロジーのとき」とありますね。
「P⊃Qがトートロジーのとき」には、真理値表でも「全3行(111)」と記述するのが妥当でしょう。

ということは、2行目を入れた瞬間に、
「左図の白い部分にも可能世界がある場合」(ベン図)になってしまい、
「右図のように考えることはできません。」ということになってしまうと思います。

まさに、問題の核心は、ここにあります。

三浦先生が次頁で述べておられる、「P⊃Qがトートロジーのとき」すなわち、
「灰色部が可能世界の全てだとすると」という但し書きについて、
一体、どのような「特殊な条件(制約)」がつけば、
P⊃Qにおいて、「灰色部が可能世界の全てだとする」
トートロジーになるのか?

その解答が、「p.39の冒頭」に記述されている内容、すなわち、
・・・「PがQよりも強い命題であること」・・・なのだと理解します。
「前者は後者をたまたま含意するだけでなく、いかなる可能世界でも含意せざるをえない」(p.39)とも記述されています。

つまり、「P⊃Qがトートロジーとなる」「特殊なケース」とは、
「PがQをたまたま含意するだけでなく、
いかなる可能世界でもPがQを含意せざるをえないケース」
だ、ということになります。

その例題として、p.39で挙げられているのが、これです。
「私はあす新宿に行くならば、私はあす新宿か渋谷に行く」

この例題を真理値表にすると、どうなるか?
問題の2行目「P(1)Q(0)」の組み合わせ、
「私はあす新宿に行く」∧「私はあす新宿か渋谷に行く、のではない」
この組み合わせについては、仮定であっても、立てない、ということでしょうか?
つまり、「私はあす新宿に行く」が「1」になったとき、
自動的に、「私はあす新宿に行く」が含まれるQも「1」になるしかない。
ゆえに、2行目「P(1)Q(0)」は、「有り得ない」ものとして、出力しない。
ゆえに、全3行「111」出力のトートロジーになる。
・・・・・そういう扱いだ、ということで、宜しいのでしょうか?

もし、「宜しい」ということであれば、それは、こういうことでしょうか?
すなわち、
P「aはクジラである」ならば Q「aは哺乳類である」
という例題は、「P⊃Qがトートロジーとなる」「特殊なケース」の例題としては、
不適切だということだ。なぜなら、
「P(クジラ)がQ(哺乳類)をたまたま含意するだけでなく、
いかなる可能世界でもP(クジラ)がQ(哺乳類)を含意せざるをえないケース」
だ、とは言えないから。
だから、この場合は、普通に「全4行」の真理値表になる。

という理解で宜しいでしょうか?
確かに、クジラが哺乳類であることは、論理必然ではないですね。生物学上の決め事に過ぎないです。

以上、
「P⊃Qがトートロジーとなる」「特殊なケース」とは、
「PがQをたまたま含意するだけでなく、いかなる可能世界でもPがQを含意せざるをえないケース」だ、と理解したとき、
「そうしたケースに該当する、という判断」が、
PQに「真理値の割り当てをする段階」において、
「そうした論理必然的な含意関係がPとQにある、と
<形式的に認定される>がゆえに」
2行目は出力不能である、P(1)Q(0)の組み合わせは割り当て不能」
という扱いになる、ということでしょうか?

つまり、この「トートロジーである特殊ケース」は、
「機械的に4行を割り当てるルール」の「例外になる」のでしょうか?

以上の疑問について、よろしくお願いします。

http://www.hannya.net/index.htm


Re: 真理値割当の付値関数Vの役割の範囲は? 投稿者:φ 投稿日:2013年10月25日(金)17時14分19秒
> No.3809[元記事へ]

Hatrickさんへのお返事です。

 『論理学入門』p.38の図は、矢印のところに、「灰色部が可能世界の全てだとすると」と但し書きがありますね。
 左図の白い部分にも可能世界がある場合には、右図のように考えることはできません。
 石飛氏がどう捉えたにせよ、「命題の含意」と「命題の強さ」の区別のための但し書きを無視してもらっては困りますよね。

 以下、まとめてのお答えで失礼します。

>
> >PとQがともに「aは最大の素数である」なら、1行だけとなります。
>
> しかし、背理法の「仮説」として、もしも「P=1、Q=1」ならば・・・、
> という「仮想」をも、真理値割り当てにおいて、肯定するならば、
> やはり、「2行」の出力になる、ということになりま・・せんか?
>

 だから私が述べたのはそういうことです。仮想も含めましょうと。
 しかも2行ではなく4行です。
 最大の素数の存在が仮想できるなら、同一命題が真であって偽であるという矛盾だって仮想できるのですから。
 Hatrickさんのように、PとQの組み合わせでありえないものを除外するというならば、
 命題がただ一つの場合も「組み合わせ」ですから、Pが1という「組み合わせ」が無いならば、それを除外する、というように考えねばならなくなる、ということです。
 ∨や∧の真理表でも同じことです。
 そんな煩雑なことを考える必要はないんです。

>
> こうした意味で、「真理値割り当ての組み合わせ」としての「仮想性」を、どう考えるのか?
> 「有り得る組み合わせ」だけの羅列なのか?
> 「有り得ない組み合わせ」も考慮するのか?
>

 ありえない組み合わせもすべて考えてください。
 真理表はあくまで、全ての場合を網羅した機械的対応表であり、具体的な命題によってはそのうちいくつかの行が「ありえない」のであってもいっこうに問題ありません。


真理値割当の付値関数Vの役割の範囲は? 投稿者:Hatrick 投稿日:2013年10月24日(木)22時32分23秒
> No.3804[元記事へ]

φさんへのお返事です。


前投稿にて、こう記述した部分への「補記」です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
P「aはクジラである」 Q「aは哺乳類である」

これについての、「真理値の割り当て作業」を考えると、
・「a=クジラ」のとき、「P=1、Q=1」です。
・「a=哺乳類」のとき、「P=0、Q=1」です。
・「a=クジラでも哺乳類でもない」とき、「P=0、Q=0」です。
・「a=クジラであるが哺乳類ではない特殊な生物」のとき、「P=1、Q=0」です。

となりますね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「クジラ/哺乳類」例題の場合、「形式含意」例題と見ることも可能ですし、同時に「マテリアル含意」例題として見ることも可能なので、両者の立場で、結論が異なるため、ややっこしい事になってます。

P「aはアルミニウムである」 ⊃ Q「aはハチミツである」

このような例題にすると、
・「P=1、Q=1」を充たす「a」は、
「アルミニウムでありかつハチミツでもある特殊なもの」
ということになります。

「⊃真理関数」としては、「P=1、Q=1」と割り当てられた瞬間に、出力「1」を出すわけですから、この場合、
「アルミニウムでありかつハチミツでもある特殊なもの」
「P=1、Q=1」を充たす「a」が肯定されていることになります。

一方、
・「P=1、Q=1」を充たす「a」は、
「形式定義的に、有り得ない」として、「該当するaなし」として、
この真理値割り当ての「組み合わせ」を「出力しない」のが、付値関数の役割なのではないか?

>PとQがともに「aは最大の素数である」なら、1行だけとなります。

と、三浦先生が仰る理由は、「P=1、Q=1」が「有り得ない」から、でしょう?
「P=0、Q=0」だけの1行だけしか、出力しないのが、付値関数である、と。
つまり、「ここで」「有り得る/有り得ない」の判断をしていることになります。

では、「そうした判断」を「形式判断」のみにするのか? 「実質判断」も含むのか?

これが論点になります。
役所の書面審査のように、アプリオリに、「形式判断でやれる範囲内」でしか、
実際問題、できないでしょう。
もしも、「実質判断を含む」となれば、現地現実調査のような話になって、真理値割り当てが機械的にはできずに、その判断にもブレが発生し、不可能になります。

ゆえに、「ここでの付値関数」の「有り得る/有り得ない」判断は、「形式判断の範囲に留まる」という結論を得ることができるでしょう。

この結論で宜しいでしょうか?

なお、もう一つ、問題があると思います。

>PとQがともに「aは最大の素数である」なら、1行だけとなります。

しかし、背理法の「仮説」として、もしも「P=1、Q=1」ならば・・・、
という「仮想」をも、真理値割り当てにおいて、肯定するならば、
やはり、「2行」の出力になる、ということになりま・・せんか?

こうした意味で、「真理値割り当ての組み合わせ」としての「仮想性」を、どう考えるのか?
「有り得る組み合わせ」だけの羅列なのか?
「有り得ない組み合わせ」も考慮するのか?
という疑問が出ます。
この点は、どのようにお考えでしょうか?


http://www.hannya.net/index.htm


「⊃」では「何が偽」なのか? 投稿者:Hatrick 投稿日:2013年10月24日(木)21時34分48秒
> No.3804[元記事へ]

φさんへのお返事です。

三浦先生、回答ありがとうございます。

>(なお、別の誤解についてですが、命題の含意関係P⊃Qが集合の包含関係P⊂Qで表わされており、記号では逆向きとなることが混乱のもとになっていることを読者からの質問で知り、『論理学がわかる事典』pp.154-155『本当にわかる論理学』pp.115-117ではその説明を書きました。)

上記のご著書は未読なので、購入して確認してみます。ありがとうございます。

>P.38で、場合分けのベン図を可能世界の集合に関するオイラー図に置き換えたのは、
特定の真理値の組み合わせを無視すべきだ、ともとれる図になっており、たしかに誤解を招いたところがあったかもしれませんね。


思うに、この置き換えの2図は、以下の2点についての三浦先生の意識が薄いことの反映ではないか? と推察しています。
1.「形式含意」の定義における「形式性」についての意識。
2.真理値表の縦書き時の「行数」生成のアルゴリズムについての意識。(換言すると、真理値割り当ての付値関数の出力という側面の意識)

微妙な部分なので、間違っていたら、指摘して下さい。

まず、1 について。
ラッセルの「形式含意(Formal implication)」との対比で、初めて、「マテリアル含意」という概念が出ます。
ラッセルとしては、「アプリオリに知れる含意関係」として、「形式含意」を定義した、と私は、推測するのですが。
Formal implication =implication -(not material implication)
= アプリオリに知れる含意関係

「マテリアル含意」は、パラドックスを生む、矛盾を孕むものであり、アポステリオリなものです。
一方、「形式含意」は、その対比で、「無矛盾」であり、アプリオリなもの、として、ラッセルが提出したもの、と推察します。

三浦先生いわく・・・・・・・・・
P「aはクジラである」がQ「aは哺乳類である」を【形式的に】含意するかどうかは、すぐに決めることはできません。(これは論理学ではなく哲学の問題になります)
 ある可能世界には、哺乳類でないクジラがいるのかもしれません。
 いや、クジラは定義(語義)からして哺乳類なのだ、と言う人もいるでしょう。
 しかし、動物学のパラダイムが変わって、クジラは魚である、つまり哺乳類でないと認定される日がくるかもしれません。
 あるいは、クジラ全体でないにしても一部のクジラは哺乳類でない(たとえば爬虫類であった)ことが発見されるかもしれません。
・・・・・引用終了・・・・・・・・・・・・

と、三浦先生は、仰います。
私が推測するラッセルの「形式含意」とは、「クジラは定義(語義)からして哺乳類なのだ」という前提のときに成り立つ「概念的な形式の範囲内」の「形式含意」だと思うのです。
(「アプリオリに」とは、この場合、演繹的に知れる、という意味です。定義された事典的なルールに則って自動演算的に、知ることができる、という意味です。「現実はどうだろう」と調査する必要がない机上で知れる「概念」的な知の範囲。)
(但し、もちろん、学術的に「事典的な分類をして定義する」行為は、現実を調査して決めるものなので、この点までもアプリオリと言っているわけではなく、学者たちの真摯な営為による学術的な定義化によって、「いったん決定された定義には、形式概念的に従う」ということです。「事典を調べる」などの「机上概念範囲で知れる」という意味での「アプリオリ」と述べており、「生得的」という意味では、ここでは使用してはいません。)

ゆえに、「動物学のパラダイムが変わって、クジラは魚である、つまり哺乳類でないと認定される日」が来た場合には、「くじらは哺乳類に包含される」という従来の分類的な定義が破棄されて、「くじらは魚類に包含される」という新しい分類的定義が採用されます。
そのときには、「形式含意」の例題として、「クジラ⊃哺乳類」は不適切となり、
今度は、「クジラ⊃魚類」が「形式含意」の適切な例題となる・・・
こういうことが、「形式含意」なのではないか、と思うのです。

もし、このような「純粋に形式的で、無矛盾の含意」関係を「形式含意」と呼ぶのではなく、その他のこと(マテリアルな事情と認識に左右されるもの)を指すのであるなら、
「マテリアル含意が矛盾を孕む」のみならず、「含意」概念全体が矛盾を孕む、ということになってしまって、マズイのではないでしょうか。
ですから、いずれにせよ、「形式的無矛盾性に基づく含意関係」が「含意の基本形」として語られるべきだと思います。
それを、ラッセルが「形式含意」と位置づけたのではないでしょうか。


2 について。
上記のように「形式含意」を「無矛盾な形式性」に求めるならば、
「形式含意」については、

>どの行が「ありえない」ものとして始めから除外されるかは、具体的な命題ごとに考えねばなりません。

というようなことにはならず、
「形式含意」は、「一括してどれも同じ法則で振る舞う」
すなわち、
「形式含意の場合には、常に、<2行目の場合分け、P1Q0 は、付値関数の真理値割り当てとしては出力しない>」
として良いのではないでしょうか?
(もちろん、他の行に関しては、命題の具体的内容に依ります。)

具体的には、次のように考えます。

>P、Qの内容によっては、真理表の中で無駄な行が出てくるのは当然ですが、それをいちいち「行の除外」のような形で注釈するわけにもいきません。
除外できるかどうかが曖昧な場合がありますし。

しかし、「曖昧なケース」を「真理値割り当て作業」として、
どのように扱うことで「0か1」を割り当てると、お考えなのでしょうか?
「この部分のアルゴリズム」にて、「曖昧な部分」の「除外の可否」の真偽判断が下される、とお考えなのでしょうか?

付値関数によって、PQの真理値割り当ての組み合わせを「出力する」というアルゴリズムを念頭に置くと、上記の三浦先生の言葉には、違和感を覚えます。

P「aはクジラである」 Q「aは哺乳類である」

これについての、「真理値の割り当て作業」を考えると、
・「a=クジラ」のとき、「P=1、Q=1」です。
・「a=哺乳類」のとき、「P=0、Q=1」です。
・「a=クジラでも哺乳類でもない」とき、「P=0、Q=0」です。
・「a=クジラであるが哺乳類ではない特殊な生物」のとき、「P=1、Q=0」です。

となりますね。
で、確かに、マテリアルで具象的な可能世界において、
「a=クジラであるが哺乳類ではない特殊な生物」が「可能だと仮想される」ならば、
「P=1、Q=0」で出力されます。
この立場だと、「クジラ/哺乳類」のみならず、どんなケースでも、「とりあえず、こうした相反する組み合わせも可能だと想定」して、「P=1、Q=0」と、「割り当て実行」するのか?

しかし、形式界においては、どうでしょうか?
「クジラ」と呼ぶ「必要条件が哺乳類であることだ」と「形式的に定義する」なら、
可能世界で仮想される「クジラに似た哺乳類ではない特殊な生物」は、この場合、「クジラ以外の名」で呼ばれることになります。
なぜなら、「クジラと呼ぶための必要条件が哺乳類である事だ」と、ルールとして定義して決めた「そういう形式」だからです。
つまり、「クジラであること」と「哺乳類でないこと」が、定義形式的に、「形式矛盾を来しているもの」であるならば、
「a=クジラであるが哺乳類ではない特殊な生物」は、「定義形式的に有り得ない」ということになり、「P=1、Q=0」を割り当てることはできず、この行は出力しないことになります。

以上をまとめると、こうなります。
「形式含意」の場合、「P=1、Q=0」は常に「形式矛盾」となるので、この行(この組み合わせ)は出力されない。
(「出力されない」とは、0と1を割り当て段階で、自動的に、該当なしで、割り当て不能であるがゆえに、その組み合わせはスルーされ、自動的に排除される。)
このように、「形式的に」取り扱うのが、シンプルだと思いますが、どうなのでしょうか。

この問題は、微妙ですが、かなり「重大な差異」をもたらします。
「一体、何が偽となるのか?」その「偽」となる「対象」が全く違って来るからです。

「P=1、Q=0」を「有り得るもの」として、真理値割り当てを「した」あとで、
真理関数「⊃」の出力として、「偽」とするのか?
それとも、
「P=1、Q=0」という「この真理値の組み合わせ」を「形式的に有り得ないもの」として、「形式的な矛盾式」として(の偽)として、無視・スルーし、この部分の「真理値割り当て」自体を放棄すべきもの(という意味での偽)なのか?

三浦教授のお言葉を再度、みてみます。

>P.38で、場合分けのベン図を可能世界の集合に関するオイラー図に置き換えたのは、
 特定の真理値の組み合わせを無視すべきだ、ともとれる図になっており、たしかに誤解を招いたところがあったかもしれませんね。
(微妙なので、ほとんどの人にとっては関係ないでしょうが。)

「何」が「偽となる対象なのか」という意識で、三浦教授の言葉を再読してみると、
「(微妙なので、ほとんどの人にとっては関係ないでしょうが。)」
というようなことは、言えないのではないか、と思うのです。

P.38の図1は、ほとんどの人にとって、
「一体、何が偽となるのか?」その「偽」となる「対象」を「取り違えてしまう」または「混同してしまう」ような、
そういう図になっていて、しかもなお、その取り違え多発となる事態への注意喚起もない、
ゆえに、石飛女史ならずとも、多くの人が「有り得ないので偽である」という思考に陥りやすい、のではないか。

しかも、石飛女史の場合には、一度、真理値割り当てを「した」あとで、「有り得ないので偽である」とすることで、ベン図おける白い部分を「空集合」扱いして、この組み合わせの真理値割り当て自体をも、遡及的に、無にする効果までも、「偽である」という評価値に付与しています。
(出力値Fに、真理値割当「P1Q0」自体を空集合化する「過大な効果」「真理関数の出力値としては、有り得ない、否定効果」を付与している。)

しかし、「そういう読み方」が、「図1」だけだと、可能でもあるのですね。
また、それを促しているように受け取れないこともない、わけです。
ということで、やはり、この重要部分に関する「注意喚起がなされていない」のは、
三浦教授が、「⊃」において「何が偽となるのか?」その「偽」となる「対象」に対して、
メッサ意識が薄いことの証左ではないのかなあ? と感じている次第です。

如何なものでしょうか?

http://www.hannya.net/index.htm


Re: 学問について 投稿者:φ 投稿日:2013年10月24日(木)15時05分41秒
> No.3806[元記事へ]

tosyさんへのお返事です。

 物理学が時間の無駄なんてことは全くなく、
 ダーウィニズム的倫理に従えば、「究極理論の誇大妄想(あわよくば物理学は数学に還元される、のような)に囚われずに、環境記述としての慎ましやかな自覚をもって物理法則を追究すべし」ということになるのでしょう。

 たとえローカルな偶然的ゆらぎに過ぎないとはいえ、人間を取り囲む広範囲において現に成り立っているには違いない法則(に見える規則性)を、それなりに「必然性ではなく単なる事実として」克明に記述する、という態度でしょうね、求められるのは。


Re: 学問について 投稿者:tosy 投稿日:2013年10月24日(木)09時48分11秒
> No.3805[元記事へ]

φさんへのお返事です。

> tosyさんへのお返事です。

 論理学とダーウィニズムに関するご説明ありがとうございます。

 物理学や人間原理に関しても言及していただきありがとうございます。

 それでも、物理学科で落伍した私は現代物理を学ぼうとしてしまっているのですが・・・時間の無駄ですかね。

 とりいそぎ、お礼まで。


Re: 学問について 投稿者:φ 投稿日:2013年10月23日(水)18時36分3秒
> No.3801[元記事へ]

tosyさんへのお返事です。

 論理学は、論理学の方法に逆らおうとしても誰も逆らえない、という意味で、「模範とすべき」というより「模範とせざるをえない」という感じがします。
 なので、とりたてて論理学を強調する必要もないかと。
 論理学は、思想というより、学問そのものの前提なんですね。

 他方、ダーウィニズムは、最も重要な方法を代表しているにもかかわらず、それを無視しても学問が成り立ってしまう場合がある、だからとりわけ強調しなければならない、ということで、「一つ挙げるならダーウィニズム」なのでした。

 ダーウィニズムは、徹底した還元主義が特徴です。
 死せる物質界にはなかった生物特有の法則があるかのように見えても、実は盲目的な物理法則ですべて説明できるのだ、というのがダーウィニズム。
 徹底した反目的論、徹底した偶然論です。

 物理学でいうならば、
 必然的に特定の究極法則が成立している、というのが伝統的な物理学ですが、
 ダーウィニズムの拡張である人間原理では↓こう考えます。
 「人間のような観測者がたまたま出現した環境では、観測者の進化を可能にする物理条件が成立していたのは当たり前。そんなローカルな偶然を、全実在に当てはめようとするのは、まったくもって自己中の極み。自分の周辺でたまたま成り立っていた「物理法則らしきもの」を「必然的な物理法則」と信ずるなんて、宗教的信仰にすぎない」

 生物学特有の法則が無かったのと同様に、必然的な物理法則なんか無いだろう、というのが人間原理。
 無い可能性の高い「究極法則」を、あるかのように妄想して追究するのはそろそろやめ時である。物理学も単なる環境科学(地理学のような)であることをそろそろ認めた方がいい。

 ……ダーウィニズムの延長であるこの線にこそ、科学と哲学の未来があるでしょう。


Re: 「実質含意のパラドックスとクジラ文」 投稿者:φ 投稿日:2013年10月23日(水)18時12分8秒
Hatrickさんへのお返事です。

>
> 三浦先生のご本においても、
> ベン図で、PQ(1、0)エリアが、「有り得るケース」として「偽」になるものと、
> PQ(1、0)エリアは、「有り得ない」として「行数として出力されず」、よって「全3行」の真理値表となり、出力値が、トートロジーになるもの、との差異を指摘して頂き、
> 「両者を混同してはならない」
> と記述があれば、よかったのになあ、そうであれば、
> 「石飛ブッダ論理学」は生成されなかったかもしれない、
> という思いがよぎるのです。
>

 真理表の命題型の範囲を狭めて
 P「aは9の倍数である」
 Q「aは3の倍数である」
 とした場合、

 PQ P⊃Q
 11  1
 10  0
 01  1
 00  1

 このP、Qに関する限り、2行目に相当する組み合わせはありえませんね。
 しかし、そうであっても、
 2行目のPQの組み合わせはありえないから(そういう可能世界はないから)除外しよう、というのはまずいやり方でしょう。

 真理関数が、どのパターンによって真(または偽)となるのかは具体的な命題ごとに異なります。
 たとえば、PとQが同じ命題(正確には命題型)「aは人間だ」であれば、可能性は2行だけとなるし、
 PとQが互いに矛盾した命題(正確には命題型)であっても2行だけとなります。
 また、PとQがともに「aは最大の素数である」なら、1行だけとなります。
 P「aは最大の素数である」Q「aは奇数である」なら、2行だけとなります。

 どの行が「ありえない」ものとして始めから除外されるかは、具体的な命題ごとに考えねばなりません。
 ∨や∧の真理表でも同じことが起こります。したがって、P、Qとして採られた命題ごとにありえない行(組み合わせ)をいちいち除外して考える、などということは煩雑で、理論的にも無意義です。

 P.38で、場合分けのベン図を可能世界の集合に関するオイラー図に置き換えたのは、
 特定の真理値の組み合わせを無視すべきだ、ともとれる図になっており、たしかに誤解を招いたところがあったかもしれませんね。
(微妙なので、ほとんどの人にとっては関係ないでしょうが。)

 図1は、決して、左のベン図における白い部分を、形式含意の場合には無視すべきだ、という意味ではありません。可能世界の集合の包含関係で捉え直すと、右図のようになる、という、イメージ図としての説明なのでした。

 P、Qの内容によっては、真理表の中で無駄な行が出てくるのは当然ですが、それをいちいち「行の除外」のような形で注釈するわけにもいきません。
 除外できるかどうかが曖昧な場合がありますし。
 実際、
 P「aはクジラである」がQ「aは哺乳類である」を【形式的に】含意するかどうかは、すぐに決めることはできません。(これは論理学ではなく哲学の問題になります)

 ある可能世界には、哺乳類でないクジラがいるのかもしれません。
 いや、クジラは定義(語義)からして哺乳類なのだ、と言う人もいるでしょう。
 しかし、動物学のパラダイムが変わって、クジラは魚である、つまり哺乳類でないと認定される日がくるかもしれません。
 あるいは、クジラ全体でないにしても一部のクジラは哺乳類でない(たとえば爬虫類であった)ことが発見されるかもしれません。

 というわけで、可能世界の集合を描いた図1右のオイラー図は、P「aはクジラである」とQ「aは哺乳類である」の間には成立しないでしょう。(現実世界の現時点で、個体の集合については図1右は成り立つかもしれないが)

 付言すると、クジラの動物学的分類と同じことが、数学的命題についても起こりえます。
 数学はときどきとんでもない転換を起こすことがあるようで(公理が否定されたり)、
 「aが9の倍数であるならばaは3の倍数である」はトートロジーとは限りません。
 真理表のように命題論理の話をするときは、「トートロジー」という認定は、命題論理の恒真式に限定するのが無難でしょう。

 (なお、別の誤解についてですが、命題の含意関係P⊃Qが集合の包含関係P⊂Qで表わされており、記号では逆向きとなることが混乱のもとになっていることを読者からの質問で知り、『論理学がわかる事典』pp.154-155『本当にわかる論理学』pp.115-117ではその説明を書きました。)


Re: 「実質含意のパラドックスとクジラ文」 投稿者:Hatrick 投稿日:2013年10月23日(水)01時06分26秒
> No.3800[元記事へ]

φさんへのお返事です。

三浦俊彦教授へ

返答ありがとうございます。
私が述べたかったことを 簡潔にまとめると、次のようになります。

「論理学入門」(三浦俊彦著)の38ページから39ページにかけて、
P38<図1>では、左側に、ベン図で、PQの(1、0)が「F」であることが、空白で示されています。
右側では、オイラー図で、Q円内にP円が包含されています。
P39では、「P⊃Qがトートロジーであるとき、PはQよりも強いという。」「P⊃Qが真であることと、トートロジーであることを混同してはならない」
とあります。
この点の注意喚起は、とてもグッドです。
しかし、「⊃」におけるベン図で、PQの(1、0)が「F」(空白)で示したものと、オイラー図で、Q円内にP円が包含されている図についての、「両者の真理値表の行数の差異」について、注意喚起がなされていないので、極めて、誤解を生みやすくて、わかりにくくなっている、という点です。
実際、石飛女史は、三浦先生のこの部分の記述を読んで、その誤解が元になって、「石飛ブッダ論理学」を着想した可能性が高いように思います。

ラッセルが示した「形式含意(Formal implication)」では、前件と後件に同じ変数が入る場合「xが9の倍数である ならば、xは、3の倍数である」
などがそれになります。

「これ(x)がクジラである」 ならば 「これ(x)は哺乳類である。」
というような「前件・後件に同一の変数」が入った「形式含意の例題」の場合、
真理値表の出力パターンは、通常の(縦書きの場合)4行パターン(1011)ではなく、全3行の(111)になります。
つまり、2行目の偽が、行数として出力されません。

「マテリアル含意」の例題の場合なら、
「これ(x)は、アルミニウムである」 ならば 「これ(y)は、みどり虫である」
となって、ベン図において、PQ(1、0)エリアが、「有り得るケース」として「偽」になります。
しかし、「形式含意」の「クジラ・哺乳類」例題の場合には、PQ(1、0)エリアは、「有り得ない」として「行数として出力されず」、よって「全3行」の真理値表となり、出力値が、トートロジーになります。

三浦先生のご本においても、
ベン図で、PQ(1、0)エリアが、「有り得るケース」として「偽」になるものと、
PQ(1、0)エリアは、「有り得ない」として「行数として出力されず」、よって「全3行」の真理値表となり、出力値が、トートロジーになるもの、との差異を指摘して頂き、
「両者を混同してはならない」
と記述があれば、よかったのになあ、そうであれば、
「石飛ブッダ論理学」は生成されなかったかもしれない、
という思いがよぎるのです。

石飛女史から論理学を教わった人々は、全員、おそらく、
ベン図で、PQ(1、0)エリアが「偽」と出力されると、ここが「偽の空集合」になって、PQ(1、0)エリアが遡及的に自動消滅して、「P⊃Qが恒に真になるオイラー図」へと変形する、
というような説明を受けており、それを信じ込んでしまっているようなのです。
それを示したものが、彼女の著書にある「クジラ文の2行目の解説」における
「有り得ないので偽である」
というセリフです。

「クジラ文の原文」は、これです。
************************************************
> 「ここは一つ、実例で説明したい。真理表5の含意「PならばQ」にあてはまる実例として、「これがクジラであるならば、これは哺乳類である」をあげてみよう。Pに「これはクジラである」を入れ、Qに「これは哺乳類である」をいれるとできあがる文である。これは私たちの世界では文句なく成り立つ。」
> 「実際にクジラを指して、こう言うなら、真理表5の1行目に相当し、この文は真である。そして、真理表5の2行目の場合は、クジラであって哺乳類でないことはありえないので偽である。」(『ブッダと龍樹の論理学』P.37)
*******************************************************

「2行目の場合は、クジラであって哺乳類でないことはありえないので偽である。」
と述べることによって、彼女は、
ベン図の、PQ(1、0)エリアが「偽の空集合」になって、このエリアが遡及的に自動消滅して、「P⊃Qが恒に真になるオイラー図」へと変形する、
という説明をしているのです。

これは、三浦先生の書物の38ページの「ベン図とオイラー図」の移行の矢印
を、彼女なりに説明している「つもり」なのだろう、と、推察することができるのです。


http://www.hannya.net/index.htm


学問について 投稿者:tosy 投稿日:2013年10月22日(火)17時08分39秒
 tosyです。
 φさんのサイトに、

>◆学問について
>すべての学問が模範とすべき思想を一つだけ挙げねばならないとしたら、どうやらダーウィニズムである。
http://russell-j.com/i-believ200602.htm

とありますが、私は最近、
「~論理学である。」
と思うようになりました。
 簡単に言えば、(自然)科学であれ、哲学であれ、論理は必要だからです。
 そこで、ちょっと解説を頂けると助かります。
 私の場合、主語が「思想」になると、ちょっと支離滅裂かもしれませんが、
思想を「方法」というように置き換えて読んでいます。
φさんの場合、主語は「思想」となっていますが、もう少しφさんの信条を説明して頂くことはできないでしょうか?
#信条に説明は不要?

 よろしくお願いします。


Re: 「実質含意のパラドックスとクジラ文」 投稿者:φ 投稿日:2013年10月18日(金)23時55分4秒
> No.3799[元記事へ]

Hatrickさんへのお返事です。

 リンク先をざっと見てみましたが、リンク先のリンク先など、大量の文章を読まねばならないようで、もう少し整理していただかないと、正直コメントはしづらいです。
 そもそも1行目とか3行目とか言われても何のことかわからず、ここを見ている方々にもわからないと思うので、しかるべき箇所を引用していただければ助かります。

 真理関数については、そんな議論するようなことは無いので(算数の四則演算について議論するようなものです)、あまりエネルギーを使わない方がいいですよ。認識が確かな人が相手なら別ですが。

 http://8044.teacup.com/miurat/bbs/3783
 ですでに述べたことに尽きますね……


「実質含意のパラドックスとクジラ文」 投稿者:Hatrick 投稿日:2013年10月17日(木)23時19分11秒
三浦俊彦先生へ
こんにちは。お元気にお過ごしでしょうか?
このたび、「石飛道子女史の掲示板」にて、「実質含意のパラドックス」について、論じてみました。
あちらでは、「パザパ論理学」高校生にもわかる「真理値表の哲学」と銘打って、
三浦先生が、「文字も読めないレベル」と評する、その真意について、解き明かす、という意図で、「パザパ論理学」講義をはじめました。
今回の「第12回」において、「石飛女史が語る ⊃の例題クジラ文」の是非が争点になっております。
この回での内容は、私の思索の結果であり、同じことが書いてある論理学の教科書があれば、ご紹介いただければ、ありがたいです。
または、私の思索と論理展開で、論理的に間違っている箇所があれば、指摘していただければ、訂正いたします。
ご指摘いただければ、とてもうれしいです。
イストラン氏も「悩んでいた」部分ですので、論理学を学ぶ大学生の人々にとっても、
「良い教材」になるのではないでしょうか。

一読して、評価をしていただければ、ありがたいです。

「パザパ論理学」第12回 「実質含意のパラドックスとクジラ文」
http://manikana.o.oo7.jp/majikana/majikana.cgi?
↑なお、このリンクは、この掲示板の過去ログに行くと、リンク切れになります。ご了承ください。


「レヘム総研」碧海龍雨
http://www.hannya.net/index.htm


Re: ミルの功利主義について 投稿者:φ 投稿日:2013年10月 9日(水)00時29分7秒
riumさんへのお返事です。

 ミルの死刑支持は、Peter Singer編のApplied Ethics (Oxford Readings in Philosophy)に収録されているのを読みました。
 ベンサムについては知りません。ベンサムは死刑反対ですか。

 「善」の定義として正しいのが功利主義であるのは当たり前だと私は思っているのですが、
 サンデルの白熱教室では功利主義は冷たい扱いをされていましたね。
 あれは「正義」がテーマだからちょっとズレるのかもしれませんが、
 原点に帰れば「功利」がすべての源であり、善なる概念の存在理由を説明できるのは功利主義だけでしょうね。


ミルの功利主義について 投稿者:rium 投稿日:2013年10月 8日(火)03時01分14秒
功利主義についてお聞きしたいことがあります。
ミルは、功利主義の観点から死刑に賛成していたそうですが、それはどの本で述べられているのでしょうか。(「自由論」ですか……?)
また、ベンサムは、功利主義から死刑に反対していたようですが、それもどの本に書かれているのか、もしご存知でしたら教えていただけると嬉しいです。

最近、「功利主義」について勉強しようと思うのでお願いいたします。


世界と物 投稿者:ドミンゴ 投稿日:2013年 9月30日(月)17時48分13秒
φさんへのお返事です。ご回答ありがとうございます。

  「中論」で、「世界」は詳しく論じられていません。私見としては、

  『 F 世界は、抽象物を部分とする抽象物である。』が龍樹の見解か、と思います。

    なお、具体物-本質を持った実体-実念論

       抽象物-単に(共通な)名称-唯名論:部分・成分より構成されている。

       世界-部分・成分より構成されている。世界は本質を持つ実体ではない。

       結局、世界、抽象物は「素粒子・エネルギー」で構成されている。

       第一義諦では、世界も抽象物も存在しない。「不可思議な何か」は存在する

       が、存在と呼べる物はない。存在する物は「陽炎」のようである。

     ただし、一元論ではない。一元論では「もの」は本源から直接に生じる。

       一方、「龍樹の空」においては、原子、分子、部分、全体と段階的に生じ、

       しかも、「原子、分子、部分、全体」は本体としては生じない。

       これらは言葉で表されているが、元々存在しない。「元々存在しないもの」

       を否定するので、「空」は虚無論ではない。


http://ww4.enjoy.ne.jp/~okano11/


Re: 「もの」について 投稿者:φ 投稿日:2013年 9月30日(月)05時29分37秒
> No.3791[元記事へ]

ドミンゴさんへのお返事です。


 『論理学入門』94頁周辺に絡めて言うと、

 世界(およびその内容物)を具体的物体と捉えるのか、抽象的対象と捉えるのかによって、論理が異なってくるように思われます。

 世界と内容物のとらえ方が違っていてもよいので、大まかに次の6通りあることになります。

 A 世界は、具体物(と抽象物)を要素とする抽象的集合である。

 B 世界は、具体物(と抽象物)を部分集合とする抽象的集合である。

 C 世界は、具体物(と抽象物)を部分とする具体物である。

 D 世界は、抽象物を要素とする抽象的集合である。

 E 世界は、抽象物を部分集合とする抽象的集合である。

 F 世界は、抽象物を部分とする抽象物である。

 このうち、どの世界観をとるかによって、論理がガラッと違ってくるでしょう。

 我々が「不可思議な世界に住んでいる」という意味合いも、それに応じて重みが違ってくるでしょう。

 『中論』は、A~Fのうち(あるいはそのほか)、どの世界観を前提しているのか、あるいは導いているのか、ハッキリした解釈は可能でしょうか?


「もの」について 投稿者:ドミンゴ 投稿日:2013年 9月29日(日)14時56分18秒
 三浦先生

 初めまして。

 貴著「論理学入門」、94頁の以下の記述を見て、私見についての御見解をお願いします。

 「この現実世界の物たち---私やあなたや東京タワーもみな個体ではなくそれ自体集合

 (おそらく最小基本粒子を要素とする集合)、すなわち抽象的なものという多少奇妙なことに

  なるのである」

  上記の記述は、龍樹「中論」における「空」の解釈に密接に関係しています。

  私見による「物の空」について、以下に述べますので、コメントを戴ければ幸いです。

  「龍樹による空:

   1.部分から全体(本体)は生じない。

     布は糸から生じない。通常、糸が集まって、ものを包む等の性質を持つ布が生じる

     と考えるが、実際には布は糸の集まりであって、糸と別に、本体(実体)としての

     布は無い。糸も麻から生じるが、本体としての糸は無い。同様に、麻も無い。

    2.したがって、「もの」はその成分よりなるが、「もの」の本体は捉えることが

     できない。こうして考えると、物、部分、分子、原子、素粒子等も、本体としては

     捉えることができない。これらの本体は人間の認識能力、言葉などによって仮設

     されたものである。

    3.素粒子は、波と粒子の性質を持つなど実体ではない。また、エネルギーと

      相互変換する。

    4.「もの」は、「素粒子・エネルギー」からなると言える。

      我々はこのような不可思議な世界に住んでいる。」

    と考えます。コメントなど戴ければ幸いです。


http://ww4.enjoy.ne.jp/~okano11/


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Re: 死刑の利益とは? 投稿者:φ 投稿日:2013年 9月26日(木)16時47分15秒
> No.3789[元記事へ]

riumさんへのお返事です。

>
> >現代の日本という社会的環境では、死刑制度が正しい(利益を生む)のは、自明だと私は思っています。
>
> とおっしゃっていましたが、日本の「死刑の利益」というのはどのようなものでしょうか?
>

 日本は、世界標準から見て、国民が持つ価値観が共通している度合いが高いと思われます。教育的到達度も一定レベルがほぼ保証されている。
 多数の民族が共存していたり、価値観の相違や教育程度の格差が大きい社会では、凶悪犯罪の理由をそれなりに斟酌せねばなりませんが、日本のような等質な社会では、あえて和を乱す者への咎めの感情は強いと思います。
 社会の現状を維持するには、同質な社会は、刑罰を厳しくすることで対処せざるをえないというわけです。政治的にというより、倫理的に。

 ただし、比較的軽い犯罪については刑罰以外の手段で防止することが政治的に望ましいので、日本もそうなっていると思います(かつて犯罪だった多くの行為が違法でなくなっているし)。ところが、重大な犯罪については、犯罪者自身がよほどの心理的抵抗を乗り越えないと実行できないはずなので、その抵抗を乗り越えて同質社会を攪乱した者は、それなりの報いを予め覚悟しているはずだ。そういう前提を日本のような均質社会では設けやすいのだと思います。

>
> >「極悪犯罪はあるまじき行為であり、それが実行されたなら倫理的不可能性が実現したということで、何でもありになる」という論理は成り立つでしょう。
>
> とのことですが、「人を殺した者には、何をしてもよい」というのが、論理的に成立するということでしょうか? なぜなのか、具体的に論証内容を教えていただけると幸いです。(もしくは三浦先生が死刑について言及した著書があるようでしたら、購入して勉強したいと思いますので、紹介していただけたらと思います)
>

 一般に、Pが矛盾命題であるとき、任意の命題QについてP⊃Qは真ですね。
 「みんなが仲良しである社会で勝手に保険金をかけて私欲のために人を殺す」なんてやつがいたら、倫理的理想世界の論理法則を破っているので、なんでもありになる。だからといって核戦争もOKというのは現実的でないので、殺人者本人の身に起こることに限ってなんでもあり、という実践的理屈です。

 だから、保険金殺人のような言語道断なことをする者には、ほんとは拷問してもいいわけです。あらかじめ法律に定めてあって、犯罪者もそれを承知した上で犯行に及ぶということであれば。

 死刑についてはまとまったことは私は書いたことがないと思います。
 『論理パラドクス』の第90問が「死刑廃止論」ですが、そこで述べたのは、最近この掲示板に書いたこととほぼ同じことでした。

>
> ところで、「論理学入門」についてですが、「霊が存在しないこと」は論理的に証明可能なのでしょうか?
>

 霊現象らしきことが起きても、本当は霊ではなく、他の解釈が正しいという事前確率の方が圧倒的に高いので、何が起きても霊は認められないでしょうね。事前確率があまりに違いすぎるので、ベイズ改訂をしても、とうてい追いつかないでしょう。
 たとえば、霊媒が死者しか知り得ないことをべらべら喋っても、密かに調査した結果を喋っているとか、特殊な科学技術で探知したとかいう仮説の方が、心霊仮説よりも真である事前確率が圧倒的に高いため、霊媒の語りも常にその線で解釈されてしまいます。
 テレパシーなどの超能力も同様です。手品や錯誤とする仮説の事前確率の方が比較にならないほど高い。

 現代科学が物理主義に即している限り、心霊仮説が他の科学的仮説より高確率で確証される望みはほぼゼロでしょう。
 そもそも霊とは何なのかが学問的に定義されていないことを考えると、心霊仮説が正しいと検証される確率は厳密にゼロであるとも言えます。
 ヒッグス粒子や重力子のように、霊やテレパシー、透視などが「ある」と考えれば効率的に解けるような謎が一つでもあれば別ですが、その種の謎は現代科学の地図に存在しないので、心霊仮説やテレパシー仮説は趣味の域を出ることができず、他の仮説によって容易に凌駕されてしまうわけです。単に経験的にでなく論理的に。
 以上は方法論的なことですが、形而上学的な心霊仮説否定については、
http://russell-j.com1/kakuritu.pdf
 をご覧いただければと思います。


死刑の利益とは? 投稿者:rium 投稿日:2013年 9月26日(木)00時29分13秒
死刑について質問させていただきます。

以前、

>現代の日本という社会的環境では、死刑制度が正しい(利益を生む)のは、自明だと私は思っています。

とおっしゃっていましたが、日本の「死刑の利益」というのはどのようなものでしょうか?

また、
>「極悪犯罪はあるまじき行為であり、それが実行されたなら倫理的不可能性が実現したということで、何でもありになる」という論理は成り立つでしょう。

とのことですが、「人を殺した者には、何をしてもよい」というのが、論理的に成立するということでしょうか? なぜなのか、具体的に論証内容を教えていただけると幸いです。(もしくは三浦先生が死刑について言及した著書があるようでしたら、購入して勉強したいと思いますので、紹介していただけたらと思います)


ところで、「論理学入門」についてですが、「霊が存在しないこと」は論理的に証明可能なのでしょうか?

一気に、いろいろな質問をして申し訳ないのですが、可能な範囲で教えていただいたいと思います。


Re: ヒュームの法則について 投稿者:φ 投稿日:2013年 9月25日(水)18時16分40秒
白さんへのお返事です。

罰金刑は「違法性が阻却されるべき強盗」、逮捕は「違法性が阻却されるべき拉致」ですしね。


Re: ヒュームの法則について 投稿者:白 投稿日:2013年 9月23日(月)19時58分25秒
> No.3786[元記事へ]

誤 「阻却されるべきではない監禁」
正 「阻却されるべき監禁」

何度も失礼いたしました。


Re: ヒュームの法則について 投稿者:白 投稿日:2013年 9月23日(月)19時51分25秒
φさんへのお返事です。

丁寧なご回答、ありがとうございます。

「違法性が阻却されるべきでない殺人」ですね。
「死刑は人殺し」と言われる場合、そこには倫理的非難が含まれている。
実に私の国語力の問題で、やはり頓珍漢な意見でした。

「違法性が阻却されるべきでない監禁」は「拘留」「懲役」であると考えると、しっくりくる気がしました。


Re: ヒュームの法則について 投稿者:φ 投稿日:2013年 9月23日(月)03時39分37秒
> No.3784[元記事へ]

白さんへのお返事です。


>
> 私は「死刑は人殺し」という表現に何の違和感も覚えません。
> 先生のおっしゃる「殺人性」とは具体的にはどういったことでしょうか(どこかでお書きだったら申し訳ございません)。たとえば正当防衛での殺人(?)のような場合は、「殺人性」はゼロになるのでしょうか。
>
> 手元の辞書で「殺人」は「人を殺すこと」としか書かれていません。これだけだとどうしても「死刑」は「殺人」から除外できません。
>

 「傷害」は、辞書で「傷つけること。けがをさせること」とありますが、外科手術は傷害でしょうか。
 健康診断で注射針を刺すのは。
 処女を相手にしたセックスは。
 マッサージは毛細血管を傷つけるが、傷害なのか。
 ちなみに傷害罪は親告罪ではないので、本人の同意があっても(本人の告訴がなくても)公訴することができます。

 辞書は一般的な定義が書いてあって、阻却事由は個別に定められるということですよね。
 倫理的な意味での「傷害」や「殺人」は、辞書的な語義とは違うと思われます。違法性が阻却されるべきでない殺人、とか。

 正当防衛や緊急避難は、違法性が阻却されますね。
 生体移植は健康な人を傷つけ、死亡例も少なくありませんが、傷害罪に問われませんね。緊急避難であるという理屈ですが、拡大解釈すぎますね。私は個人的には、生体移植は売春やドラッグや死刑に比べるとはるかに倫理的な問題ありだと思うのですが、なぜか社会的に容認されています。

>
> 1.被殺人者の意思に反していること
> 2.被殺人者以外の利益のためであること
>
> 安楽死などの自殺幇助は1に反するので殺人ではなく、過失致死は2に反するので殺人ではない。ただ、やはり死刑は除けません。
>

 過失致死が2に反する「ので」殺人でない????? 繋がりが不明ですが。

 とりあえず自殺幇助はまずいでしょうねぇ。本人の自殺の意思が、錯誤や心神耗弱によって生じた場合もありますしね。自殺未遂者の多くが「あのとき死ななくてヨカッタ」と振り返ることがあるのを見ても、自殺幇助はまずいと思います。
 私は、個人的には、自殺を違法と定めるべきだと考えるのですが。厳罰である必要はありませんが、現行の売春防止法に相当する自殺防止法くらいはあってよいような。
 (ちなみに、売春防止法のような典型的ザル法は、法律の軽視を招くので廃止すべきでしょう。)

>
> 死刑に「殺人性」が無いとしなければならない、論理的な要請があるのでしょうか。
> 「許される殺人」ということになり、矛盾が生じる、ということになるのでしょうか。
> 殺人によってより多くの殺人を抑制できるという意味で、死刑は「国家による正当防衛」と捉えたら良いのではと、私は思います。
>

 間接自殺志願者もいますから、死刑が正当防衛になっているかどうかは不明ですね。
 少なくとも、「極悪犯罪はあるまじき行為であり、それが実行されたなら倫理的不可能性が実現したということで、何でもありになる」という論理は成り立つでしょう。保険金殺人のようなあるまじき行為に対しては、拷問による死刑であってもかまわないわけです。

 拷問による死刑が認められれば、間接自殺志願者による大犯罪もなくなりそうですね。死刑を望むやつはいつの世にもいるでしょうが、拷問死を望むやつはいないのでは。よほどのマゾヒストであっても当てはまらないでしょう。

 ただし、拷問が合法化されると、たとえ対象が極悪人に限定されているとしても、「国家により拷問がなされることを国民が黙認している」という意識が広まり、社会の倫理意識が劣化するかもしれません。それは弊害があるでしょう。死刑に反対する人たちは、そういう「気持ち悪さ」を訴えているのかもしれませんね。

 しかしそれだったら、死刑より先に生体移植に対して反対を唱えるべきだと思います。生体移植の現実は、美しい家族愛とかそういうものばかりではなく、周囲からの「家族なんだから当然だろ」というプレッシャーも大きいですからね。倫理的に問題です。


Re: ヒュームの法則について 投稿者:白 投稿日:2013年 9月23日(月)01時37分11秒
φさんへのお返事です。

先生とriumさんのやりとりがどうしても気になってしまったので投稿いたします。


>  私も、死刑は人殺しではないと思います。
>  冷静な無差別殺人、誘拐殺人、保険金殺人のような、情状酌量の余地のない犯罪に対しては、極刑が下される、という決まりに、何の「殺人性」もありません。
>  死刑のような極刑の存在は、「極悪犯罪は許さない」という社会の決意を証明するものであり、人の命を尊重する証しでこそあれ、人殺しの容認などということは決してありません。


私は「死刑は人殺し」という表現に何の違和感も覚えません。
先生のおっしゃる「殺人性」とは具体的にはどういったことでしょうか(どこかでお書きだったら申し訳ございません)。たとえば正当防衛での殺人(?)のような場合は、「殺人性」はゼロになるのでしょうか。

手元の辞書で「殺人」は「人を殺すこと」としか書かれていません。これだけだとどうしても「死刑」は「殺人」から除外できません。考えて、二つの要素を追加で盛り込んでみました。

1.被殺人者の意思に反していること
2.被殺人者以外の利益のためであること

安楽死などの自殺幇助は1に反するので殺人ではなく、過失致死は2に反するので殺人ではない。ただ、やはり死刑は除けません。もちろん、「3.但し死刑は除く」とあれば問題なさそうですが、独裁国家の粛清などを考えると…

死刑に「殺人性」が無いとしなければならない、論理的な要請があるのでしょうか。
「許される殺人」ということになり、矛盾が生じる、ということになるのでしょうか。
殺人によってより多くの殺人を抑制できるという意味で、死刑は「国家による正当防衛」と捉えたら良いのではと、私は思います。


頓珍漢な意見になっていたら申し訳ございません。


>  メリット・デメリットを比較考量して、デメリットのほうが大きければ、その結論として死刑を廃止すべきでしょう。
>  非人道的だとかそういう間違った理由で廃止すべきではありません。


上に、全面的に同意いたします。


Re: 「ブッダのトーク論理パターン学」ではどうでしょうか? 投稿者:φ 投稿日:2013年 9月16日(月)17時30分42秒
> No.3782[元記事へ]

Hatrickさんへのお返事です。

>
> 「ブッダが説法で使用している論理パターンの全●個を列挙しま~す」
> ということだと思うのです。
> 数えれば、わかるけれど、
> 「ブッダが説法で使用した論理パターン全●●個」ということです。
>

 真理関数のすべてのパターンに名前を付けて専用の記号も作りたければ、そりゃ自由ですよね。

さしあたり、命題2個の16通りについては
http://en.wikipedia.org/wiki/Truth_function
の図は参考になるんじゃないでしょうか。

ほとんど使われないとはいえ、
Converse implicationにもとっくに専用記号があること(←や⊂)を確認いただければと思います。
 (http://russell-j.com/miurat/murikai-logic.pdfの11,12,13ですでに言ってきたことですが)

 お好みなら、命題3個、4個、5個、……に応じて、何万通りでも新しい記号を作っていけばいいですね。
 (P∧Q)∨R を  #(P、Q、R) と書くとか。

 発見法としては役立つこともあるかもしれませんが、理論的には無価値です。
 そういう退屈な作業を「新しい論理」だなどと思い込むのは誇大妄想だ、ということに尽きますね。

 多値論理やパラコンシステント論理など、もっと逸脱的な論理をいじってみる方が有意義だと思われます。


「ブッダのトーク論理パターン学」ではどうでしょうか? 投稿者:Hatrick 投稿日:2013年 9月16日(月)12時29分23秒
以下のような意見を石飛掲示板に貼ったので、こちらにも、三浦先生のご意見を伺いたいと思い、貼り付けさせていただきます。

>
> あおみさんは、真理表においての自動演算は無理、ってことをおっしゃりたいのかな、と、思いました。
(エム先生も、自動演算には否定的なんじゃないかなぁ、とも思いました。)
>

返信ありがとうございます。
石飛女史は、最初、ブッダ論理学は、コンピュータにも入れられるんじゃないか、と言っていました。
その意味が、自動計算できないものを、入れる、っていうこと?
普通、一般的には、システム・エンジニアが、
自動計算できるソフトを入れるんですが・・・ね。(笑)

っていうか、私思うのですが、
石飛女史の「ブッダ論理学」って、「論理学」ではなく、
「ブッダが説法で使用している論理パターンの全●個を列挙しま~す」
ということだと思うのです。
数えれば、わかるけれど、
「ブッダが説法で使用した論理パターン全●●個」ということです。

こうしたパターンは、コンピュータに入れられます。
たとえば、105ページ「ブッダと龍樹の論理学」にある「表12」をみると、
真理表9番目の(真・真・偽・真)=(1101)の解説がありますね。
PとQに、次のような言葉を入れています。

P                Q        → 答え
感受は楽である(真) とき  感受は苦である(偽)  ゆえに、感受は楽である。
感受は楽である(偽) とき  感受は苦である(真)  ゆえに、感受は苦である。
感受は楽である(真) とき  感受は苦である(真)  ゆえに、同時は成り立たない。
感受は楽である(偽) とき  感受は苦である(偽)  ゆえに、感受は楽でも苦でもない。

以上のような論理が眠っている、(裏の構造としてある)からこそ、
「大縁経」では、
「楽である感受、また、苦である感受、また、楽でも苦でもない感受がある」
という説法になるのですよ、
これ、石飛道子の大発見ですわよ、というお話です。

まあ、ツッコミどころとしては、3番目の楽と苦は同時に成立しない、ということですが、快楽と苦痛を類似的に、又は同種のものとして感じる人もいるということですがね。

そして、ツッコミどころ2番目は、PとQの間を「とき」と、私は入れましたが、
石飛道子女史の本では、そうなっていません。むしろ「かつ(且つ)」の意味であるような使用法をしています。

どういうつもりなんでしょうかね?

まあ、それは置いておくとして、上記のパターンをコンピュータに入れたら、
どのように使えるでしょうか?

コンピュータで人工知能で喋るというとき、
スイッチ・オン・・・・・ソフト起動。
「これから、ブッダ論理パターンを使用して、喋ります」
という感じになるでしょう。
コンピュータが喋ります。

「きのこちゃんの在り方としては、
夫を愛しているきのこちゃん、また、夫を憎んでいるきのこちゃん、また、夫を愛してもいないし、憎んでもいないきのこちゃん、の3通りが有り得ますです。」
「また、
産んだ子供を愛しているきのこちゃん、また、子供を憎んでいるきのこちゃん、また、子供を愛してもいないし、憎んでもいないきのこちゃん、の3通りが有り得ますです。」
「また、
旦那さんと離婚しようと考えているきのこちゃん、また、旦那さんと離婚したくないと考えているきのこちゃん、また、旦那さんと、離婚しようとも、離婚したくないとも考えていないきのこちゃん、の3通りが有り得ますです。」
「また、
スマナサーラ長老を尊敬しているきのこちゃん、また、スマナサーラ長老を軽蔑しているきのこちゃん、また、スマナサーラ長老を尊敬もしていないし、軽蔑もしていないきのこちゃん、の3通りが有り得ますです。」

まあ、こんな感じになるでしょうか?

それなりに、使えるっちゃあ、使えるかもねっ!(笑)
理屈っぽいしゃべりになって、きっと、このコンピュータ、嫌われるかもね。

まあ、そんなことを考えると、
「石飛ブッダ論理学」は、「論理学」ではなくて、

「ブッダのトーク論理パターン学」と名称変更すれば、生き残れるかな?

と、愛情を込めて、アドヴァイスしてみようかな?

どうでしょう、このアイデアは?
http://www.hannya.net/index.htm


Re: 博論執筆予定者より質問 投稿者:telele 投稿日:2013年 9月15日(日)19時32分45秒
> No.3780[元記事へ]

φさんへのお返事です。

ありがとうございました。


Re: 博論執筆予定者より質問 投稿者:φ 投稿日:2013年 9月15日(日)17時17分21秒
> No.3779[元記事へ]

teleleさんへのお返事です。

>
> ウェブサイトにあるアドレスに大学から送信しても、送り返されてしまいます。
> どのようにご連絡を取ればいいのでしょうか?
>


 ブログのコメント欄
 たとえば
 http://green.ap.teacup.com/miurat/3609.html#comment59631 のコメント欄にある
 署名 φ  をクリックすれば、私のメールアドレスに送信できます。

 ・・・・・・・・・・・

 このteacupの掲示板、以前は
投稿者のメール欄リンクがあったのですが、
 今、その欄が消滅していますね。
 プレミアム版じゃないとその機能が付かなくなってみたいです。
 どうしてサービスが後退したのかな?

 (全く使わない携帯電話に月々二千七千いくら払っている現状に鑑みて、月々その1/10以下で掲示板のバージョンアップくらいするべきなのでしょうが……)


博論執筆予定者より質問 投稿者:telele 投稿日:2013年 9月15日(日)16時19分43秒
某大学院で、様相の形而上学を研究している者です。

現在、博論の準備をしていて、様相実在論に関して、三浦先生にいくつか質問があるのですが、
ウェブサイトにあるアドレスに大学から送信しても、送り返されてしまいます。

どのようにご連絡を取ればいいのでしょうか?


Re: 「石飛ブッダ論理学」を終焉させた「nhp演算子」 投稿者:Hatrick 投稿日:2013年 9月15日(日)04時14分30秒
> No.3777[元記事へ]

φさんへのお返事です。

>石飛氏は論理演算子というものを理解していないだけなので、とくに「明確に崩壊させる論理」など必要ありませんよ。崩壊させる何物も始めから無いからです。

そう言われれば、まさにその通りです。
まるで、私のヤフートピのkaku氏が唱導する「金剛禅」のような解答ですね。
さすがです。

たしかに、三浦先生が仰る通り、「nhp」(ニャルラトホテプ)演算子の導入すると、
「石飛ブッダ論理学」が、どれほどに、馬鹿げたものか、が、
彼女の書物に、簡単にだまされてしまっている人々にとっても、「あれっ??」と、
そのマチガイ部分が、如実に分かる手法ではないか?
今度こそ、石飛女史も、「言い逃れ不可能ではないか」と思います。
P nhp Q で、前件と後件が共に真だとしても、だからといって「因果関係なし」と断言することが容易ではないのは、当然です。ですから、もちろん、出力も、当然に真になるわけがありませんが、(ア)では、パロディー的に、一応、そのように設定主張しています。
もしも、石飛女史と、私も同類である、と誤解されるとしたら、ここら辺を誤解する人々がいる場合、ということになりますが・・・。(苦笑)

それにしても、「石飛ブッダ論理学」において、
P ※ Q で、「これあるとき、かれあり」・・・前件が真で、後件が真のとき、
それぞれ単独に「ある」だけが分かったとき、
両者に相互の因果関係があるかどうか、など、論理式から当然には演繹できないわけですのに、それをやっているので、スタート時点で、ズッコケていますねぇ。
このズッコケは、すごいです。四則演算できずに微分積分を論じているようなもので。
しかし、です。
新規の仏教論文の良し悪しや表彰をする、審査員に、「石飛女史は私の畏友である」と言って憚らない、宮元啓一教授が、
「石飛ブッダ論理学」で、龍樹思想も勉強中です、とか、述べていたわけです。
今もって、宮元啓一教授からの表立っての、そして、メールによる内々での、どちらでの「ダメだし」もないようで、その「ひどさ」が分からないレベルなのです。

その上、三浦先生が下半身文化研究でお世話になったという、チベット学者で翻訳書も出していて、高野山真言宗の阿闍梨でもある、中沢中(みつる)氏は、石飛ブッダ論理学を天才的だと称賛しているのです。アマゾンのレヴューでも、「彼女は主婦菩薩です」と称賛して、石飛ブッダ論理学は、誰もが必読の書でしょう、というようなニュアンスで布教に加担しているのですから、困ってしまいます。

まあ、この件は、もう終焉の局面ですね。

今度は、ヴェーダンタ密教は、「常見」に該当する、と主張する中沢中阿闍梨と、対決することになると思います。
窃盗をしていない人に、窃盗だ、窃盗だ、と言いがかりを付ける人権侵害の人に対しては、
論理的に反論する必要があります。
窃盗の刑法概念定義を出させ、それに該当していると主張させ、本当に該当しているか、争うわけです。
「常見」についても、同じ作業が必要ですし、これをしっかりやると、2000年以上誤解されていた、「洗脳の悪魔言説」が打破されます。
仏教は、バラモン教のアンチテーゼとして、その常見を否定する無我論として登場した、
という、よく言われる、入門編で洗脳される、この論理です。
三浦先生が、独我論について、美しい解決をしているのと同様の「言葉の正しい翻訳」がやれると良いなあ、と思っています。
http://www.hannya.net/index.htm


Re: 「石飛ブッダ論理学」を終焉させた「nhp演算子」 投稿者:φ 投稿日:2013年 9月15日(日)03時11分46秒
> No.3776[元記事へ]

Hatrickさんへのお返事です。

>
> 「石飛ブッダ論理学」を明確に崩壊させる論理を思いついたので、あちらに投稿しました。
>

石飛氏は論理演算子というものを理解していないだけなので、とくに「明確に崩壊させる論理」など必要ありませんよ。崩壊させる何物も始めから無いからです。

 Hatrickさんは先刻承知かと思いますが、
 「ある特定の真理関数に専用の記号がない」と問題視するのは、字が読めてないレベルです。あるいはせいぜい、「6桁の数を1文字で表せない」と言って漢字を批判するようなもの。まともに論ずるだけハッキリ無駄ですね。

 石飛氏には全然恨みなどないし、お会いしてみれば良い人かもしれないし、ことさらに強い語調で言いたくはないのですが、こればかりは仕方ありませんね……

 新しい演算子を導入する、との演出は、石飛氏の名を出さずに(同一土俵と見られると百害あって一利なしですから)別個の表現論的パフォーマンスとして行なうのが賢明かと思います。
 あれを対象にあまり躍起になっていると、現代哲学・現代科学から仏教思想のレベルを見切られ、相手にされなくなってしまいますよ。


「石飛ブッダ論理学」を終焉させた「nhp演算子」 投稿者:Hatrick 投稿日:2013年 9月14日(土)20時29分28秒
「石飛ブッダ論理学」を明確に崩壊させる論理を思いついたので、あちらに投稿しました。
以下のようなものです。

非標準論理学であるとされる「ブッダ論理学」(石飛道子の開発による)について、
石飛女史が、「真理表1~16」を出して、その意味づけをしているのは、
PとQという2事象の「論理的な関係性」について、ペロペロしたい、という欲求のせいですね。
そうしたら、PとQという2事象の「論理的関係性」における「全パターン制覇」となり、「これらの一切を論理的に語れる」という「論理関係性における制覇者としてのヒーロー感」を味わえる、というような妄想を膨らませたものであることは、明白です。

「縁起」関係を現す演算子として、
石飛女史がは、アスタリスクを使って「チャッカ」と読ませる初期のアイデアがあると思いますが、
ここでは、私の打ち込みやすさの観点から、「※」を縁起の演算子とします。

P ※ Q  → PとQに縁起関係が「ある」とするものとします。、

そうして、Pが真の場合、偽の場合  Qが真の場合、偽の場合
で、4通りの組み合わせがあります。
そして、この4通りの組み合わせについて、全部が真の場合~全部が偽の場合まで、
16通りの組み合わせパターンが存在します。
ゆえに、「真理表1~16」という全組み合わせの表が登場するわけです。
そうして、これらの1~16のそれぞれについて、「そういう風になる論理関係性」と理解して、特に、「3番目に登場するパターン」(1101)について、
このパターンこそ因果関係を表現している論理関係性であるとして、
「3に因果関係の読みをいれた」(71ページ「ブッダと龍樹の論理学」)
と表現しています。

ほかに、その他のパターンについても、「とある論理関係の読みを入れる」ことで、意味を持たせようとしています。

さて、ここからが、本論です。

アオミとしては、次のように、提案します。これは良いアイデアです。

「反縁起の演算子」を創案しました。
「縁起の演算子 ※ 」は、「前件と後件の間に縁起関係がある」とする演算子です。
それに比べて、
「反縁起の演算子 nhp 」は、「前件と後件の間に縁起関係がない」とする演算子として創案します。
「nhp」の「読み」は、「ニャルラトホテプ」とします。「邪神」を表す言葉です。

さて、PQ
P  nhp Q  → PとQに縁起関係が「ない」=すなわち、両者には「縁もゆかりもない」ということを意味するものとします。

そうして、Pが真の場合、偽の場合  Qが真の場合、偽の場合
で、4通りの組み合わせがあります。
そして、この4通りの組み合わせについて、全部が真の場合~全部が偽の場合まで、
16通りの組み合わせパターンが存在します。
ゆえに、「真理表1~16」という全組み合わせの表が登場するわけです。
そうして、これらの1~16のそれぞれについて、「そういう風になる論理関係性」と理解するとき、
この「反縁起の演算子」とこの表について、「読み込み」をしてみましょう。

(ア)前件と後件どちらも真であるとき、(すなわち、P があるが真で、 Qがあるも真)
両者に「縁起関係がない」とするならば、この論理式の出力する答えも、真になります。

(イ)前件と後件どちらも偽であるとき、(すなわち、P があるが偽で、 Qがあるも偽)
両者に「縁起関係がない」とするならば、この論理式の出力する答えも、真になります。

(ウ)前件と後件どちらかが、ウソであれば、「両者に縁起関係なしとする論理式」の出力は真である、と判断することにして良いでしょう。

そうすると、(ア)~(ウ)によって、
「縁起関係なし」を表すパターンは、表の1番目に登場する(1111)になります。

この結果は、何を意味するでしょうか?

石飛女史が提唱する「縁起を表す演算子 ※」については、
「3番目に登場するパターン」(1101)について、
このパターンこそ因果関係を表現している論理関係性であるとして、
「3に因果関係の読みをいれた」(71ページ「ブッダと龍樹の論理学」)
と表現しています。

一方、反縁起の演算子「nhp」においては、前件と後件に真と偽と、どちらがどこに来ても、
出力される結果は、「真」になります。

みなさま、わかりますか?

「※」と「nhp」という二つの演算子について、
この結果は、明らかに、バッティングしています。

この結果について、真剣に真剣に、真面目に真面目に、熟慮するならば、

あなたは、必ず、「石飛ブッダ論理学」の「大嘘」に気付くことでしょう。
あなたの気付いたことについて、
語って下さい。

「石飛ブッダ論理学」ご臨終です。

アオミによる
「nhp」(ニャルラトホテプ)演算子の導入により、
爆発して、消滅となりました。
http://www.hannya.net/index.htm


Re: 「殺人は悪である」の証明について 投稿者:φ 投稿日:2013年 9月 9日(月)02時56分11秒
> No.3772[元記事へ]

ixtlanさんへのお返事です。

>
>  殺人というのも認めてもいいのではないですか。たとえばヒトラー爆殺とか。戦争はもちろん人殺しの正当化ですし。
>

 そりゃ、ヒトラーは早めに殺された方がドイツにとって、世界にとって絶対よかったですよね。
 ただし、「誰に対してなら暗殺が許されるのか」をどうやって決めるのかということです。
 その基準がないまま、「悪い政治家を暗殺することは正しい」などと公認されたら、怖くて政治をやる人がいなくなってしまいます。
 ヒトラーよりチャーチルの方が第二次世界大戦拡大には責任あり、という説もあるわけですし。

 公の制度として公布してうまくいくような制度でないと、「正しい」とは言えないでしょう。
 よって、ヒトラー暗殺も、暗殺犯は(政府が転覆して法律が無効になっていない限り)殺人罪で裁かれるのが正しいでしょう。

>
>  家族を殺された人間が、復讐として殺人をするのは認めたいような気がします。殺されたって文句は言えないでしょ、って感じ。
>

 私人による復讐殺人が合法化されたら、われわれは安心して生活できませんね。
 誤解によって復讐されてしまうかもしれないし。とかく私人の調査能力なんていい加減ですから。
 ちょっと前も、暴走族と暴力団の「人違い殺人」がありましたよね。
 復讐も、国家が代行して、きちんと裁判を経て人違いや逆恨みがないことを確認してから、国家の手で死刑にするのが筋でしょうね。


Re: ヒュームの法則について 投稿者:φ 投稿日:2013年 9月 9日(月)02時46分13秒
> No.3771[元記事へ]

riumさんへのお返事です。

 認知的・論理的要素と感情的要素との関係については、「無関係」とするヒューム主義が、倫理学では大いに議論になっていますね。
 「善悪」が客観的な認知対象だとしたら、それを認知することがどうして行動の動機となりうるのか、動機というのは感情によるものだから認知によって自動的に生ずるはずがないのに、というあたりが議論の的です。

 私はヒューム主義が正しいかどうかについてははっきりした意見は持っていませんが、正しいのかどうか議論すべきだということには賛成です。(ここにも「べき」が出てくるところが悩ましいわけですが……)

>
> 私が思うに、「論理」は普遍的な正しさを持ちますが、「感情」というのはその人本人(と、その人と同じ感性を持つ人)だけにしか「真」となりえず、普遍性を持つことはないと思うのですが……。
>

 感情は経験的事実の問題なので、進化論および神経科学によってかなり客観的・普遍的に解明できるとは思います。人類に共通の感情というものもかなり広範囲に成立していそうですし。
 だから問題は、感情が普遍性に欠けるということではなく、感情がもたらす動機が正しいものだとなぜ言えるのか、ということだと思います。

> また、以前死刑についてお話ししましたが、「死刑は人殺し」という人がよくいます。それは藁人形論法ではないのですか?
>
> 死刑は「殺人犯を殺す」ものなのに「殺人犯だって同じ人間じゃないか。お前は人間を殺してもいいっていうのか」というのは、「道路で遊ぶのは危険だ」という人に対して「外で遊ぶなっていうのか」というのと、同じ論法ではないでしょうか。「死刑は殺人」と宣伝する人があまりに多くいるのですが、いつも違和感を覚えます。
>

 私も、死刑は人殺しではないと思います。
 冷静な無差別殺人、誘拐殺人、保険金殺人のような、情状酌量の余地のない犯罪に対しては、極刑が下される、という決まりに、何の「殺人性」もありません。
 死刑のような極刑の存在は、「極悪犯罪は許さない」という社会の決意を証明するものであり、人の命を尊重する証しでこそあれ、人殺しの容認などということは決してありません。

 むろん、死刑にもデメリットがあります。
 冤罪の可能性が防止できるシステムになっているとしても、「間接自殺」という問題が残ります。
 自殺したいのだがその勇気がないために、大犯罪を犯して死刑にしてもらおう、と考える者がいるのです。実際、無差別殺人の犯人の多くは自殺願望を吐露しているそうですし。

 つまり、死刑制度があるために、間接自殺による大犯罪が誘発されている、という傾向がないとは言えない。
 よって、死刑制度は決して人殺し制度ではなく、その意味では非人道的ではないのだが、功利主義的に見てどうなのか、犯罪抑止のつもりが逆に重大犯罪を促している面がありはしないか、ということは徹底的に研究されるべきだと思います。

 メリット・デメリットを比較考量して、デメリットのほうが大きければ、その結論として死刑を廃止すべきでしょう。
 非人道的だとかそういう間違った理由で廃止すべきではありません。

 (逆に、死刑存置の理由として、「遺族の感情」を尊重するというのもナンセンスだと私は考えます)。

 とにかく、死刑制度の功罪をしっかり研究することが前提で、それ抜きでは結論を出すべきではありませんね。


Re: 「不生」「常見」という概念 投稿者:φ 投稿日:2013年 9月 9日(月)02時18分9秒
> No.3770[元記事へ]

白さんへのお返事です。

 科学者は、科学がその功績に見合った尊敬を社会的に受け続けられるかどうかについて、けっこう神経質です。
 そこで、「科学者は宗教や人生論に冷たいのではないか、人間的なことに無関心なのではないか」という疑惑を持たれないよう、気をつけています。
 そこから、必要以上に宗教を持ち上げたり、科学の限界をことさらに言い立てたり、一般読者の感情や直観に迎合した言説に走ったり、科学の応用に対し過剰な倫理的慎重さを示すふりをしたりもするんですね。

 もっと堂々としていればいいのに、と思います。

>
> ドーキンスの『神は妄想である』の仏教版みたいなものが出ればいいのですが。
>

 そうですね、そういうのは是非読みたいですよ。
 ただ、仏教はキリスト教と違って、インテリジェント・デザインに相当するような疑似科学的宣伝に大々的に乗り出しているわけではないので、非科学的だと批判される謂われはないかもしれませんね。
 もっとも、科学者が引き合いに出す東洋思想が本当に科学的世界観と整合することを述べているのか、検証する仕事は是非誰かがやってほしいと思います。


Re: 「殺人は悪である」の証明について 投稿者:ixtlan 投稿日:2013年 9月 8日(日)20時36分59秒
> No.3756[元記事へ]

φさんへのお返事です。


>  私は、ミルのように、特定の社会状況と相対的に死刑の利害を考える、という論法だけが成り立つような気がしています。「殺人の禁止」はどんな社会状況にも当てはまる必然的倫理ですが、「死刑の正当性」は、そうではないだろうと。

 殺人というのも認めてもいいのではないですか。たとえばヒトラー爆殺とか。戦争はもちろん人殺しの正当化ですし。

 家族を殺された人間が、復讐として殺人をするのは認めたいような気がします。殺されたって文句は言えないでしょ、って感じ。



ヒュームの法則について 投稿者:rium 投稿日:2013年 9月 8日(日)18時02分59秒
先生の「論理学入門」を購入しました。
「論理のみが正しく、論理のみによって本当の納得が得られる」というのは、私も前から考えていたことで、大いに同意です。この本では同時に「ヒュームの法則(「である」から「べき」は導き出せない)も紹介されています。
ヒューム自身は、ヒュームの法則について、「道徳は論理によってではなく、『感情』から生まれる」と述べていましたが、先生はヒュームのこの考えについて、どう思われますか? ご意見をお聞きしたいと思います。
私が思うに、「論理」は普遍的な正しさを持ちますが、「感情」というのはその人本人(と、その人と同じ感性を持つ人)だけにしか「真」となりえず、普遍性を持つことはないと思うのですが……。


また、以前死刑についてお話ししましたが、「死刑は人殺し」という人がよくいます。それは藁人形論法ではないのですか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3
>A氏「私は子どもが道路で遊ぶのは危険だと思う。」
>B氏「そうは思わない。なぜなら子どもが外で遊ぶのは良いことだからだ。A氏は子どもを一日中家に閉じ込めておけというが、果たしてそれは正しい子育てなのだろうか。」

死刑は「殺人犯を殺す」ものなのに「殺人犯だって同じ人間じゃないか。お前は人間を殺してもいいっていうのか」というのは、「道路で遊ぶのは危険だ」という人に対して「外で遊ぶなっていうのか」というのと、同じ論法ではないでしょうか。「死刑は殺人」と宣伝する人があまりに多くいるのですが、いつも違和感を覚えます。


Re: 「不生」「常見」という概念 投稿者:白 投稿日:2013年 9月 8日(日)17時16分48秒
> No.3765[元記事へ]

はじめまして。いち三浦俊彦ファン、仏教ファンですが、三浦先生の以下の発言にとても共感します。

>  仏教も、キリスト教と同じくらい、古いジャーゴンなしで、現代科学の言葉で語るようにしてくれると助かるんですけれどね。

先日、佐藤勝彦の『宇宙は無数にあるのか』を読んでいると、突然何の脈絡もなく「マルチバースと仏教の三千世界は似ている」みたいな話になってびっくりしました。湯川秀樹も、仏教に色々教えられたと発言しているようで、仏教業界の人は喜んで引用しますね。アメリカの科学者が啓蒙書で「○○は神のみわざと考えうる」といったことを書いていたら皆ドン引きすると思うのですが、日本人の科学者は(読者も)その辺りの倫理観に欠けるような気がします。

ドーキンスの『神は妄想である』の仏教版みたいなものが出ればいいのですが。



Re: 「不生」「常見」という概念 投稿者:中沢中 投稿日:2013年 9月 7日(土)06時29分21秒
φさんへのお返事です。

 そのうち。ずいぶん直接お会いしてませんから、変わってしまってますね。
 φさんはTVなどで拝見していますが。

 これで最後にします。みなさま失礼しました。おそらくHatrickさんは色々言うでしょうが、適当に対応してください。



 ケアレスとおそらく分かると思いますが、ケースがケースなので9月 6日の書き込みを訂正しておきます。
 〈〉内は訂正箇所で、〈〉をとった文が訂正文です。

誤> Hatrickさん般若宗という新興宗教を主催する人で、
正> Hatrickさん〈は〉般若宗という新興宗教を主催する人で、

誤> 以後言及しないと言ってから直接言及したことはありません。
正> 以後〈返信〉しないと言ってから直接〈返信〉したことはありません。〈言及する場合も今回のように法に対する虚偽の繰り返しへの訂正のみです。〉


Re: 「不生」「常見」という概念 投稿者:φ 投稿日:2013年 9月 7日(土)02時47分16秒
> No.3767[元記事へ]

中沢中さんへのお返事です。

 ご無沙汰しております。
 あの頃はうちの学生らが直接間接にご迷惑おかけいたしました。
 仏教といえば、最近は、キャンパス内でも某仏教宗派某分派に属する学生の軌跡が可視化されてきて、選挙の前にはひそやかに賑やかです。
 昔から多かったのでしょうが、宗教も性癖もカミングアウトの昨今ですからね。

 また遠藤氏らを交えてお会いしたいですね。
 どうも私信のような投稿になってしまいました。――――それでは。


Re: 「不生」「常見」という概念 投稿者:中沢中 投稿日:2013年 9月 6日(金)22時28分48秒
φさん、こんにちは。お久しぶりです。いつもご本ありがとうございます。


 Hatrickさん般若宗という新興宗教を主催する人で、碧海などという名で色々暴れている人です。

 私から突っかかったことはありません。過去に執拗に言いがかりをつけるので、その単純な現象と実在説は仏教でないことを述べ以後言及しないと言ってから直接言及したことはありません。

 φさんと知人・友人などと言った記憶はありますが、仏教を教えたなどと言ったことはありません。これはφさんに限らず誰に対しても仏教を教えたなどと言ったことはないと断言できます。なぜなら、仏教を人に教えるほど分かっていない自覚があるからです。しかしながらHatrickさんの説くような実在説は仏教をちょっと学んだものなら誰でも分かる勘違いなので、これは私のようなものでも間違いだと断言できます。

 Hatrickさんはヒンドゥー的な現象と実在説を仏教と同じと言いますが、これは完全な誤認です。全く初歩的な誤解でそれは常見と言われ退けられます。この点、誤解なきよう指摘しておきます。彼が引用した弘法大師も十住心の第一住心で以下に引用したように「空しく神我ありと論ず」という「神我」が実在であり、記号として「我、時、元素」などが挙げられていますが、そのような第一因を想定するのは全て仏教では常見と捉えられます。

 私自身については紛うことなきエロオヤヂなのでどうでもいいですが、常見を仏教と捉える人が出ては困ると思い、ここを見ているほとんどの方にはどうでもいい問題なので、場違いですが一度だけ書かせていただきました。

 失礼しました。



以下『祕藏寶鑰』大正大蔵経、SAT データ

T2426_.77.0364a09: 凡夫盲善惡 不信有因果
T2426_.77.0364a10: 但見眼前利 何知地獄火
T2426_.77.0364a11: 無羞造十惡 空論有神我
T2426_.77.0364a12: 封著愛三界 誰脱煩惱鎖
T2426_.77.0364a13: 問。依何論建立此義。答。大日經。彼經何
T2426_.77.0364a14: 説。經云。祕密主。無始生死愚童凡夫。執著
T2426_.77.0364a15: 我名我有分別無量我分。祕密主。若彼不
T2426_.77.0364a16: 觀我之自性。則我我所生。餘復討有時地
T2426_.77.0364a17: 等變化。瑜伽我。建立淨・不建立無淨。乃至
T2426_.77.0364a18: 聲・非聲。祕密主。如是等我分。自昔以來
T2426_.77.0364a19: 分別相應希求順理解脱。祕密主。愚童凡夫
T2426_.77.0364a20: 類猶如羝羊。龍猛菩提心論云。謂凡夫執
T2426_.77.0364a21: 著名聞利養資生之具。務以安身恣行三毒
T2426_.77.0364a22: 五欲。眞言行人誠可厭患誠可棄捨



金剛禅からの回答 投稿者:Hatrick 投稿日:2013年 9月 5日(木)21時47分36秒
以下の三浦教授の疑問に、ヤフーで、覚氏が回答しているので、転載します。
参考にして下さい。
覚氏の立場は、金剛般若経に依拠して中国で発達した「金剛禅」の法統です。
西田幾多郎や久松真一や鈴木大拙氏と共通します。
天御中氏は、それを知らずに、非難していて、愚かです。
以下、覚氏の返答。

>悟りとは、発達心理学者の言う自我体験みたいなものですかね?

心理学者のいう体験ではない。
むしろ、悟りは、自我体験が崩壊を意味する。

本来の自己に気づく、本来の自己を自覚するですね。

これはね、経験とも体験とも言えない、目覚める、自覚ですね。
しかし言葉の上で示すには普通禅仏教の事実経験がいいのではないですか。

例えばですね。
竜巻の警告のサイレンが鳴る、それを聞く、それを自分が聞くと言う。
しかし、これは所謂、即今、目前底ではない。
心理学的自我の経験である。

普通は、心理学的自我の経験を基に日常を組み立てて営んでおりますから、
問題が生じた時、
精神分析者、ユングいわく「私どもが試みている事は人間の為に悩みを
軽減する事です。」

これが心理学の限界ですね。

悟りとは、つまり、禅仏教の事実経験では、悩み、病がない処の
領域でありますから、心理学とはことなりますね。

1、心理学では、悩み、病をとり除く作業ですから、それが解決すれば、また
新たなる悩み、病が再発する訳です。これが現在の医療システムである。

2、禅仏教の事実経験では、悩み、病をとり除くのでなく、全くない処に
言うのでありますから、二度と再発する事がない。

1と2とは次元が異なりますね。

哲学も2の領域に這入らなければ本物ではない。


Re: 「不生」「常見」という概念 投稿者:φ 投稿日:2013年 9月 5日(木)03時18分37秒
> No.3764[元記事へ]

Hatrickさんへのお返事です。

 中沢中さんには、仏教学習でお世話になったというより、下半身文化研究においてお世話になったというべきなのですが。あのころ学んだ事柄の一端を、また近々上梓する予定です。

 さて、コメントはご投稿のごく一部に対してしかできないのが残念ですが、

>
> ダーウィニズムでは、公理として、生物の生き抜くサバイバル力のようなものが、想定されているのではないでしょうか。真の哲学の場合には、その「生命力存在公理」みたいなものの核心に迫るものにならねば、本物とは言えないでしょう。
>

 ↑ これは全く正反対ですね。

 ダーウィニズムの根幹である自然選択というのは、「生物の生き抜くサバイバル力」なんてもの無しで生物進化を説明したところが革命的だったわけです。「生命力」は、公理はおろか、定理ですらありません。
 ダーウィニズムというのは、物理法則さえあれば生命現象はすべて解明できる、という、エンテレキーとか目的論をすべてゴミ箱行きにした強力な論理です。
 ダニエル・デネットの言うように、量子力学や相対性理論が成り立たない世界は概念的に可能だが、自然選択が成り立たない世界は不可能なのです。その意味で、ダーウィニズムは論理学の一分野と言ってもいいでしょう。
 人間原理はその延長で、自然選択を観測選択へ拡張しました。
 誤解が多すぎて頭が痛いですが、ダーウィニズムと同様、人間原理も人間中心主義とは正反対の、反目的論的な、極端な機械論的・還元主義的世界観です。

 そのあたりについては、リチャード・ドーキンスの『神は妄想である』がお薦めです。

 ・・・・・・
 仏教も、キリスト教と同じくらい、古いジャーゴンなしで、現代科学の言葉で語るようにしてくれると助かるんですけれどね。
 現代科学は具体的成果を出していますから、宗教も哲学と同様、科学の言語に合わせることでしか、知的認知の道はありえないのではないでしょうか。
 キリスト教が潔くそれをやってくれたおかげで、キリスト教が科学的に駄目なことは白日の下に晒されましたが、確率的に考えると、他の宗教も大して違いはなかろう、と素人目には映るのですが。
 (個別の内容を考えてというより、諸宗教が世界にもたらしてきた具体的な成果から比較推論してのことですが)


「不生」「常見」という概念 投稿者:Hatrick 投稿日:2013年 9月 4日(水)23時10分13秒
三浦俊彦教授は、チベット仏教学者の中沢中(みつる)阿闍梨に、仏教学習ではお世話になった、と述べておられますね。
しかし、石飛女史の掲示板で、私に突っかかって来た中沢中阿闍梨は、私に瞬殺されてしまいました。
どういうことか、と申しますと、高野山真言宗は、長らく、金権腐敗しておりまして、その基本教義も、解釈が、真っ向二分されているのです。情けない話ですが。
先日も、巨額投資の失敗で、僧侶の役職辞任がありましたね。
それゆえ、空海の以下に引用したような思想を、どう解釈するかで、争いがあるのです。
ヒンドゥー教を取り込んだ、パラ(至高の)アートマンを認める見解と理解するか?
それとも、アートマン否定の「無我思想」が真の仏教だ、と貫徹するか?
です。
中沢中阿闍梨は、後者に属する立場です。チベット仏教の教えとも共通するから、という理由も大きいようです。
しかし、前者に属する立場の真言宗大阿闍梨もいるわけで、勢力争いの図でもあります。

・・・・・・空海の言葉・・・・・・・・・・・・・・・・
●「一切衆生、無始よりこのかた、皆、本覚ありて、捨離する時なし」(弁顕密二教論)
●「清浄本覚は、無始よりこのかた、修行を観ぜず、他力を得るにあらず、性徳円満にして、本智具足す。」(秘蔵宝やく)
「自他の本覚の仏は、則ち、法璽自覚にして本来、三身四徳を具足し、無始より恒沙の功徳を円満す。」
「自然自覚なり。ゆえに先成就の本覚仏と名付く。」(金剛頂経開題)
●「我すなわち法界、我すなわち法身、我すなわち大日如来・・我すなわち一切仏・・
これ則ち、一にして能く多なり」(吽字義 マ字)
●「九種の住心は自性無し。転深転妙にして皆これ因なり。
真言密教は、法身の説、秘密金剛は、最勝の真なり。
五相五智法界体、四曼四印、此の心に陳ず。
刹那の●駄は、吾が心の仏なり。海滴の金蓮もまた、吾が身なり。
一一の字門、万象を含み、一一の刀金、皆、神を現ず。
万徳の自性、輪円にして足れり。一生に荘厳の仁を証することを得べし。」(秘蔵宝やく)
●「法然と随縁と有り、能くまた迷い、能くまた悟る」(声字実相義)
「此の文は、何の義か現顕する。いわく、二義あり。一に、法仏法璽の身土を明かす。
いわく、法界性身、法界標旗のゆえに。」
「法身はこれ実相なり」
・・・・・引用おわり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そして、中沢中阿闍梨は、アートマン否定論派として、
ヒンドゥー教ヴェーダンタ密教のブラフマンを信仰するがごときは、「常見」という邪見に該当する、と、なんとかの一つ覚えのように、繰り返すわけです。

そこで、中沢中阿闍梨に、私は、こう言いました。
チミの「常見」の定義は、間違っておるぞ、と。それに気付かんのか?と。

果たして、中沢中阿闍梨が主張するように、
ヴェーダンタ密教は「実在論」であり「常見」に該当するような、簡単にバカにされるような哲学なのでしょうか?

私は、こう反論しました。
「不生起」という仏教概念を使用します。大乗仏教では、「不生」なるものを連発します。
「不二の門」としても「不生起」を連発し、「無生起」の意味の「無生法」を認識することを「無生法忍」(忍→認)と言って、最高の悟りとします。
真言密教でも、「本不生」と言って、「不二の法門」とします。
以上が大前提ですが、
ところで、さて、ヴェーダンタ密教のブラフマン(究極実在)は、虚数のように、実数世界にはない、「非顕現の存在」とされます。つまり、「不生」(不生起)なのです。

「不生不滅の真実在」は、「不生」なので、「有る」とは言えず、「常見」に該当しません。
「不生のもの」まで、「常見」に含めると、仏教は、自爆してしまいます。
だから、「常見」の定義の範疇は、色(ルーパ=物質・形態)として生起しているものにかぎられます。
それが、正しい「常見」の定義です。
この立場を厳守すると、ヴェーダンタ密教における「不生の真実在」を承認することは、
常見に該当しません。

ところが、中沢中阿闍梨は、
ヴェーダンタ密教は、常見だ、常見だ、常見だ、常見だ、常見だ、常見だ、常見だ、常見だ・・・・・
と、なんとかの一つ覚えのように、うわごとのように、言い続けるだけです。
定義を間違えて、わら人形論法として、すり替えられた別のものを批判していることにも、
気付かない。
これ、悲惨です。学者とは到底いえません。床屋談義の部類です。
学者たることに、一定の認定制度があれば、失格まちがいなしです。

・・・・と、このように述べたところ、中沢中阿闍梨は、二の句が継げなくなってしまったわけで、瞬殺されてしまったわけです。

http://www.hannya.net/index.htm


「悟り」についての比喩と説明 投稿者:Hatrick 投稿日:2013年 9月 4日(水)12時59分21秒
>率直に言って、ちんぷんかんぷんです。私が「本覚思想」について何か発言すると、石飛氏が論理や論理学について発言するのと同レベルになってしまいます。
 なので、残念ながら口をつぐんでいるのが無難かつ良心的というものでしょう。

了解しました。実に、良心的な返答ですね。
一方、天御中氏は、本当はちんぷんかんぷんなのにペロペロ言っているのです。
そこが、三浦教授との違いですね♪
論理学仲間として、知ったかぶりはいかんよ、ウソはいかんよ、と言っておいて下さい。


>哲学・思想の理解可能性は、難易度というより、問題意識に触れるか触れないか、それと必要性を感じるかどうかでしょうね。

それと、思考する道具の問題が大きいですね。形而上学に対して、命題論理学や述語論理程度で立ち向かうことが、無謀です。
量子コンピュータが現実性を帯びてきましたが、量子コンピュータでは「0、1」が併存します。それと同様に、「量子論的な論理学」が登場することが期待されるところです。
これならば、形而上学に適切に斬り込めるのではないか、と期待しています。


>私の場合、ダーウィニズムと人間原理があれば宗教思想は今のところ必要ないという感じです。『仏教心理学キーワード事典』などは買って持っているのですが。

ダーウィニズムでは、公理として、生物の生き抜くサバイバル力のようなものが、想定されているのではないでしょうか。真の哲学の場合には、その「生命力存在公理」みたいなものの核心に迫るものにならねば、本物とは言えないでしょう。
つまり、三浦教授の「哲学的興味」は、「本源への旅」ではなく、「裾野がどうなるか」なのではないでしょうか。それも、一面としては大事ですが。


>「刹那滅」等は興味があるのですが、「悟り」とかになると、いかんせんジャーゴンの背景がわからないので手も足も出ません。悟りとは、発達心理学者の言う自我体験みたいなものですかね?

トランスパーソナル心理学の見地から、「悟り」を考察するのも一つの方法ですが、英語での訳「リアライゼーション」を悟りとして良いと思います。
仏教より古いヴェーダンタ密教では、「サマーディ(三昧)による悟り」とは、「究極のリアリティーであるブラフマンに目覚めること」です。つまり、これだけが、分割できない究極不変恒常の存在であり、他は、無常な幻影に等しく、恒常性あるリアリティーはない、とするわけです。
ゴータマ・ブッダの「サマーディ」<ゴータマは同じ用語を使用しています>が、上記のヴェーダンタ密教のリアライゼーションと同じなのか、全く異質の違うものなのか、現在まで、2500年間、議論があり、決着をみません。
但し、学説を選択する場合分けとして、次のようには言えます。
同じもの、と見る立場の場合は、世界宗教のすべてと無神論も統一的に説明できます。
異質である、とする無神論ブッディズムの場合は、世界宗教すべてを否定し、自分たちだけが特別に正しいというカルト的な原理主義に陥るほかありません。

さて、「悟り」を別角度から、説明してみましょう。
ユダヤ教典によると、エデンの園でアダムとイブは平和に暮らしていましたが、知性を持たず、無為自然に生きていました。そして、智慧の木の実であるリンゴをかじって食べることで、少しばかりの智慧を「能力的に」獲得しました。知性ある存在として、善悪を分別し、悪をなす自由を得て、罪をも同時に得て、エデンの園を追放されました。
このとき、神が、「彼らに食べられたら大変だ」とガードしたものがあります。
それが、「命の木の実」です。この木の実を食べると、永遠の命を獲得してしまうのです。
ゆえに、この木の実を食べさせないように、人間はそれから遠ざけられました。

アップル・コンピュータのマークはリンゴを齧るデザインです。スティーブ・ジョブがリンゴ好きだからという理由の他に、コンピュータ活用による人類の智慧の木の実をかじる(体験する)行為であることが暗喩されています。
マンガ「ワンピース」では、悪魔の木の実を食べると、特殊能力を獲得します。
ゴムゴムの木の実を食べると、ゴム人間になれます。

さて、「悟り」とは、「命の木の実」を食べることと比喩できます。それによって、特殊能力を獲得します。どんな? 各種の超能力は当然です。千里眼。読心術。前世を読む力。アカシック・レコードを読み、過去のできごとを再現的に詳細に知る力。その他、全知全能の永遠の生命の「神」との融通無碍な交通力も手にします。
しかし、原爆を手にした人類ですら、既に危険であるのに、こうした能力を手にしたら、その人間が何をして、どんな大罪を犯すか、わかったものではありません。
ゆえに、「命の木の実」には、そうならないための安全装置としての「麻薬」も入っています。あまりに素晴らしい麻薬成分であるために、完全中毒になり、神の意図に離反する行為をすることは、一切なくなります。
この状態を、ヴェーダンタ密教では、「神のアバター(化身)」と呼びます。
キャメロン監督の3D「アバター」は、操縦カプセルに入って、異星人の人工身体を自分の意図通りに操縦します。アバター概念は、それで良いでしょう。
「神のアバター」は、「神に操縦された人体」を意味します。

以上のとおり、「悟り」とは、「永遠の生命の木の実」を「かじること」(体験すること)です。但し、かじり具合には、多い少ないがあります。がぶりと全体的に食った場合には、アバターになります。ちょっとだけ、ネズミがかじるように、カケラを味わった場合には、アバターにはなりません。「小悟」とも言われます。しかし、「生命とは何か」について、つまり、「真のリアリティー、究極のリアリティーとは何であるか?」については、明確に知ることになるため、その他は、すべて影法師としてしか、見えなくなります。
「究極のリアリティー以外は、すべて影法師に過ぎない」
これが、空であり、縁起の理法であり、無生法忍であり、「中」観であり、般若を知る者です。

http://www.hannya.net/index.htm


Re: 本覚思想の内実の正しい理解 投稿者:φ 投稿日:2013年 9月 3日(火)01時56分49秒
> No.3761[元記事へ]

Hatrickさんへのお返事です。

 以前、http://8044.teacup.com/miurat/bbs/3629 などで申し上げたことを繰り返さざるをえないようです。
 率直に言って、ちんぷんかんぷんです。

 私が「本覚思想」について何か発言すると、石飛氏が論理や論理学について発言するのと同レベルになってしまいます。
 なので、残念ながら口をつぐんでいるのが無難かつ良心的というものでしょう。

 哲学・思想の理解可能性は、難易度というより、問題意識に触れるか触れないか、それと必要性を感じるかどうかでしょうね。私の場合、ダーウィニズムと人間原理があれば宗教思想は今のところ必要ないという感じです。
 『仏教心理学キーワード事典』などは買って持っているのですが。

 「刹那滅」等は興味があるのですが、「悟り」とかになると、いかんせんジャーゴンの背景がわからないので手も足も出ません。悟りとは、発達心理学者の言う自我体験みたいなものですかね?


本覚思想の内実の正しい理解 投稿者:Hatrick 投稿日:2013年 9月 2日(月)14時41分11秒
三浦俊彦先生へ

今、ヤフー掲示板で「天御中氏」と議論していますが、
天御中氏は、三浦俊彦教授たちと「石飛ブッダ論理学」について、笑い合い、
そのトンチンカン部分については、三浦俊彦教授が仲間を代表して、その誤解の指摘を
PDFで公開した、と述べています。
つまり、天御中氏は、三浦俊彦教授と知り合いだと述べております。
そこで、今、仏教における最大重要論点で、天御中氏がボケをかましているので、
そのようなものを相手にする時間も惜しいので、三浦俊彦教授の見解をお伺いします。
・・・・・・・・・・・・
『天台真言二宗同異章』
真言教に云く、法界宮中の本来自覚の大日如来、本覚法身は因果を遠離す
・・・・・・・・・・

このように、真言宗は、日本天台宗からも、本来一仏(大日如来のみ)思想、
すなわち、本覚思想だと評価されています。
参考
http://hannya.webspace.ne.jp/bbs/hannya_tree_r_44.html
http://hannya.webspace.ne.jp/bbs/hannya_tree_r_46.html

以上、
三浦俊彦教授は、空海思想を 本覚思想だと理解していますか?どうですか?
それとも、天御中氏が述べるように、
「まあ、芥川龍之介は、ウィキの著者よりは信用できるだろうな。
弘法大師は空海、本覚大師は益信、本覚如来は己が肉身だ。」
に同意なさいますか?
どうですか?

本覚思想の内実の正しい理解は、仏教において、極めて、いえ、最重要論点であるがゆえに、三浦俊彦教授の哲学的・宗教的な理解度をお尋ねすることにもなるので、
ご返答をお願いします。


Re: 「殺人は悪である」の証明について 投稿者:φ 投稿日:2013年 8月21日(水)01時41分9秒
> No.3759[元記事へ]

riumさんへのお返事です。

>
> 条件なしの、恣意的な変更が矛盾するということですね。憲法についての解説も参考になりました。
>

 いや、解説というより、私自身が疑問だらけなわけで。法律に対しては。

 売春防止法のようなザル法があるかと思えば、売春と同型の扱いを受けている自殺については自殺防止法がないなど(自殺教唆罪や自殺幇助罪があるが、自殺そのものが違法と明示した法律はない)、法律は謎だらけです。
 売春より自殺の方が他人に迷惑をかける度合いが大きいことを考えると、自殺が違法とされない(実質的には違法とする説もあるようだが、少なくとも売春のように違法性が明示されてはいない)のは論理的に不可解です……


Re: 「殺人は悪である」の証明について 投稿者:rium 投稿日:2013年 8月20日(火)23時13分27秒
φさんへのお返事です。

条件なしの、恣意的な変更が矛盾するということですね。憲法についての解説も参考になりました。愚問に答えていただきありがとうございました。大変勉強になります。


Re: 「殺人は悪である」の証明について 投稿者:φ 投稿日:2013年 8月20日(火)03時18分4秒
> No.3757[元記事へ]

riumさんへのお返事です。

>
> ところで、気になったのですが、「規則を変えてもよい」という規則はそれ自体が背理法的に矛盾するということはないのでしょうか? 憲法96条なんかは改正手続きを規定していますが、この規則は矛盾しないのですか?
>

 規則をいつでもどこでも恣意的に変えることが許されるなら、そもそもそれは規則ではなくなってしまうので、前提が覆り、背理法的に無意味になってしまいます。

 しかし憲法の場合は、恣意的に変えることはできず、きわめて厳しい条件がありますね。普通の法律に比べてかなり強い条件が満たされないと、改正手続きに入れません。
 なので、規則を変えてもよい、という規則そのものが矛盾を生むことはないでしょう。(恣意的な殺人が許されると矛盾が起こるが、死刑制度は矛盾を生じないのと同じです)

 それどころか、絶対に変えてはならない規則、というものはたいていの場合非現実的で、状況に合わせて変えられるようにしておかないとまずいでしょう。

 日本の憲法は変えるべきなんでしょうか?
 何らかの既成事実を変えなければならないことは確かですが。
 なにしろ、
 「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」なんていうのは、自衛隊という軍隊が確立して久しい現状に照らすと、嘘っぱちもいいところですし。
 現状を変えるのか、憲法を変えるのか。
 どちらかにしないと、憲法そのものがザル法であり続け、法律の軽視の風潮を蔓延させます。

 自衛隊廃止(少なくとも大幅改組)か、憲法改正か、どちらかが必要でしょう。
 あと、基本的人権の諸条項を変えるか、皇室を廃止するか、どちらかが必要でしょうね。


Re: 「殺人は悪である」の証明について 投稿者:rium 投稿日:2013年 8月19日(月)19時07分21秒
> No.3756[元記事へ]

φさんへのお返事です。

お返事ありがとうございます。参考になります。確かに、功利主義を基準とするのであれば、死刑賛成と反対どちらにも行き着きますね。
義務論的な死刑肯定論では、こちら(http://www.geocities.co.jp/WallStreet/7009/mg0009-3.htm)がよくまとまっていると思います。


ところで、気になったのですが、「規則を変えてもよい」という規則はそれ自体が背理法的に矛盾するということはないのでしょうか? 憲法96条なんかは改正手続きを規定していますが、この規則は矛盾しないのですか?


Re: 「殺人は悪である」の証明について 投稿者:φ 投稿日:2013年 8月17日(土)17時48分23秒
> No.3755[元記事へ]

riumさんへのお返事です。

>
> >同じ論法で「子どもを産まないことは悪い」が証明できるって? (中略)だけどその論証にゃ飛躍があるよ。「人を殺すことは悪い」との違いを、ゆっくり考えてみてくれ。
>
> この答えは、「子どもを産まないことは許される」という規則を設けても、子供を産みたいという人は存在するので、「子どもを産まないことは許される」という規則を設けても人類は絶滅しない……ということでよろしいでしょうか?

 その通りですね。
 「人を殺すことは許される」は、一人でもそれが適用されたら、「許される」という制度が崩壊します。
 「子どもを産まないことは許される」はそうではありませんね。
 「農作物を作らずに一生終えることは許される」や「警察官以外の職業を選ぶことは許される」も同様です。社会が維持できる(「許される」が意味を保てる)規模で誰かがやってくれればよいので、一人一人が農作物を作ったり、警察官になったりする義務はありません。

>
> これと同じ論法で、例えば「規則を守らなくてもよい」というのは「規則を守らなくてもよいという規則自体が守られなくなるので、背理法的に矛盾する。よって『規則を守らなくてもよい』は悪である」という理屈も、おそらく成り立ちますよね。
>

 その通りだと思います。

>
> Aを「正義」とすると、A≡¬¬Aで、殺人が「正義でない」ので、その殺人犯にとっての殺人(死刑)はさらに「正義でない者にとっての正義でないもの」になるので、「死刑は正義である(死刑廃止は悪である)」という証明がなされる、という理屈はあり得るでしょうか。私はこのほかにも、「死刑廃止が悪である」という証明があることを知っていますが、このような方法でも証明は可能でしょうか。
>

これはよくわかりません。
 「Aを「正義」とすると、A≡¬¬Aで、」といっても、「正義」という概念を否定するというのは意味をなしませんね。
 否定できるのは文だけなので、Aに何らかの命題的構造を付与しなければならないでしょう。
 そこから「死刑の正当性」を「証明」できるかといえば、できないような気もします。

 死刑は偶然の社会的・環境的事実を考慮に入れて功利主義的にその功罪を決めるべきものであって、論理的論証でその成否を決めることは出来ないのではないかと思われます。

 現代の日本という社会的環境では、死刑制度が正しい(利益を生む)のは、自明だと私は思っています。
 だからといってすべての社会的状況で死刑制度が正しい(利益を生む)かどうかは別問題でしょう。
 決まりナシに私刑で殺すというのはいかなる社会においても許されない(利益を生まない)でしょうが(少なくとも「私刑の基準」についての公的な法律が必要なはず)、公布された法律で定められた死刑は、恣意的に適用される私刑ではないので、合法的な死刑に相当する行為を行なった者は、当然、刑に服するべきでしょう。
 ただしこのことは、「死刑を許さない法的制度」が間違っている、ということを含意しません。死刑制度がある方がよい社会、ない方がよい社会、その両方が可能であり、さらには実在するかもしれないからです。

 ただし、功利主義をとらずに、義務論や契約説で「論理的に(特定の社会状況とは無関係に)」死刑の是非が決まる、という人がいるかもしれませんね。
 そういう論証があるならば、聞いてみたいと思います。
 ヘーゲルの議論は私は知らないのですが、J.S.ミルは、当時のイギリスの社会に照らして、死刑を肯定する議論をしていました。
 私は、ミルのように、特定の社会状況と相対的に死刑の利害を考える、という論法だけが成り立つような気がしています。「殺人の禁止」はどんな社会状況にも当てはまる必然的倫理ですが、「死刑の正当性」は、そうではないだろうと。


「殺人は悪である」の証明について 投稿者:rium 投稿日:2013年 8月17日(土)04時05分31秒
初めまして。
古い話になりますが、『文芸』のアンケートの回答を、大変興味深く読ませていただきました。
併せてこのページ(http://russell-j.com/miurat/murder.htm)も拝読したのですが、

>同じ論法で「子どもを産まないことは悪い」が証明できるって? (中略)だけどその論証にゃ飛躍があるよ。「人を殺すことは悪い」との違いを、ゆっくり考えてみてくれ。

この答えは、「子どもを産まないことは許される」という規則を設けても、子供を産みたいという人は存在するので、「子どもを産まないことは許される」という規則を設けても人類は絶滅しない……ということでよろしいでしょうか?
これと同じ論法で、例えば「規則を守らなくてもよい」というのは「規則を守らなくてもよいという規則自体が守られなくなるので、背理法的に矛盾する。よって『規則を守らなくてもよい』は悪である」という理屈も、おそらく成り立ちますよね。

ところで、先生は死刑肯定派でいらっしゃるようですが(当方もそうですが)、「死刑廃止が悪である」という証明は、二重否定を用いれば可能なのですか? (反証主義的になってしまいますが……)

Aを「正義」とすると、A≡¬¬Aで、殺人が「正義でない」ので、その殺人犯にとっての殺人(死刑)はさらに「正義でない者にとっての正義でないもの」になるので、「死刑は正義である(死刑廃止は悪である)」という証明がなされる、という理屈はあり得るでしょうか。私はこのほかにも、「死刑廃止が悪である」という証明があることを知っていますが、このような方法でも証明は可能でしょうか。
ヘーゲルの死刑肯定論が、こうした「否定の否定」でしたが、彼の「否定の否定(止揚)」は特殊なので、単純な「A≡¬¬A」と同列に語っていいものか自信がありませんが……。


Re: 健全性について(補足) 投稿者:φ 投稿日:2013年 8月12日(月)18時41分37秒
> No.3753[元記事へ]

 あとで気がついたので、補足させてください。
 前回の私の回答がkotobさんの問題意識からズレていたように思えるので。

↓この部分についてのコメントですが、

>
> 健全性の定義は一つしかないという人物の主張は、
>
> > Σ│-φ ⇒ Σ│=φ
>
> これだけが健全性の厳密な定義だと言っているのですが、
>
> その場合、「前提が実際に真である」という健全な論証の特徴は、
> 上記の式のどこから導かれるのでしょうか?
>

 前回書いたのは、
Σ│=φ でないようなφを「偽」と呼び、それがΣの中に入っていることはありえない(Σに入れると矛盾する)、ということにすぎませんでした。
 しかるに、kotobさんの問題意識がかかわっているのは、「Σ│=φ であるかどうか」の真偽ではなく、φが真・偽というどちらの真理値を与えられるかということのようですかね。
Σ│-φ ⇒ Σ│=φ からはΣの中の文のすべてが「真」という値を与えられていることが帰結しないだろう、と。
 Σ│=φは、「Σの中の文のすべてが「真」という値を持てば、φも「真」である」という条件的なことしか述べていないし、Σ│-φはそもそも真偽について述べていないし、と。

 ↑たしかに、kotobさんの言うとおりです。
Σ│-φ ⇒ Σ│=φ だけだと、Σの中の文がすべて「真」であることは含意されませんね。

 ただし、普通にわれわれが「真偽」を問題にするときは、(恒真性テストで個々の原子文に付与するように)自由に付与できる真理値ではなく、実質的な(仮定的・規約的ではなく主張的な)真理値こそが問題だと思われます。
 実質的な意味で「真」というのは、文に対して便宜的に付与されるものではなく、言語に相対的に定まった強固な性質として定義されますよね。
 現に、「健全な論証」の前提となる「真なる文」だって、「偽」という真理値を付与しようと思えばできるが、そんな可能性は関係ありませんよね。当該言語に相対的に、自ずと定まる真偽が重要であるはずです。
 ↑ここが、kotobさんの疑問を解くポイントかと思います。

 Σの解釈を担う言語(たとえば日本語)において、いくつかの常識(たとえば日本国で公に真だと認められる命題)があるとして、その常識の集合をCとして、次のように書いてみましょう。

 Σ│-φ ⇒ C│=φ

 実質は Σ│-φ ⇒ Σ│=φ のことなのですが、
 Σ│-φ のΣは形式的体系で、 Σ│=φ のΣは意味論的言語で解釈されたΣですから、あえて別の文字を使った方がわかりやすいかと思います。
 Cで真とされる文すべてを真とする解釈において、必ずφが真となるならば、その時に限り、φは端的に真、というふうに考えてみましょう。
 Σ│-φ ⇒ C│=φ すなわち、「Cで端的に真とされる文だけがΣから演繹できる」ことが、「Σは健全」ということである。
 そう考えれば、常識の集合Cに相対的に「真」「健全」が定義でき、Σを読むためのCの範囲をどのように定めるかによって(論理的真か、経験的真か、個人的知識か……)、公理系の健全性も、一つの論証の健全性も、統一的に理解できるのではないでしょうか。


 (微妙な方法論的トピックであり、形而上学志向の私にとっては不得意分野なので、まだ穴があるかもしれませんが……)


Re: 健全性について 投稿者:φ 投稿日:2013年 8月11日(日)04時07分44秒
> No.3751[元記事へ]

kotobさんへのお返事です。

>
> 統語的に帰結するならば、意味論的に帰結するというのが 健全性だというのは分かるのですが、
> その帰結が真である、と言えるのは、導出元の文の集合が真であるならば、という条件付きではないのでしょうか?
>

 論理学の公理系の公理(導出元の文)は、すべて論理的真理ですよね。
 そうでないと矛盾が生ずるので、役に立ちません。導出元の文はすべて論理的真です。(命題論理の場合なら公理はみなトートロジー。定理もすべてトートロジーになるのが健全な命題論理の公理系)

 ただし、一つの論証について「健全性」を云々する場合は、その論証の前提は論理的真とは限らず、経験的真でもかまいませんね。
 確かにそこに違いがあります。
 一つの論証と論理的公理系とではトピックそのものが違うので、その違いは始めからわかりきっているものとして無視して、「基本的には、同じこと」と前回お答えしました。

 論理学の公理系だけでなく、物理学とか倫理学の公理系も作れます。そのような場合は、個々の命題は論理的真ではなく、経験的真であったり哲学的真であったりすればよいわけですね。
 公理を前提、定理を帰結と見なし、全体を一つの論証と考えれば、物理学や倫理学の公理系の「健全性」は、通常、一つの論証について「健全性」を云々する場合と同じことになります。
 論理的公理系とその他の体系との「健全性」の違いは、導出によって論理的真が保存されるのか、もっと広い意味での真が保存されるのか、ということですね。

>
> 健全性の定義は一つしかないという人物の主張は、
>
> > Σ│-φ ⇒ Σ│=φ
>
> これだけが健全性の厳密な定義だと言っているのですが、
>
> その場合、「前提が実際に真である」という健全な論証の特徴は、
> 上記の式のどこから導かれるのでしょうか?
>

 「φが定理として導かれる」ならば「φは意味論的に妥当である」
 前提に意味論的に妥当でない文Aがあるとします。つまり偽なる文Aがあるとします。
 Aと A→A というトートロジーにより、 Aそのものを定理として導くことができます。(というより、Aが前提なのだから公理と見なすことができ、公理は定理である、という方が直接的ですね)
 すると、意味論的に妥当でない文が導かれたことになります。

 「「φが定理として導かれる」ならば「φは意味論的に妥当である」」が成り立たなくなってしまいますね。

 以上の筋道の対偶をとれば、
   Σ│-φ ⇒ Σ│=φ であれば、Σ には真なる文のみが含まれる、ということになるでしょう。

>
> また、妥当性判定テストの健全性と論証の健全性は全くの別物だと明記した文献があるのですが、
> それは間違いなのでしょうか?
>

 もちろんトピックが異なるので別物に決まってますが「全くの別物」というのはどうなんでしょうかね。
 同じsoundnessという言葉を使っているのだから、「全くの別物」とだけ言い切られても読者は納得しがたいのでは?
 「定められた形式的手続きに従えば決して意味論的間違いを導き出さない」という趣旨として捉えれば、健全性と呼ばれている事柄に共通性があることになり、その意味で「同じこと」と言えると思いますが。

 たとえば倫理学の「自然主義の誤謬」と進化心理学の「自然主義の誤謬」は違うことを意味しており、「自然主義」も違うことを意味しているわけですが、だからといって「全くの別物」とは言えませんね。
 「自然(遺伝的本能)であること」も「自然的(記述的)事実」の一例であると考えれば、進化心理学の「自然主義」は倫理学の「自然主義」の一例であることがわかるので、「基本的には同じこと」に帰着すると言えるでしょうから。

 いずれにしても、「同じかどうか」は「同じ」の意味を定義しないと議論になりませんよね。
 「健全性」については、たしかに、論証の健全性と公理系の健全性が別個に語られることが多いので、「同じ」かどうか気になるところですね。以上のような理由で、私は「基本的に同じ」(「真」を論理的真理に限った場合が命題論理などの公理系の健全性)と言うべきかと思います。


一行削除しますRe: 健全性について 投稿者:kotob 投稿日:2013年 8月11日(日)00時13分28秒
> No.3751[元記事へ]

>また それは、完全性は持たないのでしょうか?

この部分は無かったことにしてください。すいません。


Re: 健全性について 投稿者:kotob 投稿日:2013年 8月10日(土)23時55分46秒
> No.3750[元記事へ]

φさんへのお返事です。

返事ありがとうございます。

> 論証体系の健全性は、完全性の逆で、「定理(統語的に帰結する文)は真である(意味論的に帰結する)」ということですね。

統語的に帰結するならば、意味論的に帰結するというのが 健全性だというのは分かるのですが、
その帰結が真である、と言えるのは、導出元の文の集合が真であるならば、という条件付きではないのでしょうか?

それとも統語的に帰結、意味論的に帰結 という表現の中に、前提群が必ず真という意味が含まれるのでしょうか?
つまり「意味論的に妥当」という場合とは、同じ |= という記号を用いていても異なる意味を持つのでしょうか?

> ひとつの健全な論証を、それだけで閉じた特殊な論証体系と見なせば、
> 前提も結論も真であるような論証の体系であり、
> 前提、結論をそれぞれ「定理」と見なすことができるので、そのすべてが真であるからには、
> 「健全な一つの論証は、健全性を持つ論証体系である」と言えるでしょう。

前提を定理と見なせるというのは何故でしょうか? 真だから、ですか?
また それは、完全性は持たないのでしょうか?

また、そういう見方をしたとして それは健全な論証の必要条件の一つを言っているだけで、
十分条件ではなく、従って、論証の健全、の定義ではないように思うのですが。



健全性の定義は一つしかないという人物の主張は、

> Σ│-φ ⇒ Σ│=φ

これだけが健全性の厳密な定義だと言っているのですが、

その場合、「前提が実際に真である」という健全な論証の特徴は、
上記の式のどこから導かれるのでしょうか?

また、妥当性判定テストの健全性と論証の健全性は全くの別物だと明記した文献があるのですが、
それは間違いなのでしょうか?


Re: 健全性について 投稿者:φ 投稿日:2013年 8月 7日(水)03時25分43秒
> No.3749[元記事へ]

kotobさんへのお返事です。

基本的には、同じことだと思いますが。

論証体系の健全性は、完全性の逆で、「定理(統語的に帰結する文)は真である(意味論的に帰結する)」ということですね。
 (完全性は、「真なる文は定理である」)

ひとつの健全な論証を、それだけで閉じた特殊な論証体系と見なせば、
前提も結論も真であるような論証の体系であり、
前提、結論をそれぞれ「定理」と見なすことができるので、そのすべてが真であるからには、
「健全な一つの論証は、健全性を持つ論証体系である」と言えるでしょう。


> こんばんは。
>
> 健全な論証
> と
> 論理体系・推論規則の健全
>
> これらは同じ健全という言葉を使っているだけで、内容は別のものだと自分は思うのですが、
>
> ある人物が、論理学における「健全」は一つしかなく、全て同じものだと主張しています。
>
> 「妥当な論証で、前提が全て真である論証」
> これと
> 「健全性とは、Σ の定理はすべて Σ の論理的帰結であることである。」wikiより
> 「もしφが整式の集合Sから統語的に帰結するならφはSから意味論的に帰結する
> Σ│-φ ⇒ Σ│=φ」wikiより
>
> これらが、同じことだ、と言うのですが・・
>
> どうお考えでしょうか?
>
> コメントいただければ、ありがたいです。
>
>


健全性について 投稿者:kotob 投稿日:2013年 8月 6日(火)20時49分9秒
こんばんは。

健全な論証

論理体系・推論規則の健全

これらは同じ健全という言葉を使っているだけで、内容は別のものだと自分は思うのですが、

ある人物が、論理学における「健全」は一つしかなく、全て同じものだと主張しています。

「妥当な論証で、前提が全て真である論証」
これと
「健全性とは、Σ の定理はすべて Σ の論理的帰結であることである。」wikiより
「もしφが整式の集合Sから統語的に帰結するならφはSから意味論的に帰結する
Σ│-φ ⇒ Σ│=φ」wikiより

これらが、同じことだ、と言うのですが・・

どうお考えでしょうか?

コメントいただければ、ありがたいです。



Re: 物理学の地学化 投稿者:tosy 投稿日:2013年 7月12日(金)10時55分55秒
> No.3747[元記事へ]

φさんへのお返事です。

 ご返事ありがとうございます。

>  逆に言えば、この宇宙で成り立つ論理を研究すれば、いかなる宇宙の論理もわかることになります。
>
>  というふうに割り切って考えるのが、さしあたり正しい姿勢だと私は考えていますが。
>
>  「論理学が成り立たなくなる」と言っても、物理学の成否に影響するような実質的な「成り立たなさ」とはどういうものなのか、具体的に構成できないでしょうから、そのようなものの実在は信じないのが健全だろうということです。

 私自身、詳しくは理解できないのですが、少し安心して生きていけそうです。

 まずは、お礼まで。


Re: 物理学の地学化 投稿者:φ 投稿日:2013年 7月12日(金)01時20分51秒
> No.3745[元記事へ]

tosyさんへのお返事です。

>
> ほかの宇宙にいってしまったら、この宇宙で成り立つ論理学までも、
> 成り立たなくなる、といったことはないのでしょうか?
>  つまり、そうすると、別の宇宙で成り立つ物理学などについて、
> 議論することさえできなくなるのではないか、ということを
> 考えているところです。
>

 「論理」は、その定義上、適用範囲において、因果的繋がりや時空間の制限を受けないはずです。もちろん、光速度の制限を受けるわけでもありません。
  とすれば、「どこかの宇宙で」あるタイプの論理が成り立っている(あるいは成り立たない)とすると、その効力は必ずや、「この宇宙」にも瞬時に影響しているはずでしょう。
 逆に言えば、この宇宙で成り立つ論理を研究すれば、いかなる宇宙の論理もわかることになります。

 というふうに割り切って考えるのが、さしあたり正しい姿勢だと私は考えていますが。

 「論理学が成り立たなくなる」と言っても、物理学の成否に影響するような実質的な「成り立たなさ」とはどういうものなのか、具体的に構成できないでしょうから、そのようなものの実在は信じないのが健全だろうということです。


Re: 眠り姫問題の続き 投稿者:φ 投稿日:2013年 7月10日(水)15時31分16秒
> No.3744[元記事へ]

Υ田さんへのお返事です。

>
> > 問題となっているのは、「目覚めてからその人がいくらもらっているか」の期待値を1/2説と1/3説とで比べることですよね。
>
> いいえ、EAとEBの比較は、被験者が自分にとって有利な返答がAであるかBであるかを評価するために行ったものです。ですから、「今ここでXという返答がもたらす利益の期待値」がEXです。
>

http://8044.teacup.com/miurat/bbs/3738では、
「目覚めのたびに適当なギャンブルをして、答えを記録させ、答えが一貫していた場合のみ★目覚めてから一度精算するのであれば★、たぶん1/2説が正しいことになります。(1/3論者は胴元に搾取されます)」
という私の言の引用に対してY田さんが
Gの例「Aと答えて当たったら3ドルあげる。Bと答えて当たったら1ドルあげる。外れたら2ドルもらう。答えが一貫していた場合のみ、1度だけ清算するよ」
を出してきたのですから、
 「目覚めてからその人がいくらもらっているか」の期待値を比べなければなりません。
 (そうでないと引用の意味がありません)

 目覚めたときの獲得金額の期待値の計算には、「追加利益」による計算なるものは的はずれでしょう。

>
> 私は1/2論者ではないので、1/2論者ならどう考えるはずであるかという見通しが間違っていたかもしれません。1/2論者というものを、「今が何曜日であるかを確率計算に持ち込まない者」だと捕らえてしまうのです。そのせいで、1/2論者が求める追加利益の期待値は、
> EA = P(A) ( $3) + P(B) (-$2) = $1/2
> EB = P(A) (-$2) + P(B) ( $1) = $-1/2
> であろうと計算しました。
>
> 記法での行き違いがあったようですので、
>

 1/2説は、当然のことながら、「今が月曜である確率」と「今が火曜である確率」を区別できるはずです。場合Bという条件の下では、「今」は、ランダムに選ばれた目覚めですから、それが月・火のどちらに落ちるかは、当然、P(月|B)=P(火|B)=1/2です。
 通常、私が自分の身元を忘れてはいないが曜日について記憶喪失になったというような場合、当日が土曜日である主観確率は1/7でしょう。
 そのような判断すらできない者として1/2論者を設定するのは、「わら人形論法」であり、眠り姫問題の議論ではなくなってしまいます。

 記法と言えば、正確には日曜日と水曜日での判断をP(A)、実験中の判断をP(A|E)等と区別せねばなりませんね。
 前回は私も、面倒なので実験中の判断を単にP(A)、P(B)等と書きました。誤解が生じない文脈ならそれでよいと思いますけれど。


物理学の地学化 投稿者:tosy 投稿日:2013年 7月10日(水)11時38分24秒
 今までの掲示板と違う話題で恐縮です。
 さて、文献は省略しますが、φさんは、いろいろなところで、
多宇宙があると、物理学が地学化してしまう、
すなわち、この宇宙の物理法則も一つの物理学にすぎず、
別の宇宙では、ほかの物理法則が成り立つ可能性がある、
というような主張をされています。
 そこで、ずっと疑問に思っていたのですが、
ほかの宇宙にいってしまったら、この宇宙で成り立つ論理学までも、
成り立たなくなる、といったことはないのでしょうか?
 つまり、そうすると、別の宇宙で成り立つ物理学などについて、
議論することさえできなくなるのではないか、ということを
考えているところです。
 伝わるとよいのですが、よろしくお願いします。


Re: 眠り姫問題の続き 投稿者:Υ田 投稿日:2013年 7月 8日(月)00時30分39秒
φさんへのお返事です。

TTTさんとの議論が盛り上がっているところに、別のスレッドを生やしてしまったようで申し訳ありません。


> 問題となっているのは、「目覚めてからその人がいくらもらっているか」の期待値を1/2説と1/3説とで比べることですよね。

いいえ、EAとEBの比較は、被験者が自分にとって有利な返答がAであるかBであるかを評価するために行ったものです。ですから、「今ここでXという返答がもたらす利益の期待値」がEXです。

>
>  Y田さんは、たとえば「いまがB-月 である確率」と、「B-月が実現する確率」を混同してませんか。

していないはずです。私がP(A∧月)等と書いたのは、「いまがA-月である確率」で一貫しています。


>  そもそも、「追加利益」による計算なるものによると、1/2説ではEA=$1/2,EB=$-1/2とならず、EA=$1,EB=$-3/4になると思いますが。
> http://8044.teacup.com/miurat/bbs/3738 末尾でのY田さんの計算は、どういう計算にもとづくのでしょうか。

私は1/2論者ではないので、1/2論者ならどう考えるはずであるかという見通しが間違っていたかもしれません。1/2論者というものを、「今が何曜日であるかを確率計算に持ち込まない者」だと捕らえてしまうのです。そのせいで、1/2論者が求める追加利益の期待値は、
EA = P(A) ( $3) + P(B) (-$2) = $1/2
EB = P(A) (-$2) + P(B) ( $1) = $-1/2
であろうと計算しました。

記法での行き違いがあったようですので、いったんここで文章を切って、論理構成を見通しよく整理してから次回の投稿をいたします。失礼しました。


Re: 眠り姫問題の続き 投稿者:φ 投稿日:2013年 7月 5日(金)01時18分4秒
> No.3742[元記事へ]

TTTさんへのお返事です。

>
> 観測者単位の視点、客観的な視点では
> 場合A,場合Bにそれぞれ確率1/2を割り振ることはできても、
> さらにそこから場合Bの月曜,火曜に確率を割り振ることはできません。
> 1/2説(場合Bの月曜,火曜に確率1/4ずつを割り振る)は、実験中被験者の主観的視点と実験外の客観的視点とを混同して考えてしまったが故の誤りだと思われます。
>

 反論の必要もないかもしれませんが、二点ごく簡単におこたえすると、
 ● 私は今「観測者」として自分の視点を有していますが、あす雨に遭っている自分、雨から逃れた自分、等々に確率を付与することができます。一つの可能性の中をいくらでも寸断できます。
 ● 実験中に、主観的視点として外部の視点を採用することなどいくらでもできます。被験者は盲目ではありません。合理的だと思う視点を採用できます。
 ↑ 本来、こんなことはわざわざ言う必要はありませんよね。↑

>
> 場合Aなら日曜と月曜に目覚め
> 場合Bなら日曜、月曜、火曜に目覚めるとして
> コインは日曜の覚醒の前に投げる設定(これはお互い先投げ設定として了承しているはず)で
> 覚醒後の1/2説での確率分布(確率測度P)は
>  P(A-日)=P(A-月)=1/4
>  P(B-日)=P(B-月)=P(B-火)=1/6
> になるのに対し、「今は日曜ではない」と教えられた場合の(事後)確率分布(確率測度をQ)は
>  Q(A-月)=1/2
> Q(B-月)=Q(B-火)=1/4
> となっている部分です( http://8044.teacup.com/miurat/bbs/3623 )。
>
> 今回の眠り姫問題で、今は日曜でないと教えられた後の状態が、φさんの主張する別個のゲームとしてみなせるか否かもベイズ推定を用いて判断すべきです。
> そのようなベイズ的判断をせず(あるいはそれに反し)教えられる前の状態を無視して解釈し考え直すは、モンティ・ホール問題と同じ間違いと言わざるえないしょう。
>

 「別個のゲーム」としてリセットされた、と解釈する理屈は、いくつか可能です。
 ベイズ的に文句がつきそうにないのを一つ提示しましょう。
 まず便宜的に、眠り姫問題で第二の質問をする前までを第1段階、第二の質問をした後を第2段階、と呼びましょう。
http://8044.teacup.com/miurat/bbs/3619で、TTTさんは実験中の被験者に対する語りのタイミングを論じたあと、
 変則眠り姫問題(日曜にも目覚めるバージョン)を記述して、
 日曜には第1段階の質問の後、「被験者に速やかに薬を飲ませて眠らせ、記憶を消す。」とありますよね。
 つまり、日曜には第1段階の質問しかなく、第2段階に移る暇を与えないタイミングで(日曜だと知られる前のタイミングで)記憶を消すとなっています。
 第2段階日曜日を経験する確率がゼロであると、被験者にはわかっているわけですね。
 日曜でない場合のみ「日曜でない」と言われた上での第2段階の質問がくる、というルールが被験者に始めから知られている。そうすると、第2段階としては「「日曜でない」と言われた場合」だけが準拠集団となります。
 ちょうど、目覚めない時間(たとえばAにおける火曜)が準拠集団に始めから入らないのと同様、第2段階以降の目覚めについては、日曜日は除外されます。その時間は無意識なのですから。
 したがって、「日曜でない」と言われる前までは5切片すべてが準拠集団に入っていますが、第二の質問以降は、日曜は単に除外され、準拠集団が当初から3切片だけだったことになり、普通の眠り姫問題と同じになります。場合Aが1/2、場合Bが1/2です。

もともとの眠り姫問題は、火曜日には第一の質問後にはずっと何も言わずに放置し、「火曜日だ」と被験者に知られてしまう設定だからこそ、「月曜日である」という情報がベイズ改訂に役立ったのです。
火曜日の第2段階以前で直ちに眠らせてしまう設定だったら、第2段階の準拠集団がはじめからA-月とB-月だけだったことになってしまいます。(1/2説では、第二の質問の後のベイズ改訂されたAの確率が、2/3ではなく1/2という答えになり、1/3説と同じになります)

そこで、TTTさんの言い分を成り立たせるために、次のように考えましょう。
月・火において「日曜ではない」と言うのに相当する時間に、日曜日にはずっと目覚めており、沈黙が続くか、「日曜である」と告げられる。
こういう設定なら、準拠集団に日曜の第2段階が入ってきます。なぜなら、日、月、火の目覚めのいずれにおいても、「日曜でない」に該当するのかどうかを被験者は意識できるからです。
その設定で「日曜である」ではなく「日曜でない」と聞かされた。そうなると、場合Aである確率は改訂されて、3/7となるでしょう。
これだと、TTTさんの言うとおりになります。

 ともあれ、
http://8044.teacup.com/miurat/bbs/3619で、TTTさんはこう言っています。

>
> 「今は、日曜日でない」とわかった後の確率が
> 「日曜日の状況(何回起こされたのか)」によって変わる、
> というのは直観的にも正しくないように思えます。
>
 ↑
 この記述から、
 【目覚めより前だとわかる事柄についての情報(たとえば「今は日曜日でない」)がベイズ改訂をもたらすと考えるのが誤りである】ような設定をTTTさんが出したのだ、と私は思っていました。
 目覚めより前の事柄について与えられる情報は、ルール変更、またはルール変更同然のリセット(新しいゲーム開始)の合図として解しうるというような。
 しかし、そういう設定ではなかったようですね。

 変則眠り姫問題の提示が何種類か重なったうえ、否定文による情報提供という設定が曖昧さを含みがちなので、設定(思考実験)の種類は増やさない方がよいと思いますが、
 (私も設定の理解に混乱したところがあったようですが)
いずれにしても、TTTさんの混乱(混同)については以下に具体的に述べます。(以前も一度述べたことですが)

 一般的に言うと、
 オリジナル眠り姫問題の場合AとBの両方に、月曜日以前にn回の目覚めをトッピングでくっつけた形の変則的眠り姫問題をTTTさんが出してきたわけで、
 しかもそれが眠り姫問題の形に戻った時点でルール変更とは解釈できないようなバージョンとして出してきたのだとすると、TTTさんの言に反して、
 「「今は、日曜日でない」とわかった後の確率が「日曜日の状況(何回起こされたのか)」によって変わる、というのは直観的にも正しくない」
 とはとうてい言えないでしょう。
   (私があえて「1/2説のもとでも変わらない」と主張する必要はなかったわけです)

 目覚めたときに「今は最初のn回ではない」と言われたときに、
 被験者が場合A、Bについてどう確率判断を変化させるか。整理してみます。
  面倒なので確率のPは以下省略しますが、

 1/2説では、(A、B)=(1/2,1/2)から、(n+2/3n+4,2n+2/3n+4)へ
 1/3説では、(A、B)=(n+1/2n+3,n+2/2n+3)から、(1/3,2/3)となるので、
 1/3説は、結果だけ見るとオリジナルの数値と変わりありません。

 しかしこれが、1/3説の強みであるなどとは言えないでしょう。
次の二つを区別してみましょう。

 α■ はじめのn回の目覚めは実在したが、今回はたまたまそれではないことがわかった。

 β■ はじめのn回の目覚めは実在しないルールだということがわかった。

1/2説では、
情報の与えられ方がαの場合、
(A、B)=(1/2,1/2)から、(n+2/3n+4,2n+2/3n+4)へ
情報の与えられ方がβの場合、
(A、B)=(1/2,1/2)から、(1/2,1/2)へ
   βの場合のみオリジナル眠り姫問題の第1段階に一致

1/3説では、
情報の与えられ方がαの場合、
(A、B)=(n+1/2n+3,n+2/2n+3)から、(1/3,2/3)へ
情報の与えられ方がβの場合、
(A、B)=(n+1/2n+3,n+2/2n+3)から、(1/3,2/3)へ
   α、βともにオリジナル眠り姫問題の第1段階に一致

一定ルール維持の中でのデータ獲得によるベイズ改訂αの場合と、ルール変更発覚による判断修正β(これもベイズ改訂ですが)の場合とはロジックが全然異なるので、たまたまその二つの計算結果を等しいと見なせるからといって、その説の正しさが証明されたことにはなりません。
 むしろ過去の経緯の有無(αが有、βが無)によって、オリジナル眠り姫問題の答えが変わる――――正確には、より大きな問題の一部分だったのかどうかによって、当初の同じ形をした部分の正解が変わる――――というのは当然のことでしょう。
 βの場合はオリジナルと同じになることが自明なので、問題はαです。
 αとβの区別をTTTさんがし損ねていることについては、
http://8044.teacup.com/miurat/bbs/3656でもすでに指摘したとおりです。

>
> 唯一試行と反復試行の区別は、まだよくわかりません。
> 同じ試行を何回も繰り返す場合(あるいは繰り返す可能性がある場合)であっても、その試行が何回目なのか自覚しているのであれば唯一設定ということでしょうか?
> もしそうならば眠り姫問題のような記憶消去が行われない試行(確率論や統計の本などにでてくるほとんど全ての試行)
> 特に2封筒問題やサンクトペテルブルク問題では、反復設定で考えること自体ができない(唯一設定/反復設定の区別は無意味,区別は存在しない)のではないですか?
>

 個人の試行については、反復設定は、単に観念的なシミュレーションとしてしか普通ありえませんよね。期待値計算などの。(むろん、反復がルールとなっているゲームは、その一セットで唯一設定です)
 記憶消去を設定に加えれば、眠り姫問題以外でも反復設定はありうるでしょうが。
 むろん、集団による試行とか、統計については、反復設定は大いにありうるでしょう。全体での頻度、比率によって初めて個々の試行の事前確率を判断できるような場合ですが。

>
> これらの問題は、直感的には不思議に思える点や矛盾しているように見える部分を解消することが目的・目標なのだから
> 「平易化する」「パラドクスが消えてしまう」からダメなんてことはなく、むしろ逆で、パラドクスを解消するよう努力すべきでしょう。
> パラドクスを残そうとする努力は全くの無駄です。
> 「理論的な期待値と実際の値が極端に食い違う」というパラドクス的な点も結局は解消されるので、「唯一設定で考えるべき」とする根拠が希薄に思えます。
>

 実際に個々人が直面するのは常に唯一設定なのだから、
 反復設定を持ち出して不思議さが解消されてもあまり意義はありません。
 「期待値」等の数学の概念に不合理がないことが確認できるくらいのものでしょう。

>
> 眠り姫問題は、実験中覚醒時の被験者にとっての確率を考えるべき問題なのだから
> ギャンブルを参考にするのならば、プレイヤー(被験者)は実験中覚醒時内における利益を大きくするように考えるべきでしょう。
> よって、実験中覚醒時内において利益が発生し得る「一回ごとに現場で精算」タイプのルールでやる方が理に適っていると思います。
>

 「実験中覚醒時の被験者にとっての確率」とは言っても、
 唯一設定では、被験者は「自分はただの誰かではなく、2013年7月7日開始の実験に参加しているTTTである」等とわかっているわけで、ずっと自分の身元が同一であるという認識を重んじなければなりません。(全体的証拠の原理)
 とりわけ先投げ唯一設定では、可能な観測者切片(オリジナル版では3つ)がすべて実現することは決してないとわかっているのだから、準拠集団を単なる「ある実験参加者の観測者切片」から「この自分が経験する観測者切片」に狭めるべきでしょう。


Re: 眠り姫問題の続き 投稿者:TTT 投稿日:2013年 7月 3日(水)04時05分24秒
> No.3732[元記事へ]

φさんへのお返事です。

> 眠り姫問題は、さしあたり「場合Aか場合Bか」ですから、1/2説は、「場合Aが1/2」と言うだけで済みます。
> 問をさらに細分化して、「月曜かどうか」も問われるなら、当然、観測者切片を単位として考えざるをえないでしょう。
> それをあえて、「1/2説は観測者切片を区別しないはずだ」と勝手に定義して、観測者の異なる部分をイコールで結ぶはずだ、
> などと断定するのは、興味深い反論とは思えませんね。いかに愚かな1/2論者でも、観測者切片という概念そのものを否定するということはないでしょうから。

観測者単位で考える限り
『場合Aの月曜に覚醒・存在している私(観測者)』と『日曜日に場合Aとして覚醒・存在している私(観測者)』『水曜日に場合Aとして覚醒・存在している私(観測者)』は同一人物であり
その意味で
『日曜日に場合Aとして覚醒・存在している私(観測者)』=『場合Aの月曜に覚醒・存在している私(観測者)』
=『水曜日に場合Aとして覚醒・存在している私(観測者)』=『場合Aとして覚醒・存在している私(観測者)』
が成り立ち、1/2説はこれらを同一視してAで表しています。
実際、φさんの書いた推論では
日曜日における私が場合Aである確率をP(A)
実験中における私が場合Aである確率をP(A|E)
としており、同一のAを用いて表しています。

『場合Aの月曜に覚醒・存在している私』と『日曜日に場合Aとして覚醒・存在している私』『水曜日に場合Aとして覚醒・存在している私』を区別し
異なるモノだと考えるならば、これらに対して(同一の記号・事象Aではなく)それぞれ異なる記号・事象をあてがうべきでしょう。

『場合Aの月曜に覚醒・存在している私(観測者)』『日曜日に場合Aとして覚醒・存在している私(観測者)』『水曜日に場合Aとして覚醒・存在している私(観測者)』
を同一視する視点というのは、実験中の主観的な(私の)視点ではなく、実験外の客観的な視点になってしまっています。
客観的な命題として
『場合Aの月曜に被験者が覚醒する』『日曜日に場合Aである』『水曜日に場合Aである』と等しく
これらは『場合Aが実現する』と同値です。

観測者単位の視点、客観的な視点では
場合A,場合Bにそれぞれ確率1/2を割り振ることはできても、
さらにそこから場合Bの月曜,火曜に確率を割り振ることはできません。
1/2説(場合Bの月曜,火曜に確率1/4ずつを割り振る)は、実験中被験者の主観的視点と実験外の客観的視点とを混同して考えてしまったが故の誤りだと思われます。




> 1/3説は、一見してベイズ的に不自然な考え方なのです。
>  唯一設定では、「日曜日と水曜日には「唯一のこの現実が場合Aにあたる」確率が1/2なのに、
>  それらの中間の実験中だけ1/3に変わっている」というのはとりあえず変ですからね。

例えば通常の眠り姫問題の設定で、水曜日になったら実験終了として被験者を起こすとして
 目覚めた直後は、被験者は今のこの覚醒が実験中(月曜か火曜)の覚醒なのか、実験外(水曜)の覚醒なのかわからない
という条件を付け加えるとします。

1/3説では、
・目覚めた直後の状態(今が実験中なのか実験外なのかわからない状態)における確率分布(確率測度をPとする)は
 P(A-月)=P(A-水)=1/5
 P(B-月)=P(B-火)=P(B-水)=1/5 となるので
・今が実験中(月曜か火曜)だとわかった場合の確率分布(確率測度をQ)は、ベイズ推定(条件付き確率の定義)により
 Q(A-月)=Q(B-月)=Q(B-火)=1/3
 となり(当然これは、通常の眠り姫問題実験中の確率分布と同じです)
・今が実験外(水曜)だとわかった場合の確率分布(確率測度をR)は、ベイズ推定(条件付き確率の定義)により
 R(A-水)=R(B-水)=1/2
 となります。

『実験中(の私)』と『実験外(の私)』をちゃんと区別して考えれば
「自分が場合Aである」の確率が、実験中では1/3、実験外では1/2となっていてもなんら不思議ではありません。



>  1/2説がベイズ推定に反しているというTTTさんの主張を理解しやすくするため、
>  以下の推論のどこに非ベイズ的な性格があるのか、具体的に教えていただければ幸いです。
>
> 日曜日における事前確率
> (日曜の朝にすでにコインを投げた、または日曜の夜にこれからコインを投げる)
>   P(A)=P(B)=1/2
> E・・・・・・実験中に私は目覚める
>   P(E)=1
> 実験中の事後確率
> P(A|E)=P(E|A)P(A)/P(E)=1/2

ここの式だけ見れば確かに形式的にはベイズ推定に反していませんが、前述したように意味的には正しくありません。
また、眠りによって被験者は曜日感覚(曜日に関する情報)を失うわけですから(時間的な前後関係は日曜:前―実験中:後であっても)
ベイズ的には、実験中の被験者の主観的な視点では、日曜日における確率を事前確率、実験中での確率を事後確率と呼ぶことはできません。
それができるのは、実験外の客観的な視点だけです(そのような視点では、[場合B]を[月曜の場合B]と[火曜の場合B]とに分けて考えるということができません)。


> TTTさんの主張は「1/2説がベイズ推定に反している」というのではなく、
> 1/2説と1/3説を使い分けるのが非ベイズ的、というのでしたか。

いえ。φさんの主張の中には1/2説だけでベイズ推定に反している部分もあります。何回か書きましたが
場合Aなら日曜と月曜に目覚め
場合Bなら日曜、月曜、火曜に目覚めるとして
コインは日曜の覚醒の前に投げる設定(これはお互い先投げ設定として了承しているはず)で
覚醒後の1/2説での確率分布(確率測度P)は
 P(A-日)=P(A-月)=1/4
 P(B-日)=P(B-月)=P(B-火)=1/6
になるのに対し、「今は日曜ではない」と教えられた場合の(事後)確率分布(確率測度をQ)は
 Q(A-月)=1/2
Q(B-月)=Q(B-火)=1/4
となっている部分です( http://8044.teacup.com/miurat/bbs/3623 )。

ベイズ的には、事後確率の定義のどこにも、φさんが言う
> 各場合の中で確率が再分配されるだけです。場合間をまたいでの配分はありません。
に該当するような所はないので、このφさんの考えは事後確率の定義から言えば単なる間違いです。


> さて、
>  日曜、月曜、火曜に目覚めることにして、日曜と月曜の間にコインを投げる場合は、月曜でないと教えられれば後投げ設定、日曜でないと教えられれば先投げ設定である。
>  以前、そのことに私は同意しました。
>  コイン投げで世界が分岐した前後で、被験者の記憶が消されていますからね。
>  情報が与えられる日以降と、それ以前とで、被験者が別個のゲームをしているものと考えることができるからです。
>  (もちろん一続きのゲームとして考えるべきだが、日曜日を含めたゲーム全体と、月曜日以降の部分的ゲームとを、それぞれ別個の完全なゲームと考える文脈もあり、ということ)
> 「日曜でない」と教えられれば、教えられた瞬間から後を(記憶が連続しているにもかかわらず)切り離すというのではなく、
>  目覚めたときに遡って目覚めから後を全部、改めて解釈し直して、先投げ設定であると見なせるわけです。独立したゲームとしてルール再設定ができるということです。

一続きのゲームとして考えるならば、φさんの考え方はベイズ推定に反しています。
というか、φさんの考え方はモンティ・ホール問題のよくある誤答と同じ間違いですよね。

多くの人はモンティ・ホール問題の司会の開けた扉がハズレだと分かった後の状態を
「単に扉が2つで1つがアタリ」という別個のゲームとみなせると考えてしまったことにより間違えてしまったわけです。
せっかく情報を得たのに、その情報や司会が扉を選んで開ける前の状態を無視して、
目の前の「扉が2つで1つがアタリ」という状況だけを見て、改めて「確率1/2ずつ」と解釈し直してしまうのは間違いだったのです。
また
司会者がモンティ・ホール問題のルールに従わず、ランダムに選んだ扉を開いてハズレだった時の状況は「単に扉が2つで1つがアタリ」という別ゲームと同一みなせる
ということはベイズ推定に従って計算することで示せすことができるのです。

今回の眠り姫問題で、今は日曜でないと教えられた後の状態が、φさんの主張する別個のゲームとしてみなせるか否かもベイズ推定を用いて判断すべきです。
そのようなベイズ的判断をせず(あるいはそれに反し)教えられる前の状態を無視して解釈し考え直すは、モンティ・ホール問題と同じ間違いと言わざるえないしょう。
そして実際ベイズ的に判断してみると、(φさんの理論に沿って導かれた)「先投げ設定であると見せる(1/2説が適用される)」というのは誤りであるとわかってしまいます。
これはつまり、φさんの先投げの定義や「先投げなら1/2説が適用」などの主張のどこかに欠陥があるということです。



> 唯一設定と反復設定は、定義はいくらでも慎重になされうるでしょうから、ここでは例示的な特徴を述べておきます。

唯一試行と反復試行の区別は、まだよくわかりません。

同じ試行を何回も繰り返す場合(あるいは繰り返す可能性がある場合)であっても、その試行が何回目なのか自覚しているのであれば唯一設定ということでしょうか?
もしそうならば眠り姫問題のような記憶消去が行われない試行(確率論や統計の本などにでてくるほとんど全ての試行)
特に2封筒問題やサンクトペテルブルク問題では、反復設定で考えること自体ができない(唯一設定/反復設定の区別は無意味,区別は存在しない)のではないですか?


> 2封筒問題やサンクトペテルブルク問題もそうですが、本来、このような思考実験は、唯一設定が基本でしょう。
> (反復設定だと、たとえば2封筒問題は開封バージョンと未開封バージョンが同化してしまって平易化するし、
>  サンクトペテルブルク問題も、無限回試行を実際にやって平均をとるものとするといくらでも高額をゲットできることが保証されてパラドクスが消えてしまう。
>  唯一設定こそが、理論的な期待値と実際の値との極端な食い違いを実現できる)。

2封筒問題やサンクトペテルブルク問題の不思議に思うような点は、(唯一試行/反復試行の区別を考えずとも)通常の確率論で充分説明がつくと私は考えています。
確率論では、開封バージョンと未開封バージョンとでは異なる記号や式で表される別物として扱えるので、同化するということはありませんし
確率論では、「無限回試行を実際にやって平均をとる」などというナンセンスな事も考えたりはしません。
それはともかくとして
これらの問題は、直感的には不思議に思える点や矛盾しているように見える部分を解消することが目的・目標なのだから
「平易化する」「パラドクスが消えてしまう」からダメなんてことはなく、むしろ逆で、パラドクスを解消するよう努力すべきでしょう。
パラドクスを残そうとする努力は全くの無駄です。
「理論的な期待値と実際の値が極端に食い違う」というパラドクス的な点も結局は解消されるので、「唯一設定で考えるべき」とする根拠が希薄に思えます。



>  目覚めのたびに適当なギャンブルをして、一回ごとに現場で精算すれば、たぶん1/3説が正しいことになります。(1/2論者は胴元に搾取されます)
>  目覚めのたびに適当なギャンブルをして、答えを記録させ、答えが一貫していた場合のみ目覚めてから一度精算するのであれば、
>  たぶん1/2説が正しいことになります。(1/3論者は胴元に搾取されます)
>   問題は、どちらのルールでやるのが理に叶っているか、ということですね。

実験外(実験後)における利益を大きくしようとするのであれば、ゲーム内容によっては
実験外部からの視点で考えて行動した方がいい場合も当然あるでしょう。
ただしこれは
実験外部からの視点「場合Aが実現する確率1/2,場合Bが実現する確率1/2 (場合BをB-月,B-火 に分解して考えることはできない)」
の正当性を示すだけであって
1/2説「今が場合Aである確率1/2,今が場合Bの月曜である確率1/4,今が場合Bの火曜である確率1/4」
の正当性を示すものではありません。

眠り姫問題は、実験中覚醒時の被験者にとっての確率を考えるべき問題なのだから
ギャンブルを参考にするのならば、プレイヤー(被験者)は実験中覚醒時内における利益を大きくするように考えるべきでしょう。
よって、実験中覚醒時内において利益が発生し得る「一回ごとに現場で精算」タイプのルールでやる方が理に適っていると思います。


Re: 眠り姫問題の続き 投稿者:φ 投稿日:2013年 7月 2日(火)02時02分53秒
> No.3740[元記事へ]

Υ田さんへのお返事です。

>
> >   1/3説での計算は、正しくは
> >  EA = P(A∧月) ( $3) + P(B∧〔月or火〕) (-$2) =$3/3+$-4/3 = $-1/3
> >  EB = P(A∧月) (-$2) + P(B∧〔月or火〕) ( $1) =$-2/3+$2/3 = $0
> >
>
> >   1/2説での計算は
> >  EA = P(A∧月) ( $3) + P(B∧〔月or火〕) (-$2) =$3/2+$-2/2 = $1/2
> >  EB = P(A∧月) (-$2) + P(B∧〔月or火〕) ( $1) =$-2/2+$1/2 = $-1/2
> >
>
> 以上の計算は、火曜日の返答が、月曜日の返答と同額の利益・損失をもたらすときの計算式になっているようです。つまり、私が先ほど挙げたGの期待値計算ではなく、下記のゲームG'での期待値計算になっています。
>
> G'「Aであると答えて当たったら3ドルあげる。Bであると答えて当たったら1ドルあげる。外れたら2ドルもらう。1回の返答の度に1回清算するよ」
>

問題となっているのは、「目覚めてからその人がいくらもらっているか」の期待値を1/2説と1/3説とで比べることですよね。

 Y田さんは、たとえば「いまがB-月 である確率」と、「B-月が実現する確率」を混同してませんか。

 毎回精算するゲーム G' の期待値は、それぞれ次のようになるのでは。
Bのときの目覚めは互いに連動しているので、

  1/3説
 EA = P(A) ( $3) + P(B) (-$2) + P(B) (-$2) = $-5/3
 EB = P(A) (-$2) + P(B) ( $1) + P(B) ( $1) = $2/3

  1/2説
 EA = P(A) ( $3) + P(B) (-$2) + P(B) (-$2) = $-1/2
 EB = P(A) (-$2) + P(B) ( $1) + P(B) ( $1) = $0

 対して、一回だけ精算するGにおいては、冒頭の私の計算が妥当します。

 そもそも、「追加利益」による計算なるものによると、1/2説ではEA=$1/2,EB=$-1/2とならず、EA=$1,EB=$-3/4になると思いますが。
 http://8044.teacup.com/miurat/bbs/3738 末尾でのY田さんの計算は、どういう計算にもとづくのでしょうか。


Re: 眠り姫問題の続き 投稿者:Υ田 投稿日:2013年 7月 1日(月)21時39分59秒
> No.3739[元記事へ]

φさんへのお返事です。

>   1/3説での計算は、正しくは
>  EA = P(A∧月) ( $3) + P(B∧〔月or火〕) (-$2) =$3/3+$-4/3 = $-1/3
>  EB = P(A∧月) (-$2) + P(B∧〔月or火〕) ( $1) =$-2/3+$2/3 = $0
>

>   1/2説での計算は
>  EA = P(A∧月) ( $3) + P(B∧〔月or火〕) (-$2) =$3/2+$-2/2 = $1/2
>  EB = P(A∧月) (-$2) + P(B∧〔月or火〕) ( $1) =$-2/2+$1/2 = $-1/2
>

以上の計算は、火曜日の返答が、月曜日の返答と同額の利益・損失をもたらすときの計算式になっているようです。つまり、私が先ほど挙げたGの期待値計算ではなく、下記のゲームG'での期待値計算になっています。

G'「Aであると答えて当たったら3ドルあげる。Bであると答えて当たったら1ドルあげる。外れたら2ドルもらう。1回の返答の度に1回清算するよ」

私が前回挙げたGは、答が一貫していた時のみに清算するので、自分の答が一貫するはずだと信じている被験者にとっては、火曜日に発生する追加利益が0です。一方G'では、自分の答が一貫するはずだと信じている被験者にとって、火曜日の返答で月曜の返答の利益または損失が倍増します。この点がGとG'の違いです。

冒頭の計算により、1/3論者は、G'に対してはBと答えます。また、私の前回の計算により、1/3論者はGに対してはAと答えます。これらの回答によって、1/3論者はいずれのゲームでも期待値の上での損を免れます。

1/2論者はG'に対してはAと答えます。この返答は期待値の上で損です。

以上から、1/2説を棄却できるのではないかと思います。

以下は眠り姫問題に直接関わらない蛇足です。

私の関心は、1/2説と1/3説どちらが正しいかということよりも、確率論を棄却または採択する一般的な方法にあります。

科学的研究とは(もっと一般に、知識を得るとは)、可能な宇宙の集合から現実の宇宙の候補を絞り込む活動だと言えます(1ビットの知識を得る度に、可能な宇宙は半減します)。ここで考えるべき可能な宇宙の集合は、厄介なことに、Lv4マルチバースにまたがっています。
Lv3までなら、マルチバースの中で自分自身を位置決めする活動を現在の物理学の延長上の確率論で正当化できる見込みがありますが、Lv4だと確率論を使える保証がありません。これがくやしい。
そこで、Lv4マルチバース中で自分自身を位置決めするのに使える理論を構築したい。そのための足掛かりとして、Lv3までの手段である確率論を一旦は理解し直して、どんな時にどんな確率論が使えるのかを判定できるようになっておきたい。つまり、確率論を棄却または採択することができるようになりたい。

というのが私の関心の的です。もっとも、「Lv4マルチバース中で自らを位置決めする基準は、最節約の原理でいいじゃん」という気もしておりますが、「最節約の原理を一意に記述できるのか」と考えると、とても難しそうです。


Re: 眠り姫問題の続き 投稿者:φ 投稿日:2013年 7月 1日(月)03時15分20秒
> No.3738[元記事へ]

Υ田さんへのお返事です。

>
> ・EA = P(A∧月) ( $3) + P(B∧月) (-$2) + P(B∧火)(0) = $1/3
> EB = P(A∧月) (-$2) + P(B∧月) ( $1) + P(B∧火)(0) = $-1/3
> ・よって、Aと答えるべし。
>


↑ これ、計算の仕方が間違ってませんか。

  1/3説での計算は、正しくは
 EA = P(A∧月) ( $3) + P(B∧〔月or火〕) (-$2) =$3/3+$-4/3 = $-1/3
 EB = P(A∧月) (-$2) + P(B∧〔月or火〕) ( $1) =$-2/3+$2/3 = $0

 とすべきでしょう。
 「一貫した返答」は月曜だけになされるわけではないので。

  1/2説での計算は
 EA = P(A∧月) ( $3) + P(B∧〔月or火〕) (-$2) =$3/2+$-2/2 = $1/2
 EB = P(A∧月) (-$2) + P(B∧〔月or火〕) ( $1) =$-2/2+$1/2 = $-1/2

 選考順序が食い違いますね。
 1/3論者は、損得なしのつもりで「B」と答え続けることで大いに搾取されるでしょう。


Re: 眠り姫問題の続き 投稿者:Υ田 投稿日:2013年 6月29日(土)17時48分41秒
φさんへのお返事です。

> > 眠り姫問題は、Gが存在しない例になるのではないかというのが、現在私が持っている感触です。
> >
>
>  というより、どちらに有利なゲームも構成できてしまう(それなりに公正に見えるゲームを)というのが真相かもしれませんね。

私なら、どちらに有利なゲームも構成できてしまう場合、両論を棄却して、「どちらに有利なゲームも構成できる」という判断に用いた確率論を採用します。


>  たとえば、
>  目覚めのたびに適当なギャンブルをして、一回ごとに現場で精算すれば、たぶん1/3説が正しいことになります。(1/2論者は胴元に搾取されます)

はい。私はこれによって、1/2論を棄却できると判断します。

>  目覚めのたびに適当なギャンブルをして、答えを記録させ、答えが一貫していた場合のみ目覚めてから一度精算するのであれば、たぶん1/2説が正しいことになります。(1/3論者は胴元に搾取されます)

Gの例「Aと答えて当たったら3ドルあげる。Bと答えて当たったら1ドルあげる。外れたら2ドルもらう。答えが一貫していた場合のみ、1度だけ清算するよ」
1/2論者「P(A)=P(B)=1/2なので、Aと答えた方が得だ」

こちらのゲームでは、1/3論者は次のように考えるはずです。
・いま起こされた。
・ということは、P(A∧月)=P(B∧月)=P(B∧火)=1/3だ。
・今回の返答だけで利益額が決まるとは限らない。今回の返答と、もう一回(あれば)の返答とで、利益額の期待値が決まる。利益額の期待値が最も上がるように返答したい。
・以上の3つの項目は、今回の覚醒が何回目であっても成り立つので、自分の返答は一貫するはずだ。
・返答が一貫するのだから、利益や損失は、月曜の時点で発生すると考えて良い。火曜の返答(あれば)による追加利益は0であると考えて良い。
・俺が今、Aと答えることで得られる追加利益の期待値(=EA)とBと答えることで得られる追加利益の期待値(=EB)とを比較して、大きい方を答えよう。
・EA = P(A∧月) ( $3) + P(B∧月) (-$2) + P(B∧火)(0) = $1/3
EB = P(A∧月) (-$2) + P(B∧月) ( $1) + P(B∧火)(0) = $-1/3
・よって、Aと答えるべし。

1/2論者が算出する期待値はEA=$1/2,EB=$-1/2ですので、選好順序は一致しています。絶対値が合わないせいで、一見「返答権を40セントで買う」といったケースで差異が生じそうに見えますが、そのケースでも選好順序が一致することを確認済みです。


Re: 眠り姫問題の続き(追伸) 投稿者:φ 投稿日:2013年 6月27日(木)23時41分29秒
> No.3736[元記事へ]

kotobさんへのお返事です。

そうですね、kotobルールであれば、1/3ということで意見の食い違いはないでしょう。先投げと後投げの区別も生じませんしね。

>
> 元のルールで例えば、Bの場合に被験者が死ぬまで毎日起こし続けるルールでも、先投げ唯一設定では、A,Bとも1/2なのですね。(被験者が自分が年取っていったりの変化を自覚してないという条件で。)
>
> 確率1未満の場合が含まれていることが事前確率の改定に決定的な意味を持つと。
>

 先投げ唯一設定なら、いずれかの場合でP(覚醒|場合)が1未満の設定でのみ、実験前と実験中とで主観確率が変化しますね。
 実を言うと、唯一設定では、後投げ設定で1/3説が妥当することの正当化の方が難しいくらいです(正当化できると私は考えますが)。

 とくにP(覚醒|A)=P(覚醒|B)=1のときハッキリしますが、
 1/3説は、一見してベイズ的に不自然な考え方なのです。
 唯一設定では、「日曜日と水曜日には「唯一のこの現実が場合Aにあたる」確率が1/2なのに、それらの中間の実験中だけ1/3に変わっている」というのはとりあえず変ですからね。


Re: 眠り姫問題の続き(追伸) 投稿者:kotob 投稿日:2013年 6月27日(木)11時02分26秒
> No.3734[元記事へ]

φさんへのお返事です。

1/3説と打ったのは紛らわしかったですね、すいません。
片方が1/2で起こすルールの場合は、上げられていたベイズ式でもAが1/3になる。
ということの確認でした。
その条件に限っての1/3説・・でもその条件なら、説というまでもなく大方の意見が一致するのでしょうね?

> 百回起こしても千回起こしても同じことです

元のルールで例えば、Bの場合に被験者が死ぬまで毎日起こし続けるルールでも、先投げ唯一設定では、A,Bとも1/2なのですね。(被験者が自分が年取っていったりの変化を自覚してないという条件で。)

確率1未満の場合が含まれていることが事前確率の改定に決定的な意味を持つと。


Re: 眠り姫問題の続き(追記) 投稿者:φ 投稿日:2013年 6月25日(火)00時41分41秒
> No.3734[元記事へ]

φさんへのお返事です。

> kotobさんへのお返事です。
>
>
> >
> > ところで、仮にルールが、Aなら1/2の確率で起こす、Bなら1 という形なら
> > Bのもとでの目覚める確率がAのもとでの目覚める確率の2倍になるので、上記のベイズ式を用いても 1/3 説になる。
> >
>
>  その通りだと思います。


 「その通り」と
 「1/3 説になる。」というkotobさんの言葉を肯定しましたが、
 単に「答えが1/3になる」という意味であって、「1/3説の考え方が正しい」という意味ではありません。
 kotobルールでは、場合Bのとき百回起こそうが1万回起こそうが場合Aが1/3で変わりないので、
 考え方としては依然として「もともとの1/2説が正しい」ということです。

 念のため、追記させていただきました。


Re: 眠り姫問題の続き(追伸) 投稿者:φ 投稿日:2013年 6月25日(火)00時02分31秒
> No.3733[元記事へ]

kotobさんへのお返事です。


>
> ところで、仮にルールが、Aなら1/2の確率で起こす、Bなら1 という形なら
> Bのもとでの目覚める確率がAのもとでの目覚める確率の2倍になるので、上記のベイズ式を用いても 1/3 説になる。
>

 その通りだと思います。
P(A|E)=P(E|A)P(A)/P(E)=1/3 ですからね。

 場合Aでは起こすとしたら月曜だけ確率1/2で起こすのに対して、
 場合Bでは、
 月曜だけ確率1で起こす、としても、
 オリジナルどおり月曜と火曜にともに確率1で起こす、としても同じことでしょう。(百回起こしても千回起こしても同じことです)
 目覚めたときの場合Aの事後確率は1/3。

 日曜日の事前確率では、「実験中に自分が目覚めるかどうか」は無視して場合Aが1/2と計算できたのに対し、
 実験中は、「自分が目覚めない場合が除外された」というデータは証拠価値があります。
 そして「目覚めた」というデータは、それ以上の手掛かりを全く含みません。(「この目覚め方は確率1/2っぽいかな」とか「2回分起きたようだ」とか「千回分起きたらしい」とかいった合理的な自覚はありえません)

 新しい設定の提案をありがとうございます。
 このルールでは、後投げ設定は不可能になりますね。
 場合Aのとき起こすか起こさないかを先に決めねばならないため、月曜日の被験者覚醒以前に場合A・Bを決定するコイン投げが必要なので。

Re: 眠り姫問題の続き(追伸) 投稿者:kotob 投稿日:2013年 6月24日(月)21時51分49秒
> No.3732[元記事へ]

φさんへのお返事です。

横レスで失礼致します。

> 日曜日における事前確率
> (日曜の朝にすでにコインを投げた、または日曜の夜にこれからコインを投げる)
>   P(A)=P(B)=1/2
> E・・・・・・実験中に私は目覚める
>   P(E)=1
> 実験中の事後確率
> P(A|E)=P(E|A)P(A)/P(E)=1/2

これで見ると、Aの場合に目覚める確率も、Bの場合に目覚める確率も、どちらも
少なくとも一度は目覚める確率 として 1
なので、事前確率が変更されるような差異がない ということなのですね?

Bでは2回起こされるけれども、Aの2倍起こされるというような、式への反映は為されない・・


ところで、仮にルールが、Aなら1/2の確率で起こす、Bなら1 という形なら
Bのもとでの目覚める確率がAのもとでの目覚める確率の2倍になるので、上記のベイズ式を用いても 1/3 説になる。

で 合っていますか?
この話題は追っていなかったので、トンチンカンなことを書いていたらすいません。


Re: 眠り姫問題の続き(追伸) 投稿者:φ 投稿日:2013年 6月20日(木)05時26分39秒
> No.3731[元記事へ]

 先の投稿、
 書き方が不充分でした。

 ↓ これですが、

>
>  1/2説がベイズ推定に反しているというTTTさんの主張を理解しやすくするため、
>  以下の推論のどこに非ベイズ的な性格があるのか、具体的に教えていただければ幸いです。
>
> 日曜日における事前確率
> (日曜の朝にすでにコインを投げた、または日曜の夜にこれからコインを投げる)
>   P(A)=P(B)=1/2
> E・・・・・・実験中に私は目覚める
>   P(E)=1
> 実験中の事後確率
> P(A|E)=P(E|A)P(A)/P(E)=1/2

 TTTさんの主張は「1/2説がベイズ推定に反している」というのではなく、
 1/2説と1/3説を使い分けるのが非ベイズ的、というのでしたか。

 ともあれ、1/2説を採らないのがTTTさんの立場でしょうから、
 「自分が誰でいつゲームをしているか」が本人にとって明白であるとき、上の推論がなぜダメなのかを教えてほしいです。


Re: 眠り姫問題の続き 投稿者:φ 投稿日:2013年 6月20日(木)05時08分10秒
> No.3728[元記事へ]

TTTさんへのお返事です。


>
> ここまでの議論の中でφさんが「先投げ設定」の定義を書いたことがありましたっけ?
> "誤読される(φさんの意図しない意味で読まれる)"のが嫌なら、あらかじめ定義をきちんと書いて下さい。
>

 被験者の判断が求められる枠組みがあらかじめ「コイン投げで決められた」と被験者にわかっている場合が先投げなので、とくに「定義」として述べなくても十分定義されていると思いますが。
 (ゲームによっては改めて定義する必要ある場合も考えられますが、眠り姫問題に関しては、疑問の余地はないでしょう)
 いずれにしても、すでにコインが投げられたとわかった後の段階であっても、そもそも観測者切片が目覚めた時点ですでにコインが投げられていて世界(場合)ごと選ばれてしまった後だったのかどうかがわからないのでは、後投げ設定と言わざるをえませんね。
 観測者切片の途中で分岐するような変則的設定は、すべて後決めであることが明白でしょう。
(そもそもそういう設定は、最終日であることを知られないためにダミーのコイン投げをやってみせるなど、人為的無理がありすぎて、眠り姫問題とは別の問題というべきでしょう)

 さて、
 日曜、月曜、火曜に目覚めることにして、日曜と月曜の間にコインを投げる場合は、月曜でないと教えられれば後投げ設定、日曜でないと教えられれば先投げ設定である。
 以前、そのことに私は同意しました。
 コイン投げで世界が分岐した前後で、被験者の記憶が消されていますからね。
 情報が与えられる日以降と、それ以前とで、被験者が別個のゲームをしているものと考えることができるからです。
 (もちろん一続きのゲームとして考えるべきだが、日曜日を含めたゲーム全体と、月曜日以降の部分的ゲームとを、それぞれ別個の完全なゲームと考える文脈もあり、ということ)
 「日曜でない」と教えられれば、教えられた瞬間から後を(記憶が連続しているにもかかわらず)切り離すというのではなく、目覚めたときに遡って目覚めから後を全部、改めて解釈し直して、先投げ設定であると見なせるわけです。独立したゲームとしてルール再設定ができるということです。
 前回の目覚め途中投げ設定では、記憶が連続している最中に世界の分岐が起きたのかもしれないし、その前に分岐していたのかもしれないというあやふや設定なので、被験者は統一的ルールでゲームを理解できず、「コインを投げた」と教えられても先投げ設定ゲームだったと解釈し直せません。
 よって、私は矛盾していないはずです。

>
> ついでに、唯一設定と反復設定の定義もよくはわからないので、教えて欲しいです。
>

 先投げ設定・後投げ設定の区別と、唯一設定・反復設定の区別との対応関係については、『多宇宙と輪廻転生』p.276~あたりを参照していただければ幸いですが――――
 先投げ設定・後投げ設定の区別を重視する私の立場は、この対応関係を突き詰めることで洗練できると考えています。唯一設定・反復設定の区別はすでに多くの論者が重視しているので。
 唯一設定と反復設定は、定義はいくらでも慎重になされうるでしょうから、ここでは例示的な特徴を述べておきます。

 ■自分が何度も同じような実験に参加していることがわかっていて(あるいは一回だけ参加かもしれないがその確証がなくて)、目覚めるたびに何月何日の実験なのかわからない設定は、反復設定。(場合Aと場合Bをほぼ同じ数だけ経験することがわかっている、あるいは疑われている。水曜日に振り返ったとき、どの目覚めを振り返っているのか特定できないだろう、ということが実験中目覚めにおいてわかっている)
 場合A、Bをまたいであらゆる観測者切片がシャッフルされるも同然の準拠集団をとるのが適切となります。
 ■電波時計をはめたまま目覚める、あるいは「これは2013年6月23日日曜日開始の、TTT氏を被験者とする実験である」という証明書を握りしめたまま目覚めるような設定は、唯一設定。(「この実験」についての判断が自覚的にできる場合に相当する。9月26日水曜日に振り返ったとき、自分が場合Aと場合Bのどちらか一方しか経験しなかったことを知る、ということが実験中目覚めにおいてわかっている)
 さらに先投げという条件が加わると、場合A、Bのいずれかだけに終始閉じこめられた観測者を準拠集団にとるのが適切となります。

 2封筒問題やサンクトペテルブルク問題もそうですが、本来、このような思考実験は、唯一設定が基本でしょう。
(反復設定だと、たとえば2封筒問題は開封バージョンと未開封バージョンが同化してしまって平易化するし、サンクトペテルブルク問題も、無限回試行を実際にやって平均をとるものとするといくらでも高額をゲットできることが保証されてパラドクスが消えてしまう。唯一設定こそが、理論的な期待値と実際の値との極端な食い違いを実現できる)。

 唯一設定が前提であるため、眠り姫では先投げと後投げの区別が重要になるわけです。
 後投げだと、実験中に分岐以前の重ね合わせ状態が持続しているため、場合Aと場合Bとが現実に共存し、多数設定の論理が残存するというわけです。

>
> 1/3説では正しくその通りですが、今は1/2説の場合を話しています。
>  1/3説は「観測者切片」を単位とした考え方であり、1/2説は「観測者」を単位とした考え方
> というのがφさんの主張だったはずです。
>

 眠り姫問題は、さしあたり「場合Aか場合Bか」ですから、1/2説は、「場合Aが1/2」と言うだけで済みます。
 問をさらに細分化して、「月曜かどうか」も問われるなら、当然、観測者切片を単位として考えざるをえないでしょう。
 それをあえて、「1/2説は観測者切片を区別しないはずだ」と勝手に定義して、観測者の異なる部分をイコールで結ぶはずだ、などと断定するのは、興味深い反論とは思えませんね。いかに愚かな1/2論者でも、観測者切片という概念そのものを否定するということはないでしょうから。

 ところで、
 1/2説がベイズ推定に反しているというTTTさんの主張を理解しやすくするため、
 以下の推論のどこに非ベイズ的な性格があるのか、具体的に教えていただければ幸いです。

日曜日における事前確率
(日曜の朝にすでにコインを投げた、または日曜の夜にこれからコインを投げる)
  P(A)=P(B)=1/2
E・・・・・・実験中に私は目覚める
  P(E)=1
実験中の事後確率
P(A|E)=P(E|A)P(A)/P(E)=1/2


Re: 眠り姫問題の続き 投稿者:φ 投稿日:2013年 6月20日(木)04時34分14秒
> No.3729[元記事へ]

Υ田さんへのお返事です。

>
> 眠り姫問題は、Gが存在しない例になるのではないかというのが、現在私が持っている感触です。
>

 というより、どちらに有利なゲームも構成できてしまう(それなりに公正に見えるゲームを)というのが真相かもしれませんね。

 すぐにはよいゲームの例を構成できないのでいい加減ですみませんが、
 たとえば、
 目覚めのたびに適当なギャンブルをして、一回ごとに現場で精算すれば、たぶん1/3説が正しいことになります。(1/2論者は胴元に搾取されます)
 目覚めのたびに適当なギャンブルをして、答えを記録させ、答えが一貫していた場合のみ目覚めてから一度精算するのであれば、たぶん1/2説が正しいことになります。(1/3論者は胴元に搾取されます)
  問題は、どちらのルールでやるのが理に叶っているか、ということですね。
 実験の当事者ではなく第三者が外部からゲームを観察しながら行なえるゲームで、「いかにも合理的」というものがあれば、解決するのでしょうけれども。
 (ただし、第三者視点定位では眠り姫問題ではなくなる恐れ大だが・・・・・・)



Re: 眠り姫問題の続き 投稿者:Υ田 投稿日:2013年 6月18日(火)07時55分6秒
> No.3728[元記事へ]

φさんとTTTさんへのお返事です。

現在、眠り姫問題には着いていけておりませんが、

確率論Aと確率論Bがあり、両者が異なる答えを出すとき、如何にして片方または両方を棄却すれば良いのか

点に絞ってコメントします。

次のような判定基準はいかがでしょうか。

「A論を信じる人だけが住む島αと、B論を信じる人だけが住む島βがあるものとする。次の条件を満たすギャンブルGが存在するとき、B論を棄却できる。
・Gは、1人のα島民vs1人のβ島民で行われるゼロサムゲームである。
・A論に基づけばα島民が期待値の観点からは有利である。B論に基づけばβ島民が期待値の観点からは有利である。
・十分大きな人数N人ずつの両島民を集めて、同時に独立にGを行わせると、α島民の利得の和が正である。

Gが存在しない場合、AとBの違いは見かけ上のものに過ぎない


短く言うと、「ある確率論が普及することによって、ゼロサムな賭博の胴元を業とする者が利益を得るなら、その確率論を棄却すべし。」ということになります。


一例を挙げます。
A「サイコロを振って1が出る確率は1/6だ」
B「サイコロを振って1が出る確率は1/2だ」
G「サイコロを振って1が出たらα島民がβ島民に2ドル払う。1以外が出たらβ島民がα島民に1ドル払う。」


上記の例ではGを簡単に構成できましたが、眠り姫問題は、Gが存在しない例になるのではないかというのが、現在私が持っている感触です。


Re: 眠り姫問題の続き 投稿者:TTT 投稿日:2013年 6月17日(月)23時31分27秒
φさんへのお返事です。

> 私が先投げ設定と言ってきたのは、ゲーム開始時(月曜の覚醒前)にすでに場合AかBかが決定されているというルールのことであり、
> 「ゲーム開始後であってもコインを投げればそこから後は先投げ設定になる」という意味ではありません。

私は「(元の眠り姫問題の通常の後投げ設定の場合も含め)ゲーム開始後であってもコインを投げればそこから後は先投げ設定になる」などと思っていたわけではわりませんよ。
ですので、「TTTがそういう誤解をしている」という前提(思い込み)によるφさんの反論・説明はほとんど意味がなく、的外れです。


私が以前に挙げた方の、元の途中投げ設定
 日曜日の午前中に被験者を眠らせた後、1回だけ被験者を起こし、眠らせて記憶を消す。
 その後、日曜日の午後にコインを投げて場合Aか場合Bかを決め、
 場合Aならば月曜日に1回起し、場合Bならば月曜日と火曜日に1回ずつ起こすとする。

では、ゲーム開始時(日曜日の午後の覚醒時)にすでに場合AかBかが決定されているというルールではありませんが
目覚めてから「今は、日曜日でない」という情報を得た後では、先投げ設定
目覚めてから「今は、月曜日でない」という情報を得た後では、後投げ設定に相当するということをφさんも認めていて
「常識的な公式」とやらで考えると

> ●「今は、日曜日でない」(先投げ設定)・・・・・・1/2説が妥当
> ●「今は、月曜日でない」(後投げ設定)・・・・・・1/3説が妥当
> ● 単に目覚めて、情報なし(後投げ設定)・・・・・・1/3説が妥当

>「今は、月曜日でない」とわかった場合は、等確率の再配分だから1/3ずつで問題なし。
>「今は、日曜日でない」とわかった場合は、自分の身元が確定したので(いずれか一方の分岐だけにいる人物と確定したので)観測選択の単位が変わり、
> 単位は「世界」「観測者」となり、場合A、場合Bがコイン表裏の確率に一致する。
とφさんが書いてます。( http://8044.teacup.com/miurat/bbs/3623 )

これと同様に、今回の途中投げ設定(覚醒中コイン投げ設定)でも「常識的な公式」とやらで考えると、
コインをすでに投げた(すなわち場合AなのかBなのかは確定している)と知った後(2回目インタビュー時)は
 自分の身元が確定したので(いずれか一方の分岐だけにいる人物と確定したので)観測選択の単位が「観測者」となり、場合A、場合Bの確率がコイン表裏の確率に一致する。
となるはずです。
以前のφさんの発言と、今回のφさんの発言・先投げ設定の定義「ゲーム開始時にすでに場合AかBかが決定されている」とが矛盾しています。


今回私が挙げた途中投げ設定(覚醒中コイン投げ設定)は、いくら先投げ=1/2説支持者といえども
1・2回目のどちらのインタビュー時でも1/3説が妥当であるように見えやすい(そう考えないとベイズに反するということがあまりにも簡単にわかってしまう)例だったので
φさんは単純に(以前の自説とは反していても)「どちらのインタビュー時でも、後投げ設定で1/3説が正しい」と思ってしまったのかもしれません。

先投げ=1/2説支持者に誤りを自覚させるためには
彼らには先投げに見え,かつ1/3説が妥当であるように見え難い(1/3説で考えないとベイズに反するということが簡単にはわかりすぎない)例をまず先に挙げるべきだったのかもしれませんね。
それが今回の私の誤りというか、反省点の1つです。例えば「1回目のインタビュー」と「コインを投げたことを教える」というのを削って
☆覚醒中先投げ設定
 日曜日に被験者を眠らせる。
 月曜日に被験者を起こす。
 被験者から見えない所でコインを投げて表なら場合A、裏なら場合Bとする。
 その後、被験者にインタビューする。その後、記憶を消して眠らせる。
 場合Bならば、火曜日に被験者を起こす。被験者から見えない所でコインを投げる。
 その後、被験者にインタビューする。その後、記憶を消して眠らせる。
 以上のことを被験者は知っている

という設定を先に出しておけば、先投げ=1/2説支持者の一部(以前のφさん)にはこれが先投げ設定に相当すると思わせることができたかもしれませんね。


> φ の語法に従うのをやめて「先投げ設定」の定義を変え、

ここまでの議論の中でφさんが「先投げ設定」の定義を書いたことがありましたっけ?
"誤読される(φさんの意図しない意味で読まれる)"のが嫌なら、あらかじめ定義をきちんと書いて下さい。

ついでに、唯一設定と反復設定の定義もよくはわからないので、教えて欲しいです。


> 部分と全体をイコールで結ぶなどという誤りは、眠り姫問題のように「観測者切片」を単位とする問題では致命的なのでは・・・・・・
> 正しくは、
>
>  『場合Bの月曜に覚醒している私』⊆『場合Bの私』
> 『場合Bの火曜に覚醒している私』⊆『場合Bの私』
> とすべきでしょう。

1/3説では正しくその通りですが、今は1/2説の場合を話しています。
 1/3説は「観測者切片」を単位とした考え方であり、1/2説は「観測者」を単位とした考え方
というのがφさんの主張だったはずです。

「観測者」を単位として考える場合は
『場合Bの月曜に覚醒している私』=『場合Bの火曜に覚醒している私』=『場合Bの私』
が成り立ちます。
他方、眠り姫問題は「観測者切片」を単位とする問題と認めるなら 1/3説を採用するしかないでしょう。



> 「司会者モンティ・ホールの意図がゲーム続行にある場合は1/3説が正しく、ゲーム続行を意図しているとは限らない場合は1/2説が正しい」ということで何の問題もありません。
> 「意図」という、数学者の不得意な心理的要素の入った問題だったため、ポール・エルデシュですらコンピュータシミュレーションを目にするまで納得できなかったのですね。

数式・数学概念で表せないモノは数学では扱えません(扱いません)から、その意味で、そういう類のモノの扱いは数学者は得意でないと言っても間違ってはいないでしょうが
モンティ・ホール問題の場合、φさんの言うところの司会者の「意図」(の有無による違い)は数学概念(確率変数)で表現できます。

「モンティ・ホール問題」や「2人の子ども問題」といった確率の問題を、数学が得意な人でも(数学者ですら)間違えてしまったのは
問題文(問題設定)を、正しい数学概念(確率空間、確率変数)に置き換えなかったからです。

「自然言語で書かれた文章や現象を正しい数学概念に置き換える」というのは数学者の本業ではありません。
彼らは自らの土俵・フィールド内(数学)で間違ったのではなく、フィールド外・専門外の場所で間違えたのです。
彼らを「プロなのに間違えた」と非難するのは誤りで、「専門外なのだからより慎重にすべきだったのに、その慎重さを欠いた(故にミスした)」という部分を咎めるべきでしょう。

実際「モンティ・ホール問題」や「2人の子ども問題」も、直感で答えたりいきなり式をたてて解こうとするのではなく
慎重になって、つまり簡単な問題なら一々考えなくてもよい確率の定義に立ち返り、確率空間・確率変数を考えると
割と簡単に問題の設定・条件を確率空間・確率変数で表すことができて、ベイズ推定に従い計算することで答えがでます。


> 「ベイズ確率の理論、ベイズ推定に従わない」と断じるだけでは何の説得力も持ちません。
> あのモンティ・ホール問題だって、一見したところ、ベイズ推定に反しているように見えたわけです。
> それで多くの数学者が間違えたのです。

モンティ・ホール問題は、一見ベイズ推定に反しているように見えたとしても、本当は(数学的にちゃんと見れば)ベイズ推定に従ってます。
故に例えば、一見するとモンティ・ホール問題で正しい答えを与えるような考え方(例えば論理パラドクスのモンティ・ホール問題の項に出てくる仮説P)
であっても、ベイズ推定に反している(ベイズ推定の計算により得られた数値と異なる数値を導いてしまう)ならば、その考え方は間違っていると断じられるのです。
論理パラドクスでも、モンティ・ホール問題を少し変形した問題では仮説Pにより導かれる数値と、ベイズ推定に従う計算により得られる数値と異なるため
そのことだけから、「仮説Pは間違いである」と結論付けられています。

問題の表層だけ見て(それもたった少し見ただけの第一印象で)ベイズに反して見える・見えないと言っているだけでは、何の説得力もありませんが、
問題の本質や細部まで正確に見渡した上で(確率の問題でそれをするには、確率の定義に立ち返り、確率空間・確率変数を考えれば確実です)
ある考え方が「ベイズ確率の理論、ベイズ推定に従わない」と示すことは、その考え方が誤りであることの確たる証拠となります。

眠り姫問題におけるφさんの1/2説、「先投げでは1/2説が正しく、後投げでは1/3説が正しい」も
一見すると確かに正しそう(理論の筋は通っていそう)にみえるかもしれませんが、確率空間を考えて注視することによりベイズ推定に反していることが示されてしまったのです。
ベイズ推定に反している以上、それは間違いであると認めなければなりません(仮説Pが間違っていると認めるのと同じです)。


φさんに反論のチャンスがあるとすれば、いったんこれらの発言が誤りであったことを認めた上で
問題の状況を表すのに、私が用意した確率空間よりももっとふさわしい確率空間を見つけてきて、そこでは1/2説のように確率が改定されてもベイズ推定に反しない
と示すしかありません。そういうことをせず(確率空間をろくに考えず)に、自身の考えがベイズ推定と矛盾しないと言っている今のこの現状は
それこそ「ベイズ推定と矛盾しない(ように見える)」と言っているだけで、何の説得力も持たないのです。

Re: 眠り姫問題の続き 投稿者:φ 投稿日:2013年 6月12日(水)17時34分45秒
> No.3726[元記事へ]

TTTさんへのお返事です。

「ベイズ確率の理論、ベイズ推定に従わない」と断じるだけでは何の説得力も持ちません。
 あのモンティ・ホール問題だって、一見したところ、ベイズ推定に反しているように見えたわけです。1/3ずつの可能性のうち、一つが消えたのだから、1/2になるはずではないかと。それで多くの数学者が間違えたのです。
 「司会者モンティ・ホールの意図がゲーム続行にある場合は1/3説が正しく、ゲーム続行を意図しているとは限らない場合は1/2説が正しい」ということで何の問題もありません。「意図」という、数学者の不得意な心理的要素の入った問題だったため、ポール・エルデシュですらコンピュータシミュレーションを目にするまで納得できなかったのですね。
 登場人物の意図の場合分けにより正解が異なるのは、ベイズ推定を尊重していることと矛盾しません。先投げ設定、後投げ設定という場合分けについても同様です。

 モンティ・ホール問題と同様に、眠り姫問題は応用問題(思考実験)であり、数学の公式をただ虚心に適用すれば正解に至るという計算問題(シミュレーション)ではありません。モンティ・ホール問題で司会者の意図および回答者の了解が証拠価値を決める上で重要だったのと同様、眠り姫問題では、一人称的主体の同一性と世界分岐との関係、つまり観測選択効果が重要な役割を果たしています。これを数学の問題と認めるとしてもかなり哲学寄りの問題と言うべきでしょう。

さて、
今回のTTTさんはかなりレベルダウンしたような。私の誤読かな?
「☆ 途中投げ設定(覚醒中コイン投げ設定)」
 なる思考実験は全くのナンセンスだと思いますが如何。
 以下、最小限の指摘にとどめます。
 次回のご投稿をお待ちいたしますが、今回の誤り(のすべてまたは一部でも、必要なだけすべて)をはっきり認めてからにしてください。そうでないと有意義に先へ進めませんね。

 そして、以前予告された「射撃室のパラドクスについての私の誤り」なるものをそろそろお聴かせいただきたいと思います。

 私が先投げ設定と言ってきたのは、ゲーム開始時(月曜の覚醒前)にすでに場合AかBかが決定されているというルールのことであり、「ゲーム開始後であってもコインを投げればそこから後は先投げ設定になる」という意味ではありません。
 目覚めについて情報がないときに、「場合がすでに選択されているので目覚めの数にかかわらず場合Aが1/2」という結論に至る設定が先投げ設定です。

 コインを有意味に(場合AかBかを決めるために)投げることができるのは、月曜日(可能な火曜の覚醒より前)までです。本来の設定では、「コインを投げた」と告げた瞬間、被験者は「今は火曜日ではない」と知ることになります。
 ところが覚醒中コイン投げ設定というのは火曜日にもコインを投げてそれを告げる設定ですから、被験者は、コインが投げられたことが何の証拠にもならないことがわかっています。つまり、火曜日における「場合決めには関与しない投げである可能性」が残ります。だとすれば、P(A-月)=P(B-月)=P(B-火)=1/3 のままです。
 ちなみに、もとの設定どおり、火曜日にはコイン投げはないことがわかっている場合は、コイン投げによって「今は月曜日だ」とわかることになり、場合Aの確率は 1/3 → 1/2 となりますが、それは、
「先投げだから1/2説が採用されて1/2」
という意味ではありません。
「月曜だとわかったから、後投げ設定ルールの1/3説のままで、ベイズ改訂されて1/2になった」
のです。設定は後投げのままです。ここを混同しないようにしてください。

したがって、

>
> 1回目のインタビュー時では
> 「もし今日が月曜なら、場合A,Bを決めるコインはこれから投げられる。もし火曜なら既に投げられている」
> となるので、"後投げ設定"に相当し
> 2回目のインタビュー時では
> 「場合A,Bを決めるコインは既に投げられている」
> となるので、"先投げ設定"に相当します。
>

 全然違います。
 2回目のインタビュー時、コインをすでに投げたのだから「先投げ設定ゆえ場合Aが1/2」となる、のではありません。目覚めのときに必ずコインを投げるのであれば、今が月曜日であるという証拠にはならず、「後投げ設定だがベイズ改訂により1/3→1/2」という変化すら起こりません。先投げ設定になることもないし、場合Aが1/2になることもありません。

整理すると、TTTさんの誤りは二重です。
 ■ 覚醒時の途中で「コインが投げられた」と知ることで「後投げ設定」が「先投げ設定」に変わるというのは誤り。「先投げ設定」はゲーム開始時の設定(ゲームのルール)のことであり、ゲーム途中で先投げ設定になるなどということはない。
 ■ φ の語法に従うのをやめて「先投げ設定」の定義を変え、「途中投げ設定(覚醒中コイン投げ設定)」の2回目のインタビュー時に先投げ設定になっていると認めたとしても、そのときの(事後)確率分布はP(A-月)=1/2, P(B-月)=P(B-火)=1/4 にならない。1/2説支持者にそんな確率変化を認める義務などない。

くどいようですが繰り返すと、以下の記述

>
>
> φさんの主張によれば、
 ・・・・・・
> 「(今日の分の)コインを投げた」という情報を得た後の2回目のインタビュー時の(事後)確率分布は1/2説
> P(A-月)=1/2, P(B-月)=P(B-火)=1/4
> となりますが、
>?

は根拠のない濡れ衣です。

 先投げ設定は、ゲームのルール設定ですから、「最初の目覚めの時点で被験者がすでに歴史分岐のいずれかに移動済みであると自覚している場合」に限られるのです。

>
> 『場合Bの月曜に覚醒している私』=『場合Bの火曜に覚醒している私』(=『場合Bの私』)となり、
> 『場合Bの月曜に覚醒している私』∩『場合Bの火曜に覚醒している私』≠φとなっています。
>

 ↑↑
部分と全体をイコールで結ぶなどという誤りは、眠り姫問題のように「観測者切片」を単位とする問題では致命的なのでは・・・・・・
正しくは、

 『場合Bの月曜に覚醒している私』⊆『場合Bの私』
『場合Bの火曜に覚醒している私』⊆『場合Bの私』
とすべきでしょう。
これはもちろん
『場合Bの月曜に覚醒している私』∩『場合Bの火曜に覚醒している私』=φ
と両立します。


眠り姫問題の続き 投稿者:TTT 投稿日:2013年 6月11日(火)04時34分2秒
> No.3656[元記事へ]

φさんへのお返事です。

少し時間が空いてしまって申し訳ないですが、眠り姫問題の続きです(おさらいとして、以前述べたことも一部繰り返します)。
φさんの主張する1/2説、"常識的な公式"、及び「唯一設定では、先投げの設定は1/2説の確率分布が正しく、後投げ設定では1/3説の確率分布が正しい」
の最大の欠点は、ベイズ確率の理論、ベイズ推定に従わない(確率論にすら従わないかもしれない)ということです(これは前にも言いました)。

φさんがどうしてもこの主張を変えたくないというのであれば、
ご自身の主張がベイズ推定に反していることをしっかりと自覚し、そう宣言して下さい。
そうしてくださるのであれば、眠り姫問題をベイズ確率や通常の確率論に従う範疇で扱おうとする者(私を含む)にとって
φさんの主張はあまり興味のないモノとなりますので、これ以上φさんの主張に対して文句を言ったりはしません。
それでこの話はほぼ終わりになります。

φさんが主張を変えたくはないが、ベイズ推定に反しているということも認めたくはないというのであれば、
それは間違いであって、私はその間違いをできれば正したいと思っているので、もう少し続けます。
φさん自身、主張がベイズ推定に反しているという自覚があるのでしょうか?まずはそこをはっきりさせて欲しいです。


具体的にφさんの主張のどこがベイズ推定に反しているのかというと、以前挙げた次の設定
 日曜日の午前中に被験者を眠らせた後、コインを投げて表なら場合A、裏なら場合Bとする。
 場合Aならば、日曜日の午後、月曜日に1回ずつ起こす。
 場合Bならば、日曜日の午後、月曜日、火曜日に1回ずつ起こす。
 日曜日の午後に起こしてた時は「場合Aである確率は?」と訊いた後、眠らせて記憶を消す。
 月曜日、火曜日に起こしてた時は「場合Aである確率は?」と訊いた後、
 「今は日曜ではない」と教え、再度「場合Aである確率は?」と訊き、眠らせて記憶を消す。
 上記のことを被験者は知っている

で、起きてから1度目に「場合Aである確率は?」と訊かれた時点での被験者にとっての確率分布(確率測度をPとする)が1/2説では
 P(A-日)=P(A-月)=1/4
 P(B-日)=P(B-月)=P(B-火)=1/6
となるのに対し(ここまでは私もφさんも同意しています。尤も私は1/2説に否定的なので「1/2説を採用した」と仮定した場合を考えているだけですが)
「今は日曜ではない」と教えられ、再度「場合Aである確率は?」と訊かれた時点での被験者にとっての(事後)確率分布(確率測度をQとする)が
> Q(A-月)=1/2
> Q(B-月)=Q(B-火)=1/4
となるとφさんが言っている部分( http://8044.teacup.com/miurat/bbs/3623 )です。

事後確率(条件付き確率)を正しく計算すると
Q(A-月)=3/7
Q(B-月)=Q(B-火)=2/7
となるということは、事後確率(条件付き確率)の定義を確認すれば直ちに分かります。事後確率の定義のどこにも、φさんが言う
> 各場合の中で確率が再分配されるだけです。場合間をまたいでの配分はありません。
に該当するような所はないので、このφさんの考えは事後確率の定義から言えば単なる間違いです。



また別の設定として、先投げと後投げの混合設定(途中投げ設定)のようなものを考えると
「先投げと後投げ設定で確率分布が異なる」というのが、ベイズ的にはマズいことがわかります。
以前挙げた設定でもいいのですが、新しく次のような設定を考えてみました

☆ 途中投げ設定(覚醒中コイン投げ設定)
 日曜日に被験者を眠らせる。
 月曜日に被験者を起こしインタビューする。
 被験者から見えない所でコインを投げて表なら場合A、裏なら場合Bとする。
 被験者に(今日の分の)コインを投げたことを伝え、再度インタビューする。その後、記憶を消して眠らせる。
 場合Bならば、火曜日に被験者を起こしインタビューする。
 被験者から見えない所でコインを投げる。
 被験者に(今日の分の)コインを投げたことを伝え、再度インタビューする。その後、記憶を消して眠らせる。
 以上のことを被験者は知っている


この設定は、
1回目のインタビュー時では
「もし今日が月曜なら、場合A,Bを決めるコインはこれから投げられる。もし火曜なら既に投げられている」
となるので、"後投げ設定"に相当し
2回目のインタビュー時では
「場合A,Bを決めるコインは既に投げられている」
となるので、"先投げ設定"に相当します。

φさんの主張によれば、
1回目のインタビュー時の確率分布は1/3説が妥当で
P(A-月)=P(B-月)=P(B-火)=1/3
となり
「(今日の分の)コインを投げた」という情報を得た後の2回目のインタビュー時の(事後)確率分布は1/2説
P(A-月)=1/2, P(B-月)=P(B-火)=1/4
となりますが、事後確率(条件付き確率)の定義から
単に「コインを投げた」という情報を得たことによってこのような確率の改定が起こるのは間違いです。


根本的なことを言ってしまうと、ベイズ推定ではコインの先投げ後投げのようなものは区別できない(しない)ので
先投げ後投げで異なる確率分布を採用するような考え方が、ベイズ推定と矛盾してしまうのは当たり前のことです。
普通のコイン投げの場合、根元事象は{表}と{裏}の2つだけなので、これらを用いて
「コインはまだ投げ終えていない(故に表裏が確定していない)」「コイン投げたが、どちらの面が出たのか知らない」
を表すとどちらも{表}∪{裏}となり区別できず、またこれは全事象なので
この情報から確率が改定されて別の値になることもありません。

ベイズ推定でコインの先投げ後投げのようなものは区別しないのは、その方が便利で扱い易いからです。
ベイズ推定では、はじめの(まだ情報も得ていない)状況を(全事象S,確率測度P0を用いて)確率空間で表すとした時
新たに情報D1(D1⊂SかつP0(D1)≠0)を得た状況 (但し,P1(X)=P0(X|D1)と定義) で考えることができ
さらに情報D2(D2⊂SかつP1(D2)≠0)を得た状況 (但し,P2(X)=P1(X|D2)=P(X|D1∩D2)と定義) で考えることができます。

情報を得ることで変化した新しい状況を、形式的に表すことができ(一々どのように表すべきなのか考える必要がない)、また
このように構成された,は確率空間となっている(ちゃんと確率を考えることができる)ことが数学の確率論によって保証されています。
S=S1=S2が成立することなどから各状況の比較も簡単に行える等の利点もあります。

他方、もし先投げと後投げ([未確定状態]と[確定済みだが不明の状態])を区別しようとするなら、こうはいきません。
確率空間で表されるはじめの状況があった時に対して、新たな情報D1を得た状況を考えると
未確定状態と既確定状態を区別する以上S1=S0が成立するとは限らなくなり、S1は新たに(S0とは別に)構成し直す必要があります(それにともないP1も自力で構成)。
また、できあがったが確率空間となっているか(ちゃんと確率を考えることができるのか)や、ちゃんと意味的に情報D1を得た状況を表しているか
などを確認する必要があります。これらの作業を、新しい情報を得る度にしなければなりません。
また一般に各状況の比較も簡単にはできなくなります。

このような欠点のある、また欠点に比べ利点がほとんど見当たらないアドホックな理論を
ポピュラーな理論であるベイズ推定(その利点・利便性)を捨ててまで採用する価値があるとは、私は思いません。
(上記の他にもう1つ、φさんが知らないor誤解していると思われるベイズ推定の利点、重要な性質があるのですが、その話は次回以降の投稿にまわします)



さて、ここまででφさんの主張がベイズ的に誤りであることは十分示しましたが
そもそもφさんの主張の前提、考え方の出発点としてどこが間違っていたのかも少し述べておこうと思います。

普通の確率の話では、互いに交わらない(共通部分が空である)事象らに確率を(総和が1になるよう)割り振っていきます。
1/3説では、実験中覚醒時における『今の私(の状態)』は
『場合Aの月曜に覚醒している私』『場合Bの月曜に覚醒している私』『場合Bの火曜に覚醒している私』
のいずれかで、これらをそれぞれ互いに交わらない別モノ(別人)として考え、確率を(1/3ずつ)割り振っています。
『水曜日に場合Aとして覚醒している私』も考えた場合
これも上記とはそれぞれ交わらない別人として考え、確率は0を割り振ります。

実験中覚醒時に「実験終了後、水曜日に、あなたが場合Aとして目覚める確率は?」と質問された場合、これは
「『今の私(の状態)』から、実験終了後の水曜日に『水曜日に場合Aとして覚醒している私』になる確率は?」という意味だと考えます。
『今の私(の状態)』の中で、『水曜日に場合Aとして覚醒している私』になれる(なる)のは『場合Aの月曜に覚醒している私』しかないので
結局質問は「『今の私(の状態)』が、『場合Aの月曜に覚醒している私』である確率は?」すなわち「今が場合Aの月曜である確率は?」と同値と考えます。
故に「1/3」と答えます。

他方、φさんの主張する1/2説では
『場合Aの月曜に覚醒している私』と『水曜日に場合Aとして覚醒している私』を同一人物『場合Aの私』、
『場合Bの月曜に覚醒している私』と『場合Bの火曜に覚醒している私』と『水曜日に場合Bとして覚醒している私』を同一人物『場合Bの私』として考えているようなので
『場合Bの月曜に覚醒している私』=『場合Bの火曜に覚醒している私』(=『場合Bの私』)となり、
『場合Bの月曜に覚醒している私』∩『場合Bの火曜に覚醒している私』≠φとなっています。
『場合Aの月曜に覚醒している私』『場合Bの月曜に覚醒している私』『場合Bの火曜に覚醒している私』が互いに交わらない、とはなっていないにも関わらず
確率を1/2,1/4,1/4 と割り振っているので、おかしな(ベイズに反する)事態が発生しているのだと思われます。
(『場合Aの私』と『場合Bの私』では交わりを持たないので、これら2つに(1/2ずつ)確率を割り振る所までなら問題ありません)

このような考え方(φさんの言う「観測者を単位とする考え方」)では、[場合Bの月曜]と[場合Bの火曜]を別の事象として考えることができません。
よって「今は火曜ではない」という情報を得ても、「[場合Bの火曜]の可能性が消えて確率は改定される」等と考えることはできないのです。


Re: テラフォーマーズ 投稿者:φ 投稿日:2013年 5月 3日(金)05時12分28秒
> No.3724[元記事へ]

Gさんへのお返事です。

 そうですね・・・・・・、
 敵がゴキブリ一色じゃ、せっかくいろんな相性のムシがいるはずなのにもったいないというか、もっと味方同士で戦ったり、敵の系統が分岐したりしてほしいですね。
 その点ジョジョは、敵同士の戦い的なことがしばしば起こるし、ボスと暗殺者とジョジョサイドの三つ巴とか、多彩ですね。
 敵の系統が複数あって敵味方の色分けが流動的なのは『鋼の錬金術師』なんかもそうで、最近のマンガは、昔に比べてかなり進化しているなあというのが実感です。

 『ウルトラマン』では「怪獣無法地帯」や「悪魔はふたたび」にとくに陶酔した私としては、
 そして
 『マジンガーZ』でゴーゴン大公が登場したときにあしゅら男爵とブロッケン伯爵がスクラム組みかけたりしたあの構図がタマラナかった私としては、その構図を何倍にも濃縮拡大したジョジョやハガレンはたまらないわけです。

 敵同士の戦いはホント熱くなります。ヒトラー対スターリンとか、赤軍対731部隊みたいに、悪対悪が最高です。

 いまちょうど、「ストーンオーシャン」の17巻を読んでいるので、悪名高い(?)結末がどうなるのか、とても楽しみです。


Re: テラフォーマーズ 投稿者:G 投稿日:2013年 5月 1日(水)21時37分43秒
φさま、お返事ありがとうございます。

むぅ、イマイチでしたか。そう言われると、確かに各ムシ人間の登場の仕方や見せ方がワンパターンというか、一発限りで終わってしまっている感じがしますね・・・。融合人型の限界なんでしょうか。

そういう意味では、スタンドは人型っぽいのに、その無言?非言?っぷりといい、その侍り方は独特でヒトっぽくないですね。どっちかというと機械っぽいというか。

テラフォーマーズもこれからに期待したいです。先生のモンスターやクリーチャーに特化した漫画評論もいつかぜひ読みたいです!



Re: テラフォーマーズ 投稿者:φ 投稿日:2013年 4月14日(日)16時36分27秒
> No.3685[元記事へ]

Gさんへのお返事です。

『テラフォーマーズ』は1~4巻読んだのですが、「う~ん……?」でした。
『ジョジョ』第5部終わりまでを濃厚に読みながらだったので、負けてしまったのかもしれません。
まあ、ジョジョもノッてきたのは波紋からスタンドに移った第3部以降でしたからね。テラフォーマーズもこれからに期待しましょう。あのままだと各ムシたちの特性がまだ活かせていないような気がしますが……

Re: 背理法と対偶 投稿者:φ 投稿日:2013年 4月 5日(金)02時50分59秒
> No.3717[元記事へ]

ixtlanさんへのお返事です。

 「間接証明」というのは、べつに定義があるわけではないと思いますが。
どういう証明が直接証明で、どういう証明が間接証明、というハッキリした線引きはできないでしょう。少なくとも論理的な違いではなく、印象の違い(あるいは文脈の違い)だと私は思っています。

 とりあえず、反例や実例を出して証明すれば紛れもなく「直接証明」と言えるだろうし、
 前提に公式を適用して結論を導けばやはり「直接証明」と認められるでしょうが、
 背理法や数学的帰納法、対偶法など、論理法則への信頼に依存するものは「間接証明」にすぎない、といったニュアンスでしょうか。
 しかし、いかなる「直接証明」も、前提から結論までの間に論理法則への信頼が介在しているわけで。

 直観主義論理のように「否定」の意味を変えるなど、特別な変換を施した体系では成り立たない種類の証明を、その体系外の文脈において「間接証明」と呼んでいる、というような、相対的な呼び名だと考えるのが穏当のようですね。
 ということは、どんな証明であれ、トリビアルな意味で「間接証明」と認めることができるということです。
 (任意の証明について、「その形の証明は妥当でない」という体系を作れば、その体系外において、その体系に相対的に、当該証明は間接証明となるので)。

 というわけで、間接証明を直接証明から区別するのは、あまり有意義ではないような気がします。
 いかなる証明も、基準となる体系次第で、どちらにもなりうるので。


Re: 背理法と対偶 投稿者:ixtlan 投稿日:2013年 4月 4日(木)21時06分9秒
> No.3714[元記事へ]

φさんへのお返事です。


>  そのメタ言語たる命題の対偶をとって、「帰結が偽ならば前提は偽である」とし、それを証明の形に戻せば、「Cでない。したがって、Pでない」となり、
>  Pは依然として前提、Cは依然として帰結と読めば、これは、
>  帰結が偽であることから前提が偽であることを証明した背理法 ということになります。


 なるほど。しかしどうも私には理解できそうにありません、全体像が。

 ↓のページでは、間接証明の例として、

 1.対偶によるもの

 2.前提の矛盾によるもの

 3.背理法によるもの

が出ていて、これだとますますわからなくなります。



Re: 背理法と対偶 投稿者:φ 投稿日:2013年 4月 1日(月)15時47分42秒
> No.3713[元記事へ]

ixtlanさんへのお返事です。

 背理法は対偶とは違います。
 背理法は証明の一種であり、対偶は命題の一種(正確には、命題と命題との関係を表す概念だが、基準となる命題が何であるかが自明のとき、もう一つの命題を単に「対偶」と称することが多い)ですから、当然、違うものです。
 証明は、いくつかの命題を前提に置き、いくつかの命題を帰結として得る手続きのことです。
 前提をすべて「かつ」で結び、帰結と「ならば」で結べば、大きな命題が一つ出来ます。したがって、証明は命題に書き換えることができます。

 前回私が述べたこと

>
> > 演繹の定義「前提が真であるならば帰結は真である」の対偶をとると、
> > 「帰結が偽であるならば前提は偽である」となります。
> > これこそ背理法を表現したものであり、先ほどの定義の対偶を述べただけですから、背理法は通常の演繹と同じものであることがわかります。
>

 は、背理法の構造を命題に翻訳すると対偶になる、ということです。
 演繹的証明の本質である「前提が真ならば帰結は真である」は、「P。したがって、C」という、命題のシステムとしての演繹的証明の構造を命題に翻訳したもの(メタ言語で言い表わしたもの)です。
 そのメタ言語たる命題の対偶をとって、「帰結が偽ならば前提は偽である」とし、それを証明の形に戻せば、「Cでない。したがって、Pでない」となり、
 Pは依然として前提、Cは依然として帰結と読めば、これは、
 帰結が偽であることから前提が偽であることを証明した背理法 ということになります。

 だから、背理法と対偶は、メタ言語でまったく同じ命題として表現することができるが、
 背理法は「証明」であり、対偶は「命題」あるいは「命題の性質(他の命題に対する関係)」である、という違いがあります。カテゴリが違うわけですね。

 概念のカテゴリを意識することは、論理ツールを運用する上で通常あまり必要ないので、
 実際的には、背理法と対偶の違いは、
 証明としての背理法の正しさ(演繹的証明であること)を説明しようとすれば、メタ言語で「対偶」という概念を持ち出せば説明が容易になる、
 というだけのことにすぎません。対偶でなく他の概念で説明することも出来るでしょうが、対偶で説明するのが最も簡単でしょう。
 逆に、対偶とは何かを説明するのに、背理法が用いられることはありませんね。
 これは、証明の方が命題よりも複雑な概念だからで、単純な概念をわざわざ複雑な概念で説明しても無益だからです。

 なお、背理法は、はじめからPが偽であることを想定して「P」を前提に置く証明として私たちは最初に習うわけですが、必ずしもそのようなもの(目的論的な背理法)ばかりでなく、
 Pが真だと思ってそこから正しい論証を続けていったら不合理な帰結が出てしまった、そこでPが偽であることがわかった、あ、これ背理法だ、という「結果論的な背理法」もありえます。背理法はむしろ結果論的な方が多いのではないでしょうか。
 目的論的な背理法と結果論的な背理法は、証明する人間の心理においては違っていても、その論理構造はまったく同じです。

>
>  ところで、タブロー法というのは背理法なんでしょうか?
>

 タブロー法は背理法に限らず演繹的証明をするときの「やり方」ですね。「書き方」というか。
 対偶は命題の一種、
 背理法は複数の命題から構成されるシステムである証明の一種、
 タブロー法は証明の実行法の一種、
 ということになります。


背理法と対偶 投稿者:ixtlan 投稿日:2013年 3月31日(日)21時39分50秒
> No.3711[元記事へ]

φさんへのお返事です。

 どうも有り難うございます。

> 演繹の定義「前提が真であるならば帰結は真である」の対偶をとると、
> 「帰結が偽であるならば前提は偽である」となります。
> これこそ背理法を表現したものであり、先ほどの定義の対偶を述べただけですから、背理法は通常の演繹と同じものであることがわかります。


 なるほど。背理法と対偶とは違う、という見方が↓に書かれているようですが、よくわかりません。

 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1448041199?fr=rcmd_chie_detail


 ところで、タブロー法というのは背理法なんでしょうか?


Re: φさんへ 投稿者:φ 投稿日:2013年 3月28日(木)21時09分15秒
> No.3710[元記事へ]

ixtlanさんへのお返事です。

背理法は、通常の演繹の一種であり、なんら特別なものではありません。

演繹は、「前提が真のとき帰結は真」なる推論であるというのはその通りですね。
言い換えれば、「前提が真であるならば帰結は真である」ような推論です。
それは、「前提が真であり、帰結も真である」ような推論、という意味ではありません。
前提に真なる命題を置こうが偽なる命題を置こうが、演繹は演繹です。「前提が真であるならば帰結は真である」が守られていればOK。
前提が偽である場合に帰結がどうなるか、演繹の定義は何も述べていませんね。帰結は真でも偽でもありえます。

演繹の定義「前提が真であるならば帰結は真である」の対偶をとると、
「帰結が偽であるならば前提は偽である」となります。
これこそ背理法を表現したものであり、先ほどの定義の対偶を述べただけですから、背理法は通常の演繹と同じものであることがわかります。

背理法は、通常の演繹のうち特別な論理を持つ演繹というわけですらなく、単に、特有の表現でなされる普通の演繹、と見なすべきでしょう。


Re: φさんへ 投稿者:ixtlan 投稿日:2013年 3月28日(木)19時31分21秒
> No.3708[元記事へ]

φさんへのお返事です。

>  私がその天御中氏と同一だという仮説が、どういう背景で生じたのかはいま検索してみても不明ですが、その仮説は偽であること、私が保証します。天御中氏とやらも迷惑していることでしょう。

 そうですか。天御中氏が迷惑しているようには見えませんけどね。というのは明らかに自分が三浦氏であることを示唆する投稿をしてましたので。まあ、なりすましの例なんでしょう。しかし、なぜまともな論理学の知識のある人が、三浦氏になりすましたのか、それが解せないのです。

 それはそれとして、定項問題とは別に問題となったものに、背理法と通常の演繹との違いという事柄があります。天御中氏は背理法は「前提に偽をおいて、帰結の矛盾を引き出す」ものなので、「前提が真のとき帰結は真」という通常の演繹とは違うものだと主張してますが、これについてはどう考えたらよいのでしょうか。


Re: φさんへ 投稿者:φ 投稿日:2013年 3月28日(木)03時51分41秒
> No.3707[元記事へ]

ixtlanさんへのお返事です。

 私がその天御中氏と同一だという仮説が、どういう背景で生じたのかはいま検索してみても不明ですが、
 その仮説は偽であること、私が保証します。天御中氏とやらも迷惑していることでしょう。

 その仮説がもし面白い帰結を含意するのであれば、期待どおりにいかず申し訳ありませんが。

 率直に言って、定項を使いさえすれば命題は自動的に真になる(あるいは自動的に偽になる)、という説(?)は前述のように矛盾を生じますし、その説(?)の一般的用途が私にはわかりかねるため、私がそれを支持する理由は皆無です。

 なお、私は φ 以外のコテハンを使ったことはありません。匿名でなら、2ちゃんねるの「地上最強の動物は何か」スレとか昆虫スレとか、まあ学問や芸術とは関係ないあたりに書いたこともありますが。
 φ 名義でも、こことブログの2箇所以外には書いたことはないと記憶します。


Re: φさんへ 投稿者:ixtlan 投稿日:2013年 3月27日(水)23時41分6秒
> No.3697[元記事へ]

> ただし、「失笑を買うだけで済んでいるうちに止めたほうが良い」と私が投稿して後、同一人説投稿は止んでいるようで、

 ちょっと一言。これでは私が貴殿の投稿によって控えたという感じですが、全然そんなことはありません。私としては、天御中氏が三浦氏と同一人物であるのは自明です。ただ、ご本人が天下に知らしめることは避けたいと思っているように思われたので、必要最低限のことしか言及するつもりはなかったのですよ。

 つまり、私に対してここの掲示板で話したらどうかとか、天御中氏にここに来たらどうかと貴殿が書いていたので、それは無理だろうと。なぜなら腹話術をしなければならないので。とそう指摘しただけです。そうでもしなければ、貴殿の感情は収まらないと思ったからです。


(無題) 投稿者:★ 投稿日:2013年 3月22日(金)06時38分24秒
>マルクス主義がそのまんま当て嵌まる類の宗教言説

日本語になっていない。

マルクスが生きていた19世紀は、
キリスト教の影響から抜け出す時期でもあった。
マルクスに限らず、ヘーゲル左派と呼ばれる人たちは
同様の傾向を有していた。

ところで宗教は農耕による労働をコントロールするために発展した
という説がある。農耕は集団による継続的な労働を必要とするため
自分勝手な行動を抑制する必要があり、宗教は集団の統率をとる
役割を果たしたというのである。道理で宗教は詰らないわけだw


Re: (無題) 投稿者:φ 投稿日:2013年 3月20日(水)01時45分22秒
> No.3701[元記事へ]

kotobazuさんへのお返事です。

>
> ところで、
> 昨年彼が「偽」の場合があり得るから「偽」と主張していたとき、気づいたのは、
> それであれば 同じ根拠で、元の式を否定する式も「偽」になる という反論なのですが、どうでしょうか?
>
> そして上記 Wa 真、についても、それが成立すると仮定すると、矛盾する論理式も「真」になることを示すことで否定できると思うのですが。
>

まったくその通りですね。
 人間の知識や判断には限界がありますから、互いに矛盾した命題が別人によって真と主張されることもありますからね。

 三人が個別に本気で次の主張をしたとしましょう。aは同一の個体を指します。(個体でなく種でもよい)

 B氏「aはクジラである」
 C氏「aはクジラではない」
 D氏「aはクジラでないならばaは哺乳類である」

 A氏のやり方だと、この三人ともが全員正しいと認めざるをえなくなってしまいますね。
もちろん、B氏とC氏のどちらも正しいということはありえません。B氏とC氏のどちらが正しいのか、そしてD氏が正しいかどうか、ということは、aが何であるか確定できないと不可能ですね。

「命題を真とする定項を選んだのだ。だから一律にaと書いてはいけない。各人の発言内の定項を別々の文字で書くべきだ」と言い張っても無駄です。本当に「命題を真とする指示対象」が定項によって選べたかどうかは、それぞれの定項の正体を言ってもらわないことには確かではありませんからね。
 人間の主張は可謬ですから。


(無題) 投稿者:kotobazu 投稿日:2013年 3月18日(月)18時51分33秒
A氏が並べた論理式はデタラメに列挙した感じですが、以下のようなやりとりの後のものでしたから

> >(3)あるクジラでないものはある哺乳類である (←P氏が書いた命題)
>
P氏> >クジラでないものには、人間でも犬でも爬虫類でも無生物も入りますよね。
> >そのなかで、人間とか犬とかは、ある哺乳類ではないですか。
> >ならば真と考えます。

A氏> (3)は何を主張しているのか?
> 分析してみましょう。

2の感じではないでしょうか?
(自分が2を言ったから固執するわけではなく)

確率による説明は、なるほど そういう風にスパッと説明できるのですね。

ただしA氏の最後の主張は以下なので、彼にとっては「真」に決定できてしまうのです。

> W:クジラ、a:定項のとき、
> Wa
> 全存在で、Wになるような定項があればそれがaだ。
> ¬Waは、全存在でWになるような定項が無いとなる。
よって
> Wa 真、  ¬Wa 偽

これについては、もう、間違いと気づいてるとは思いますが・・。


ところで、
昨年彼が「偽」の場合があり得るから「偽」と主張していたとき、気づいたのは、
それであれば 同じ根拠で、元の式を否定する式も「偽」になる という反論なのですが、どうでしょうか?

そして上記 Wa 真、についても、それが成立すると仮定すると、矛盾する論理式も「真」になることを示すことで否定できると思うのですが。
ただ上記の彼の論では a が特定の同じものではないので、それらは矛盾しないことになるのかもしれませんが。


Re: φさんへ 投稿者:φ 投稿日:2013年 3月15日(金)05時56分12秒
> No.3697[元記事へ]

kotobazuさんへのお返事です。

そういうことでしたか。わかりました。
まあ、「推測」は自由ですからね。ない証拠をあるように言い立てれば、いろんな罪に問われることはありえますけれどね。

さて、¬Wa ⊃ Ha の件に戻ってみますが、

 1・ 真である。  根拠 存在汎化により

 2・ 定項の具体的な値が記述されていないので、我々には判断できない。

 3・ 真の場合と偽の場合があるので 「偽」である。

次の三つの条件が与えられているならば、2の「判断できない」が正解ですね。

 A 「aは定項」としか提示されておらず、aの指示対象についてそれ以上の情報がない。
 B ¬Wa⊃Ha の真偽が本気で問われ、議論されている。
 C ¬Wa⊃Ha はもともと本気で主張されている文である。(たとえば、生物学の本の一節を、特殊な用途のために暗号化し、文中の名詞をaに置き換えて他人に伝達しようとしている)

 AとBは成立していますが、Cはどうなのでしょう。
 Cは単に例文として「提示」されているだけで、誰も「主張」などしていないとすれば、
 (たとえば小説家は自分の書いた文章を「主張」はしておらず、「提示」しているだけなので、事実に反したことを書いても嘘つきにはならない)
 正解は 1,2,3のどれでもなく、第四の選択肢 ということになります。

 4・真でも偽でもない

 つまり、上の条件Cが成り立たない場合は、マイクのテストで「本日は晴天なり」と言っているようなもので、「本日」がいつなのか特定されていないだけでなく、特定するつもりが始めからありません。
 ¬Wa⊃Ha が出された文脈もそれに似ていると察せられます。議論のための例文であれば、「主張」はされず「提示」されているのみでしょうから。

 つまり、正解は、
 1,2,3のどれでもなく、4ということになりそうですね。

 2と4の違いは、
 2は「真か偽ではあるのだが判断できない」としているのに対し、4は「真でも偽でもないと判断できる」ということです。
 2は、主張された文にしか当てはまりません。

 ただし、議論の文脈はそれほどメタレベルに突き抜けたものではなく、
 「条件C「¬Wa ⊃ Ha が本気で主張されている」が成立しているとせよ」
 という想定内でのみ真偽が問われているとも解釈できます。

 そうすると、¬Wa⊃Ha は実際は主張されていないから真でも偽でもないのだが、かりに主張されており真か偽なのだとしよう、ではどちらか、という問題になります。

 すると、正解は2です。

 1や3でなく2が正しいことは、次のように自問しても判ります。

  ¬Wa⊃Ha が真である確率は?

 aが特定されておらず(条件A)、しかも真偽がどちらか一方に約定されているのではなくまさに探究の対象になっているのが目下の議論(条件B)ということですから、
 0<P(¬Wa⊃Ha)<1です。
 これは1,2,3、4のうち2を表わしています。条件付き確率で表わしても同じです。
 0<P(¬Wa⊃Ha|aは定項である)<1

 面白いことに、
 0<P(¬Wa⊃Ha|aは定項である)<1
 と言える根拠は、「定項といってもいろいろな指示対象をとりうるから」です。
 つまり、定項を「本当は変項であるもの」として捉えています。

 http://8044.teacup.com/miurat/bbs/3680 で私は、「定項はあくまで定項」という立場をとれば2が正解、と述べましたが、
 実は、「定項はあくまで定項」と考えたとしても「でも本当は(例文をしょせん例文として、固定した指示対象は不在という事実を見据えると)変項でしょ」という突っ込みが常に可能であり、しかしいくら突っ込まれても2の立場はだいしょうぶ、というのが、上で述べたことなのです。

 すなわち、かりに突っ込みに屈して「しょうがない、aはメタレベルでは本当は変項だと認めますよ、ではメタレベルの話をしましょう」と折れた時、何を言うべきかというと、

 0≦P(¬Wx⊃Hx|xは変項である)≦1 (xの準拠集団は指定されていない)  ……★

 (細かいことですが、<が≦になったのは、¬Wx⊃Hxが必然であったり不可能であったりするような準拠集団の指定の仕方があるから。定項は特定の準拠集団を持たないので、aはどの準拠集団からとられたかわからず、結果としてすべてのものを準拠集団とする変項と同じことになり、aの場合は≦ではなく<)。

 1や3の根拠であった「定項といってもしょせん変項でしょ説」は、★に見られるように、本当は2を支持するわけです。
 (前述のように、もっとメタな文脈を設定すれば、「¬Wa⊃Haは例文として出されただけでaの指示対象を誰も決めるつもりがないし、決めるのは的はずれなのだから、真でも偽でもない」という4が正解です)。

 以上のように、自然な文脈で正しいのは、4か2です。

 1や3を擁護できるのは、よほど但し書きのついた特殊な文脈でしょうね。

 自然な文脈(議論の中で例文を出したというような)で1や3を支持している人が、φと同一人物でないことだけは確かです。


Re: Hatrick氏へ 投稿者:Hatrick 投稿日:2013年 2月24日(日)14時31分16秒
> No.3674[元記事へ]

★さんへのお返事です。

>確実不動かどうかなんてどうでもいいこと。
>独断したかどうかが問題。
>あなたは今、独断したでしょう?。

★様の挑発的で乱暴な言いがかりはスルーですが、第三者が誤解するといけないので、
次のように、反論しておきます。

★様は、私が独断したと、独断していますね? 違いますか?

違うという場合には、
「独断する」ということの「定義」がFである、そして私の主張がそのFに該当する、ということを指摘してから、よって独断である、
というように、論証して述べてほしいものです。
それがうまくできないときには、★様が「私が独断したと独断している」可能性が高いということになりましょう。



φさんへ 投稿者:kotobazu 投稿日:2013年 3月14日(木)16時22分28秒
> No.3680[元記事へ]

最近のお二人の投稿だけ見るとφさんにとって意味が分からないのではないかと思うのですが、
実はφさんに関係する話なのです。以下説明しますので読んでいただきたく思います。

ヤフーの掲示板で論理学についてデタラメを書いているameminakaという投稿者がいるのですが、
それがデタラメだということを読み取れないらしく、彼をプロの論理学者もしくは匹敵する実力の持ち主と信奉する参加者が二三名います。
ところが、私が先日こちらへ伺って以降、そのameminakaという投稿者を三浦俊彦氏本人である、と言い始めた者がいます。
(以前から言っていたのが再燃したというようにも見えます)
ameminaka氏当人は一応否定するコメントをしているのですが、信奉者はあれこれこじつけて同一人説を捨てたくない様子です。
リバイさんが書かれているように、証拠があるかのように、あるいは本人からカミングアウトをされたかのようにも言っているようです。

ameminaka氏の投稿内容の低劣さもさることながら、例えば、
先日私が持ってきた定項を含む論理式の真理値判断について、φ さんは「判断できない」説が最も良いと思う とコメントされました。
一方ameminaka氏は、「真」であると断定する一方で、
「判断できない」という私の投稿に対し、
『こんな論理学の基礎も知らないくせに、恥ずかしい奴だ。』とか
『お前のようなバカにどう教えて良いのか分からないのだが』
などの言葉を交え、否定し続けています。
もし彼が三浦俊彦氏である場合、単に表現様式の二重人格性に留まらず、論理学に関する自分の意見を曲げてまで、他者を批判していることになる。
リバイさんが「名誉毀損」という言葉を出したのは、その辺も含めてのことではないかと思われます。

ただし、「失笑を買うだけで済んでいるうちに止めたほうが良い」と私が投稿して後、同一人説投稿は止んでいるようで、
このまま終息する可能性も高いと思われ、φ さんに迷惑がかかる事態にはならないだろうとは思います。
なので、黙っていていいだろうと思っていたのですが、
リバイさんたちの投稿があり、このままではφさんにとってわけの分からない乱入者だったように感じられるのではないかと。説明しておいた方がいいのではないかと思い書きました。( ただし仏教関係の方の話は、別人のことで、φさんには関係ないです。)



Re: 失礼いたしました。 投稿者:通りすがり 投稿日:2013年 3月13日(水)21時19分23秒
> No.3694[元記事へ]

リバイさんへのお返事です。

> 次に通りすがりさんへのレス。
>
> しかしまあ情けないことに、アニーカー氏までも愚マジックに取り込まれてしまった。

そうではないと思います。
批判者の立場から、傍観者の場所に移っただけに見えます。

> 我らがアメちゃんも頑張っている。

そんなに人気者なんですか?正直気が知れない。
アメ氏は、正義を振りかざしてはいるけれど、掲示板で日常の鬱憤をはらしているだけなんじゃないですか?批難の対象も誰だっていいようです。

> そこにきて愚言説はありがたいですよね。天国でも涅槃でもなんでもよいですが、何かしら天国的なものが悪徳もクソもなく約束されているのですから。

あー、確かに、掲示板で悪事の限りを尽くしてるアメ氏さえも、自分では気がつかないけど悟ってるってのが愚言説のようですね。

> ただ、こんなうまい話があっていいのかよ、といった疑念が生じるかどうか。

生じた人は立ち去っているんじゃないですかね?
気になってしょうがない人は、へばりつく。

アメ言説は、インチキから一般市民を守るでしたっけ?
ただのお節介爺。バカみたい。

> だから、アメちゃんが心配するように、社会に良い影響はもちろん、悪い影響を与える結果にもならない人畜無害の類と私は考えます。単なる結果。従属するのが精一杯でしょうから。社会にインパクトを与えるなんてとてもとても(笑)。

そこは同意します。
ただ、社会は変えられなくても、個人は変われる可能性があります。

私の勘では、スポーツのたぐいと似ているんじゃないかなと?

> よその話を長々と失礼しました。こちらにお邪魔するのはこれで最後にしたいと思います。m(__)m

私もそのようにしたいと思います。

管理人様、お邪魔いたしましたm(__)m


仏教心理学キーワード事典』合評会のお知らせ 投稿者:φ 投稿日:2013年 3月13日(水)15時23分56秒
そのやりとりはろくにフォローしておりませんが、ベースは仏教なのでしょうか。

恒例の研究会で『仏教心理学キーワード事典』の合評をしますので、ご案内しましょう。

http://green.ap.teacup.com/miurat/3426.html

私は門外漢なので聞き役に徹することになるかと思いますが。
関心のある方、どうぞおいでください。


失礼いたしました。 投稿者:リバイ 投稿日:2013年 3月13日(水)14時17分38秒
> No.3693[元記事へ]

kotobazuさんへのお返事です。

私としたことが、ドラゴンさんのイメージが強かったのかな(笑)。

そうです、Ix氏のことです。

次に通りすがりさんへのレス。

騙されとかいう話ではないでしょう。

イマ氏が、同一人物説を実は嘘と承知で主張しているのでもないかぎり。

二人ともボケてるかそうでないかのどちらかでしょう。

愚ちゃんも合わせて、三人トリオのボケ漫才でしょう。

しかしまあ情けないことに、アニーカー氏までも愚マジックに取り込まれてしまった。
まあ、でもこれはこうも言える。

仏教屋さんには我が強い方々が多い。特に掲示板なんかだと。

自説をそれぞれもってらっしゃる。

それぞれの自説の衝突すると壮絶なバトルが始まる。

今まさにイマ氏もやり合っている。

我らがアメちゃんも頑張っている。

アメちゃんも自説はあるのかもしれないが、一般常識人としての批判、つまり仏教外からの批判という面が強いのがよい。

イマちゃんは折り合いが付けば将来愚ちゃんと意気投合できるかもしれませんね。アニーカー氏のように。

実のところ、愚ちゃん仏教には内容はナイヨーなので(よく言えばフレキシブル(笑))、いくらでも可能ではないでしょうか。

実は取り込まれたのはアニーカー氏ではなく愚ちゃんの方だったも言えるのかもしれないわけですね。

取り込むというより取り込まれる、これが愚ちゃん言説の正体かも(笑)。

愚ちゃん言説を受け入れることができるかどうかは、お花畑を受け入れることができるかどうかでしょう。

悪徳が少しでもあれば天国に行けないみたいなキリ教なんかにはついていけない人。それでいて死が恐い人。

これは現代人では標準的でしょう。

そこにきて愚言説はありがたいですよね。天国でも涅槃でもなんでもよいですが、何かしら天国的なものが悪徳もクソもなく約束されているのですから。

欲求レベルでそれを望まない人はいないでしょう。

ただ、こんなうまい話があっていいのかよ、といった疑念が生じるかどうか。

例えば愚ちゃんはよく、社会問題は個人問題などと言いますが、これも要するに自分がよければいいじゃないか、他人のために苦労したくない、が本音で、最初に欲求ありきであとはフレキシブルに正当化というだけの話ですね。

だから、それが社会問題に携わりべきといった当為ならば基本否定するでしょうが、携わりたいとなった途端にフレキシブルに教義が変わるのは目に見えています(笑)。
これは、マルクス主義がそのまんま当て嵌まる類の宗教言説だと思います。存在が意識を規定する。

だから、アメちゃんが心配するように、社会に良い影響はもちろん、悪い影響を与える結果にもならない人畜無害の類と私は考えます。単なる結果。従属するのが精一杯でしょうから。社会にインパクトを与えるなんてとてもとても(笑)。



すいません、話が大分それてしまいましたかな。

要は言いたいことは、あの三人の話にはあんまり真面目に付き合わない方がいいのではということです。アメちゃん問題もその背景から生じたものでしょう。

よその話を長々と失礼しました。こちらにお邪魔するのはこれで最後にしたいと思います。m(__)m



Re: リバイさんへ 投稿者:kotobazu 投稿日:2013年 3月13日(水)10時35分34秒
> No.3692[元記事へ]

通りすがりさんとリバイさんへのお返事です。

Iさんと表記すると、アメ氏を信奉しているお二人の両方とも現在のハンドルの一文字目がIなので
紛らわしいと思います。
Ix さんとIm さんですね。
でリバイさんが言っているのはIxさん。通りすがりさんはIxさんがImさんによってだまされた
ということでしょうか。


リバイさんへ 投稿者:通りすがり 投稿日:2013年 3月12日(火)20時06分47秒
>それを持ち上げ崇めるお二方こそが問題ではないですかね。

ここはそうだと思いますけど

>それをI氏はやったというわけだから

Iさんは、頭のオカシイ系の方に騙されたんだと思います。
http://textream.yahoo.co.jp/message/552019920/itbbe0a4n4eoaaa4na4ra4ha47a4baa4af?comment=3289


Re: こんにちは 投稿者:リバイ 投稿日:2013年 3月12日(火)16時20分1秒
> No.3690[元記事へ]

kotobazuさんへのお返事です。

どうもオクタガワさん、お久しぶりです。

ありゃりゃ、

¬Wa ⊃ Ha クジラでないものが哺乳類である ←これは最初は偽でしたか(笑)。失礼しました。

それが今年から真になったのですね(笑)。

つまり昨年までは、三浦先生がおっしゃるところの、∀a(¬Wa⊃Ha)路線であったというわけですね。


「クジラでないものが哺乳類である」は「(全ての)クジラでないものが哺乳類である」というわけですね。クジラでなくて哺乳類でないものも沢山あるからそりゃ偽でしょうね。

しかしこれだと、

「あるクジラでないものはある哺乳類である」(パンドラ)を、

「(全ての)クジラでないものが哺乳類である」などと解釈したことになり、

もはや日本語能力の問題で、ありえませんね。

だから、

∃a(¬Wa⊃Ha)路線のみが許され、あとはこれを真と言い切れるかどうかですね。私も言い切れない派ですが。

まあ、この1に限らず5までほとんど目茶苦茶に思えますが…。


さて、話変わって、

これはアメちゃん一人の問題ではないと思いますよ。

無茶苦茶理解のド素人は私も含めていて当たり前ですからね、掲示板界隈には。
それを持ち上げ崇めるお二方こそが問題ではないですかね。

まあこれもイワシの頭でもなんでも信仰するのは自由でしょうけど。

ただ今回の場合、有名人と同一視しているわけですからね。

証拠まであるように匂わせる。

これは十分、名誉毀損に当たると思いますよ。私はそうではないかと推察する、と確たる証拠がある、とでは違いますからね。

確たる証拠があると言われれば、こんな人格が同一人物であるはずがないといった反応から、この人の本性は実はこうだったのかなどと変わりかねないわけですからね。

もちろん、証拠なんてないと思いますよ。

仮に私の実名をオクタガワさんにコッソリ教えておいたとしましょう。

それを勝手な判断でネットで公表するなんて常識人ならしませんよね。

それをI氏はやったというわけだから、証拠ではなく単なる印象、推察、願望(笑)の類ということでしょう。

それをカミングアウト(しかも二度も)などと言い出す。カミングアウトは一回で十分でないのか?二回目は愛の告白かなんか?(笑)とツッコミを入れるのは私だけではないはずです。

さらには、本人しかしりえない情報とかも言い出す。これも、それをどうしてI氏が知ってんのかというツッコミが入って当然でしょうね。

ここまで言うなら確たる証拠があるならハッキリ提示し、なければあくまで推測ですと言うべきでしょう。

今回のI氏の一連の発言の無責任さには呆れ果てました。

アメちゃんは個人的にはそんなに嫌いでなかったりするんですけどね実は(笑)。愚氏に対する見解なんかでは共感できそうだし(笑)。

ハッキリ言って、石飛論理学にケチつけにいくなら先にもっと自分の力量を磨けと二人には言いたい。目糞鼻糞。気取った本収拾したり物にできてないタームを連発する前に、入門書を手垢つくまで読めと。お二人の力量は、私の目から見てド素人です。ド素人の私が言うのだからド素人以下ということになるでしょうか(笑)。


こんにちは 投稿者:kotobazu 投稿日:2013年 3月12日(火)13時38分54秒
W:クジラ、H:哺乳類、a :定項
¬Wa⊃Ha の真理値は? の件で、
論理式を書いた当人に来て貰う旨投稿しましたが、どうしてもこちらには来てくれないまま、日が経ちすいませんでした。

リバイさん 久しぶりです。こちらでお会いできて嬉しいです。


当時のパンドラさんの主張は把握してなかったので、それについて自分に補足できることはないのですが、
リンクを入れておきますね。

パンドラさんの投稿はこの辺りですか。

http://textream.yahoo.co.jp/message/552019921/oc0mfda4noc?comment=233

でameminaka氏が「分析」と称して 問題の論理式を示したのが、

http://textream.yahoo.co.jp/message//?category=552019921&thread=oc0mfda4noc&comment=277

> 1.¬Wa ⊃ Ha クジラでないものが哺乳類である 偽

******************

ただし、ameminaka氏は、この式について今年「真」だと主張を変え、
現在、パンドラさんの件とは全く無関係に、独立して、

W:クジラ、a:定項のとき、

Wa 真、
¬Wa 偽

と断定していますので、彼に関しては、元の議論の流れは無関係ではあります。

***************

三浦さんがおられるということに自分は安心感を覚えるのですが、
昨年ヤフーでの件ではリバイさんに同様な思いを持っていました。
自分が正しい事を書いているならば、分かってもらえるという安心感。


★ さん。コメントありがとうございました。
真理値判断について、自分の考えと一致しています。


文字化け失礼しましたm(__)m 投稿者:リバイ 投稿日:2013年 3月11日(月)23時29分45秒
> No.3688[元記事へ]

三浦さん、皆さん、突然ですがはじめまして。お邪魔しますm(__)m
どうもオクさん、某掲示板でお世話になった者です。
ちょっと某掲示板には今投稿が面倒なのでコチラで。

一連の問題の解決策を提示できたらと。

まず、出題者パンドラを証人喚問するべきではないかと。

記号化前の(悪)文、「あるクジラでないものは、ある哺乳類である」←これの正しい文意と、パンドラはどう記号化するかを聞くべきだと。これで大分問題がハッキリすると思います。

ホントにこれは著しく日本語センスに欠ける悪文の最たるものだと思います。

私は変項的にばかり読んでました。それというのもパンドラがオイラー図的なある集合の存在を語っていたという話の流れからして当然で、まさか定項なんて初めから眼中にありません(笑)。

その定項か変項かどうかが判然としないわけなんです。だからこそ出題者の意図の明確化が不可欠だと考えるのです。

「あるクジラでないものは、ある哺乳類である」←これは、

1)クジラでないもののうち、あるものは哺乳類である。∃x(¬Wx∧Hx)

2)あるものはクジラでなく、かつ哺乳類である。¬Wa∧Ha もしくは、¬Wa⊃Ha

3)あるクジラでないものがあるが、それは哺乳類である。Ha

といった具合に、私には三通りに文意が解釈可能だと思います。とにかく悪文なんです(笑)。「ある哺乳類」の「ある」がくせ者で、これがいかにも特定の個体について語っているかのニュアンスを滲ませています。だから、私は、1)だと思っていましたが、パンドラの念頭にあったのは、2)だったのかもなと今では思えますし、かといって、単なる貧弱な日本語能力による支離滅裂文かもしれないわけです。そこの辺りの確認のためにも、やはり証人喚問がいいかなと(笑)。

それから1)の場合、初歩的な疑問なんですが、述語論理においては、∃x(¬Wx⊃Hx)の論理式において、¬Wx⊃Hxを真にするxがあれば、∃x(¬Wx⊃Hx)は真になるのでしょうか?つまり命題論理の実質含意風に前件を偽にするようなx、つまりこの場合クジラならば真になるのでしょうか?だとしたら∃x(¬Wx⊃Hx)は不可になりますね。「クジラでないもののうち、あるものは哺乳類である。」は、クジラでなく哺乳類であるものがないと偽になり、∃x(¬Wx⊃Hx)の方は、クジラでなく哺乳類であるものがなくともクジラがいれば真になりますから別の命題と考えるべきでしょう。いずれにせよ、最初から∃x(¬Wx∧Hx)と書いておけば問題ないでしょう。

次に2)についてですが、¬Wa⊃Haという記号化自体は間違いではないと思います。匿名だが特定の個体ですから定項扱いでよいと思います。しかしその個体はパンドラにしかわからないので、「¬Wa⊃Ha 真」と記した時点でアメは間違いですね。

3)についてはオマケですが、よくは知りませんがラッセルの記述理論とか絡んでくるとこかもしれません。「あるクジラでないもの」を定項aと置くわけですね。まあ今回の問題ではあんまし関係なさそうです。

以上、私が考えたところですが、総括の役に立ちますでしょうか(^_^)



Re: ?????????????? 投稿者:??? 投稿日:2013年 3月11日(月)23時18分23秒
> No.3681[元記事へ]

kotobazu??????????

???????????????????????????m(__)m
????????????????????????
????????????????????????
(^_^)


テラフォーマーズ2 投稿者:G 投稿日:2013年 3月 7日(木)22時23分35秒
わあ、嬉しいです。突然過去の思い出が挿入され感動を捏造しようとしたり、陰謀的なものにストーリーを任せすぎなところもありますが、それらもバトルのための道具立てへと収束していて、いい感じの強引さが好きです。私も『ジョジョ』好きです。6部(ストーンオーシャン)あたりからは、やたら話の運び方や設定が複雑になっていく感じがありますが。


Re: テラフォーマーズ 投稿者:φ 投稿日:2013年 3月 7日(木)01時36分7秒
> No.3685[元記事へ]

Gさんへのお返事です。

情報をありがとうございます。
 昆虫と聞いたらじっとしていられませんね。

『テラフォーマーズ』は、amazonでチェックして「良さそう」と感じたので1~4巻注文しました。
今は、学生に勧められた『ジョジョ』を第3部終わりまで読んだところ。最高に面白い。
マンガという芸術ジャンルは、ますます侮れませんね!


テラフォーマーズ 投稿者:G 投稿日:2013年 3月 6日(水)18時49分53秒
昆虫を愛する三浦先生、『テラフォーマーズ』という漫画はご存知ですか?最近オトコの子が選ぶ漫画ナンバーワンに選ばれた漫画で、昆虫モノ変身SFバトルが幾世代にわたって繰り広げられています。クリーチャーの造形もたまりません。ぜひ先生の批評も聞きたいです。いきなりのお奨めで失礼しました。ふさわしくなかったら削除してください。


¬Wa⊃Ha 投稿者:★ 投稿日:2013年 3月 3日(日)10時03分10秒
の”真偽”を問われた場合、
「¬Wa⊃Haを満たす定項aが存在するか」
「¬Wa⊃Haは、定項aに依存せず真偽が定まるか」
「¬Wa⊃Haがいかなる定項aでも成り立つか」
という三通りの問いの解釈が考えられる。

第一の解釈の答えなら1。
第二の解釈の答えなら2。
第三の解釈の答えなら3。


Re: こんにちは 投稿者:★ 投稿日:2013年 3月 3日(日)09時36分19秒
> No.3679[元記事へ]

kotobazuさんへのお返事です。

> W:クジラである、H:哺乳類である、a は定項とします。
> 1.¬Wa⊃Ha

¬(¬Wa&¬Ha)
と書き換えた場合、aとして
イモリ(クジラで無く哺乳類でない)
を持ってくれば偽である。

> この1式の真理値について
>
> ・ 真である。  根拠 存在汎化により

哺乳類でないaが存在するから、明確に誤っている。

> ・ 定項の具体的な値が記述されていないので、我々には判断できない。

然り。

> ・ 真の場合と偽の場合があるので 「偽」である。

哺乳類であるaは存在するから充足可能であるが
哺乳類でないaも存在するから恒真ではない。


Re: Hatrick氏へ 投稿者:★ 投稿日:2013年 3月 3日(日)09時26分12秒
> No.3676[元記事へ]

Hatrickさんへのお返事です。

> ★様は、私が独断したと、独断していますね? 違いますか?

独断は罪だと思ってますか?
おかしいですよ。その判断は。


お返事ありがとうございます。 投稿者:kotobazu 投稿日:2013年 3月 1日(金)10時24分2秒
> No.3680[元記事へ]

φさんへのお返事です。

実は2を主張したのは私で、特に真理値の判断に影響を与えるような背景はなかったと思うのですが・・
ただ、「寛容の原則」のことが微妙に引っかかって・・それが こちらへ伺う決心につながった一つの気もします。

> 1は寛容の原則には合致しているとはいえ、寛容すぎます。

やはりそうなのですね。

> どういう文脈で出てきた議論なんでしょうか。
>  文脈によっては2よりも1や3に分がある、ということもありうるかと思うのですが。

実は、論理式を書いたご本人が当初3を主張していたのが、最近1を主張していて、特にその根拠について私が納得できないという現状なのですが、
そこで、ご本人に、こちらに伺って論理式を書いた背景や今の主張について説明していただくよう依頼しましたので、来られましたら よろしくお願い致します。

ありがとうございました。


Re: こんにちは 投稿者:φ 投稿日:2013年 3月 1日(金)04時09分56秒
> No.3679[元記事へ]

kotobazuさんへのお返事です。

「定項とは何か」という、言語学的というか、方法論的な議論になりそうな問題ですね。議題としては、決して初歩的ではありませんよね。

 文脈がわからないのでとりあえずのお答えしかできませんが、

 1は、哺乳類である個体すべてにこの式が真として当てはまるわけなので、哺乳類に属する一匹を取り出してaとしたのであれば、真ですよね。(「存在汎化により」というより「存在例化により」の方が自然でしょうか)
 1の立場は、「定項といっても固有名じゃなきゃしょせん変項でしょ」説です。
 ∃a(¬Wa⊃Ha)という立場ですから。

 2は、「定項といったらあくまで定項だろ」説で、この考えによれば、aを存在量化子で束縛する1の立場は邪道ですね。aはとにかく何か一つに限定されているのだから、真かもしれないし偽かもしれない。確率の客観的解釈(反ベイズ的解釈)に似ていますね。すべての事柄の確率はホントは1かゼロのどっちかだろという。

 3は、1と同じく「定項といってもしょせん変項でしょ」説で、ただし
 ∀a(¬Wa⊃Ha) と理解するんですね。

 ただ、あえて文が偽となる解釈をとるのは「寛容の原則」に反しますね。
 1は「寛容の原則」を満たしていますが、3は日常会話的にはちょっと変則的な立場でしょう。

 私の感覚では、aを定項とするという文言をまともにとるならば、2が一番良いようですね。
 aが何であるかは語用論的環境によって変化しますが、あえて文を真とする環境だけに限定してやる理由もありませんしね。1は寛容の原則には合致しているとはいえ、寛容すぎます。1と3は大差ないという感じです。(日常言語的には1の方が優先されると思うが)

 この定項問題は、2封筒問題の封筒内金額がもう決まっているのだがわからないから変数じゃないか、という事情に似ていますね・・・・・・。
 どういう文脈で出てきた議論なんでしょうか。
 文脈によっては2よりも1や3に分がある、ということもありうるかと思うのですが。


こんにちは 投稿者:kotobazu 投稿日:2013年 2月28日(木)16時14分36秒
別な掲示板にて意見の分かれている問題について三浦さんの判断をお聞かせ願いたく参りました。
(とても初歩的な問題で、もうしわけないのですが)


W:クジラである、H:哺乳類である、a は定項とします。
1.¬Wa⊃Ha

この1式の真理値について

・ 真である。  根拠 存在汎化により

・ 定項の具体的な値が記述されていないので、我々には判断できない。

・ 真の場合と偽の場合があるので 「偽」である。

という三つの主張が為されています。


三浦さんの判断を示していただきたく、お手数をおかけしますが、よろしくお願い致します。


(無題) 投稿者:スターダスト 投稿日:2013年 2月25日(月)21時10分9秒
Hatrick氏。ふむ.

Re: Hatrick氏へ 投稿者:★ 投稿日:2013年 2月10日(日)10時33分19秒
> No.3671[元記事へ]

Hatrickさんへのお返事です。

>ご批判が少々乱暴なように思います。

この世は乱暴なものです。

> ミュンヒハウゼンのトリレンマのウィキ解説での
> 2番目の「生の事実」の説明では、
> 「その理由自体は成否が保障されないので、確実ではない」
> とありますが、不正確な記述でしょう。
> なぜなら、存在論に限定する限りにおいては、
> 「生の事実=究極的に存在するという事実」
> は確実不動のものであり、ウィトゲンシュタインが述べるように
> 「その理由もその論理構造も思考できない(思考の範疇外である)」
> ということになります。

あなたが不正確ですね。

確実不動かどうかなんてどうでもいいこと。
独断したかどうかが問題。
あなたは今、独断したでしょう?。
そのことについては言い訳しようがありません。
素直に独断したと認める以外、あなたに選択肢などありません。

繰り返しますが、この世は乱暴ですよ。

> そして、1番目の「充足理由律」での根拠付け行為に関しても、
> これが帰納法なのか演繹法なのか、という話にならないのは、
> 「充足理由律」概念が「もっと曖昧なもの」だからでしょうし、
> 帰納法にも限定できないし、帰納法だけでは充分ではないし、
> 演繹法にのみ依るものとも限定でいない、ということではないでしょうか。

1には、帰納法も演繹法も言葉すら出てきませんね。
したがってあなたのいっていることは、まったく無意味です。

> 「独断論」に陥らない「充足理由」とはどのようなものか、
> ★様は、明確に叙述することができますでしょうか?

必要ありません。
独断したかどうかが問題であって、
独断の言い訳が問題なのではありません。

> たぶん、それはできないまま、私にダメ出しなさっておられるのではないでしょうか?
> それとも「充足理由律はすべて独断論なり」というご主張でしょうか。

いいえ。無限背信と循環論法があると書いてありますよ。
日本語が読めませんか?それとも物事を2つ以上同時に記憶できませんか?

前者なら日本語を学びましょう。
後者なら医者に行きましょう。重症ですから。

> カントが「独断論のまどろみ」から脱却せんとしたとき、
> 提出したのは「形式の共有」ということでした。
> 現代においては、火星に探査機を着陸させることが可能ですが、
> これは惑星の軌道運動についてケプラーの法則その他、
> 独断論ではない「充足理由」を得ているからこそ、
> できる技術でしょう。

なぜ物理理論が独断論でないと思うのですか?
いかなる理論も独断論ですよ。
現実と高い精度で合致するからといって
独断がないという根拠にはなりませんよ。

>そして、それを可能にしたのは、
>「観測と法則の考察と、仮定的な法則に基づく
> 演繹による予想と再度の観測による予想との合致性検証行為」
>です。

検証は独断を否定しませんよ。

> 私は、このように客観的な科学として機能する理論体系を
>「独断論」とは言わないと思いますが、どうでしょうか。

あなたが間違ってます。

あなたは独断が悪だという間違った倫理を有しているようですが
それは生が悪だというのと同じ位馬鹿げた考えですよ。

> しかし、それとて、「絶対的必然性」が保障されたものとは言えません。
>経験的帰納法の範疇を出るものではないからです。
>もしも「絶対的必然性が保障されたとき」のみ「独断論ではない」とするならば、
>独断論の概念を広く取りすぎていると思います。

まったく見当違いですね。

100%正しくとも、根拠無しの前提がある限りは独断です。
結果が正しい、というのは、前提の根拠ではありません。

> ★様は、「独断論の排除は無理」というスタンスで
> ご助言して下さったように思います。
> 確かに、カール・ポパーのように「反証主義」でのみ
> 真理への接近は可能という立場は合理的です。

カール・ポパーの話など一切しておりませんよ。

> しかし、カントが内包していた問題をも同時に内包している、
> という限界があります。すなわち、「客観」とは何ぞや、という問題です。
> それゆえ、ヘーゲルのホーリズムとは決定的に大きな溝があります。

客観の話もしていませんよ。

あなたは無関係なことに逃避したがる悪い癖があります。
それでは思考は5センチ以上深まりませんよ。

> 私が「本物の縁起の法」の名称にて提出した考え方は、
> http://www.hannya.net/engi.htm
> ウィトゲンシュタインの(存在という事実を前にして)「いつか理由は尽きてしまう」という「存在するという生の事実」それ自体が「神秘」なのである、という「その神秘」に分け入る「形而上学的アプローチ」と言えます。

↑日本語ですか?

> 「運動」概念、「エネルギー」概念は、物理学の定義をそのまま採用してオッケーです。
> 「自前のエネルギーで運動する」「他からのエネルギー供給によって運動する」この2種類しかないとするならば、「後者のものだけの集合(無限集合でもオッケー)」を脳内で作りましょう、とするわけです。

要するに独断を強迫神経症的に排除して、
循環や無限背信を認めるということですか?

ところで、なぜ独断を嫌うのですか?

> カントが提出した問題提起で言えば、「1億円の札束」を脳内でイメージすることは簡単ですから、貧乏人でもできます。しかし、実際に「本物の1億円の札束」を所持しているお金持ちだとう事実があること、この両者は、似て非なるものです。

↑直前までの議論と、無関係ですね。わかりますか?

> 「他からのエネルギー供給によって運動するものだけの集合(無限集合でもオッケー)」を脳内で作ったとして、そのようなものだけで、「存在の事実」が成り立つのか? という問題として提起しました。

漠然と意味不明なこと言われても、他人には何もいいようがありませんな。


> この点、背理法により、そのようなものだけでは「成り立たない」と私は結論していますが、

要するに、論理ぬきに貴方が独断したわけですな。
あなた、独断嫌いのくせに、肝心なときは平気で独断しますね。

> 三浦先生の見解は、背理法が成り立つ前提が判然としない、というご指摘でした。

そもそも、あなたが何を言ってるのか判然としません。
私なら、あなたが正常な精神を有していない可能性をまず考えます。
そのくらい支離滅裂な文章です。

> 現在は、この点について熟慮中です。

まず、精神科の受診について熟慮したほうがよろしいかと思います。


Re: 不可能性の証明 投稿者:スターダスト 投稿日:2013年 1月28日(月)14時09分13秒
Hatrickさんへのお返事です。

> スターダストさんへのお返事です。
>
>
> スターダスト様> エントロピーについて学ぶときに、エネルギー保存則をまじえて現象を理解すべきことでしょう。しかし、エネルギー保存則は、エントロピーについて知らなくてもよいのです。この意味で独立です。これくらいしか説明の言葉を持ちません。申し訳ありません。
> <
>
> 昔、貧乏な知人がアパートで、真夏、あまりに熱いので、冷蔵庫のドアを開けたまま寝て、部屋を冷やそうとした、という話を聞いて、「そりゃ、無理だろ」と笑った記憶があります。
> 密室において、排気や廃熱を部屋の外へと逃がさずに、冷房機や冷蔵庫を使用して室内温度を下げようとすると、逆に温度は上昇してしまうでしょう。
>
> もしも、単なる「エネルギー保存則」だけで思考するならば、室内の熱エネルギーをどこか一カ所に集中的に移動させることで、一時的にその他の空間の温度を下げることもできそうに思えますが、そういうオペレーションは不可能のはずです。そのような(エネルギー保存則の振る舞い上の)「限界範囲」を決める上で、エントロピー増大の法則が関与している以上、どうも、「エネルギー保存則だけ独立」という表現には違和感があるのです。

最初、エネルギー保存則についてお尋ねがありまして、私が回答したところ、エントロピーについてさらにお尋ねを頂いた、このような流れでございます。 エネルギー保存則について論ずるにあたって、エントロピーを持ち出すと話が混乱します。 これは、物理の初学者によくみられる傾向なのです。
重ねて申し上げますが、エネルギー保存則と、エントロピーとは無関係でございます。 むろん、エントロピーを考えなければ「使える」エネルギーについて考えられませんが、使えるエネルギーが使えないエネルギーになることがエントロピー増大のひとつの側面なのであって、使えるエネルギーと使えないエネルギーの和であるところのエネルギーの総量は不変です。エネルギーは保存していますが、使えなくなっていく…この使えなさをもって、エネルギーが減少した、、とは、けして思わないでください。

これ以上は、物理学の啓蒙書などをあたってくださいませ。以上です。



Re: 不可能性の証明 投稿者:Hatrick 投稿日:2013年 1月27日(日)23時31分34秒
> No.3666[元記事へ]

スターダストさんへのお返事です。


スターダスト様> エントロピーについて学ぶときに、エネルギー保存則をまじえて現象を理解すべきことでしょう。しかし、エネルギー保存則は、エントロピーについて知らなくてもよいのです。この意味で独立です。これくらいしか説明の言葉を持ちません。申し訳ありません。


昔、貧乏な知人がアパートで、真夏、あまりに熱いので、冷蔵庫のドアを開けたまま寝て、部屋を冷やそうとした、という話を聞いて、「そりゃ、無理だろ」と笑った記憶があります。
密室において、排気や廃熱を部屋の外へと逃がさずに、冷房機や冷蔵庫を使用して室内温度を下げようとすると、逆に温度は上昇してしまうでしょう。

もしも、単なる「エネルギー保存則」だけで思考するならば、室内の熱エネルギーをどこか一カ所に集中的に移動させることで、一時的にその他の空間の温度を下げることもできそうに思えますが、そういうオペレーションは不可能のはずです。そのような(エネルギー保存則の振る舞い上の)「限界範囲」を決める上で、エントロピー増大の法則が関与している以上、どうも、「エネルギー保存則だけ独立」という表現には違和感があるのです。


> 現時点で、物理学において、すべての学者が認めるような、ブラックホールのエントロピーの定義に成功しているというオハナシはないようです。 云わば、最先端のトピックですので。 研究者がよくわかっていないものを、私がどうこうできるものではありませんし。


ご意見、ありがとうございます。

> ただ、このようには言えます。
(・・・)ところが、場の量子論を踏まえての重力場を理解できていない現代物理学では、量子論を適用したブラックホールにおけるエントロピーの定式化も済んでいない…重力場の量子化に従う統計力学の構築など先の先のオハナシ…エントロピーも同様…このようにとらえていただければ、大過ありません。


コメント、ありがとうございます。エントロピー概念は、極めて重要だと思っています。情報エントロピーとして、システム論に応用されますが、かなりの威力を発揮していると思います。今後も、エントロピー概念には、注目して行きたいと思います。



Re: Hatrick氏へ 投稿者:Hatrick 投稿日:2013年 1月27日(日)23時02分12秒
> No.3669[元記事へ]

★さんへのお返事です。

★様のご指摘、ありがとうございます。ご批判が少々乱暴なように思います。
ミュンヒハウゼンのトリレンマのウィキ解説での2番目の「生の事実」の説明では、
「その理由自体は成否が保障されないので、確実ではない」とありますが、不正確な記述でしょう。なぜなら、
存在論に限定する限りにおいては、
「生の事実=究極的に存在するという事実」は確実不動のものであり、ウィトゲンシュタインが述べるように「その理由もその論理構造も思考できない(思考の範疇外である)」ということになります。

そして、1番目の「充足理由律」での根拠付け行為に関しても、これが帰納法なのか演繹法なのか、という話にならないのは、「充足理由律」概念が「もっと曖昧なもの」だからでしょうし、帰納法にも限定できないし、帰納法だけでは充分ではないし、演繹法にのみ依るものとも限定でいない、ということではないでしょうか。
「独断論」に陥らない「充足理由」とはどのようなものか、★様は、明確に叙述することができますでしょうか? たぶん、それはできないまま、私にダメ出しなさっておられるのではないでしょうか? それとも「充足理由律はすべて独断論なり」というご主張でしょうか。

カントが「独断論のまどろみ」から脱却せんとしたとき、提出したのは「形式の共有」ということでした。現代においては、火星に探査機を着陸させることが可能ですが、これは惑星の軌道運動についてケプラーの法則その他、独断論ではない「充足理由」を得ているからこそ、できる技術でしょう。そして、それを可能にしたのは、「観測と法則の考察と、仮定的な法則に基づく演繹による予想と再度の観測による予想との合致性検証行為」です。
私は、このように客観的な科学として機能する理論体系を「独断論」とは言わないと思いますが、どうでしょうか。
しかし、それとて、「絶対的必然性」が保障されたものとは言えません。経験的帰納法の範疇を出るものではないからです。もしも「絶対的必然性が保障されたとき」のみ「独断論ではない」とするならば、独断論の概念を広く取りすぎていると思います。

★様は、「独断論の排除は無理」というスタンスでご助言して下さったように思います。確かに、カール・ポパーのように「反証主義」でのみ真理への接近は可能という立場は合理的です。しかし、カントが内包していた問題をも同時に内包している、という限界があります。すなわち、「客観」とは何ぞや、という問題です。それゆえ、ヘーゲルのホーリズムとは決定的に大きな溝があります。
私が「本物の縁起の法」の名称にて提出した考え方は、
http://www.hannya.net/engi.htm
ウィトゲンシュタインの(存在という事実を前にして)「いつか理由は尽きてしまう」という「存在するという生の事実」それ自体が「神秘」なのである、という「その神秘」に分け入る「形而上学的アプローチ」と言えます。
「運動」概念、「エネルギー」概念は、物理学の定義をそのまま採用してオッケーです。
「自前のエネルギーで運動する」「他からのエネルギー供給によって運動する」この2種類しかないとするならば、「後者のものだけの集合(無限集合でもオッケー)」を脳内で作りましょう、とするわけです。
カントが提出した問題提起で言えば、「1億円の札束」を脳内でイメージすることは簡単ですから、貧乏人でもできます。しかし、実際に「本物の1億円の札束」を所持しているお金持ちだとう事実があること、この両者は、似て非なるものです。
「他からのエネルギー供給によって運動するものだけの集合(無限集合でもオッケー)」を脳内で作ったとして、そのようなものだけで、「存在の事実」が成り立つのか? という問題として提起しました。
この点、背理法により、そのようなものだけでは「成り立たない」と私は結論していますが、三浦先生の見解は、背理法が成り立つ前提が判然としない、というご指摘でした。
現在は、この点について熟慮中です。


Re: 永井レポート 投稿者:Fヨシカズ 投稿日:2013年 1月27日(日)14時38分59秒
> No.3667[元記事へ]

φさんへのお返事です。

>  まあ、突っ込んだ考察のためにはどの前提も頭ごなしで認めることなどできず、確率的議論の余地大ありというところですね。

なるほどです。数日前、図書館でたまたま赤瀬川原平さんの『自分の謎』という絵本を手に取りました。「自分が自分であることの不思議について。大人のための考える絵本」というような内容で、赤瀬川さんと永井さんの疑問はかなり重複しています。ところが赤瀬川さんの絵本はぜんぜんイヤミなところがない。それは素朴な疑問は疑問のまま、思索を散歩のように楽しんでいるからだという気がしました(最後に「心理学では貴種願望というらしい」というようなオチがつきます)。
一方、永井さんの『<子ども>のための哲学』では、いっけん理路整然とした説明が展開されます。論証の結果、必然的に<奇跡>が導かれるようにみえます。ただ、その中身はザルで水を掬うようなところがあって、読んでいてむずがゆくなってしかたがない。…三浦先生にご意見を伺って、永井さんの「論証」の欠陥がより明らかになったように思います。(この掲示板をたまたまご覧になった方で永井さんの<奇跡>の導出を正当化できる人がいたら、ぜひ論拠をあげて説明してほしいです)


>  いや、「身も心も私に本当にそっくりの複製体」であれば、私自身でしょう。

ご返事ありがとうございました。内容が豊富なので、いちどには消化できそうにありません。確率の勉強と合わせて、いずれゆっくり考えてみたいと思います。そのときには自分の考えが「現在地」で、三浦先生のご返事が今後の「案内版」になるのではないかという気がしました。『多宇宙と輪廻転生』も機会をみつけて読んでみるつもりです。

また疑問があったら、こちらで質問させていただくこともあるかもしれません。そのときはよろしくお願いします。どうもありがとうございました。
http://d.hatena.ne.jp/yosikazuf/


Re: Hatrick氏へ 投稿者:★ 投稿日:2013年 1月26日(土)09時36分18秒
> No.3660[元記事へ]

Hatrickさんへのお返事です。

> > 1.根拠を永遠に求める無限背進
> 根拠を次々に求めるとき、それは「観察・観測」による「根拠探し」でしょう。
> つまり、どのような未知の根拠があるか、探査して行く行為。

全く違いますよ。
観察・観測によると言った瞬間、独断します。
次々にはなりません。

> しかし、私が述べたのは、「演繹計算できる範囲」の話です。

演繹計算の前提を問わないのなら何の問題もありません。
前提を問うのなら、演繹計算は全く無力です。

> 比喩で言うならば、ブラックボックスの中に、
> 将棋2段の実力の人が、何人か入っているとします。
> 無限の人数でも構いません。
> そのボックスから、一人ずつ出て来て、
> 将棋9段の名人と対戦しすます。
> この場合、ブラックボックスの中にいる人は、
> 全員将棋2段の人とわかっているので、
> 誰が出て来ても、9段の名人には勝てないことが
> わかっています。

あなたは演繹していませんよ。

まず、あなたが述べたのは
「ブラックボックスの中に、将棋2段の実力の人が、何人か入っている」
であって
「ブラックボックスの中に、将棋2段の実力以外の人は、全く入っていない」
ではありません。

したがってあなたの文章だけから
「ブラックボックスの中にいる人は、全員将棋2段の人とわかっている」
と言い切ることはできません。

さらに、もし、あなたが文章を書き間違えただけで
「ブラックボックスの中は、全て将棋2段の実力の人である」
としたところで
「2段の人は9段の人に決して勝てない」
と断ずることもできません。

> この比喩と同様に、
>「他からのエネルギー供与によってのみ活動するもの=自発的運動性がゼロのもの」
>の集合は、その要素が無限集合であっても、性質を限定して規定しているので、
>この無限集合全体を
>「他からのエネルギー供与によってのみ活動するもの=自発的運動性がゼロのもの」
>という一つのものとして扱うことができます。

あなたの比喩には、エネルギー、運動性という言葉は全く表れないので無意味です。

あなたは、エネルギー、運動性という言葉を一切用いないか
エネルギー、運動性という言葉を明確に定義した上で説明するか
いずれかの方法をとらねばなりません。

また有限無限の問題にも全く関わっていません。
性能を限定して規定したといっていますが、
段位に関する自明でない前提が用いられており、
しかもその前提は間違っています。

> つまり、無限遡及の問題を回避できる、ということです。

独断によって回避していますが、
その独断は素人がみても間違っています。

> で、「これのみ」では、「ハトリック時空間」となり、
>運動ゼロの完全停止、永久磁石を使った循環型永久機関は
>決して動かず止まったままである、それと同じことになる、
>という主張なのです。

あなたが独断した、という事実はわかりましたが、
エネルギーとはまったく無関係ですね。
関係ないのなら、エネルギーという言葉は
一切用いないほうがいいでしょう。


追記 投稿者:φ 投稿日:2013年 1月24日(木)19時05分10秒
> No.3667[元記事へ]

 先ほどは、環境丸ごと複製されている事例で話をしてしまいましたが、

> >
> > 私の考えでは、これはテセウスの船と同じで、同一性についてどの基準を採用するかの問題になるように思います。つまり、「『その複製体が私であるかどうか』について無条件に結論を出すことは意味がない。たとえば記憶や体質の共通性を同一性の基準として採用するならば、その複製体は(本人や周りの人から見て)現在の私と同一人物として扱われるだろう」という意見です。
> > この点、三浦先生はどうお考えになりますか?
> >

 別の環境内に、特定人物の主観的記憶を受け継ぐ人物を複製する場合(人間ファックスによる光速宇宙旅行のような)は、基本的にFヨシカズさんの言うとおり↑でしょう。
 ただし、複製体を同時に複数作ってしまった場合は、それらを同一人物と見なすのは不可能ですから、「もとの人とはよく似た別人が複数作られた」と言うしかなくなるでしょう。環境丸ごと複製する場合以外では、そのような心配が常につきまとうので、何らかの方法で複製を厳密に一体だけ作り出すという仕組みが必要でしょうね。


Re: 永井レポート 投稿者:φ 投稿日:2013年 1月24日(木)16時51分19秒
> No.3665[元記事へ]

Fヨシカズさんへのお返事です。

>
> 【奇跡を導く順序】
> <ぼく>にはただひとつの事例しかない。同じ種類の他のものが存在しない。
> ↓
> <ぼく>であるという事実は、そいつ(ぼく)が持っているどんな性質とも関係なく成り立っている(他人と比べて○○の性質があるから<ぼく>であるということはありえない)
> ↓
> <ぼく>が存在しなければならなかった必然性は何もない(にもかかわらず、ただひとつの事例である<ぼく>が存在している)
> ↓
> <ぼく>の存在はひとつの<奇跡>なのだ。
>

 上の論証は演繹的にも帰納的にも妥当でないし、そもそも前提のどれもがきわめて疑わしいですね。
 たとえば、第一前提を否定する議論としては、渡辺恒夫が早い時期から遍在転生観を唱えています。
 「独在論(?)」なるものも、シュレーディンガーや稲垣足穂を引き合いに出すまでもなく、「自我体験」という名で発達心理学ではごくありふれた想念として論じられており、渡辺一派が実証研究を進めているので、永井氏が渡辺氏らの有益な研究を無視している(らしい)のは理解に苦しみます。やはり、独在論なるものを独自の哲学説と思いたいからでしょうか。

 第二前提は観測選択効果を見過ごしているし、(私の用語では「グルジエフの原理」に反している)、
 第三前提は、観測者の存在に条件付ければSSAによって必然化されます。

 まあ、突っ込んだ考察のためにはどの前提も頭ごなしで認めることなどできず、確率的議論の余地大ありというところですね。

>
> 「手を替え品を換え繰り出される一つの問題を、ここでは単純にこう定式化してみよう。私が二〇歳で死ぬとして、死んだ後に身も心も私にそっくりの複製体が作られたら、そいつは私だろうか、と。」(p230)
>
> 私の考えでは、これはテセウスの船と同じで、同一性についてどの基準を採用するかの問題になるように思います。つまり、「『その複製体が私であるかどうか』について無条件に結論を出すことは意味がない。たとえば記憶や体質の共通性を同一性の基準として採用するならば、その複製体は(本人や周りの人から見て)現在の私と同一人物として扱われるだろう」という意見です。
> この点、三浦先生はどうお考えになりますか?
>

 いや、「身も心も私に本当にそっくりの複製体」であれば、私自身でしょう。
 「死んだ後に作られたら」という甘い思考実験では環境が異なるだろうから同一人物にはなりえませんが、地球から10の(10の115乗)乗メートルほどの範囲には必然的に実現している私そっくりの複製体は、私自身です。(というか、「私」は互いにそっくりな意識の集合体です)

 たとえば、量子論の多世界解釈では、無数の互いにそっくりの世界に存在しているそっくりの複製体のすべてが、同じ私の自我を形作っています。主観的現象に分岐が反映されてそっくりでなくなった時点で、互いに別人として別れていきますが。
 量子力学を文字通りにとれば、主観的に互いに区別できない意識は、互いに同一人物を形成する構成要素にすぎません。
 ヒュー・エベレットⅢの原論文はその人間観に基づいているし、
 シュレーディンガーの猫や量子自殺の思考実験も、「そっくりの複製体はすべて同一人物」「私は多様な未来を持つ諸身体の重ね合わせに対応する一つの意識」という前提で成り立っています。


Re: 不可能性の証明 投稿者:スターダスト 投稿日:2013年 1月23日(水)16時31分0秒
> No.3655[元記事へ]

Hatrickさんへのお返事です。

>
> 私は、エネルギー保存則において、「時間発展対称性」は必要条件であるが、十分条件ではない、と思索して、前回感想を述べました。すなわち、「時間発展対称性」が十分条件たる原因であって、それによってエネルギー保存則が必然的に導出され成立する、というのではなく、エネルギー保存則が成立するために、欠かせない要件の一つ(に過ぎない)、と理解しているのですが・・・。
> 違うでしょうか?

一般力学を踏まえてネーターカレントを学んだときにはじめてわかる主題ですので、お返事は留保させてくださいませ。 もうしわけありません。

me>>このふたつの法則をごっちゃにしてはいけません。
>
Hatrickさん> 「私は二つをごっちゃにしているのだろうか?」と自問しました。私は両者をまるっきり別異と観ることは困難なのではないか? と思索しています。(中略)エネルギー保存則は、エネルギーの「質の問題」と不可分(後略)

エントロピーについて学ぶときに、エネルギー保存則をまじえて現象を理解すべきことでしょう。しかし、エネルギー保存則は、エントロピーについて知らなくてもよいのです。この意味で独立です。これくらいしか説明の言葉を持ちません。申し訳ありません。
ヒント:エネルギーは、微視的にみれば、空間での位置、時刻、などの座標を決める意味で、「ここにある」「あそこにある」と言えますが、エントロピーは、局所的に存在するものではありません。今、よくあるサイコロを1個ふった時の出目の期待値は3.5だとわかっているものとしましょう。ですが、その3.5なる数値は、サイコロのどこの面にも書かれていません。サイコロを二個振った時の出目の合計はどうですか?期待値は7ですが実際には、最小値2から最大値12までのいろいろな数値の分布です…実際には、ひどくアバウトな喩ですが…
エントロピーは、統計的概念です。場所とは関係ないのです。むろん、大域的な比較はアリなのですが、統計力学による定義が必要ですね。

> (現在の疑問思案点は、ブラックホールは、エントロピー増大法則に反しないのかどうか? ということです。局所的とかマクロ的とかブラックホールの性質とか、色々考えますが、スターダスト様は、どうお考えですか?)

現時点で、物理学において、すべての学者が認めるような、ブラックホールのエントロピーの定義に成功しているというオハナシはないようです。 云わば、最先端のトピックですので。 研究者がよくわかっていないものを、私がどうこうできるものではありませんし。

ただ、このようには言えます。ニュートンの古典力学のシェーマの枠内で統計学を運用することで、統計力学が完成されました。 そのシカケの中で、エントロピーが再定義されています。 統計力学は、熱力学を吸収していますので、ニュートン力学の基礎の上に熱力学を説明し、自然を説明できるようになったのでした。熱力学は経験則でしたが、ニュートン力学から演繹できることがわかったのでした。

ところが、場の量子論を踏まえての重力場を理解できていない現代物理学では、量子論を適用したブラックホールにおけるエントロピーの定式化も済んでいない…重力場の量子化に従う統計力学の構築など先の先のオハナシ…エントロピーも同様…このようにとらえていただければ、大過ありません。


Re: 永井レポート 投稿者:Fヨシカズ 投稿日:2013年 1月22日(火)09時38分29秒
> No.3664[元記事へ]

φさんへのお返事です。

やはり永井さんとの間に議論は成立していないのですね。議論が成立して<私>の位置づけが確率論のなかで整理されてしまうと、永井さんが取り組んできた「独在性」は根本から撤回せざるを得なくなるように思います。

> 「確率を計算できるような理論の枠がそもそもない」ですか・・・・
>  よくそんなことがわかるものですね。感心します。誠実にそう断言しているとしたら、永井氏って確率にものすごく詳しいんですね。

永井さんがなぜ「確率を計算できるような理論の枠がそもそもない」と書いたのか。彼は<偶然>と<奇跡>をわけて考えているようです。(いま参考にしている『<子ども>のための哲学』は1996年発行ではありますが)

【偶然性】
<ぼく>は徳川家康であったりポチであったりすることもできたはずだ。なのに現実には永井均が<ぼく>である。ぼくがそうであることもできた範囲は(意識をもつものの集合として)限られている。その意味で、この驚きは確率的なものにすぎないともいえる。(SSA的な世界観?)

【奇跡】
「命あっての物種(ものだね)」ということわざに倣えば、すべては「<奇跡>あっての物種」だ。この世界の全体は<ぼく>の存在があってこそ、<ぼく>を原点としてひらけている。その意味で、<ぼく>が存在しなかった確率云々を議論することには意味がない。

ではなぜ<ぼく>の存在が<奇跡>なのかというと、以下のような順序で<奇跡>を導いています(同書 p58)。

【奇跡を導く順序】
<ぼく>にはただひとつの事例しかない。同じ種類の他のものが存在しない。

<ぼく>であるという事実は、そいつ(ぼく)が持っているどんな性質とも関係なく成り立っている(他人と比べて○○の性質があるから<ぼく>であるということはありえない)

<ぼく>が存在しなければならなかった必然性は何もない(にもかかわらず、ただひとつの事例である<ぼく>が存在している)

<ぼく>の存在はひとつの<奇跡>なのだ。

これでは「ぼくはまったく特別だから、ぼくは奇跡なのだ」という、ほとんど同語反復でしかないように思えます。その意味で、永井さんが<奇跡>を導く立論は、論理的な検証に耐えられるものではないという気がします。

ところが、永井さんはその後にウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」を持ち出して「この<奇跡>はけっして伝えられない」「理解できてはならない」という方向へと話を持っていきます。永井ファンにとっては、そこで「語り得ぬもの」の神秘を共有できたような気持ちになるのかもしれません。

ところで『転校生とブラック・ジャック 独在性をめぐるセミナー』(永井均/岩波現代文庫)のあとがき(2010年)で、永井さんは問題の要点をこんな風に語っています。

「手を替え品を換え繰り出される一つの問題を、ここでは単純にこう定式化してみよう。私が二〇歳で死ぬとして、死んだ後に身も心も私にそっくりの複製体が作られたら、そいつは私だろうか、と。」(p230)

私の考えでは、これはテセウスの船と同じで、同一性についてどの基準を採用するかの問題になるように思います。つまり、「『その複製体が私であるかどうか』について無条件に結論を出すことは意味がない。たとえば記憶や体質の共通性を同一性の基準として採用するならば、その複製体は(本人や周りの人から見て)現在の私と同一人物として扱われるだろう」という意見です。
この点、三浦先生はどうお考えになりますか?
http://d.hatena.ne.jp/yosikazuf/


Re: 永井レポート 投稿者:φ 投稿日:2013年 1月21日(月)03時39分23秒
> No.3663[元記事へ]

Fヨシカズさんへのお返事です。

「確率を計算できるような理論の枠がそもそもない」ですか・・・・
 よくそんなことがわかるものですね。感心します。誠実にそう断言しているとしたら、永井氏って確率にものすごく詳しいんですね。
 確率で計算できないのはなぜか、確率のどの解釈を前提にしているのか、どの辺までの確率理論を視野に入れているのか、聞いてみたい気がします。

>
> 永井さんにいくつかの選択肢を提示して「あなたはどの立場を採用しているのか?」と尋ねたら、どんな風にお答えになのか少し興味があります。核心に迫るほど、問題整理を拒否されるのではないかという気もします。三浦先生からの批判に対して、永井さんからのコメント・反論などはいままであったんでしょうか?
>

 永井氏はこれまでに何度か、私の本を書評してくれましたが、議論に応ずる気配はないようです。(私が気づいてないだけかもしれませんが)
 大庭健氏に対する態度等を見るに、探究心よりも、問題意識を蹂躙される事態への回避衝動の方がはるかに強いらしいので、正常な議論は無理でしょうね。

 ただ、永井氏も、↓のβが有意味という立場からγへと変わってきたようですから、進歩してきたとは思います。むろんSIAは錯覚ですが。

>
> サイコロを振って2の目が出たとすると…
> α:ごく単純に考えて、2の目がでる確率は6分の1
> β:「なぜよりによって1、3、4、5、6でなく2の目なのだ?」と事後的に問うことは無意味(他の目でも同様に問えるから)
> γ:そもそも1~6の目がでる確率が非常に低かった(盤の外に出る、紛失する、爆発する可能性が高かったetc.)
> αとβはSSA、γはSIAの世界観に対応するということですね。ここからさらに分類することによって問題と解の方向性が整理できるのだと思いました。


Re: 永井レポート 投稿者:Fヨシカズ 投稿日:2013年 1月20日(日)11時03分18秒
φさんへのお返事です。

丁寧なご返事ありがとうございました。問題の全体像を見渡すためには確率の考慮、世界観の場合分け等が必要なのですね。そのあたりは機会を見つけてゆっくり学んでみたいと思います。

SSA:準拠集団を意識の集合に限定
SIA:準拠集団を意識の集合に限定しない(もの全体の集合)

これは勉強になりそうです。たとえば、サイコロを振って2の目が出たとすると…
α:ごく単純に考えて、2の目がでる確率は6分の1
β:「なぜよりによって1、3、4、5、6でなく2の目なのだ?」と事後的に問うことは無意味(他の目でも同様に問えるから)
γ:そもそも1~6の目がでる確率が非常に低かった(盤の外に出る、紛失する、爆発する可能性が高かったetc.)
αとβはSSA、γはSIAの世界観に対応するということですね。ここからさらに分類することによって問題と解の方向性が整理できるのだと思いました。


>  「奇跡」を定義するには確率概念が必須であるにもかかわらず、「奇跡」を言い立てる人は「確率の問題ではない」と言い張る傾向にありますね(問題解決よりも主観的問題意識の方を大切にしすぎるとそういうナルシシズムに陥ります)。

『<子ども>のための哲学』で、永井さんは<奇跡>が確率の問題ではないと主張しています。

(引用 p63~65)
・この<奇跡>を<偶然>と言ってもいいけれど、それは僥倖(めったにない幸運)というようなこととは違う。確率が一〇の何億乗分の一しかないことが起きた、というようなことではない。そういう確率を計算できるような理論の枠がそもそもない、ありえない、ということが問題なのだ。
・<ぼく>が存在しなかった可能性と対比された、<ぼく>が存在していることへの驚きは、確率的考慮などまったく寄せ付けない。存在しなかった可能性がどのくらいあったか、なんて考えようもないからだ。

永井さんにいくつかの選択肢を提示して「あなたはどの立場を採用しているのか?」と尋ねたら、どんな風にお答えになのか少し興味があります。核心に迫るほど、問題整理を拒否されるのではないかという気もします。三浦先生からの批判に対して、永井さんからのコメント・反論などはいままであったんでしょうか?
http://d.hatena.ne.jp/yosikazuf/


Re: 永井レポート 投稿者:φ 投稿日:2013年 1月18日(金)16時21分4秒
> No.3661[元記事へ]

Fヨシカズさんへのお返事です。

大体、問題ないのではないかと思いました。正しいと思います。

「奇跡だ」というのはただの感慨(よく言えば問題提起)であって、論でも説でもありませんからね。何らかの形で答えて初めて「論」あるいは「説」になります。

 ただ、「奇跡だ」と言いたい心情の人は、自分が特定の何某であることではなく、自分がそもそも意識的主体として存在していることの不思議さ(意識的主体の中に「自分」が存在することの不思議さ)にこだわりたいわけです。その点が、Fヨシカズさんのレポートでは明示的に論じられていないような気がしました。
 本当の問題は、「大勢の中でなぜこの人物だけが」ではなく、「大勢だろうが少数だろうがその中になぜこの私が」なので。

 自分がそもそも意識的主体として存在することの確率を問わねばなりません。
 意識的主体がこの世に存在するのに、「この自分」は存在しない(あるいは意識的主体のメンバーではない)という事前確率が高いとすれば、確かに「この自分」が意識を持ってここにいることは奇跡です。これは人間原理ではSIAという世界観に相当します。
 対して、SSAという世界観では、事前に「この自分」の場所が指定されているわけではなく、意識的存在が生まれてからそれらだけを母集団として「私」が事後に指定されるので、「奇跡」の余地はありません。
 SIAが信憑性を欠く世界観であることは、人間原理の諸論考を見ればもはや明らかな段階に至っていると思われます。

 ともあれ、Fヨシカズさんのレポートにも「確率」とくに「主観確率」の議論は本来欠かせないのだろうと思いました。
 「奇跡」を定義するには確率概念が必須であるにもかかわらず、「奇跡」を言い立てる人は「確率の問題ではない」と言い張る傾向にありますね(問題解決よりも主観的問題意識の方を大切にしすぎるとそういうナルシシズムに陥ります)。が、確率が無縁と言いたいならばなおさら、「どういう意味で確率の問題でないのか(どこから確率でない問いが始まるのか)、確率で論じられる部分だけをまず片づけましょうよ」ということになるわけです。


永井レポート 投稿者:Fヨシカズ 投稿日:2013年 1月13日(日)16時39分33秒
ご無沙汰しております。以前 winefというハンドルネームで何度か質問させていただいた者です。モヤモヤした疑問にさすがの切れ味で回答してくださってありがとうございました。

知らぬは亭主ばかりなり 2008年11月12日
http://russell-j.sakura.ne.jp/miurat/bbs2008-2.htm
矛盾は成立しえない?
http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2173
我思う、ゆえに我あり
http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2190

ところでここ2~3か月ほど、たまたま永井均さんの「独在性問題」について考える機会がありました。
インターネットの某コミュニティであれこれ議論するうち、永井さんの独在論には根本的な欠陥があると確信するようになりました。また三浦先生の永井批判が的を射た指摘であったことにも改めて気付かされました。

永井さんの立論がなぜ成り立たないか、またどんなアプローチなら解答の方向性を示すことができるのか。自分なりに考えてレポートにまとめてみました。
内容的には当然、三浦先生の主張と重なる点も多いと思います。とはいえ、自分なりにあれこれ説明の工夫をしたこともあり、いちどプロの目でチェックしてたいだきたいと思い、ご連絡さしあげたしだいです。

ヤドカリと台風 --永井均独在論への試案
http://d.hatena.ne.jp/yosikazuf/20130107/p1

内容は…
(1)問題の確認。
(2)永井さんの<奇跡>の導出を批判。関係性を軸に解決の方向を提示
(3)自我と身体のモデルを用いて<私>の特別性を説明
(4)<私>が現れる意識構造の仮説
(5)ケーススタディ「分裂」「消去」「交換」
となっています。

なるべく簡潔にまとめたつもりではあるのですが…
よろしくお願いいたします。
http://d.hatena.ne.jp/yosikazuf/


Re: Hatrick氏へ 投稿者:Hatrick 投稿日:2013年 1月 7日(月)23時37分40秒
> No.3657[元記事へ]

★さんへのお返事です。

> Hatrick氏は盲信を排したいようだが、
> ドイツの哲学者ハンス・アルバート(1921- )
> によれば、何であれ基礎付けの行為は、
> 1.根拠を永遠に求める無限背進

あまり時間が取れないので、1点だけ。
根拠を次々に求めるとき、それは「観察・観測」による「根拠探し」でしょう。
つまり、どのような未知の根拠があるか、探査して行く行為。
しかし、私が述べたのは、「演繹計算できる範囲」の話です。
比喩で言うならば、ブラックボックスの中に、将棋2段の実力の人が、何人か入っているとします。無限の人数でも構いません。そのボックスから、一人ずつ出て来て、将棋9段の名人と対戦しすます。この場合、ブラックボックスの中にいる人は、全員将棋2段の人とわかっているので、誰が出て来ても、9段の名人には勝てないことがわかっています。
この比喩と同様に、「他からのエネルギー供与によってのみ活動するもの=自発的運動性がゼロのもの」の集合は、その要素が無限集合であっても、性質を限定して規定しているので、この無限集合全体を「他からのエネルギー供与によってのみ活動するもの=自発的運動性がゼロのもの」という一つのものとして扱うことができます。
つまり、無限遡及の問題を回避できる、ということです。
で、「これのみ」では、「ハトリック時空間」となり、運動ゼロの完全停止、永久磁石を使った循環型永久機関は決して動かず止まったままである、それと同じことになる、という主張なのです。


Re: ところで 投稿者:φ 投稿日:2013年 1月 5日(土)00時54分18秒
> No.3658[元記事へ]

★さんへのお返事です。

ウィトゲンシュタインのその言葉のカバー・バージョンを阿呆理詰日記4159に投げておきました。
http://green.ap.teacup.com/miurat/3353.html


ところで 投稿者:★ 投稿日:2013年 1月 3日(木)15時34分54秒
ヴィトゲンシュタインは
「永遠に生き続けたところで死の恐怖から脱するわけではない。
 一方、人間は自分の死を実感しない。
 人間は今、生きていると感じることで、永遠に生きるのだ。」
と述べている。
これが悟りかどうかは人によるのだろうが。
生と死の問題について、この言葉以上にもっともらしい主張を
私は聞いたことがない。


Hatrick氏へ 投稿者:★ 投稿日:2013年 1月 3日(木)15時28分42秒
Hatrick氏は盲信を排したいようだが、
ドイツの哲学者ハンス・アルバート(1921- )
によれば、何であれ基礎付けの行為は、
1.根拠を永遠に求める無限背進
2.これ以上根拠を問えないとする独断
3.まわりまわって自分自身に戻る循環論法
のいずれかになるとする
「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」
に陥るそうだ。